魔法少女リリカルなのは―――暗き瞳に映る世界―――
第三章
第一話
〈氷の才媛、来る〉
――気に入らない。気に入らない。気に入らない。
時空管理局本局内の中央センター区画。その中の通路のひとつに甲高い靴音がリズミカルに響き渡る。
――気に入らない。気に入らない。気に入らない。
管理局に於いて『陸』を示すブラウンの時空管理局制服に小柄な身体を包み、存在感を際立たせる空色の髪をアップに纏め、動作を含めてその身には無駄が殆ど無い。
――気に入らない。気に入らない。気に入らない。
その通路は中央センターの中でも人通りが多いとはいえない場所だが、それでも就業時間――管理局内では終日勤務も多いが――ともなればそれなりに局員たちの往来もあった。
だが、彼女が通路を通り過ぎようとすると、その進路上にいる局員たちはぎょっとした顔で道を開ける。彼らよりも小さな身体の女性から逃げる様は、視点を変えるだけで滑稽に見えるかもしれない。
――気に入らない。気に入らない。気に入らない。
靴音を響かせ、その女性は局員たちが空けた道を進んでいく。
今の彼女には局員から向けられている視線など、自分が切り裂いている空気程度の意味しかない。
――気に入らない！ 気に入らない！ 気に入らない！
もしも彼女の正面に立つ者がいるのならこう言うだろう。『そこには鬼がいた』と。
もっとも、すべての局員たちが道を開けるために彼女の正面に立つ勇者は居らず、その女性は目的地まで停滞無く歩き続ける。
――気に入らない！ 気に入らない！ 気に入らない！
彼女の碧眼に漲る感情に圧倒された局員たちは、自分の見たものが何者であるのか判らぬまま自分の職務へと戻っていく。
彼らが彼女の正体を知るまで、僅かな時間だけが残されていた。
その女性が本来の目的地に到着したのは、彼女がこの時空管理局本局に到着してから二時間という時が過ぎ去った時だった。
出頭した人事部で時間を取られたこともあったが、彼女の苛立ちの原因はそれではない。
これから会うであろう人物が問題なのだ。
時空管理局提督リュウト・ミナセ。
公称――総合SSランクの魔導師。
『歴戦の勇士』と名高いギル・グレアムの養い子。
本来は魔法の存在しない世界の出身者ながら、その魔導師としての能力は秀逸。
陸士訓練学校から実戦部隊を経て士官学校への入学を果たし、当時最年少の十二歳で執務官試験を突破。
その後、事件解決の功績による特例として受けた提督試験もパスし、艦船勤務を経て現在の役職に就く。
管理局内での知名度は高く、一陸士からキャリアをスタートさせた事もあって、上層部の人間としては異例なほど下士官以下の局員にも人気がある。
エリートコースを進み、順風満帆を絵に表したような経歴――少なくとも彼女はそう思っている――だが、それが彼女に苛立ちを与えているわけではない。
むしろ彼の功績だけは認めていると言ってもいいだろう。
彼女が苛立ちを隠せない理由は――本人にも分からない。
認めているはずなのに、苛立ちは募る。
それは自分とは全く違う人生を歩む人間に対する嫉妬と羨望から来るものなのかもしれないが、彼女本人はそれに気付く事はない。或いは、気付いても意図的に避けている事なのかもしれない。
――気に入らない！！
それ故、誰かに何が気に入らないのだと問われれば、彼女は答えに窮するだろう。
それでも彼女の心の内はただ一人の人間に対する感情で溢れ返っていた。
彼女の感情が最高値まで高まった時、ついに彼女は目的地に到着した。
――リュウト・ミナセ 執務室
扉のプレートに刻まれた文字を確認し、彼女はインターフォンに触れた。
一方通行の再会まで、あと僅か。
クロノ・ハラオウンは困惑していた。
兄弟子にして上官であるリュウト・ミナセに呼び出されたのは三十分前。
『プルガトリア事件』で損傷を受けたアースラの修理が未だ完了せず、後輩魔導師の訓練やデバイスのオーバーホールに付き添っていたクロノは兄弟子からの連絡にさして疑問も抱かず、その召喚に応じた。
義兄とも呼べる付き合いのリュウトに仕事で呼び出されるなど珍しくないからだ。
だが、この日の兄弟子は少し様子が違った――否、違いすぎた。
妙にそわそわしているかと思えば執務机に置かれた書類を確認したり、書類を手に取ったかと思えば頭を抱えて唸ったり、立ち上がって扉に向かうと思えばすぐさま引き返して執務机に戻ったり、彼を知るものが見ればその行動は奇行以外の何物でもない。
何より、クロノはリュウトから用件を聞いていない。
「提督。そろそろ用件をお聞きしたいのですが」
「用件…？ ああ、言ってませんでしたね」
「――――」
つくづくおかしい。
執務室内のソファに座ったまま、クロノは兄弟子が何処か病でも患ったのでないかと考えた。主に頭部付近の。
だが、使い魔であるシグレがごく普通の態度で机仕事をしているのだから、それはないだろう。いつもはこの部屋に居ないシグレがここに居るということ自体も、クロノからすれば少しおかしい。それに、クロノはシグレが静か過ぎる気もした。
そんな事を考えながらシグレを見ていたクロノだが、彼女が大切にしているデバイスを取り出し、簡易整備端末を使ってデバイスのメンテナンスを始めると、その視線を兄弟子に無理矢理戻した。それ以上見ていると、見てはいけないものを見る事になるかもしれないという恐怖がそうさせたのだろう。
「――提督。ご用件は？」
「――今日、私の副官が着任するのです」
部屋の一角で行われているであろう使い魔の行動を忘れるため、半ば無理矢理に険しい表情を浮かべて兄弟子に用件を問うクロノ。だが、リュウトは渋々それだけを告げた。
しかし、それならば自分が呼び出される必要はないのではないか。
「それならば、リンディ提督の方がよろしいのでは？」
クロノの言葉は至極もっともだ。職務上の挨拶ならアースラの艦長であるリンディ・ハラオウンの方が都合がいい。
だが、リュウトはバツの悪そうな顔で呟いた。
「それは確かにそうなんですが……」
「なら何故？」
首を傾げたリュウトがポツリと呟く。
「――なんとなく？」
「――帰ります」
リュウトの言葉にクロノは立ち上がる。
こんな事には付き合っていられない――そう建前を考えるクロノの本心は、さっさとこの混沌予定地点から抜け出したいという一点に尽きた。
だが、クロノが執務室から退出する事は叶わなかった。
来客を告げる電子音が、執務室内に響き渡ったのだ。
「――――来た」
「――――来ましたね」
「――――」
クロノを止めるべく立ち上がったリュウト。彼の言葉に淡々と答えるシグレ。そして、立ち上がった体勢のまま立ち尽くすクロノ。
三者三様のまま、数瞬の時が流れる。
「クロノ、こちらに」
「わ、わかった」
クロノは執務机に戻ったリュウトに呼ばれ、彼の机の横に立つ。その表情は出来るだけ冷静になろうという彼の努力の跡が見えた。
そして、リュウトを挟んだ反対側には、いつの間にかシグレが立っている。高速戦闘技術では定評のある彼女の本領発揮なのだろうか。どうしてこんな所で本領発揮するのだろうかという疑問はあるが。
リュウトはそれを確認すると意を決し、扉に向かって入室の許可を出した。
「どうぞ」
兄弟子の言葉に答えて自動扉が開く。クロノはその光景を、何故か背筋を凍らせるような悪寒と共に認識していた。そして、彼は混沌という言葉を身をもって知る事になる。
シグレは不機嫌だった。
理由は分かっている。
最愛の主にして、敬愛する創造主に専属の副官が付くというのだ。
自分の事務能力が地球の小学生にも劣る事は自覚しているが、今回の人事に納得しているかと聞かれれば、理解はしているが納得はしていないと答えるだろう。
だが、配属されるのは士官学校を次席で卒業したという才女。主が求める能力を持っている事は間違いないだろう。そもそも、主が自ら推した副官だ。
しかし、納得は出来ない。
何故か納得する事が出来ない。
主の為を思うのならこの人事を歓迎するべきだろう。
この人事で主の負担は軽減されるはずだ。そうすれば、自分と過ごす時間も増えるかもしれない。
そう考えると顔が緩みそうになるが、シグレは気を取り直して表情を引き締める。
とりあえず、新たな副官を見極める事から始めねばなるまい――シグレはそう決意した。
主より下賜されたデバイスを腰から抜き、あまり座ることのない執務机から整備用端末を取り出すと、デバイスをそれに繋いでいく。
端末に映るデバイスのコンディションは良好。いつでも主の矛としての役目を果たせるだろう――そう考えてシグレは笑みを浮かべる。
『おい、相棒』
『何だ？ “月光”』
“月光”に搭載された人工知能がシグレに声――正確に念話だが――を掛けてくる。
『今の顔をマスターに見せるなよ』
『――？ 何故？』
シグレの疑問の声に、月光の意思は吐ける筈のない溜息を吐いた。
『――当たり前だろう。そんな顔を見せたら、一発でドン引きだ』
『――何？』
『だーかーらっ！ お前すげー顔して笑ってんだよ！ こえーんだよ！？』
“月光”が喚き散らすように真実を告げる。
彼が見たモノははっきり言って愛憎劇の一部に相応しいレベルの笑みだったのだ。
『オレは今、お前にオレを渡したマスターに怒りを覚えているっ！ どーしてこんなヤバい奴のデバイスにぃ！？ はやてちゃんみたいな可愛い娘っ子のデバイスになりたかったあああああぁぁぁぁぁぁ！！』
『――――』
『いや、なのはちゃんやフェイトちゃんでもいい！ ここからオレを助け出してくれえええええッ！！ いつか殺されるうううううぅぅぅぅ！！』
『――――』
『誰かああああああぁぁぁぁぁ――って、ぎゃああああッ！！』
待機状態でコアを輝かせて絶叫する“月光”
その“月光”を凄まじい握力で握り潰しながら、シグレは自分の顔に触れる。
（それほどマズイ顔をしていただろうか…？）
目の前で主とクロノが珍妙な遣り取りをしているのが見えるが、彼女はその光景など無いものとしている。
手に伝わる感触はいつもの通り、主の好みを限界まで追求した――と、彼女が思っている――顔があるだけだ。
いくら好みの顔でも毎日見ていれば慣れてしまうものだが、彼女がその事実に気付く気配はない。
『――兄弟が羨ましい……がく』
そう言ってスリープモードに突入した“月光”
シグレはそれにも気付かず、思考に耽る。
（――まあいい。どのような輩が来ても、私の敵ではないはずだ）
そう決意を新たにするシグレ。
その決意に導かれた訳では無いだろうが、彼女の主の部屋に来訪者が訪れた。
「――――来たな」
「――――来ましたね」
「――――」
氷の才媛、来る。
リュウト・ミナセは混乱していた。
副官着任の予定は二週間前。
だが、先の事件でのリュウトの負傷により、その予定は丸二週間の遅延となった。
（――不味い。どうしてか分からないが、とにかく不味い）
彼は数年ぶりの感じるその感覚に、恐怖を抱いていた。
以前これを感じたときは、エヴァ・ヘンリクセンに出会った。
それ以降、彼女はリュウトに対して一切の好意的感情を向けてこない。
（――あれが再び来るというのか…？）
会う度に向けられる冷たい視線、話しかけても無視され、不用意に彼女に触れようものなら罵声が飛んでくる。
すでに彼女はリュウトにとって最も苦手な女性の一人だった。
クロノに自分を呼んだ理由を問われたが、真実を告げるわけにもいかず、適当に誤魔化した。
本調子であるならクロノが不審に思わない適当な理由を考えつくだろうが、麻のように乱れた思考では、それも叶わなかった。
帰ろうとするクロノを必死で抑え、視界の片隅で不穏な動きをする使い魔から視線を遠ざける。
（どうしてここまで私が混乱しなくてはならないんだろうか？）
そんな当たり前の疑問も、彼の思考の片隅にしかない。
着任予定の士官がもうすぐここに到着するという連絡は、すでに３０分以上前に人事部から届いている。
ミッドチルダの北部にある陸士訓練学校の教官。
それがここに来る士官の前歴だった。
士官学校卒業後、士官学校の教官に勧められて後進の育成をしていたというが、彼女がその職に就いたのには理由があった。
リュウトはそれを知っているし、それを承知の上で彼女を副官に就ける決意をした。
だが、彼女本人の意思はそこに介在していない。
人事担当者とリュウトによって、彼女は本局へと招かれた。
（もしかして、それで怒ってるのだろうか？）
だが、管理局の個人資料と調査資料からはそんな事で個人の感情をむき出しにするような人物ではないという印象を受けた。
というより、そのような人物を担当者が副官に推してくるはずが無い。
（――着任が遅れた事に対するものだけだったらいいけど…）
それでも怖い事は間違いないが、自分が蒔いた種だと諦めもつく。
（――というか、どうして私がこんな目に――）
使い魔を宥めることに始まり、最後の最後まで問題が起きる。
リュウトはもし万が一神に会うことがあったら、最大出力の魔法を叩き込むことを決めた。
（諦めるしかない、か）
リュウトがそう心の中で溜息を吐いた時、彼の待ち望んだ――同時に来て欲しくないと願った人物が到着した。
「どうぞ」
彼は入室の許可を告げ、提督としての顔を作る。
だが、その裏には混乱したままの彼の素顔があった。
「失礼します」
そう言ってリュウトの執務室に入ってきた小柄な女性は、迷いの無い足取りでリュウトへと近付いていく。
その所作は洗練され、どこか優美な印象を見る者に与えるだろう。
だが、その優美さも彼女の視線によって木っ端微塵に打ち砕かれた。
（――今度は何をしたんだ？）
クロノはすでに兄弟子が原因だと確信している。
これほどまでに冷たい視線を受けても平然としているリュウトには感嘆の意を素直に覚えるが、付き合いの長いクロノはリュウトが目の前の小柄な士官に対して内心逃げ腰になっている事に気付いていた。
彼が兄弟子への疑念を内心で呟いている間に、女性士官は執務机の正面に立った。
そして、手本として採用したいほど見事な敬礼をすると、その口を開いた。
「アンジェリーナ・クルス三等陸尉、到着いたしました」
女性――アンジェリーナ・クルスの声に冷厳たる意思を感じ、クロノとシグレは一瞬だけその身を緊張させた。
だが、リュウトはその内心の動揺を無理矢理抑え付け、提督としての仮面を被り答礼する。
「ご苦労」
「は…」
敬礼を解いた両者だが、執務室の空気は張り詰めたままだ。
そんな空気の中で、クロノは背筋に氷柱を入れられたような感覚を味わっていた。
だが、その空気は彼の兄弟子によって変化した。
「――さて、固い挨拶はこれくらいにしましょう」
「――――？」
（空気に耐えられなかったんだな…）
クロノの心の声など、勿論誰にも聞こえない。
だが、それは間違いなく真実だった。
「さて、早速ですがこれを…」
リュウトは執務机の上に置いてあった情報端末を手に取ると、それをアンジェリーナに手渡す。
それを一礼して受け取るアンジェリーナの表情は表面上変わっていないが、内心当惑していた。
（――聞いた話とは随分違うのね……）
「これは？」
内心を隠し、アンジェリーナは疑問を口にした。
今まで描いていたリュウト・ミナセという存在がぼやけ始めている気がするが、彼女はそれをリアルタイムで修正していく。言葉、動作、表情、そして周囲の状況すべてを加味してリュウト・ミナセという人間を自分の中に形作る。
「辞令です。簡単にいえば『アンジェリーナ・クルス三等陸尉をリュウト・ミナセの副官とする』という内容のはず」
リュウトの言葉を受けて、アンジェリーナは端末を操作する。
そこには確かにリュウトが告げた内容が細かく書かれていた。
「そしてもう一つ、『着任時を以てのアンジェリーナ・クルス三等陸尉の二等陸尉への昇進』です」
「――！！」
アンジェリーナが情報端末を操作すると、異動の辞令と共に昇進の旨を伝えた文書がそこにあった。
だが――――
「――何故ですか？」
アンジェリーナの口から出てきたのはそんな言葉だった。彼女の気配が絶対零度のものへと変化していくのを、クロノもシグレも感じ取る。
士官学校を卒業して以来、彼女は一切昇進に繋がるような事をしていない。
功績を挙げた訳でもなければ試験を受けたわけでもない。
だからこその疑問だった。
「――――提督、これはどういうことでしょう。私を昇進で釣るお積もりで？」
その声と瞳には冷たい怒りが漂っている。
その瞳を見たとき、クロノは目の前に居る女性が何と呼ばれているか思い出した。
（『氷の才媛』か、確かにこれは――！）
クロノは自分が途轍もない場所に立っている事を感じる。
（『白の剣聖』と『氷の才媛』の一騎打ち。エイミィが聞いたら喜びそうな話だ）
だが、巻き込まれた側としては堪ったものではない。無関係のはずなのにどうしてこんな目に――クロノはリュウトに恨めしげな視線を送った。勿論、リュウトはそれに気付かない。気付いても無視しただろうが。
リュウトはアンジェリーナの視線を受けながらも、その表情に一切の動揺を表すことなく言葉を発した。
「とんでもない。それは管理局の総意によるものです」
「――それならば、ヘンリクセン三等海尉を副官に据えた方がよろしいのでは？」
「ほう？」
「そうすれば＜ヘンリクセン＞との関係もより良好になるはずです。提督個人にとっても“婚約者”である彼女を手元に置いておく事はリスクを考慮してもプラスの要素が多いのでは？」
「――――彼女は婚約者ではありませんよ」
「私もそう思っています。ですが、彼女は管理局内に於いて事実上提督の婚約者という扱いになっています。否定しているのは本人達だけですし」
「それは困りましたね。だが、私は彼女を傍に置いておくつもりはありませんよ」
全く困っていない表情でリュウトが答える。権謀術数が渦巻く世界で過ごしていれば誰でもこうなるのかも知れないが、少なくともポーカーフェイスではクロノに勝っているのかもしれない。リュウトは表情が変わらないのではなく、偽りの表情をもって相手を欺く。
しかし、アンジェリーナもそれを承知の上だったのだろう。リュウトの答えにあっさりと引き下がると、一気に勝負を決めてきた。
「――――では、もう一つ」
「何か？」
「私の事はよくご存知のはず、ならば何故？」
クロノにはその言葉の意味が分からない。無論、シグレもだった。
二人は一瞬だけ視線を交わし合い、お互いがその答えを持っていない事を悟った。
「――――欲しいのは建前ですか？ それとも本音？」
「意味の無い質問は嫌いです」
リュウトが口の端を歪めると同時に告げた言葉は、アンジェリーナの視線に更なる鋭さを加える。
シグレはアンジェリーナから感じる感情に、思わず腰に手を伸ばしかける。だが、彼女はそれを何とか押し止めた。
（くッ！ 武の者ではないはずですが、この気配の変化は…）
シグレはアンジェリーナの怒りに自分の中の本能が警告を発しているのを感じる。
つまり、これがアンジェリーナの逆鱗。
「――――ふ、そうですね。建前も本音も同じ、『貴女が必要だから』 これでは不満で？」
アンジェリーナはリュウトの答えに凄まじい怒りを感じた。
馬鹿にされている。今までの人間と同じように、リュウト・ミナセも自分を道具として見ている――アンジェリーナはそう答えを出した。
「――――そうですか。ならば、このお話はお断りさせていただきます」
「――――ふむ、それは困った」
「今度は脅しますか？ 私を管理局から追い出すなど、提督には然したる手間ではないでしょうから」
「ふ、随分と悪人に見られたものですね」
リュウトは自嘲気味な笑みを浮かべる。確かに悪人と言われた事もあるが、それは時に冷酷ともいえる決断を下す指揮官であるが故だった。それ以上でもそれ以下でもない。
「――確かに、貴女は管理局にいることで実家からの束縛から解き放たれた。管理局を出る事になれば、間違いなく家からは逃れられない」
その言葉に、クロノとシグレはほぼ同時に視線をリュウトに向けた。
やはり、リュウトはすべてを知っている――クロノは兄弟子が悪人ではないと言い切れない自分が居る事に気付いた。
（こんな事をやっているから悪人にされるんだ！）
必要悪といえばそれまでだが、リュウトのやっている事は一般的に見て十分悪役のすることだ。
「――よくご存知ですね。では、私がF−魔導師である事も」
「無論。知っていますよ」
F−ランクの魔導師。
その言葉を聞いたシグレは動揺した。
『欠陥使い魔』と自分を断じるシグレには、アンジェリーナが自分と同じ何かを背負っているように感じられたからだ。
「F−といえば魔導師の中では最低レベル、そして士官としては底辺に近い三等陸尉。SSランクにして提督である貴方にとって、私は適当な道具でしかないのでしょう？」
「なッ！？」
「――――」
クロノとシグレが思わず声を上げた。
今までは抑えてきたが、この言葉は上官云々以前に人間として余りにも礼を失している――クロノがそう考え、アンジェリーナに注意しようと口を開こうとした時、それを怒声が遮った。
「クルス三尉、無礼でしょう！？ 上官だのなんだの言うつもりはありませんが、管理局の一士官としてその言動は――」
「――シグレ」
「！！」
アンジェリーナに掴み掛からんばかりに怒りを爆発させたシグレだが、リュウトの声に冷や水を浴びせられたかのように動きを止めた。
「くっ！――――失礼、致しました」
「構いません」
主に対する謝罪を告げ、シグレはリュウトの脇へと下がった。だが、アンジェリーナに対する感情は隠しきれていない。
だが、そのシグレの敵意の篭った視線を受けても、アンジェリーナは僅かの感情の揺らぎも見せなかった。
「――流石、良い使い魔ですね。主に対する忠誠心も素晴らしい。とてもデバイス無しでは碌に魔法も使えない使い魔だとは思えませんね」
「ッ！！」
「――此方の事もよく知っているようですね」
腰から月光を引き抜こうとするシグレを手で制し、リュウトはアンジェリーナに問い掛けた。
「いいえ、噂を確かめただけです」
アンジェリーナはそれだけを告げた。それだけでリュウトがすべての事情を理解するであろう事を、彼女は既に確信していたのだ。
「――――なるほど、分かりました。ですが、尚の事貴女を欲しくなりましたよ」
「――――お断りしたはずですが？」
既に両者の間には絶対零度の凍結地獄が横たわっている。それを傍らで感じるクロノはすでに自棄になり始めていた。
（くそッ！ こうなれば僕も意地だ。最後まで付き合ってやるぞ！）
そう決意するクロノ。
だが、シグレは別の意味で自棄になり始めていた。
（『欲しい』って、主殿あんな幼児体型な偏屈女が好みなんですか！？）
滅多に――否、初めて聞く主の言葉に勘違いを炸裂させたのだろう。
自分が言われた事も無い台詞を正面から告げられたアンジェリーナに、シグレは羨望と嫉妬を込めた視線を浴びせた。当然、それはアンジェリーナには届かない。
「勘違いをしているようですので、一から説明しましょう」
「勘違い？」
リュウトの言葉に僅かに疑問の色を見せるアンジェリーナ。
その言葉に背を押されるように、リュウトは言葉を続ける。
「私は貴女を道具としては見ていない。そもそも、私が求めたのは有能な副官であって優秀な魔導師ではないのです」
「な――ッ！」
「それでも疑問に思いますか？ 自分がここに呼ばれた事を」
「勿論。私よりも有能な人材など、管理局には他にもいるはずです」
「確かにそうです。ですが、私は貴女を憶えています」
「ッ！？」
憶えている？――アンジェリーナの思考は乱れる。
確かに、自分とリュウトは初対面ではない。
だが、憶えているはずがないと思っていた。
アンジェリーナは、リュウトにとって自分など取るに足らぬ存在だと思っていたのだから、それも当然だった。
だが――――
「――憶えていらっしゃったのですね。ただの一度だけ、士官学校の机上演習で共に戦った私を」
「忘れる？ そんな勿体ないこと私がするはずはないでしょう」
「――――確かに、あの時の指揮官ならばそんな事はしないでしょうね」
そう溜息を吐くアンジェリーナからは、先ほどまでの極地を思わせる視線は消えていた。
しかし、クロノとシグレには何が起こったのかさっぱり分からない。
「リュウト。話の途中すまないが、事情を説明してくれないか？」
クロノも士官学校出身者だ。
だが、後の『白の剣聖』と『氷の才媛』が共に戦った机上演習など聞いた事も無い。
教官が変わっていただけかもしれないが、それでも噂ぐらいは聞いてもいいはずだった。
リュウトは士官学校に入学する以前から、ある程度の知名度を持っていたのだから。
「まあ、いいでしょう。貴女もよろしいですか？」
クロノに視線を向けて溜息を吐くと、リュウトはアンジェリーナに許可を求めた。
「ええ、構いません。それに――」
アンジェリーナはあっさりと首肯すると、クロノに目を向ける。
「私からもご説明致します。状況『X−２３−S』この言葉に聞き覚えはありますか？」
「いや、無いが…」
クロノは記憶の中を漁るが、そんな言葉を聞いた憶えはなかった。
「でしょうね。あの演習は後にも先にもあの一度だけ、クロノが知るはずも無い」
リュウトはアンジェリーナの言葉に首を振るクロノに告げた。
「特殊状況の２３番目、特別要素あり。それが『X−２３−S』です」
「そして、その演習は当時の士官学校の学生から選抜された者たちだけで行われた。元々は教官のお遊びだったんですが、学校長が悪乗りしましてね」
「それで、その内容とは…」
一人だけ蚊帳の外に放り出されたシグレがここぞとばかりに質問をぶつける。
戦闘に関する知識ならば、彼女も並以上のものは持っていた。
「簡単に言えば、ロストロギアの暴走」
「大規模次元災害を引き起こすロストロギアを無力化するというのが演習の目的でした。ですが…」
「教官の意地が悪かったのか、もしくは優秀な人物だったのか。それには大きな罠が仕掛けてあった」
「一度の演習に参加する学生は二人。『お互いを仮想敵とし、目標を達成せよ。あらゆる手段を許可する』それが教官から告げられた条件でした」
クロノはその状況を詳しく知らないが、選抜されたという事ならおそらく優秀な学生達がそれに挑んだのだろう。
「ですが、結果は散々なものでした。敵となった学生との戦闘に気をとられて失敗。足の引っ張り合いで失敗。ロストロギアの暴走を止められずに失敗」
「２０名が参加した演習でしたが、結果から言えば、目標を達成したのは私達を含めて４名です」
難関と呼ばれる士官学校、さらにその内部で選抜された学生が挑み、その達成率が２割。
クロノとシグレはその演習がとんでもないものだったのだと認識した。
「――それで、主殿はどのようにそれをクリアしたのですか？」
シグレは意図的にアンジェリーナを無視し、アンジェリーナもシグレの露骨な態度に僅かに表情を強張らせた。
だが、リュウトはそれに気付かない。
「簡単…でもないですが、クロノなら分かると思いますよ」
そう言われて考え込むクロノ。
リュウトが言った言葉を考えれば、自分が経験した状況に似たようなものがあるという事か――そう考えたクロノの脳裏に、一つの答えが浮かんだ。
彼の脳裏に浮かんだのは数ヶ月前に起きた『闇の書』事件。
「――まさか！？」
「多分、それで正解です。シグレはお分かりで？」
「――――申し訳御座いません」
「――――ふん」
「っ！？」
小さく笑ったアンジェリーナに凄まじい殺気を叩きつけるシグレだが、アンジェリーナはそれを意図的に無視する。
烈火の将が認めるほどの武人であるシグレの殺気を受けて平然としていられるアンジェリーナに、クロノは驚嘆を通り越して恐怖すら感じた。
同時にどうして兄弟子の周りには癖の強い面子が集まるのだろうか――と思う。願わくは、それに巻き込まれない人生を歩みたいとも。
彼の中には自分もその中の一員であるという自覚は無いようだ。
「では答え合わせをしましょうか。――そこの使い魔にも分かるように、ね」
「ッ！！」
「――クロノ、確保」
「――了解」
アンジェリーナに向かって飛び出そうとするシグレを押さえ付け、クロノはつい先ほどの願いがすでに叶わないことを実感した。
「――ふん。そこの鳥にも分かるように簡単に言ってしまえば、正解は『敵と協力する』です。教官の出した条件には『敵を倒せ』とも『協力するな』ともありませんから」
「仮想敵であるという前提ではありましたが、『すべてを許可する』という条件もありましたしね」
「――――」
「なるほど」
シグレを押さえ付けたまま納得といった表情を浮かべるクロノ。彼に拘束されているシグレは先ほどまでの様子が嘘だったように静かになっていた。
それを見て、リュウトはクロノにシグレ解放の許可を出す。
「クロノ、離していいですよ」
「分かった」
ようやく解放されたシグレだが、視線はアンジェリーナから外れることはない。
彼女は他人の功績を私情で無にするような事はしない。だが、なぜか納得できない。
「お分かりで？」
「――――ええ」
アンジェリーナの言葉に頷くシグレだが、その瞳には目の前の女性に対する怒りが煌めいている。
だが、アンジェリーナはそんなシグレを無視して、リュウトに向き直る。明らかにシグレの神経を逆撫でする行動だが、それを意識して行ったのかは定かではない。
「憶えて頂いていたのは恐縮ですが、今回のお話とは関係ないはずです」
アンジェリーナの放つその声は再び氷のような冷たさと鋭さを持ち始める。
「確かにそれ自体は関係ありません。ですが、貴女の力が必要なのです」
「力？ 私如きが持っている力など、提督の足元にも及びませんが」
「――――私が欲しているのは、貴女の能力です。幾度も後方配置への誘いを断り、自分の信念を貫いている貴女の力が欲しいのです」
後方勤務であるなら佐官になっていてもおかしくないほどの能力を持つアンジェリーナが未だに三等陸尉という立場にいるのは、彼女が常に前線部隊への勤務を希望しているからだ。
だが、彼女が優秀であるが故にそれは叶えられていない。
クセが強すぎて、誰も扱いきる事が出来ないのだ。
そして、彼女が前線勤務を希望するのは実家に対する反発でしかない。しかし、リュウトはそれを知った上で誘いをかけていた。
「クルス家といえば、優秀な魔導師を数多く輩出してきた名家です。ですが、近年は凋落の一途を辿っている。現当主であるクルス三尉のお父上も、魔導師としての適性はせいぜいが武装隊の一隊長クラス。かつてのようにAAAランクを超え、Sランクにすら到達するような魔導師はここ数十年現れていない」
「――――その通りです。それを知った上で、私を副官に据えようというのですか？」
クロノとシグレが話の展開に驚愕している間に、リュウトとアンジェリーナは止まる事無く言葉を交わしていく。
「無論です。今回の一件にクルス家は関わっていません。貴女を推してきたのは士官学校の教官と陸士訓練学校の校長ですから」
それと同時に人事担当者からの推薦もあったが、リュウトはそれを口にしなかった。
彼女が知るべき情報ではなかったし、先述の二者からの推薦があったからこそ担当者の目に留まったのも事実だったからだ。
「そう、ですか。校長が…」
「私も彼にはお世話になりましたが、それは関係ないですよ。さらに言えば、昇進は権限の拡大に伴って行われるものです」
「分かっております」
個人的な感想はともかく、アンジェリーナはリュウトという人間が私情で人事を行うという印象は持っていなかった。
アンジェリーナの表情から隔意が消えたことを読み取ると、リュウトは姿勢を正して口を開いた。
「アンジェリーナ・クルス三等陸尉」
「はい」
その声に答えるアンジェリーナもまた、目の前に居る人物の眼から一つの光が消えたのを感じた。
「先ほどの辞令。承諾しますか？」
「――――」
クロノもシグレもただ黙って推移を見守っている。
一秒、二秒、三秒。どれ程時間が経った時だったか、ついにアンジェリーナが答えを告げた。
「――――」
「――――分かりました。お受けいたします」
「――――」
「――――」
「――――」
「――――提督？」
「はああああ……」
アンジェリーナの口から承諾の言葉が出た瞬間、クロノとリュウトは溜息を吐いた。
「――あの、提督？」
「――辛かった。何もかもが辛かった」
「――リュウトはまだいいさ、当事者だからな。でも、僕は巻き込まれたんだぞ！？」
「――――」
アンジェリーナの当惑したような声など聞こえないように、リュウトとクロノは完全に別世界の住人と化している。シグレが憮然とした表情をしているが、その事実に誰も興味を示したりはしない。
「…………」
「ああ、失礼。では、アンジェリーナ・クルス二等陸尉。これからよろしくお願いします」
アンジェリーナの咎めるような眼差しに気付き、リュウトが慌てて握手をするべく手を伸ばす。
「――こちらこそ、よろしくお願いいたします」
その手を握り返すアンジェリーナの表情はどこか怒ったようなものだったが、リュウトはそれに気付かなかった。
実を言えば、アンジェリーナのようなタイプはリュウトの最も苦手とするタイプだった。エヴァ・ヘンリクセンも似たようなタイプだが、どちらも苦手である事は変わらない。
理由は分からないが、どうしてもこのタイプの女性は苦手なリュウトだった。
「今更ですが、紹介しておきましょう。彼はアースラ所属の執務官、クロノ・ハラオウン」
リュウトの紹介を受けて、アンジェリーナはクロノに向けて手を差し出す。
その態度にはリュウトやシグレに向けていたような感情は無かった。クロノはアンジェリーナに対して特に問題のある行動をしていないのだから当たり前だが。
「今後はお会いする機会も増えるでしょう。よろしくお願いします」
「あ、ああ。よろしく頼む」
自分がアンジェリーナに対して後ろ暗い事は何もしていないという事実を抜きにしても、クロノはアンジェリーナの態度の違いに戸惑った。
リュウト自身も何かしたというわけではないだろうが、クロノにしてみれば自分を巻き込んだだけで十分罪に値する。
「ハラオウン執務官のお話は聞いています。『アースラの切り札』」
「あ、いや、クロノで構わない。母もいることだしな。それに君に比べればどうという事も無い」
「ご謙遜を。私など所詮は後方勤務しか出来ない人間ですから」
「いや、先ほどの話を聞いて思ったが、君のような人材がいた事に気付かなかった自分が恥ずかしいよ」
「ありがとうございます。励みになりますわ」
「いや、ははは…」
そんな二人の遣り取りを見て、リュウトはポツリと呟く。その表情は興味深いものを見たときのものだった。
「――――ふむ、あのクロノが圧倒されてるとは、流石ですね」
「何か仰いましたか？ 提督」
「――――なに、独り言ですよ」
わざとらしく視線を逸らすリュウトに冷たい視線を向けるアンジェリーナ。この二人の力関係は中々に複雑そうだ――クロノは兄弟子の未来を案じる。
しばらく何処かを見ていたリュウトだが、アンジェリーナの視線から冷気が抜けない事を悟ると、別の話題で場を切り替えようとした。
だが、それが失敗だった。
「ええと、そして彼女が私の使い魔であるシグレ。一応、貴女の同僚ということになります」
（リュウトッ！？）
心の中で叫ぶクロノだが、それを聞くものは当然いない。
よりにもよって、この状況でその振り方は拙いだろう――クロノは思わず兄弟子の後頭部を引っ叩きそうになる。だが、執務室内の空気が変わったことでそれは達成されなかった。
シグレは表面上は静かにアンジェリーナに手を差し出して、眼だけが殺気漲る顔で握手を求める。
それを受けるアンジェリーナも、その瞳に絶対零度を宿していた。
「――よろしく頼みますね。“後輩”」
「――いいえ、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします“先輩”」
「――――」
「――――」
「ふふふふふふふふふふふふふふ…」
「ふふふふふふふふふふふふふふ…」
「――何故でしょう、クロノ。寒いんですが」
「――巻き込まれた。また巻き込まれた……」
二人の手が触れた瞬間、執務室内に嫌な空気が充満する。
その空気の中でリュウトは困惑し、クロノはぶつぶつと何かを唱え始めていた。
「いや、先ほどの話大変興味深かったですよ。とてもF−魔導師だとは思えませんでした」
「ッ！！ いえいえ、先の事件での貴女の活躍は聞いています。医療センター内で捕獲騒動があったとか」
「ッ！？ いや、私など大した事はありません」
握り締められた二人の手からギリギリという異音が聞こえてくる気がしたが、リュウトもクロノもそれに対処できる能力を持ち合わせていない。
「――さて、仕事仕事」
「リュウト、すまないがこの部屋に他の出口はないか？」
執務机の下に端末や書類を移動させ始めたリュウトに、棒立ちとなっているクロノは切実な質問をした。
部屋の真ん中に二人が立っている所為で、クロノは部屋から出る事が出来ないのだ。
出るためには猛獣の檻を通過しなくてはならない。
「ありません。暇ならアースラに送る予定の書類でも片付けて下さい」
「――――」
「ええと、このデータを移して、こっちは送ってしまった方が安全ですかね」
「――――」
「艦隊丸ごとオーバーホールか、予算がすごい勢いで食われていくなあ」
「――――」
「教会にも連絡しないと不味いでしょうねぇ。はあ…」
「――――すまない。もう少し詰めてくれ」
すべてを諦めたクロノはリュウトの机の下に潜り込む。
そして、リュウトから書類を受け取りつつ義妹に念話を繋いだ。
『フェイト』
『え！？ クロノ？ 今、授業中なんだけど…』
『それはすまない。だが、伝えなくてはならない事があってな』
念話の向こうから困惑したような気配が伝わってくる。
だが、今のクロノにそれを斟酌する余力は無かった。
『フェイト、母さんをよろしく頼む。甘いものばかりの母だが、間違いなく良い母親だ』
『――？ うん、それは分かってるけど、何かあったの？ そっちに行こうか？』
『いや、それには及ばない。犠牲者は僕とリュウトだけでいい』
『ぎ、犠牲者！？ 何？ どうしたの！？』
『フェイト、強く生きてくれ。そして、不甲斐無い兄ですまなかった』
クロノはそれだけを告げると念話を切った。フェイトが何かを叫んでいるような気がしたが、今のクロノにはそれが辛い。
「クロノ。じゃあ、そっちの書類はよろしく頼みます」
「ああ、任せてくれ。この世で最後の仕事だ。完璧に仕上げてやる」
「――――まあ、いいですけどね」
変なスイッチの入ったクロノにも動揺せず、リュウトは次々と書類の決裁を始める。時々通信端末で何処かに連絡を取りながら、幾つもの仕事を同時にこなしていく。
クロノもまた凄まじい勢いで書類を片付けていくが、その目には光るものがあった。
そんな二人とは関係なく、部屋の真ん中で相対している女性二人はその戦いをより激しくさせていた。
「そんな小さななりして才媛？ 聞いて呆れますね！！」
「そっちこそ、提督の仕事を増やしてばかりで何が使い魔よ！！」
「それにしても――――ふっ」
アンジェリーナの胸の辺りを見て、シグレは見下したように――いや、１０センチ近い身長差からいえば実際にそうなるが――鼻で笑う。先ほどまで馬鹿にされていた報復といったところだろうか。
「なッ！！ そっちこそ無駄にデカいものぶら下げて、戦闘に支障が出なければいいんですがねぇ！」
「で、デカッ！？ 平均的で、理想的な胸と言いなさい！！」
「理想的？ 中途半端なだけじゃない！！」
「中途半端じゃない！ 主殿の好みに合わせただけです！！」
「なッ！？ 本当ですか、提督！？」
突然話を振られたリュウトは、机の下から答えを返した。
締まらない事この上ないが、女性同士の喧嘩という戦場で身を守る術のない男という生き物にとっては至極当然の選択肢だった。
「そんな事はないです。というか、何がどう良いのかさっぱり」
「ほら見なさい！ あんたの一人よがりなのよ！！」
「違う！ 主殿はエイミィに『ヘタレオブヘタレ』と呼ばれるほどヘタレなだけだ！！」
その言葉に避難中のリュウトが微妙な表情を浮かべる。
「ヘタレ…」
「気にするな。事実なだけだ」
「――――」
だが、隣で仕事をするクロノの態度は冷たいものだった。リュウトはその言葉に黙り込む。
「そして同時に『サディストオブサディスト』と呼ばれるほどだ！！」
「なッ！！」
なぜか驚愕するアンジェリーナの声を聞きながら、リュウトはクロノに問い掛ける。
「よく分からないんですけど、褒め言葉じゃない気がします」
「褒めてないからな。だが、確かに当たっている気がする」
「――――文句があるなら聞きますよ？」
「――――それだよ」
沈黙。
沈黙が支配する避難所とは裏腹に、戦場の中心では戦いがヒートアップしていた。
シグレはリュウトの執務机を漁ると、一枚の書類を取り出す。
「ええと、この辺に…。あった！ 上から６５――」
「待ちなさい！！ 殿方がいる前で何を！？」
「主殿はすでにご存知です！ ならば、問題はないでしょう？」
「大ありよ！！ どうしてこんなプライベートな項目まで…」
「徹底的に調査しましたからね！」
「徹底的過ぎよ！！ あ、ひょっとして制服の採寸記録！？」
「その通り！ ６５の５０の６８なんて、貴女は地球の中学生以下ですね！！」
「きゃあああああ！！ や、やめなさい！！ 人の秘密をばらすなんて最低の事よ！？」
「秘密ではないからここにある！ それにしてもAAカップなんて初めて知りましたよ！！」
先ほどまでとは打って変わってシグレが攻勢のようだ。
「やめなさいって言ってるでしょう！ どうして貴女みたいなのが提督の使い魔なの！？」
「主殿に求められたからに決まってるじゃないですか！ 『ずっと一緒に居て欲しい』って言われたんですから！！」
「言ってないです」
机の下からリュウトの声だけが聞こえてくる。
「ほら見なさい！ あんたは所詮その程度の使い魔なのよ！ この鳥娘！！」
「主殿は照れてるだけです！ 貴女のような『ぺたーんあんどすとーん』はゴーホーム！！」
「ぺたーんとか言うな！！ ドジ鳥娘！！」
「ドジとか言うな！！ ぺたんこ才媛！！」
被っていたすべての仮面を取り去って行われているために怒号渦巻く戦場の片隅。男たちの避難所となった執務机には、ついに投射物がぶつかり始めた。
精神的な攻撃から物理的な攻撃へと戦況が移り始めたようだ。
だが、執務机の下では、女性の喧嘩という最悪の戦争に巻き込まれた男二人が黙々と仕事を続けていた。
「つくづく仲の悪い二人だな。初対面だろう？」
「その筈なんですがね。天敵ってやつでしょうか」
「確かに天敵だな。それにしても――いたッ！！」
外の様子を見ようと机の下から顔を出したクロノに、何処からか飛んで来たファイルが直撃する。
「あ、そのファイル。しっかり確保しておいて下さいね。紛失したら始末書書かせますよ」
「それは良いが、備品がすごい勢いで壊れていくぞ…」
ファイルのぶつかった頭を擦りながら、クロノは目前に落下する備品を見つめる。
「構いません。――――アンジェリーナさんの初仕事は始末書ですね」
「優秀な副官だというのは分かったが、シグレとの組み合わせは最悪だな」
「シグレは普段この部屋にいませんから、特に問題はないでしょう」
リュウトのその答えに、クロノは溜息を隠しきれなかった。
「と言う事は、リュウトは彼女と二人で仕事をするわけだな」
「――――」
「気付いていなかったのか」
「――――異動願いって……」
「無理だな」
再び沈黙が支配する避難所。
本来の目的が仕事量の削減だった筈の副官着任だが、この日のリュウトの仕事量は三倍に膨れ上がった。
戦争の終結は２時間後、クロノからの念話を受けたフェイトがなのはとはやてを伴ってリュウトの執務室を訪れたことによって、一応の休戦条約が締結された。
だが、この『ドジ鳥娘―ぺたんこ才媛戦争』は時と場所と形を変えて、幾度も再燃する事になる。その被害は主にリュウトへと向かっていくが、それは別の物語。
第二話につづく
〜あとがき〜
皆さんこんにちは、悠乃丞です。
すごい勢いでギャグに走った第三章第一話、如何だったでしょうか？
中盤のシリアスは何処へやら、結局はシグレとアンジェリーナの戦争勃発がメインとなった観がありますが、これが第三章の基本的なノリです。
シリアスは第三章と混ぜてお届けするリュウト君の過去篇で補って下さい。あっちも第四章が始まるまでにA’ｓまで終わらせますので、本編にしっかりと繋がるようにしてから最終章に入る予定です。
さて、今回登場いたしましたアンジェリーナ嬢ですが、シグレに対しては熱くなったりもしますが、リュウトに対しては冷たいままです。ええ、リュウトが項垂れる程度に冷たいです。
しかも、第三章で登場予定、出ていないのに何故か微妙な人気があるエヴァ・ヘンリクセン嬢も似たような人です。
アンジェリーナ嬢はツンツンツンデレぐらいですが、エヴァ嬢はツンツンツンツンツンのデレです。
危険です。大変危険です。並みの神経の持ち主では、デレに到達する前に諦めるか悶絶死するでしょう。毒性が強いですし。
そして、忘れてはならないのが人格初登場の月光。
なにがどうしてああなったのかは謎ですが、アレが月光の人格です。
ちなみに月光はストレージデバイスですが、あの人格はインテリジェントデバイスの意思に随分近い存在です。インテリジェントほど利便性はないですけどね。自分の意思で魔法は使えないですし。
それはともかく、第三章も過去篇も短編もどんどん行こうと思います。
リクエストなんかもございましたら出来うる限り請けますので、どうぞお送りください。
記念すべき初リクエストである温泉編は近いうちに短編でお送りいたします。多分、最強のエロ親父である元教導隊責任者も現れるでしょう。想定したキャラが２０名以上という温泉編ですが、是非お楽しみに。
あ、予告と違うじゃないかというツッコミはあるでしょうが、あれは三章全体の話でもあるのでご安心を、シリアスもあるということですね。
それでは皆さん、次のお話で会いましょう。
日常。
新たな場所で、新たな上官と、新たな同僚と共に始まる日常。
思わぬ出会いから始まった新生活だが、彼女はあまり変わらずに過ごしている様子。
二つ名に相応しい仕事振りに上官はほっと一安心。
だが、天敵こそが同僚という状況で、平穏は長くは続かない。
次回、魔法少女リリカルなのは―――暗き瞳に映る世界―――
第三章
第二話 〈アンジェリーナの業務日誌〉
なんでもない日常こそ、最大の宝だと知った。