魔法少女リリカルなのは―――くらひとSSS 昔語り―――

 

 

 

 

―曇りのち晴れ、時々雨 後編―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…とうさん、かあさん…」

 

 

 既に日も落ちた街に、微かな異音が混じる。

 

 それは人の足音に聞こえるが、その音は不規則で音の大きさもまるで安定しない。

 

 

「―――明日香…」

 

 

 もし誰かが、暗い道に目を凝らしてみれば、一人歩く小さな影を認められたかもしれない。

 

 しかし、深夜と呼べるこの時間になってしまえば、住宅街であるこの近辺に人影などある筈もなかった。

 

 ふらふらと、その影は歩いていく。しかし、その足取りは不確かで、何処かを目指しているようには見えない。

 

 そう、その影は何処かに行こうとしているわけでは無かった。

 

 何処かへ行くどころか、自分の居場所さえもその小さな存在には分からないのだ。

 

 初めて歩く世界。

 

初めて見る街。

 

影―――薄い部屋着で彷徨う少年には、自分の足元さえも不安定に感じられていた。

 

 

 

 

 

 

自分を引き取った人の家から飛び出して、どれくらい経っただろうか。

 

少年には時間を確かめる術など無く。また、確かめる気力も無かった。

 

 彼が飛び出してしまった理由。それは、自身の家族の姿を見たからだった。

 

 少年の目の前で死に、少年の手で弔われた筈の家族。

 

 妹こそ居なかったが、少年には“それ”は確かに両親に見えた。

 

 だからこそ、少年は恐怖してしまった。

 

 これ以上の別れなど、この小さな子供に耐えられるものではない。

 

 家族の死に折り合いをつけられるほど、少年は大人ではないのだ。

 

 何よりも自分だけが生き残った事に、幼いながらも罪悪感すら覚えていた。

 

 あの旅行が終われば、また普通の日常が戻ってくると思っていた。学校に行って、妹と遊んで、両親と話して、皆で食事をする。

 

 仲のいい友人への土産も、元の世界の少年の部屋の引き出しに仕舞ったままだった。

 

その友人も、両親の葬式には来なかった。その後も会うことは無く、そのまま少年は生まれ故郷の世界に別れを告げた。

 

 歩きつかれ、ふと見上げた夜空に、少年は故郷とは違う星空を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その事件は、ミッドチルダの比較的平穏な街で起こった。

 

 魔導師による立て篭もり事件。

 

世間的にはそう認識され、事実もそれで概ね正解だった。

 

そして、その事件ではただ一人、犠牲者が出てしまった。

 

僅か六歳の少年だった。

 

建前は魔導師による事件という事で、時空管理局による突入作戦が決行され、犯人は逮捕された。しかし、突入に驚いた犯人が攻撃魔法を行使し、それに人質となっていた少年が巻き込まれてしまったのだ。

 

しかし、この事件はそれだけではなかった。

 

管理局が犯人を押さえたかったのは、犯人がある事件の鍵を持っていたからだった。

 

この事件より数ヶ月前、管理局で制式採用されているデバイスが、一部の犯罪者の手に渡った。正確には設計図を元に作られたデッドコピーだが、その性能は民間で使われているデバイスよりも遥かに優秀だった。

 

管理局はその犯罪者たちが一人の人間から設計図を買ったことを聞き出し、その者の捜索を開始する。

 

そして、管理局は自分たちのシステムに侵入し、情報を盗み出した犯人を突き止める事に成功。それが、先の事件を起こした魔導師だった。

 

 そして、犠牲者の子供には、ただ一人の肉親が居た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男がその場所に居たのはある情報を手に入れたからだ。

 

 

――管理外世界の子供が、管理局の提督に引き取られたらしい――

 

 

 それが、男が手に入れた情報だった

 

 自分から息子を取り上げた魔導師。男は魔導師を憎んでいた。

 

 愛する妻が命を賭してこの世に産み落とした息子を、男は心の底から愛していた。二人だけの家族だったが、それでも幸せだった。

 

 しかし、あの事件ですべては変わってしまった。

 

 自分の元に戻ってきた息子は、すでにこの世での生を終えた骸だった。

 

 仕事で疲れている自分の代わりにと、買い物に行った息子が事件に巻き込まれたと知ったのは、すでにそれなりの時間が経過した後だった。

 

 現場に到着した男は、すぐに自分の息子の安否を確認した。

 

 しかし、その場で返ってきたのは状況が分からないという返事。

 

 そして、男が息子の状況を確認する前に突入作戦が行われた。

 

 結果は、息子の死。

 

 管理局側からはやむを得ない犠牲だったと説明された。

 

 それで、男が納得するはずも無かった。しかし、魔導師ですらない自分に、それ以上何かをすることは出来なかった。

 

 事件からしばらく経った頃、職場で働く男の耳に、ある噂話が聞こえてきた。

 

 その内容とは、家族を全て失った少年が、時空管理局の提督に引き取られたというものだった。

 

 その話を、噂話をしていた同僚に詳しく尋ねると、どうやら彼の兄が管理局で働いているらしく、任務でとある管理外世界に行った際、そこで家族を失った少年に会ったというのだ。

 

 詳しくは分からないが、ある事件に巻き込まれ、家族を失ってしまったらしい。

 

 それを聞いた男は、その少年に大きな興味を抱いた。

 

 自分と同じ過去を持つ少年。それが、憎き魔導師に引き取られた。

 

 しばらくすると男は少年に会って、魔導師から救い出そうと思うようになった。

 

 聞けば自分の息子と同じ年頃だという。男はその少年に死んだ息子を重ねるようになっていたのだ。

 

 そして、男は情報を集め、その子供がこの近辺に住んでいること突き止めた。

 

 それ以上の情報は手に入らなかったが、男は気にしなかった。自分が少年を救出する。そのことだけを考えるようになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 男がその影を見つけたのは、日が落ち、随分と時間が経ってからだった。

 

 人気の無い公園にポツンと、小さな影が佇んでいるのが目に付いたのだ。

 

 男はその影にゆっくりと近付く。そして、その影が一人の少年の姿となった時、彼は心の底から歓喜した。

 

 自分の得た情報と寸分違わぬ少年が、そこに居たからだ。

 

 

―――これで、これでようやくあの頃に戻れる。

 

 

 少年を見つけた男の脳裏には、唯一つその思いだけがあった。

 

 あの少年を魔導師の下から救い出せば、あの頃と同じ生活が送れる。

 

 息子と二人、裕福ではないが楽しい生活に戻る事が出来る。

 

 それしか考えられなくなっていた男は、彼の息子が死んだ時、既に狂っていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここにいたのか」

 

 

 少年は自分の背後から掛けられた声に、緩慢な動作で振り向いた。

 

 そこに居たのは、全く見知らぬ大人。

 

 しかし、その大人は間違いなく少年に話しかけていた。

 

 

「さあ、もう大丈夫だ。僕と一緒に家に帰ろう」

 

 

「………」

 

 

「どうした? もう悪い魔法使いは居ない。安心していいんだ」

 

 

「………」

 

 

 この人は何を言っているのだろう。

 

 少年の心の内は、それに集約されていた。

 

 悪い魔法使い。

 

 それは誰の事だろうか。

 

 実は少年は、彼を引き取った人間が魔法を使っているところなど、一度も見たことが無かった。

 

出会ったときに施された魔法は治癒をを目的としたものだったため、少年に魔法と認識される事はなかった。

 

 彼の世話をしていた双子は魔法によって生み出された存在だが、少年がその事を知っているはずもない。

 

 その理由は、少年を引き取った存在―――ギル・グレアムが、少年をこの世界に置いておく事を、未だに迷っている面があったからだ。

 

 グレアムが魔法の存在を少年に教えなかったのは、先の理由の他に二つの理由があった。

 

 少なくとも少年の心が健常な状態に戻るまではと、魔法などの少年に馴染みの無い技術を教えることを避けていたこと。

 

そしてもう一つの理由は、少年の持つ高い資質が不必要に開花しない為。

 

 そうしたグレアムの判断から、少年は未だに魔法の存在を知らなかった。

 

 だから、少年は目の前の男が言う“悪い魔法使い”が何なのか理解できなかったのだ。

 

 

「さあ」

 

 

 男は、少年に向かって手を伸ばす。

 

 しかし、少年はその手を一瞥すると、すぐに視線を外してしまった。

 

 少年にとってみれば、この男の言っている事など取るに足らない事だった。

 

 いや、少年にとっては自分の周りで起きている事、全てがどうでもいいことだったのだ。

 

 しかし、それで納得できないのは男の方だった。

 

 

「どうしたんだ? もうここにいる必要はない。僕と一緒に帰ろう」

 

 

 自分はこの少年を助けに来たんだ。そう考えている男の声は、自然と大きくなる。

 

 

「もう怖い魔法使いはいないんだ。さあ!」

 

 

「………」

 

 

 何も反応を示さない少年に、男は苛立ちを覚えた。

 

 自分が救いに来たのは、間違いなくこの少年だ。ならば、何故この子は自分の手を取らない?

 

 

「さあ!」

 

 

「………」

 

 

 苛立ちが限界を超え、ついに男は自ら少年の手を掴む。

 

 しかし、少年はその男の動作にも反応を示さず、ただされるがままにされていた。

 

 

「それでいい。僕たちの家に帰ろう」

 

 

 少年が抵抗しないのを自分についてくる気になったのだと勘違いした男は、少年を引き摺るようにして歩き出す。それでもやはり少年は抵抗する事もない。

 

 少年は、ただただ男に引かれるまま、覚束ない足取りで歩き始める。

 

 やはり少年の瞳には、何の意志も見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ロッテ、そっちはどう?』

 

 

 街中を駆けるリーゼロッテの脳裏に、自らの姉妹の声が響く。

 

 

『ダメ。探査魔法を使ってもそれらしい反応はないし』

 

 

 その声にロッテもまた念話で返答した。

 

 答えを返す彼女の表情は苦渋に満ちていた。

 

 自分のミスで、傷ついた少年をこの寒空の下に放り出してしまった。

 

 

『…気を落とさないで、ロッテ。父様に確認してみたけど、事故に巻き込まれたりだとかは無いみたいだから』

 

 

『そう…なんだ』

 

 

『ええ、だからしっかりして、あの子をこの世界から見つけ出すのは、私たちしかいないんだから』

 

 

『―――分かった』

 

 

 僅かな間のあと、ロッテは答える。その逡巡が自分のした事に対する罪悪感から来たものだという事は、双子たるリーゼアリアにもよく分かっていた。

 

 

『こんな事なら、せめて検査だけでも受けさせておくべきだったかもね』

 

 

『今更言ってもしょうがないでしょ。それに、今ならまだ、あの子は元の世界に戻れるんだから』

 

 

 アリアの言葉に、ロッテは僅かに笑みを浮かべながら答えた。その笑みはどのような心情から出たものなのか、本人にも分からない。

 

 自嘲か安堵か。または別の感情から来たものか。

 

 しかし、ロッテにはもう一つ笑う事も出来ない事があった。

 

 

『アリア…』

 

 

『何?』

 

 

『あたしらってさ、あの子のこと。なんにも知らなかったんだね』

 

 

『…ロッテ?』

 

 

 アリアの声には困惑の色があった。今更何を言っているのか。少年のことを知らなかったが故、自分たちはあんな失態を犯してしまったのではないか。

 

 

『でもさ。そのなんにも知らないあたし達が、あの子にとってこの世界で一番近い存在だったんだ』

 

 

『…そうだね。それを私たちが裏切ってしまった』

 

 

『何にも知らない世界で、あの子は一人で耐えてたんだ。あたし達は、あの子を助けられなかった』

 

 

『―――』

 

 

『笑い話にもならない! あたし達は一体何をしてたんだろう…』

 

 

自分に対する怒りで、ロッテの声は震えていた。

 

自分がしたことは、少年をこの世界に繋いでいた唯一つの命綱を切ってしまう行為だったのだから。

 

 

『…私は、あの子に謝りたい』

 

 

ふと聞こえたアリアの声に、ロッテは深く同意した。

 

 

『あたしも、あの子がいいって言うまで謝る。口利いてくれなくても、ずっと謝る』

 

 

 自分に出来る事はそれしか残っていない。

 

 何かをするにしても、まずは少年に謝らないといけない。

 

 

『そうすれば、いつかあの子もあたし達に笑いかけてくれるよね』

 

 

『うん。きっと、笑ってくれる』

 

 

 姉妹の声に、ロッテは軽く笑みを浮かべる。

 

 そうと決まれば、こんな所で躓いている訳にはいかない。

 

 

『その為には…』

 

 

「あの子を早く見つける!」

 

 

 ロッテはそう叫ぶと、夜の街へと飛び込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年が男に連れられて歩き始めてから、すでに三十分が経過していた。

 

 体力の残っていない体で歩き続け、少年の疲労はピークを迎えようとしていた。

 

 しかし、彼の手を掴んだ男は何かに怯えるように歩き続け、その歩調は早くなる事はあっても遅くなる事は無い。

 

 

(もうすぐだ。もうすぐ…)

 

 

 男はかつての幸せな生活に思いを馳せ、自分を追いかけてくるであろう魔導師に対する恐怖を紛らわしていた。

 

 自分と息子はあの頃に戻るんだ。あの暖かい日常に戻るんだ。

 

 男はそれだけを考え、少年の手を引き続ける。

 

 人目を避けて歩き続けた為に二人は街を離れ、どんどん人気の無いほうへと進んで行く。

 

 そして、ついに少年の体が限界に達した。

 

 

「!!………っ!」

 

 

 少年は足を縺れさせ、その場に倒れ込んでしまう。

 

 しかし、男はそれを気にする事も無く、尚も進もうとする。

 

 

「ぅ……あ…」

 

 

 少年は男に引き摺られるまま、立つ事もできずにうめく事しか出来ない。

 

 それでも、男は歩く事をやめようとはしなかった。

 

 自らの手にかかる重さに気がつき、男がようやく足を止めたときには、少年は体のあちこちに傷を負っていた。

 

 それを見て、男は少年を立たせると、笑みを浮かべながら励ました。

 

 

「頑張れ。もうすぐ家に着くから」

 

 

「………」

 

 

 少年はもはや男の言っていることが理解できなかった。

 

 疲労によって、少年の意識は朦朧としていた。しかし、男は少年が返事をしないことに気付かぬかのように、言葉を続ける。

 

 

「そうだ。お父さん(・・・・)と、お前の家だ」

 

 

少年の意識はそこで急激に覚醒した。

 

 父。

 

 その言葉に少年の意志は、反応を始める。

 

 

「………」

 

 

 少年は自分の前に立つ存在を、その虚ろな瞳を向ける。

 

 しかし、そこに居たのは、自分の父などではなかった。

 

 当然だ。自分が見送ったのだから。

 

 

「―――」

 

 

「どうした?」

 

 

 少年の今までにない動作に、男が訝しげな声を上げる。

 

 そして、そうして発せられた声を切っ掛けにして、少年の心は、目の前の存在を拒絶する。

 

―――“これ”は、父じゃない

 

 

「………じゃない」

 

 

「なに?」

 

 

「……は………じゃない」

 

 

「おい。どうした?」

 

 

 かすれた声で何かを呟き続ける少年に、男は困惑したような声を出す。

 

 その声に答えたわけではないだろうが、少年の声が僅かに大きくなった。

 

 そして、その声は男にも聞こえた。

 

 

「おまえは、とうさんじゃない…!」

 

 

「な…!」

 

 

 少年の言葉に一番驚いたのは、間違いなく男だった。

 

 しかし、驚愕が持続したのは僅かな時間で、それはすぐに別の感情に座を譲った。

 

 

「何を…言ってる?」

 

 

 その声は震えていた。

 

 男の心には既に唯一つの感情しか残っていない。

 

 そして、それは彼が少年を息子と重ねていたからこその感情だった。

 

 

「…ふざけるなぁっ!!」

 

 

「がっ…!」

 

 

 男は内から湧き出る怒りのままに、少年を殴りつける。

 

 どうしてこんな事をいうのか。自分こそがこの子の父親なのだ。

 

 そんな思いで、男は倒れた少年に向かって言う。

 

 

「何を言ってるんだ。僕がお前の父親じゃないか」

 

 

「違う…」

 

 

 しかし、冷たい地面に横たわりながら、それでも少年は男の言葉を否定し続ける。

 

 

「違わない! 僕がお前の父親だ!」

 

 

「が…!」

 

 

 男は否定の言葉を続ける少年に、尚も力を振るい続ける。

 

 そんなことはない。自分こそが…。

 

 男の脳裏に響くのは、そんな自分の声だった。

 

 

「いいから来るんだ!」

 

 

 倒れる少年の腕を掴むと、男は少年を引き摺ってでも連れて行こうとする。

 

 腕を掴まれた少年の脳裏に、先ほど死んだはずの父に会った時とは別の恐怖が浮かんできた。

 

 そして、その恐怖に揺り起こされ、少年の中で最大の恐怖となった事件が彼の脳裏に蘇る。

 

 輝く空。

 

 父の腕。

 

 母の目。

 

 妹の腕。

 

 燃え上がる炎。

 

 そして、それに負けない鮮血の赤。

 

 全てを失った、あの夜の出来事。

 

 

「あ…ああ…」

 

 

 何故、そうなった?

 

 自分は何を見た?

 

 暗いはずの夜空で、光に包まれていたのは?

 

そう、あれは………

 

 

「黒い…本」

 

 

 そう。

 

空に浮かんだ。黒い本。

 

 

「あれは…」

 

 

 ―――なんだ?

 

 

 少年の心に浮かんだ疑問。

 

しかし、彼の状況は変わっていない。

 

その状況の中で、浮かんだ疑問は再び闇に消えた。

 

 

「…これからずっと一緒だ。生きるのも、死ぬのも…」

 

 

 少年の腕を引く男の目は既に狂気だけで埋め尽くされていた。

 

 ただ共に生きるだけではない。死までが男と共に在る。

 

 

「ずっと、ずっと、ずっと…」

 

 

 少年はその狂気に、言葉に恐怖した。

 

 “死”も、終わりも?

 

 自分の終わりまでもが、家族でもないこの男と共にある?

 

 それだけは、そんなことは―――

 

 

「―――嫌だぁ!!」

 

 

「な…にぃ…!」

 

 

 少年が感じた恐怖。

 

 死に対する微かな。しかし、確実な恐怖。

 

 それは、少年の恐怖という記憶に刻まれたあるものを呼び覚ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『アリア!!』

 

 

『分かってる!』

 

 

 少年を探して街中駆け回っていたリーゼアリアの感覚に、それは確かに感じられた。

 

 今までに感じた事の無いもの。

 

 しかし、それはアリアの中で確かなものとなって輝く。

 

―――あの子の魔力!

 

 あの夜の現場で感じた微かな残留魔力。それと同じものが確かに感じられる。

 

 それを感じたアリアの動きは早かった。

 

 すぐに探索魔法を展開。位置の特定を開始する。

 

 

『見つけた!』

 

 

 同じように魔力の探査をしていたロッテの声に、アリアは神経を集中させる。

 

 

『どこ?』

 

 

『街から結構外れてる…。それに、これは…』

 

 

『どうしたの?』

 

 

『やっぱり! もう一人誰かが居る』

 

 

 予想もしない言葉。しかし、それはすぐに危機感に取って代わる。

 

 誰か?

 

 この世界に知る人間がいないあの子の傍に?

 

 もしかしたら、危険は無いのかもしれない。

 

 しかし、この誰かが少年にとって好まざる存在である可能性も、またある。

 

 

『ロッテ!』

 

 

『了解!!』

 

 

 そう考えたアリアは無意識に自らの半身を呼んでいた。

 

 そして、答えるロッテもまた、自分と同じ事を考えたのだろう。その声は力強い響きを持っている。

 

 

―――あの子の下へ!

 

 

 期せずして二人は同じ事を思い、夜空へと飛翔した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの夜。自分は何をした?

 

 車の中で感じた。体の中から溢れる何か。

 

 そして、脳裏に描いた何かの式。

 

 それは、なに?

 

 

「ま、まさか…!」

 

 

 自分の傍から驚愕に震える声が聞こえる。

 

 しかし、少年はそんな事を気にも留めていなかった。

 

 

「………」

 

 

 少年の体から溢れる何か。

 

 それは、純粋な魔力だった。

 

 少年の能力では緻密な魔導式を組み上げる事など不可能だ。

 

 しかし、稚拙ながらも、少年は確かに魔導式を作り上げた。

 

 彼に魔導式の知識など皆無といっていい、しかし、少年は自分が知る僅かな、本当に僅かな知識を持って、他の魔導師が見れば幼稚というレベルにすらならないであろう式を組み上げ、持ち前の膨大な魔力で無理矢理魔法を起動した。

 

 今、少年が作った式など、ただ単に魔力を放出するだけしか出来ない。

 

 しかし、少年の腕を掴んでいた男を振り払うには、それは十分な効果を挙げる。

 

 少年を包み込む魔力の光。それは、ある意味矛盾した光だった。

 

 

<煌めく闇>

 

 

 後に管理局やそのほかの世界に於いて、この光はこう称されるようになる。

 

 暗く、全てを飲み込もうとする漆黒の魔力光。しかし、それは夜の闇の中で確かに輝いている。

 

 管理局有数の魔導師の二つ名となり、幾人もの人々が知る事になる言葉は、ここではただ一人の男の脳裏にしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらく少年を包んでいた魔力だが、それはそれほど長い時間放出されるような事は無かった。しばらく経つと、その光はゆっくりと収束していく。

 

 少年が組んだ魔導式は効率など考えられておらず、ただ単に魔力を外に放出するだけだったのだから、それも当たり前のことだった。

 

 魔力を出しつくし、少年はその場に倒れ込む。

 

 そして、その少年に影がかかった。

 

 

「お前は…」

 

 

「………」

 

 

「お前も魔導師だったのかぁッ!?」

 

 

「っ!!」

 

 

 夜の闇に、鈍い音が響く。

 

 男が少年を蹴りつけた音だった。

 

 蹴られた少年は、すでに立つ事も適わず、ただその暴力を受ける事しか出来ない。

 

 

「お前も! お前も! あいつらと同じ魔導師だったのか?!」

 

 

「ぐっ……あうっ…がっ…!!」

 

 

 男は少年の体をひたすら蹴り続ける。

 

 それでも少年は抵抗らしい抵抗もすることはない。

 

 すでに体力は底を付き、衰えた体では衝撃を受け止める事もできないのだ。

 

 男が少年に抱いたのは恐ろしいまでの憎悪。

 

 自分の息子を奪った魔導師が、息子のふりをしていた。自分を騙していた。

 

 自己中心的で、どこまでも利己的な思考だが、男はそれが正しいと思っていた。

 

 

「お前なんかが、どうしてお前なんかが生きているんだ!?」

 

 

 男は叫びながら少年に憎しみをぶつける。蹴るだけでは満足できなくなったのか、周りを見回し、道を外れたところに落ちていた木の枝らしき棒を掴む。

 

 そして、それを大きく振り上げると、男はなんの躊躇いも無く振り下ろした。

 

 その仕草に、すでに人間性は無い。

 

 獣のような攻撃本能だけが。そこにはあった。

 

 バキッという何かが折れるような音を立て、木の棒は少年の身を打つ。

 

 

「…ぅあッ!!」

 

 

 その瞬間、少年の体は僅かに反り返り、また地面へと落ちる。

 

 すでに声を上げること事すら出来なくなっていた少年だが、その衝撃と痛みに、その口から悲痛な声が漏れる。

 

 しかし、それは男の神経を逆撫でするだけだった。

 

 

「お前如きが生き残って、どうして俺の息子が死ななきゃならない?!」

 

 

 そういって男は何度も棒を振り下ろす。

 

その度に、虚空に苦しげな声が響き渡った。

 

すでに少年の意識は混濁し、目の前の男が何を言っているのかさえ分からない。

 

体の各部から出血し、その服は真っ赤に染まっている。泥や血で元の色が分からないくらいに、身に着けていた服は汚れていた。

 

そんな少年に構うことなく、男は棒を振り下ろす。

 

冷静でいない事の証明か、振り下ろす木の棒も少年の体から何度も外れ、地面を抉っている。

 

それでもなお、狂気に取り付かれた男はそれを振る事をやめない。

 

 その口から漏れるのは、ほとんど変わらず一つのことを言い続けている。

 

 

「お前なんかが! お前なんかが! お前が死ねば良かったんだ!!」

 

 

 暗い道に、男の叫び声と、鈍い音、そして微かな悲鳴が響き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リーゼロッテがその場に向かっている途中、同じ方向へと飛んでいるリーゼアリアを見つけたのは、後から考えれば幸運だったのかもしれない。

 

 もしかしたらアリアも同じ事を考えているかもしれないが、少なくともロッテはそう思っていた。

 

 

「アリア!!」

 

 

 ロッテの気配に気付いていたのだろう。アリアにその声に対する動揺はなかった。

 

 街の郊外へと飛びながら、二人は同じ事を考えていた。

 

 少年が無事で居るかどうか。

 

 それだけであった。

 

 そして、それには理由があった。

 

 少年の位置を特定して以来、二人は別の条件でも探査を続けていた。

 

 そして、生命反応による探査によって、少年が生命活動に支障をきたし始めている事が分かったのだ。

 

 最初に魔力を感じてから位置特定まで数分。

 

 街の反対側に居たために少年のいる場所までは飛行魔法を使ってもやはり僅かながら時間がかかった。

 

 そして、その間にも、少年の生命反応はどんどん小さくなっていく。

 

 最初の一、二分こそ、少年の体調が万全で無いことが理由かと思っていたが、それ以降急激に少年が弱り始めた。

 

 そして、近くに居るという存在。

 

 二人は最悪の事態まで思い浮かべた。

 

 どこの世界でも弱者を狙う犯罪者は居る。

 

 そして、弱りきった子供など、彼らにしてみればいい餌でしかないのだ。

 

 この近辺で通り魔が出たという話は聞かない。しかし、確実に無いともいえない。

 

 二人の思考は、マイナスの方向へと回っていた。

 

 

「「!!」」

 

 

 二人の鋭敏化された聴覚は、前方―――少年がいるであろう場所から聞こえてくる異音を捉えた。

 

 それは、二人が何度も仕事で聞いた音。

 

 

―――打撃音。

 

 

 しかも、対象はサンドバックでも、人形でもない。

 

 それに気がついた瞬間。二人は出しうる限界の速度で少年の下へと飛び込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前が死ねば! お前が死ねばあの子は!!」

 

 

 男はすでに呻き声すら上げなくなった少年に、最後の一撃を加えようとした。

 

 狙うのは頭部。

 

 少年の体が本能的に守っていた頭部に、男は狙いを定めた。

 

 

「魔導師など、魔導師などっ! シネェェェェェェァァァァ!!!」

 

 

 男は渾身の力を込めて、兇器を振り下ろした。その動作は、やはり獣じみた狂気をまとっていた。

 

 その次の瞬間、空気を裂くような音が響き渡る。

 

 

「な!!」

 

 

 少年の頭へと接触する直前、それは横合いからの攻撃によって甲高い音を立て弾き飛ばされたのだ。

 

 

「「ガアアアアアアアアアァァァアァァァァアァァァァァ!!!」」

 

 

 そして、それと同時に空から凄まじい怒声と共に大気が揺らめくような怒りの気配を纏った何かが飛び込んできた。

 

 男はそれを驚いた様子で見ているしかない。

 

 

「な、なにが…?」

 

 

 それは地響きを立てて、その場に降り立った。

 

 

「…あんた…何をしているんだ…?」

 

 

 それは地獄から響いてくるかの如き悪鬼の声。

 

 

「私の、私たちの大切な子に…何をした?」

 

 

 それは聞く者の心臓を握り潰さんが如き修羅の声。

 

 それは一つとなって、ただ一人の者へと向けられた。

 

 

「「答えろぉっ!!」」

 

 

「ひっ!?」

 

 

 その声を受けた男は、ただひたすら怯えるだけだった。

 

 先ほどまでの狂気などとうに吹き飛び、男はただ目の前の存在に怯えていた。

 

 

「聞こえなかったの?」

 

 

 悪鬼―――リーゼロッテの声に、男は体を震わせた。

 

 

「僕は、僕は…」

 

 

「御託はいい、さっさと答えて。もしかしたら手加減できるかもしれない」

 

 

 ロッテと並ぶようにして立つ修羅―――リーゼアリアの声に、男は意を決して口を開いた。

 

 

「僕は、息子の仇をとろうとしただけだ!」

 

 

「仇…?」

 

 

「この子が…?」

 

 

 アリアとロッテの言葉に、男はガクガクと頷いて言葉を続ける。

 

 しかし、そこから出た言葉は二人にとっては怒りを増幅するだけだった。

 

 

「そ、そうだ! そいつが死んでいれば、僕の息子は助かったんだ!!」

 

 

 常識的に考えても、男の言葉は全く筋が通っていなかった。

 

 彼の息子が死んだ事と、この少年に何の関わりがあるというのか。

 

 この世界に来てから一度も外に出ていない少年が、どうやったらこの世界の事件に関わる事が出来るのか。

 

 どう考えても、二人には男の言い分が正しいようには思えなかった。

 

 例え正しくとも、少年をこんな目に遭わせた者の言い分など、この二人を止めることが出来たとは思えない。

 

 それほどリーゼ姉妹の怒りは凄まじいものだった。

 

 少年に向かって男が棒を振り下ろす瞬間、ロッテの体は自然に動いていた。

 

 少年を傷つけないように細心の注意を払いながらも、その動作は半瞬以下で行われた。それにより発射された攻撃魔法が、男の手より兇器を弾き飛ばしたのだ。

 

 それと同時に二人は少年の姿を認める事が出来た。

 

 だが、その次の瞬間には、二人は怒りで我を忘れるという事態に陥ってしまう。

 

 本来ならばありえない方向に曲がった手足。地面に倒れ込んだ体からは未だに血が流れ、二人が苦労して着せた服は、その本来の淡い色を失い、鮮血に染まっていた。

 

 そして、弱弱しく苦しげな呼吸音。その顔には苦悶の表情と、自らの血をはり付かせている。

 

 

―――これが、あの少年の姿なのだろうか?

 

 

 そう認識すると共に、二人の心の底から火山の噴火の如き勢いで、怒りと悔しさが噴出してきたのだ。

 

 確かに、少年は自分たちの事など無視し続け、全く反応を示す事など無かった。

 

 だが、今なら分かる。

 

 日を経る度に僅かずつではあったが、確かに少年の体は緊張を解いていた。

 

 声を掛ける度、少しずつ少年からの拒絶の空気は確かに緩んでいた。

 

 確かに、少年は自分たちを信頼し始めていたのだ。

 

 そこまで気付いた今、二人の心は決まった。

 

 自分たちは子供を育てた事など無い。人の子供の面倒はみても、自らの子として育てた事などありはしない。

 

 しかし、少年は確かに自分たちが世話をしていたのだ。

 

 しかも、他人としてではない。この世界の家族として、共に暮らしてきた。

 

 真の母ではないこの身だが、確かにこの世界では少年の母だったはずだ。

 

 たとえ、一月足らずの時間でも、自分たちとあの子は家族だった。

 

 そう、家族。

 

 仮初の、母子。

 

 

―――ならば

 

 

―――彼の母として

 

 

―――我らは

 

 

―――彼に仇成す者を

 

 

―――許しはしない

 

 

素体となった猫の動物的な母性と、人と同じ思考を持つに至って得た人間的な母性。

 

二人の中にはその二つが混在していた。

 

そして、それは共にただ一人の少年を護る為に、二人に行動を促した。

 

その刹那、二人は少年と、彼を傷つけた者に向かって突き進む。

 

その口からは、怒りと憎悪と悔恨の混じった咆哮を迸らせて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そいつが悪いんだ! そいつなんかが生き残って、あの子が死ぬなんて間違っている!!」

 

 

「ふざけるなぁッ!!」

 

 

「ひいっ!?」

 

 

 男の抗弁に、ロッテは怒鳴り返した。

 

 この場に降り立った瞬間までは、二人はこの男を殺さんばかりの精神状態だった。

 

 しかし、自分の隣に居る姉妹の状況を、彼女たちは同時に認識した。

 

 その為、二人は幾らか冷静になる事が出来たのだ。

 

 しかし、男の言い分は二人には聞くに堪えない言葉だった。

 

 

「………」

 

 

 男をロッテに任せ、アリアは少年の体を調べる。

 

 怪我の状態を確認するにつれ、その顔は苦しげに歪んだ。

 

 裂傷や打撲は体中にあり、骨折も複数、内臓も傷ついているだろうか。

 

治癒魔法で応急処置を施し、アリアは少年を抱き起こす。

 

そして、その顔に付いた血や泥をその手で丹念に拭っていった。その度に少年が顔を顰めるのが、彼女にはひどく悲しかった。

 

そんなアリアの口から、静かに言葉が発せられる。

 

 

「……この子が何をしたの?」

 

 

 少年を抱き締めるアリアの声には、既に怒りよりも悲しみの方が大きかった。

 

 どうしてこの子がこんな目に遭わなければならないのか。

 

 何故家族を失ってなお、このような理不尽な暴力を受けなければならないのか。

 

 衰えた体で、こんな場所まで連れてこられ、既に力も入らない体で暴力を受け続けた。

 

 これが、少年の罪に対する罰だとでもいうのか?

 

 

「この子が何をしたの?」

 

 

 アリアの口からは同じ言葉しか出てこない。ロッテもまた、同じことを思って肩を震わせた。

 

 そんな二人に構うことなく、男は再び口を開いた。

 

 

「そいつが死んでいれば、僕の息子は死ななかった!!」

 

 

「「!!」」

 

 

 この男は何を言っている?

 

 代わりに死ね、と?

 

 この子に、死ねと?

 

 

「そいつが死ねば、あの子は帰ってくる! あの頃に戻れるんだ!」

 

 

 そんなはずは無い。人は死んだら帰ってはこない。

 

 

「そんなことない!」

 

 

 ロッテは叫びながら男に向かって飛び掛っていく、これ以上この男の言葉を聞くのが不快だった。

 

 少年の状態もここではよく分からないのだ。二人とも医療の専門家では無い。医療系に長けた魔導師に診てもらうか、病院へと連れて行かなくてはならない。

 

 そして、これ以上この男の口上を聞くつもりも無い。

 

 この場で叩きのめし、その後然るべき罰を受けさせる。

 

 そう考え、ロッテは男との間合いを一気に詰める。本当ならば自分たちで罰を下したい。だが、自分たちにその権限は無いのだ。

 

 ならば、ここで確保するしかない。傷害の現行犯でなら、特に問題なく逮捕できるはずだ。

 

 

「ああ…、ひゃああ!!」

 

 

 その気迫に圧されたのか、男は逃げようと体を翻す。しかし、それを逃がすようなロッテではなかった。

 

 一瞬に満たぬ間に、彼女は男の体に触れるほどにまでに接近した。

 

 ここで一撃を加え、気絶させてしまえばいい。

 

 それだけで済ませるのは正直なところ納得できないが、少年の未来に禍根を残したくは無い。

 

 ロッテは自らの打撃を持って男を無力化しようと、体に力を込めた。

 

 

「ロッテ!!」

 

 

「っ?!」

 

 

 しかし、それはアリアの声によって中断された。

 

その声は普段のアリアからは想像も出来ないような悲壮な響きを持っていた。

 

その為、ロッテは逃走した男の追跡を諦め、少年と共に居るはずのアリアの下へと駆け戻った。

 

そして、ロッテは少年の苦しげな表情に、姉妹の動揺の理由を理解した。

 

明らかに異常な呼吸と発汗。

 

すでにアリアが処置を施そうとしているが、原因が分からない以上、それも叶わないようだった。

 

 

「どうしよう!?」

 

 

 アリアの表情もまた、少年とは違う理由で歪んでいる。動揺している事もあるが、何よりも対象が子供の体では、自分たちの知識だけではどうにもならないのだ。それこそ医療に精通しているものでなければならない。

 

 

「どうするって…。病院に運ぶしかないでしょ!!」

 

 

「それは分かってる! でも、下手に動かして悪化するような事になったら…」

 

 

「う………」

 

 

「「!!」」

 

 

 二人は苦しげに呻く少年の声に、確かな意思を感じ、耳を澄ませる。

 

 

「ごめ…ん……な……い」

 

 

 謝罪。

 

 誰に対してのものかは分からないが、この苦しんでいる少年は、誰かに対して謝っているのだ。

 

 ひょっとしたら、先ほどまでの男の言葉を聞いていたのかもしれない。

 

 

「…ご………な…さい」

 

 

 少年が謝る必要など、どこにあるというのか。

 

 勝手に家を出たのは、確かに責められるべきことかもしれない。だが、その原因を作ったのは自分達なのだ。

 

 

「ごめ……」

 

 

「謝らなくていい!」

 

 

 アリアの声が呆然としていたロッテの耳を打った。

 

 

「君は悪くない。悪いのは私たちなんだから」

 

 

 そう言ってアリアは少年の手を握り締める。

 

 

「そうだよ。君は悪くないんだから…謝らなくていい」

 

 

 ロッテもまた、少年の残った手を握り締めた。その手は、何かに耐えるように震え続けている。

 

 しかし、まだ自分たちが謝るには早い、アリアの腕の中に居る少年を、なんとか医療設備が整った場所まで運ばなければならない。

 

 謝るのは少年の体が癒えてからでも遅くはない。

 

 ロッテはもはや迷う事をやめた。

 

 

「アリア、ここに居ても仕方がないよ。体を固定して、二人で運べば…」

 

 

 ロッテが意を決し、自らの半身に少年の移動を促す。アリアもその声に決心を固めたのか、僅かな逡巡を見せながらも頷いた。

 

 そして、二人が少年の体を持ち上げようとしたとき、その声は聞こえてきた。

 

 

「―――その必要はない」

 

 

「「父様!?」」

 

 

 その声の主、それは双子が父と呼ぶ魔導師のものだった。

 

 星明りしか照らすもののない夜道に、大柄な影が現われる。それはやはり、二人が見慣れた者の姿だった。

 

 そして彼は一人ではなく、その後ろにも何人もの人の気配があった。その正体も、すぐに判明した。

 

 魔導師―――ギル・グレアムは自らの使い魔と少年に近付くと、その場に連れてきた者たちに声を掛ける。

 

 

「すまない。この子を頼む」

 

 

「了解しました。本局で構いませんね?」

 

 

「ああ、あっちには話が通ってるはずだ。くれぐれも、頼む…」

 

 

「任せてください。我々はその為に居るんですから」

 

 

 彼らは、おそらく時空管理局の医療センターの人間だろう。その手つきは無駄がなく、アリアから少年を受け取ると、すぐに彼を搬送していった。

 

 双子はそのあまりの展開の速さに付いていけず、半ば呆然と少年を見送る事になった。

 

 そんな二人に、グレアムは静かに話しかけた。

 

 

「リーゼ、あの子は大丈夫だ。信頼できる知り合いに頼んだ」

 

 

「とう…さま」

 

 

 アリアは自分の手に付いた少年の血に、透明な何かが落ちるのを見た。

 

 

「よかった…」

 

 

 ロッテの声にも安堵の響きが混じり、それと同時に彼女の目に涙が浮かぶ。

 

 

「ここから逃げ出した男も、すぐ近くで確保した。今は取調べを受けているだろう」

 

 

 もっとも、錯乱してまともに話を聞ける状態ではないが。

 

そう話すグレアムの声は、二人にはほとんど聞こえていなかった。

 

 二人は少年の身が助かったことで、既に緊張を保つ事が出来なくなっていた。

 

 男の事など、すでに二人の脳裏からは消え去っていたのだ。

 

 そんな二人の様子を見て、グレアムは軽く嘆息すると、その顔に笑みを浮かべた。

 

自分の娘たちは、あの少年の支えになれるだろうか。

 

 そんな事を、ふと彼は考えていた。

 

 そしてこうも思う。自分たちはあの子の家族になれるだろうか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

襲われてから数日が経ち、少年はグレアム宅の自室で療養を続けていた。

 

外傷はすでに消え、内臓等へのダメージも心配されるほどではなかった。搬送された当初は内臓へのダメージによる痛みで、少年も苦しんだが、それも医療センターの魔導師の手によってしっかりと治療された。その為、少年は治療後すぐにグレアム宅へと戻ってくることができたのだ。

 

少年の精神的なことも考えれば、ここで療養した方がいいだろうとグレアムも判断した。本局ともなれば様々な人が大勢いる。そんな中に居ては、気も休まらないだろうと考えたのだ。

 

少年の療養は、むしろ精神的な面から始めた方がいいと、グレアムの知人である医療センターの魔導師が彼に勧めたこともあり、少年は自宅療養に落ち着いた。

 

その後は、仕事のあるグレアムこそ毎日顔を会わせる事もなかったが、リーゼ姉妹の片方が常に少年と共に居た。

 

ロッテは少年が返事をしなくても、勝手に話し続けたし、アリアは少年が好きな料理は何か、しつこく尋ね続けていた。

 

その甲斐もあってか、一月が経つ頃には、少年の様子も大分穏やかになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ゴメンね」

 

 

「ごめんなさい」

 

 

「?」

 

 

少年が不思議そうに首を傾げる。

 

目の前には双子が珍しく揃っていた。そして、少年がどうしたのだろうかと思う前に、二人が彼に謝ってきたのだ。

 

少年には訳が分からない。

 

 二人に謝られるようなことがあっただろうか?

 

 

「この前さ…君のお父さんとお母さんの姿を使ったでしょ」

 

 

「その事、ずっと謝りたかったんだけど、怪我の事もあったし、後でって思ったんだ」

 

 

「とうさんと、かあさんのこと?」

 

 

「うん、本当にゴメン」

 

 

「ごめん。許してくれなくてもいいから…。でも、謝らせて」

 

 

 二人の姿を見る少年の目には、あの時のような恐怖はなかった。

 

 そこにあるのは、ただ、穏やかな光だけ。

 

 少年は二人を見ると、その口を開いた。

 

 

「気にしないで、ぼくは怒ってないから…」

 

 

「いいの?」

 

 

 少年を見る二人の表情は、まだ僅かに影が残っていた。ロッテが不安になるのも無理はない、少年に自分たちがした事はとてもじゃないが、そう簡単に許してもらえる事じゃないと思っていたからだ。

 

 アリアも、言葉にこそ出さないが、その表情と尻尾は不安を表していた。

 

 

「いいんだ。ぼくには、アリアもロッテも、ギルもいる」

 

 

「私たちの名前、覚えてたんだ…」

 

 

 あれ以来、自分たちは名乗る事をしなかった。正確に言えば忘れていただけだが、少年が自分たちを呼ぶときに名前を使わなかったので、二人もそれに慣れてしまったのだ。

 

 

「うん。ぼくの大切なひとのなまえだから」

 

 

「大切な…」

 

 

「ひと…?」

 

 

 二人はその言葉と共に、初めて少年の笑顔を得た。微かな笑みだが、確かに少年は自分たちに笑みを向けてくれた。

 

 その事に気付いた二人は、自分たちが涙を流している事さえ気付かなかった。

 

 ただ、目の前の存在が愛しい。

 

 それを証明するかのように、ロッテは勢いよく少年のベッドに飛び乗り、彼を抱き締める。その仕草は確かに猫だったが、抱き締めるときの表情は母と呼べるものだった。

 

 

「あ、ずる…!」

 

 

 ロッテに先を越されたアリアも、負けじとベッドに飛び乗る。そして、ロッテに負けないくらい強く、暖かく少年を抱き締める。

 

 

「むぐ…」

 

 

 二人に抱き締められて少年はもがいていたが、それでも二人は手を緩めない。

 

 

「ゴメンね。ゴメンね…」

 

 

「ごめん。ごめん…なさい」

 

 

 いつしか二人は涙を流しながら謝っていた。

 

 少年を傷つけてしまったこと。怪我をするまで、助けに行けなかったこと。

 

 なにより、安易な道を選んでしまったこと。

 

 

「ゴメン…ね…」

 

 

「ごめん…ごめん…」

 

 

 ただひたすらに謝る二人を見て、少年は自分の居場所を見つけた気がした。

 

 ここには、自分の為に涙を流してくれる人がいる。

 

 家族はもう戻らないけど、ここには自分と共に居てくれる存在がある。

 

 ならば、自分は諦めない。

 

あの夜、あの空に浮かんでいたもの。

 

家族を奪ったもの。

 

 それだけを目標に、進んでいける。

 

 

「ありがとう…」

 

 

 少年はそう呟く。

 

 彼もまた、あの夜、連れ去られた夜に、母のぬくもりを感じたのだ。

 

 それは、確かに目の前の二人だった。

 

 痛みの中で感じた、確かな暖かさ。それを、少年は受け入れた。

 

 だからなのか、二人にお礼を言いたかった。

 

 何に対する感謝なのかは分からない。

 

しかし、そうする事が自然だと思った。

 

自分を包む柔らかく、暖かい、二人の母に―――

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年はあの夜を境に変わり始め、この日、新しい道を歩き始めた。

 

 後に<煌めく闇>、<双剣の魔導師>、<白の剣聖>、そして、相反する<峻烈魔導師>と<守護魔導師>という様々な二つ名で呼ばれることになる少年だが、彼がそう呼ばれるまで、まだ時間が必要となる。

 

 

 

 彼の者の名は、この日、リュウト・ミナセになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 END

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜あとがき〜

 

 皆様こんにちは、悠乃丞です。

 

 無事に後編をお送りする事ができ、私はホッとしております。

 

 確認してみれば、なんと後編は前編の1.6倍のボリュームです。驚きです。

 

 このあとがきを書いている時点では、このシリーズで最長のお話です。

 

 別に執筆している第二章のクライマックスはもっと長くなりそうですけどね。

 

 とりあえず、無事書けました。良かった、完成して。(ヲイ

 

 読みたいって言って下さる方が居るならば、私はやりましょう。例え、火の中水の中。パソコンさえ動けばどこでも書くぞ。

 

―――今はストーブの前だけど……(ダメ人間

 

 さて、この後は……どうしましょう?(ぅをい

 

 実は第二章の最中に短編を挟むか、それとも短編を出し終えてから第二章を始めるべきか…。作者は悩んでおります。長編の執筆ペースが上がれば一番いいんですけどねぇ。

 

 とりあえず、短編と長編の両方を準備しつつ、悩みたいと思います。

 

 こうして欲しいとか、こうしたらどうかという意見がございましたら、メールでもいいのでご一報を。感想掲示板でもいいのかな…。リョウさんに聞かないと分からないぞ。

 

 これで反応がなかったら悲しいですが、頑張ります。

 

 さて次回はどうなるでしょうか。ちなみに昔語りの次回はリュウト君の修行とクロノ君との出会い。

 

 修行開始はリュウト君が一年ほど早いので、もしかしたらクロノ君登場は延期になるかもしれませんが、ぜひお楽しみに。

 

 では、次のお話でお会いしましょう。