鬼神 オニガミ       第一章 第二話     薬〜恐怖〜

















  放課後、優は鞄を持ち上げて机から立ち上がった。

 すでに教室の中の人数は少なく、いてもそれは友人と待ち合わせをしている者ばかりである。

 それも五月蝿く騒ぐ輩ばかりだ。

  自分の席で日誌を書いている錬が、髪を掻き毟って怒りに耐えていた。

 神経質な人間のように、血が出そうなほど自分の頭を掻き毟っている。




 「錬、大丈夫か?」

 「大丈夫だよ。  けど、うるさいなぁ……」




  唸り声を上げておりながら、大丈夫なわけが無い。

 しかし『大丈夫』と言われた以上、優は立ち下がるしかない。
 
 仕方なく、そのまま教室を出る。

 廊下に出ると、日が下がり始めていたのが見えた。

  この先、世界は―――いや自分がいる所だけは間違いなく闇に染まるだろう。

 そんな確信が、優にはあった。

 その後に待つ光を知っているからこそ、その闇に絶望せずにすむ。

 だが、もしそれがあけない闇ならば………

 そんな滑稽な妄想をしてから、優はその妄想に身を震わせた。

  ―――冗談じゃ無い。

  妄想でも空想でも、冗談がきつい。

 優は頭を古い、その考えをかき消した。

 そして優は、自分の鞄から折りたたみ式の携帯電話を取り出す。

  この中学校は一応、携帯電話は禁止となっている。

 しかしそれには意味が無く、ほぼ全員が携帯電話を学校へと持って来ていた。

 優もその例外では無い。

 だが、その携帯電話もメールやネットといった機能はほとんど使われず、電話のみが使われていた。

 下駄箱のあたりまで来てから携帯電話を開いて、慣れた操作でアドレスを引き出し電話をかける。




 『荒神です』

 「ああ、母さん?」

 『優? どうしたの』




  優はそこまで会話してから、上履きを下駄箱へと入れた。

 そしてそのまま下履きを取り出し、地面へと放り投げる。




 「今日、用事があるから帰るのが遅れる」

 『最近物騒だから気をつけるのよ』

 「分かってるって……… じゃ」




  足を下履きに押し込み、優は電話を切って携帯を鞄へと入れた。

 そして先に外へ出ていた紗美に手を振るう。

 紗美はクラスメイトに手を振るい分かれて、優へと歩いてきた。




 「よっ!」

 「ああ。 んじゃ行くか」




  そう言って優と紗美は並んで歩き始めた。

 そのおかげでとある噂が広まることになるのだが、それは別の話である。


















  ―――荒神冬未

 その名前は大体親しみを持って呼ばれる。

 だが、例外もある。

  ――――――たとえば、自分自身。




 「……………」




  冬未は蒼く長い髪をかき上げて、さっき優と話していた受話器を電話へと戻した。

 そして唇を強く噛み、天井を見上げる。

 髪が顔にかぶさり、その表情は見えない。




 「………ふざけないで、アーシア・U・N。 こうなると知っていたなら、手伝いなさいよッ………」




  しかしその口調には、怒りと言うより諦めと悲壮感が濃かった。

 そして、電話のベルが甲高い音で鳴る。

  受話器を取って、最初の一言を聞いた時、冬未は呟いた。




 「馬鹿………」

 『ああ、すまんな。 又迷惑事に巻き込まれた。 
  帰るのは遅れそうだ。 本当にすまない』

 「……大馬鹿」

 『分かっているだろう? そういう男だよ、俺は』




  電話の向こうの声は軽い。

 それに若干の怒りと喜びを感じながら、冬未はまた垂れ下がっていた髪をかき上げる。

 しかし、すぐに元に戻ってしまう。

  自分が下を向いている事に、やっと冬未は気づいた。

 視界が全て床になっていたと言うのに………。

 冬未はそれをごまかすように、目だけを電話機に向けて、できるだけ明るい声を装う。




 「………自分勝手ね」




  大失敗だった。

 自分の機嫌を、ありのままに出してしまっている。

 しかしそれは気持ちがよかった。

 自分を偽らずに済むから。




 『まあ自覚してはいるんだが………』

 「そう………」




  「ふざけないでないで」

 そう冬未は叫びたかった。

 誰のせいでこうなったと思っているの? と。

 今、どういう事態が起ころうとしているのか知っているの? と。

  叫びたい。

  心のまま、全力で、電話の向こうのこの男に叫びたいと思った。

 しかしなけなしの理性で、それを食い止める。

 だが声が荒くなるのは防げない。




 「今、どういう状況が待っているのか。 理解できているんでしょうね、竜伊?」

 『分かってる冬未。 だが、これを超えなければ俺は何もしてはいけない。
  これは戒めなんだ。 自分が伸ばしに伸ばして、解決しなかった。
  だから、今やらないといけない』

 「それはアナタの事情でしょう!? 確かに大変なのは知ってるわよ! けど!」

 『落ち着け! お前が騒いでどうする!?』




  そういうアンタこそっ!

 言葉に出そうなそれを、無理やり飲み込む。

 これがどれだけ大変な事なのか、竜伊は知らない。

 それに冬未は愉悦を感じて、受話器を電話機に叩きつける。

  ―――――とても、とても、とても、この上無く、どうしようもなく―――

 ―――不愉快だ。















  優自身、真紀の家に来たのは初めてではない。

 真紀の家にはかなりの数のミスリル製品の武器などの、対魔対鬼装備が置いてある。

 それは元々、優が参加する前、つまり鬼殺しが無い頃に使っていた武器の名残だ。

 そして同時に日本刀を治すことが出来るのはこの場所しか優は知らなかった。

 優は自分の座っているテーブルの上に置かれたお茶を、一口のんでから鬼殺しを真紀に渡す。




 「………相変わらず、無茶な使い方をしますね」




  鬼殺しを受け取り、最初に彼女が呟いたのはそれである。

 実際、鬼殺しの刀身は酷いありさまであった。

 曲がっているのはなおのこと、欠けたり削れたりしている。

 ここまで酷いとはさすがに優も思っていなかったらしく、刀身を真紀から見せられて驚いた。

  優も認識しているが、刀は美しい。

 その刃の触るのも恐ろしい美しさが、よい刀にはある。

 それは鬼を斬れる刀には必ず有る物であった。

 しかし、今のこの刀にはそれが存在しない。

 まるで、死んでしまったかのように。




 「よくもまあ業物をここまで壊せるものですね」

 「好きでやるものか」

 「でも、壊れた事は正しいでしょう?」

 「む………」

 「むくれない、むくれない。 なぁ優?」




  顔を怒りに染めた優を、紗美は肩を叩きながらなだめた。

 優はそれを嫌い、すぐにその手を払う。

 紗美はすこしだけ驚いたが、気にせず自分のお茶を飲み干す。

 まだ入れたてで、かなり熱いはずのそれを気にせず紗美は飲みきった。

 彼女が人間で無いと知っていても、優は驚くしかない。

 それを横目に見た紗美はにやりと微笑んだ。




 「おいおい。 コレぐらいで驚くなよ」

 「普通驚くぞ」

 「普通? 何がだ。 俺にはコレが普通だぞ」

 「………俺にはびっくりな行動だよ」




  猫舌の優は、熱いお茶は飲めない。

 彼を前に美味そうにお茶を飲む紗美は確信犯だろう。

 それに苛立ちを覚え、優はやっと飲める温度に下がった茶を飲んだ。




 「で、直るのか?」

 「はぁ……… できますけど、時間はかかりますね。作り主に直してもらいます」




  作り主。

  それは真紀のみが知っている武器の作り主である。

 優と紗美はその人が作った武器を使っているが、本人に会ったことは一度も無い。

 そもそもいるかも分からないのである。




 「作り主? いるの、本当に」

 「………可笑しいことを言いますね」




  真紀は微笑んだ。

 まるで面白い事を聞いたように。

 その歪んだ亀裂のような笑みに、紗美も優も目を細めた。

 どうしても、ここらへんが信じられない。

 真紀は自分達には一線を引いて会話しているとしか思えないのだ。

 まるで怪談話を話す人のように。

  自分がそれを作り話だと知っているから、それを聞いて脅える他人が可笑しくてたまらないのだろう。

 そんな笑みを、真紀は浮かべていた。




 「いなければ武器なんて直せませんよ」

 「……………」

 「あれ? 私、変な事を言いましたか?」




  今度は普通の笑みを真紀は浮かべる。

 しかし優は複雑な心境であった。

 紗美はまだいい。

 彼女を信じていられる。

  だが自分は人なのだ。

 この中では、間違いなく最弱なんだ。

 そう知っているからこそ、真紀の笑みが信じられない。

 これなら人形の笑みと同じだ。

  真紀の笑みには、中身が無い。




 「あ、紗美さん。 そういえばそろそろ巌さんに言われた時間ですよ」

 「げぇ。 もうかよ!」

 「え………」




  真紀が唐突に言う。

 紗美はそれに時計を見て、驚いてから駆け出した。




 「紗美ぃ!?」

 「すまねぇ! 又な!」

 「ちょっと、まて―――」




  優の声も届かず、紗美が部屋から出て行った。

 瞬間、優も椅子から立ち上がり、走ろうとする。

 それを真紀の手が掴んで止めた。




 「どうしたんです?」

 「―――――!?」

 「可笑しい優殿」




  クスクスと微笑み、真紀はお茶を差し出した。

 優は心の中で強く叫ぶ恐怖を抑え、何とか席に座る。

 それは、自分の呼び方が変だったからだ。

 普通、クラスメイトの名前に『殿』などつけるはずが無い。




 「どうぞ。 粗茶ですけど」

 「あ、ああ。 ありがとう」




  自分の声が震えている。

 そう自覚していても、優にはそれを治せなかった。

 お茶を乾いた喉に無理やり流し込み、心臓が落ち着くのを待つ。

 それにはかなりの時間を有した。

 最低でも数十秒は。




 「………何で」

 「………?」

 「何で、あんな笑みをするんですか?」




  優はゆっくり強く、言った。

 聞こえなかった――― そんな言い訳が、出来ないように。

 それに対して、真紀は又、あの笑みを浮かべる。




 「そう、その笑みです」

 「………………」

 「その人形のような笑みを」




  優は鬼殺しを手に戻し、その柄に手をかけた。

 すぐにでもテーブルを蹴り飛ばし、刀を抜けるように力を込める。

 真紀は、笑みを止めた。

 代わりに表れた表情は困惑である。




 「イヤですか?」

 「当然」

 「……………本当に、呆れますね」

 「何がだよ!」

 「貴方のその、人の良さにですよ」

 「――――――え」




  軽い口調で真紀は言った。

 そして何か、金属音がする。

 ゆっくり振り返ってみてみると、それは地面に落ちた鬼殺しが見えた。

 そして優は呆然と、椅子から転げ落ちた。




 「――――――――!?」

 「信じれない人間が出すものに、そう簡単に口をつけたら、いけませんよ」




  真紀はそういって椅子から立ち上がり、鬼殺しを拾い上げる。

 優はその前に鬼殺しを持つべく手を伸ばしたが、腕は全く動いてくれない。

 それどころか、全身に骨が無くなったかのように、力が入らなくなっている。

 そんな優の様子を真紀は冷たく見下ろしていた。




 「特に飲み物には気をつけてください。 容易に薬物を混ぜる事ができますから。
  けど…………… そうですね。 この薬を教えてあげましょうか?」




  あの笑みを浮かべて、真紀は鬼殺しを優とは逆の方向へ放り投げた。

 動作があまりにも機械的で、それを見た優は無理にでも動けと体に念じる。

 だが、無駄だった。




 「単なる筋肉弛緩剤と、ある軽い精神薬ですよ。 ある意味、貴方にしか意味をもたない、ね」




  真紀らしからぬ冷たい声。

 優は消えていく自分の五感に背筋を凍らせた。




 「飲み物に入れるだけで毒になる物だって無数にあるのですよ?
  この家には薬品がたくさんあります。 普通の塗り薬だって危険なのに、毒だってこの家には常時されています。
  警戒するのはいいのですが、根本的に貴方は甘いのですね、本当に
  ―――――本当に、昔から………」




  まるで道徳を教えている先生のような声で言った。

 優だって警戒していた。

 だが、こんな直接的な行動にでるとは思ってもいなかった。

 真紀が、こんな事をするなんて。

  紗美の友人がするなんて。




 「大丈夫ですよ。 この記憶は残りませんから。 貴方には『無かった時間』になるんです。
  安心してください。紗美と貴方のお母様にはそれなりのごまかしはしてあげます」




  優はどんどん自分の意識が薄れていくのを自覚していた。

 必死に意識を現実に繋ぎ止めようとするが、努力はすべてから回りする。




 「おひさしぶりですね」



  最後に、真紀のその声だけが聞こえた。



















  「………ゲフゥ!」




  竜伊はいきなり咳き込んだ。

 物は試しと、アレフという友人が吸っていた「タバコ」をいう物を吸ってみたが、根本的に体質に合っていないらしい。

 最初の一回でアウトだ。




 「…………駄目だ。 吸えない………」




  普通の人間より、嗅覚が強い竜伊にタバコの煙は強すぎた。

 すこしの間意識を飛ばした後、タバコの火を消してゴミ箱へ捨てる。

 ゆっくり普通の空気を吸い、タバコを恨めしい目で見る。




 「俺には悪夢だ」




  そう呟き、問題のアンプルを取り出した。

 そして、思い出す。





 ―――竜伊。これは現象具現化の魔法を刻印された。 ………ただの水です。
 ――どういうことだ。
 ―――この世界とは別の世界の別の魔法。
 ―――その一つが鉄の魔法です
 ―――これは、現実に影響を与えるほどの強い幻想を生み出すことです。
 ―――人間を幻想に取り込む物なのですよ。
 ―――この水は、ただそれだけの物です。
 ――………で、その心は。
 ―――人を人で無くす薬です。
 ――何?
 ―――ある狂人が戦争に勝つために、作り出した、人間を兵器にするための薬。
 ―――まさに、狂気の産物です。






 「そんなのが撒かれているのか。 しかも、意図的に」




  竜伊はその事実にめまいを起こしそうだった。

  悪夢。

 幾度も自分の心を蝕んだアレが、今度は実体化しようとしている。

 頭がかなづちで殴られたかのように痛い。

 しかも途切れ途切れ激痛が襲ってくる。

 痛みに慣れることもできない。




 「………く…」




  まるで、呪いだ。

 この悪夢を消さなければ、この呪いは消えない。




 「………そこまで憎いか、おとね。 俺が」



  竜伊は呆然と呟いて、残ったタバコのケースを自分のバックに押し込んだ。

 痛む頭を抑えて、路地裏を出た。











 「ちわぁーす! およびされた紗美でーす」

 「もっと静かに入りなさい」





  紗美は自分が通っている学校の職員室に大声を出しながら入った。

 午後9時。

 すでに中学生が学校に入れる時間ではない。

 だが、紗美はその手に正面玄関の鍵を持っていた。

 間違いなくそのカギを使って入ってきたのだ。

 現に警報は鳴っていない。

 彼女がくるのは承知の事なのだ。




 「むぅ? もう巌以外いないんだろ。 なら問題なんて無いじゃねぇか」

 「そう言う事ではないでしょうが」


  岡島巌。

 この学校の先生である。

 担当科目は主に歴史と国語、たまに理科の授業に代理で出る事もある。

 生徒からの信頼もあつく、教師の中の信頼も高い。

 まさに非の打ち所が無い先生の鏡である。

 ………ただ一つを除いては。




 「肝っ玉が小さいぞ! それでも鬼か?」

 「………関係なんでしょう」




  そう、巌は人間ではない。

 鬼、そう呼ばれる生物である。

 唯単に、人間らしい。

 それだけの理由で人の味方をしている奇異な存在だ。




 「それにもうすこし冷静に物事をやりなさい。
  今度の通信簿に『もう少し落ち着きを持ちましょう』と書いてほしいのですか?」

 「うげ。 それはパス」

 「残念。 もう書いてしまったのに」

 「なにぃ――――!!!」

 「嘘です」

 「…………燃やすぞ」

 「出来ますか?」

 「できない」

 「なら言わないでください」

 「言わなきゃ駄目だろうが! この場合!」




  それだけ紗美の言い分を聞くと、巌は笑みを浮かべて湯気を立てたお茶を差し出した。

 それを受け取り、紗美はすこし飲む。。

 巌はそれを見届けてから、棚を空けて小さなアンプルを取り出した。

  アンプルには『封印指定 戦闘六課』と書かれたラベルが張られ、蝋で開かないように封印されている。

 見るからに怪しい。




 「何それ?」

 「んん―――― 劇薬」

 「………麻酔かなんかか?」

 「それならその方がよかったですね」




  けっこう知らない人がいるが、麻酔は全て劇薬指定がされている。

 使い方を間違えれば猛毒になるからだ。

 その方がいいとは、一体どんなものなのか。




 「水です。 成分的には」

 「んじゃ効果は違うと」

 「はい、実は……… 鬼です」

 「ふぁ?」

 「人間を鬼にする薬です」

 「ブッ!」

 「お茶を噴出さないでください」




  自分はそんなとんでもない事を言っているのに、そう呟いてからお茶を飲んだ。

 紗美はむせて一通り苦しんだ後、巌の顔に顔を近づけて言う。




 「何だよそれ!」

 「聞こえませんでしたか?」

 「ふざけるな! 大体、そんな物作れるワケが………」

 「忘れましたか」

 「―――!?」




  巌は笑みを浮かべた。

 紗美は目を細める。




 「魔法、か」

 「肉体干渉とすれば、紅に似ていますが………」

 「似ているなら違うんだろ?」

 「………とりあえず、これは個人で流されているようです。
  いろんな情報から、配っている人はすべて同じ人物と確認できました」

 「……………迷惑な奴もいたもんだ」

 「まったくです」




  巌はお茶を一口飲んだ。

 すでに外は暗い。

 しかし彼らの視力なら問題は無かった。




 「だがよ。 それでそうすればいい」

 「まあ、薬の方は知り合いが動いてくれますから心配は要らないでしょう。
  しかし問題の薬は多量、配られています。 それによる『敵』を倒してください」

 「知り合い? また、竜太か」

 「いいえ。 それよりなお、こう言う事には強い存在ですよ」













 「いない、か」




  竜伊は呆然とそのホテルの部屋を見つめた。

 薬を撒いていた奴が使っていたと分かった部屋。

 そこはすでにもぬけのからであった。

 髪の毛を書きながら、竜伊は部屋を観察した。

 ホテルとしては中の上ぐらいだ。

 それだけである。




 「………もう一度、調べなおしか」




  呟いてから、ホテルを出た。





  ホテルを出たところで、待っている人がいた。

 その蒼い髪を見て、竜伊は呆然と呟く。

 その女性の名前を。




 「冬未………」

 「いたら可笑しいのかしら? ア・ナ・タ」




  自分の妻がそこにいた。

 巨大なトランクを地面に置き、笑顔で佇んでいる。




 「なんで怒っている?」

 「三十分以上待っていればこうなるわよ。
  正確には貴方がココにいると聞いた時間だけど」

 「入ってくればよかろうに」

 「こんなホテルに? 独りで?」




  冬未が嫌な顔をして呟いた。

 そう、さっきまで竜伊が入っていたのはそういうホテルだ。

 実際こういったホテルは従業員と会わなくていい。

 冬未はそういう場所に独りで堂々と入る竜伊の精神を疑った。




 「そもそも! 下手したら優がいるかもしれない時間に電話するなんて―――」

 「日曜にやるよりはいいと思うが?」

 「確率の問題よ!」

 「戦六、動かせるか?」

 「もう動かしているわよ! 今日は学校とか言ってたけど今、捜索しているわ!」

 「………子供ばかりか」

 「は!?」

 「戦六のメンバーだ」

 「なら、さっさと司令に戻りなさい。 『黒雨竜伊』司令!?」




  冬未は人目を気にせず、叫んだ。

 普段、息子にも娘にも、そして部下の子供達にも出さないような怒りを込めた声であった。

 もし娘の舞が聞いていたら、泣き出すだろう。

 そんな声であった。

 だが、竜伊は涼しい顔でそれを受け流す。

 そして、一言だけ言った。




 「今は、いいや、これからも多分。 ずっと無理だろう」

 「もう貴方の事を覚えているのは彰人君と私だけです。
  綾香も彼も戦六を去っていきました。
  だから、もういいでしょう。 お願いです。
  あの子も、許してくれますよ………」

 「………………………………………」




  竜伊は何も言わない。

 それだけ言って、冬未は口を閉じた。

 この状態の竜伊には万の言葉でも意味を持たない。

 それを知っているからである。

  そして、奇妙な事に気づき横路地を見た。

 一匹の犬が歩いてくる。




 「――――?」




  しかし、変だった。

 野良犬が人に向かって歩いてくる。

 それだけでも奇妙なのに、その犬は病人のように右や左にふらふらと揺れていた。

 挙句、声一つも上げない。

  その異常さに気づいたのか、竜伊はコートの中からハンドガンを取りだした。

 既に戦闘態勢に入っている。

 冬未も持ってきたグルカナイフを引き抜いた。




 「―――来るな」




  竜伊が言った。

 十分に殺気を載せた言葉である。

 普通なら脅えて逃げていくはずだ。

 ―――なのにその犬の歩みは止まらない。

 むしろその速度が速まった気がする。

 何かにせかされたように。

  ―――そして、犬は竜伊と冬未の前まで来ると。

 ――白眼を剥いた。




 「――――?!」

 「―――っ!」




  瞬間―――

 犬は爆発、四散、爆砕した。






  このとき、彼らに向けられた刺客『犠牲(サクリファイス)』の攻撃は始まっていたのである。
























  ここは、何処だ?

  最初に眼を覚ました優が思ったのはそれだった。

 自分の部屋である事は、優にもすぐに分かった。

 本棚が部屋の壁一つを埋めているなど、自分の部屋以外にはありえないからである。

 しかしそれ以上に優は頭痛が苦しかった。

 世界がゆがんで感じるほど、苦しい。




 (―――何か、変なものでも食ったのか?)




  そう思い、優は自分の朝と昼の食事を思い出す。

 朝は白米のご飯一杯とアジの開き。

 昼はお弁当、共に母が作ったものだ。

 こんな事が起きるわけが無い。

 なら、なんなのだ?




 (分からない。 ―――なんで? 学校が終わった後、何をしたんだ!?)




  そう、それだけが思い出せなかった。

 優は自分の記憶力はそれなりだと思っている。

 それなのに、思い出せないのだ。

 学校が終わったまでは覚えている。

 それ以降が、全く、何一つ思い出せない。

 何時、学校が終わったのか、それすらも思い出せない。




 「――――― なんで!? 何故――」

 「………おにいちゃん」




  その小さな声に、優は部屋の入り口を見た。

 小さな女の子がそこにいた。




 「舞………」

 「お兄ちゃん。 大丈夫?」

 「ん、あ、あぁ………」




  みっともない。

  優はそう思って恥ずかしかった。

  きっと家に帰るのに、何も考えず歩いてきただけだ。

 そう決め付けて、優は無視する事にした。

 すでにそういう事が数回起きている。

 記憶が無くなるのは、よくある事だ。

  優は無理やり、そう決め付けた。




 「………何か、薬持ってくる?」

 「いや、いいよ。 問題は無いからさ」




  大嘘をつく。

 優は今も異常なほど体が重く、頭もぼんやりしていた。

 まるで合わない薬をつかったかのように。

 しかし優には薬を使った覚えが無く、このような状態の原因は分からない。

 その上、優の頭は寝起きのようにぼんやりとしか動いておらず、まともな思考が出来るほど回復していなかった。

  ―――よく考えれば、消えていない記憶で紗美が真紀の家に一緒に行こう、と言っていた事があったのに。




 「ところでお母さんは?」

 「今日は仕事が遅れるから、適当にやっておいて、だって」




  舞は抑制も無く冬未の伝言を言った。

 感情が無いわけではないが、その起伏が余りにも小さい。

  優が踏み入る問題では無いかもしれないが、優はそれが余りにも心配だった。

 これが致命的にならなければいいが―――




 「そっか。 どうする? チャーハン程度なら作れるけど」

 「………肉を少なめで」

 「分かった」




  舞は肉が嫌いである。

 理由は自分でも分からないらしいが、肉は全く食べない。

 少なめと言ってはいるが、実際は一口を食べないだろう。

 優はそう思いながら、台所へと向かった。





















 「さてと冬未。 これは攻撃だな」

 「みりゃわかるでしょうが!?」




  冬未と竜伊はホテルの駐車場で車を背にして警戒を続けていた。

 あの犬の爆発はそれなりの物だったが、回避する事はできる。

 避けて二人はここへと入り込んだのだった。




 「犬が爆発。 電子レンジでも使ったのか」

 「それは卵でしょうが。 魔術か異能よこれは!」




  魔術とは特定のルールに従い、世界をゆがめる力。

 異能とは生物学的にはありえない力を持つ特異な能力。

 どちらも該当する。




 「爆発……… 火薬を使ったようだったわ。 生き物ではあんな事できない」

 「しかし現にそれはおきた。 これは異能だ、魔術士ならもっと致命的な攻撃をする」

 「貴方も魔術士だから?」

 「その問いには『はい』と答えよう」




  ハンドガンの弾丸をより殺傷力の強い物に変えてから、竜伊はサングラスをかけた。

 魔術刻印を成され、暗視ゴーグルと同じ作用を与えられた特殊な装備である。

 竜伊は目を細め、口を笑みに浮かべた。




 「そして敵は化物、こっちも化物。 勝てなければ、死だ」

 「………護神を用意してあるわ。 彰人が車で運んで」

 「壊れてはしねぇか?」

 「すこしは改善させたわよ」

 「だといいが――― またか」




  今度も犬だ。

 どうせ、さっきと同じ野良犬だろう。

 それがさっきの犬のような動きでやってくる。

 それを確認してから、竜伊は呑気にあくびを出した。




 「撃ったらどうなると思う?」

 「逃げたほうがいいと思うわ」

 「同感だ、行くぞ!」




  叫び、竜伊は非常口へと走り出した。

 犬が白眼をむいて竜伊へと駆け出す。

 それを冬未がナイフを投げてけん制した。

 竜伊はその隙の内に非常口を撃ち抜き脱出する。

 犬は冬未の方を振り向くが、冬未もいなくなっていた。












  竜伊は非常口の階段を駆け上がっている。

 持っているハンドガンの弾数は6、予備は10発も無い。

 そんな物でどうすればいいのか………




 (それを考えるのは自分、か)




  竜伊はハンドガンを両手で下向きに構えつつ、踊り場で立ち止まった。

 いきなりの急激な運動で、竜伊は息を切らしている。

 ここで体力を回復させなければいけない。

 すぐに回復できるとは言え、この隙は大きい。

 それゆえに意識を研ぎ澄まし、竜伊は警戒している。

 肌でこの暗闇の中の、小さく弱い風の動きすら感知できた。

 この状態なら致死距離まで敵が近づく確率は零だ。

  ………昔から、竜伊は自分の死ぬ距離が理解できた。

 正確には相手の自分を殺せる距離である。

 どんな武器を使用しても、その武器には使える距離が存在している。

 銃器でも剣でも魔法でも、自分の距離に入らなければ意味は無い。

 魔法だって下手をすれば自分を巻き込んでしまう。

 強力な魔法や魔術ほど、綿密な計算と緻密な構成を必要とする。

 それを即座に構成できる存在はいない。

 その距離を理解すれば、これぐらいの余裕はできる。




 「………生き物を媒介にした発火現象か……… いや違う」




  生き物は『爆発』したのだ。

 決して発火したわけではない。




 「爆発……… 深緑、の魔法か………ならもっと単純な攻撃になる」




  そう、これはまるで―――




 「犠牲、か」




  他の生き物を、敵を倒すためならばいくら犠牲になっても関係ない。

 そんな意思を感じる攻撃だった。

 正確さなど無く、当たれば幸運。

 狂っているとしか思えない攻撃方法。

 しかしのところ、このタイプはかなり厄介である。

 正確さが無いという事は、かなりの遠距離からも実行できるという事だ。

  そしてこのタイプの攻撃を行う者は、とても慎重でもある。

 こちらに居場所を教えるようなヘマはしないはず。

 直接攻撃が無いと言うのは、厄介だ。

  そこまで考えて、竜伊は上を向いた。

 そして空に浮かぶ黒い何かを見つけて、ため息をつく。




 「もう次かよ。 休み暇なし、か」


  空から、一羽のカラスが降下してきていた。

 いや、羽ばたきなどしない自由落下である。

 全羽、竜伊のいる非常階段へと落ちてくる。

 無造作に拳銃で打ち落とそうとしたが、それでは花火を打ち上げるようなものだときづく。

 人が集まれば、敵の爆弾もそれと同じ数増える。

 それだけはいろいろな意味で避けたい。




 「ちぃ………」




  ―――やるしかない。

 自己否定の、竜伊の魔術の切り札たる『現象否定』を。

 カラスに無造作に竜伊は拳銃の銃口をあわせた。

 15年前……… 白銀との戦いで気づいた自分の魔術の弱点。

 それは自分しか守れないと言うことだった。

 確かに自分に与えられる全ての影響を無力化できる自己否定は、防御としては最強の部類に入るだろう。

 だがそれが有効なのは自分だけで仲間を守る事はできないのである。

 それを克服するために、6年がけで構成を作り、実際に使用して調節し10年で完成させたこの魔術があるのだ。




 「………『爆発』を否定するッ」




  限界まで集中する。

 まだかなりの高さがあるカラスに、焦点が合う。

 そして構成を心に刻み込む。

 もっとも分かっている自分への魔術ではない。

 他の存在への魔術は竜伊にとってまだ苦手な分野に位置する。

 それでも、失敗は許されない。

  ―――引き金を引いた。

 放たれた弾丸がカラスを粉砕する。

 爆発―――しなかった。

 いや、爆発という現象そのものが竜伊により『否定』されたのである。

  自己否定の応用。

 他人の能力を否定させるという荒業だ。

 失敗すれば爆発していた。

  本来、魔術は複数所持できるが、魔術士が一つの魔法を好むのは理由がある。

 新しい魔術の開発は時間がかかりすぎるのだ。

 複数の魔術は同時に使えないという制約が存在する。

 それは構成一つ一つが魔法ほど適応力が高くなく、簡単な状況の変化にも対応できないからだ。

 それゆえに常に演算し、魔術を状況に合わせて最適化する。

 複数の魔術を保有するのは、人間の脳容量では不可能なのだ。

 人間では無い魔術士、竜伊だからこその魔術複数所持なのである。

 しかし、複雑すぎる魔術の反動で、竜伊は頭痛を覚え階段の踊り場にひざをつけた。




 「冬未……… 大丈夫か…な?……」




  そう言ってみて、思わず竜伊は笑ってしまった。

 彼女は自分よりこういう状況には強い、それを竜伊は思い出した。













 「全く、いきなりの攻撃なんて酷いわよね。 服にすこし汚れがついたわ」




  ズボンの汚れを手で叩き落としながら、冬未は最初に攻撃を受けた場所へと帰ってきた。

 ここに来るまでに、数体の攻撃を受けたが、服に汚れはあるもののケガは無い。

 間違いなく冬未は、竜伊より危機回避能力が高かった。




 「それにひさしぶりの夫婦再会に水をさすなんて、どこのどなたさまかしら。
  デリカシーが無いわ、全く」




  弾を撃ち尽くしたグロック19をしまい、透明化して隠れていた護神を引き抜いた。

 最初の爆発は、この護神の影に隠れてしのいだのだ。


 『で、私に何を言えと?』

 「愚痴よ、何も言わないでいいわ護神」




##############################################################

 護神脳内ネットワーク接続
 … … …
 精神回路開放
 同調率99.36%
 システムオールグリーン

##############################################################




 「行けるわね。 システムは『Y−3111』を解凍。
  室内限定出力、全く、めんどくさいわ」


  護神を軽々と担ぎ、冬未はもう一度ビル内に進入した。

 とたんに三体の犬が襲ってくる。




 ―――全エントロピー消失
 ――――アブリソートゼロ




 「凍りつきなさい」




  一瞬で犬たちは氷の彫像となった。

 全身の、ありとあらゆる熱を奪われ瞬間凍結されたのだ。

 護神にとって、この程度の事などたやすい事である。




 「やっぱり凍結技は便利。
  こんなところで火炎を出すわけにはいかないし、ね」

 『演算素子に劣化発生。出力98%に低下。
  今度暇があればフルメンテナンスをしたいのだが?』

 「ええ、そうね。後で」




  冬未は護神を撫でる。

 鋼鉄の演算機械はそれに何も見出せなかった。

  かなり昔から護神は冬未と行動を共にしてきた。

 だが今になっても彼女の考えを一切理解できない。

 自分がデータとして集めてきた人間のパターンと、あまりにもかけ離れている。

  情報は情報と割り切っても、ここまで違うとむしろ面白い。

 ―――自分はもしかしたら、彼女と行動を共にして楽しんでいるのかもしれない。

 ―――――機械に過ぎない自分が? 単なる演算装置に過ぎない、鉄の塊が?

 ―――馬鹿馬鹿しい。




 『―――動体反応感知、敵増援接近中』

 「はは、馬鹿ねぇ。 数で押せば勝てる手でも思っているの?」




  護神を構え、冬未は不敵に微笑んだ。

 今は荒神錬、荒神舞の母ではなく――― 戦闘六課司令『荒神冬未』だ。




 「戦闘の基本は火力よ――― 思い知らせてやりましょう!」

 『YES、絶対の戦力差というものを刻み込んで震えさせ、震撼させてくれよう』




  絶対零度の舞が始まる―――――













 「退け―――ッ!」




  迫り来る猛獣達を、時には銃撃で、時には拳で薙ぎ払いながら竜伊は疾走する。

 目的地は、無い―――

 走り続けていればいつか敵の攻撃有効範囲を抜ける。

 そうすれば術者の大体の位置が分かるはずだった。

 しかし―――




 (くそ……… どこまで手勢を持っている!?)




  敵の攻撃が一瞬たりとも止まない。

 無尽蔵といえるほど、『爆弾』や『兵隊』が襲い掛かってくる。

 既に弾丸の残りも少なく、拳で払える敵にも限界がある。

 その内、殺られてしまう。




 (何処だ、敵は、何処だ。 何処だ―――!)




  足が、震える。

 そのとき、『敵』の動きが変化した。

 直接竜伊を狙わず、彼の周りを囲み始める。

  ―――しまった。

  『敵』の目的が分かった時、既に回避は不可能だった。

 『敵』はこのまま爆発し、竜伊を焼く気だ。

  ―――『自己否定』でかわすしか無い!

 そして術を放とうとした時、それは起きた。

  周囲を囲んでいた『敵』が次々と倒れていく。

 銃声は後から鳴り響いた。

 その音速を超えた弾丸を、銃声を竜伊は知っている。




 「『ウィリアム・シェイクスピア』!?」




  通信機が空から落ちてきた。

 それを手に取り、竜伊は耳に当てる。

  予想通りの声が聞こえてきた。




 『司令――― おひさしぶりですね』

 「彰人か……… 本当に、久しぶりだな」

 『話はすばやく済ませますよ?
  何度も何度も道を行き返りしている怪しい奴がいましたので調べたら案の定でした。
  その術者は表通りを堂々と歩いています』

 「おいおい、どうすんだ一体?」

 『既に手はうっています、司令はこれから言うポイントへ向かってください』

 「手際がいいな」

 『教師がよかったんですよ』

 「………頼むぞ」




  通信機を投げ捨て、自己否定を開始した。

 世界からの消滅を目隠しにして、獣達の包囲網を飛び越える。

 そして指定された場所へと駆け出した。













  いつの間にか口笛を吹いていた。

 自分の手を汚さず、自分の身を危険にさらす事なく、全てが終わる。

 男はこの力をくれた少年に感謝した。

 そしてこの仕事を終わらせれば、一生遊んで暮らせるほどの大金が手に入る。

 全てがいい感じに回っている――― だから楽しくて口笛を吹く。

  彼は気づいていない、自分の周囲をいつの間にか数人の少年と少女が囲んでいる事を。

 さらにその少年達が、自分を滅ぼせる存在であることを。




 「―――最高だ」

 「へぇ、それはよかったね」




  つぶやいた男の言葉に、少年の一人が言葉を返した。

 絶句して思わずその少年を見る。

 その少年は、笑っていた。




 「やっちまえ雄途!」

 「『押せ』!」




  黒い衝撃が男を路地裏に叩き込んだ。

 ―――何がおきている!?

 一瞬で危険などあるはずが無い傍観者から、彼は裁きを待つ咎人へと叩き込まれた。

  路地裏に叩き込まれて、男は絶句する。

 路地裏には、竜伊がナイフを片手に待っていた。



 「よ――― 始めまして」

 「――――――馬鹿な!?」




  男は悲鳴のような声を出して、竜伊に背中を向け駆け出した。

 一刻も早く、遠くへ行かなければ。

 だが、路地裏の入り口をさっきの少年がふさいでいた。

 一瞬男は力任せに突破しようとしたが、彼の能力に気づき足を止める。

  自分とは格が違う―――――




 「全く、『犠牲』 貴様ごときが力を使うべきじゃないんだよ」




  忌々しげに少年が呟いた。

  彼は―――黒雨雄途は自分の持つ力により苦しんできた。

 そんな彼にとって力を単なる便利な道具と使う人間など憎しみの対象でしかない。

 ましてや誇りも何も無く、ただ自分の欲のために使う者は決して許せない存在だった。

  雄途の手に、漆黒の剣が現れる。

 その剣は主の怒りを受け、憤怒に身を震わせている。

  『犠牲』に逃げ道は無い。

 『駒』を使おうにも、爆破しかできないので自分まで巻き込む可能性がある。

  ―――お前は見つかってはいけない。

 力をくれた少年の言葉の意味を今頃、男は理解した。

  見つかってしまえば『犠牲』の力など、何の役にも立たない―――




  (いやだ……… こんなところで―――   あ)




  その時、いいアイデアが男の脳裏に浮かんだ。













  少年は笑みながら『犠牲』の惨めな姿を見ていた。

 場所は先ほど竜伊がいたホテルの屋上。

 『クリス』と呼ばれる人外。

  彼は世界者と呼ばれる忌々しいバケモノである。

 金髪の少年だが、その髪は光を受けていないのに闇の中輝いている。

 異様に長い白いマントを風に揺らせて、忌々しい笑みを浮かべていた。




 「全く、三流だと思っていましたが――― これではそれ以下の話ですね」




  わざとらしく呆れて見せてから、『クリス』は親指と中指を弾いた。

 その音を合図にしたかのように、異形が『クリス』の前に現れた。

  一言で言えばそれは蜘蛛。

 四本の手と二本の足をコックリートの壁に着け、鬼の頭部を『クリス』に向けている。




 「まあせっかくの成功作である君を此処で失うのは勿体無いけど―――
 『犠牲』が捕まって私の事が黒鬼に知られるのは不味い―――」




  『蜘蛛』が動いた―――













  『犠牲』は慌てふためきながら叫んだ。




 「く、来るな――― 表通りで無差別に『爆弾』を爆破させるぞ!」

 「――――――何?」




  しめた――― と『犠牲』は思う。

 表通りにいる一般人を人質にすれば、逃げる事ぐらいはできると感じた。

 だが、竜伊はそれを聞くと目つきを変える。




 「仕方ないな……… 雄途」

 「待ってました」




  その会話を聞いた瞬間、『犠牲』は言ってはいけない事を言ったのだと気づいた。

 自分自身の手で自分の生存への道を壊してしまったのである。

 それに絶句し、死の恐怖で『犠牲』の思考は真っ白になった。

  その時だった、何かが動く音が聞こえてきたのは。




 「何だ―――!?」

 「雄途下がれ―――!」




  竜伊の言葉に反射的に後ろにさがる雄途。

 その直後、さきほどまで雄途が居たところに異形が落ちてきた。

  一瞬それを竜伊は巨大な蜘蛛だと思った。

 しかしその体はアンプルで産まれた鬼特有のものである。

  関節が奇妙なほど大きく、代わりに腕自身は太くない。

 しかしその腕も成人男性のそれを上回っていた。

 それは下級の鬼としてはよくある特徴である。

  問題はその腕の数だ。

 左右に二本ずつ、つまり四本も腕は存在していた。

 普通に二本ある足とあわせて、まるでその姿は蜘蛛を思わせる。

  蜘蛛は雄途をにらみつけてから左右を見渡した。

 そして『犠牲』の姿を確認すると彼を二本の腕で捕まえる。




 「ひ―――――」


 

  『犠牲』は蜘蛛に捕まり、その皮膚の異様な感触に悲鳴を上げようとする。

 悲鳴を出しかけた口を、蜘蛛は残った第二の右腕で塞ぐ。

 そして、蜘蛛は竜伊を見て、笑った。




 「く―――――」




  竜伊はナイフを片手に蜘蛛へと飛び掛っていった。

 しかし彼が飛び掛るよりも早く、蜘蛛は壁を登り始める。

 二本の足と一本の左腕を壁に突き立て、とんでもない速さで壁を登っていく。

 その姿を見て、竜伊はナイフを放り捨てた。




 「司令、何を?」

 「アレは『特別製』だろうな……… すまないがお前達は残った『爆弾』と『兵隊』を処理してくれ」

 「司令はどうするのですか?」

 「追いかける」

 「追いかけるって―――」

 「後は頼むぞ」




  瞬間、竜伊は雄途の視界から消え去った。

 それに驚き上を見ると、壁を蹴って駆け上がっていく竜伊の姿を見つけた。

 蜘蛛は竜伊が追っているのに気づき、壁を登る速度を上げる。

 そして竜伊が追いつくよりも早く屋上に出た。













  『犠牲』は悲鳴こそ上げかけたものの、死への恐怖は無かった。

 あの少年が助けを出してくれたと思ったのである。

 現に証拠を隠すならその場で殺せばよかったものを、あの場から蜘蛛は『犠牲』を助け出した。

 その上―――

  蜘蛛は屋上に出ると『犠牲』を開放する。

 そして『犠牲』の手に小さなアンプルを握らせた。

 普通のアンプルとは色が違うそれは、間違いなく『犠牲』に力を与えた特別製の物である。

  『犠牲』は嬉々としてそのアンプルを飲み干した。

 彼はその薬を飲んだ時の感覚を思い出し、興奮に身を震わせる。

  彼は気づくべきだった――― 蜘蛛がアンプルを飲む『犠牲』を見て笑っていた事に。

 そしてその薬は彼の使った物を何倍にも濃く、強くしたまさに『特別製』である事に。

  そして変化は始まった。

 突然、何かが裂ける様な嫌な音が『犠牲』の両腕から出る。

 その音に驚き彼が腕を見ると――― 人間の腕が裂けて、その下から異形の腕が姿を現した。

  裂けた人間の腕から血を溢れさせ、その異形の腕は血に染まっていく。

 異様なほど指と爪が大きく、腕自体の太さも人間のそれを超えている。

 人間の腕が裂ければ激痛があるはずなのに、『犠牲』には何一つの痛みも無い。

 恐怖に身を震わせながら、『犠牲』はゆっくりと指を動かした。

 彼が思ったとおりに、その異形の腕は動く。

  ―――その腕こそが、『犠牲』の腕に他ならない。




 「―――――――――!?!?!?」




  その時、竜伊が屋上へと辿り着いた。

 竜伊が『犠牲』を見つけると同時に、『犠牲』の額を突き破って巨大な角が生えた。

  ―――竜伊はその変化を何か知っている。

 それは鬼化と呼ばれる、鬼へと変化する様子に酷似していた。

  『犠牲』の体は次々と内側からの内圧に負けて引き裂け、血を流しながら異形の身に化していく。

 どう見てもその変化の先から、人間に戻れるとは到底思えなかった。




 「餓―――――アァアアアアア!!」




  既に『犠牲』の声に理性の色は無い。

 手負いの獣じみた純粋な敵意と殺意を竜伊へと叩きつけてくる。




 (これで役立たずを始末できた上に、また道具として使用できる、か。
  ―――敵さんはよほど、性根が腐っているらしいな!)




  竜伊はまだ姿見えぬ敵に抑えきれない殺意を覚えた。

  蜘蛛がギリギリと威嚇の声を出しながら、竜伊をにらみつける。

 犠牲が鬼化を終えて、歓喜の咆哮を上げた。

 それを合図に蜘蛛が竜伊へと駆け出していく。

  思わず絶句するほどの速度で竜伊との間合いを詰めて、その第一の右拳で殴りかかる。

 熊も簡単に撲殺できそうなその拳は、竜伊の左手でいとも簡単に受け止められていた。

 そのまま竜伊が左手に力を込めると、蜘蛛の拳は粉砕された。

  大量の血液と潰された肉が飛び散り、蜘蛛は痛みに甲高い悲鳴を上げる。




 「五月蝿いぞ、すこし黙っていろ」




  竜伊が右腕を高々と天に伸ばす、それを合図に右腕の変化が始まった。

 全体が三つ周りほど大きくなり、皮膚が黒く染まりながら硬化していく。

 爪が伸びてその硬度を増し、より鋭く鋭利に変形する。

  その腕は間違いなく、鬼の腕となっていた。

 鬼化したその手を握り締め、蜘蛛を殴りつける。

 竜伊の攻撃を蜘蛛は二本の左腕で防ごうとするが、竜伊の拳はそれすらを超えて蜘蛛の顔面を捉える。

  左腕を叩き折られた上に顔面の左半分を破壊され、蜘蛛は地面に倒れこんだ。

 蜘蛛の打撃などお話にならない、格上の力。

  竜伊は右腕を振るい蜘蛛にとどめをさそうとする。

 その時、犠牲が動いた。

 高々と飛び上がり、その拳で竜伊を殴りつけようとする。

 竜伊はそれを受け止めず、勘に従って回避行動を取った。

 しかし犠牲の攻撃は止まらず、勢いのままに倒れている蜘蛛へと叩き込まれる。

 そのたった一回の攻撃で蜘蛛はバラバラになってしまった。




 「とんでもない馬鹿力だな………」




  竜伊は戦慄に身を震わせる。

 だがその戦慄は犠牲の腕力だけのものではない。

  犠牲の振るった右腕は壊れていた。

 自分の行使した力に耐えられず、自分の腕が壊れてしまったのだ。

 自分自身すら耐える事の出来ない力、それは生き物として何か根本的に間違っている。

  もう、生き物では無いのだ。




 「―――来いよ、お前の相手は俺だ」




  竜伊は右腕についた血を振り払い、軽く笑みを含んだ声で宣言する。

 犠牲はその挑発に対し咆哮と攻撃で答えた。

  異常なほど高い再生能力で修復された右腕を、また限界を超えた力で振るう。

 振るわれた手を足場にし、竜伊は人外の跳躍で攻撃を避けて犠牲を通り越して着地した。

 犠牲は振り返るよりも早く、右腕を手刀にして犠牲の背中に突き立てる。

  大量の赤黒い血が噴出した。

 だが犠牲はそれを気にも留めず、竜伊へと左腕を向ける。

 ―――とっさに竜伊は自己否定を行った。

  もし自己否定が遅れていれば竜伊は串刺しになっていただろう。

 犠牲の攻撃はとんでもないものであった。

 鉄杭のように太く尖った骨が腕を突き破り、パイルバンカーのように射出されたのである。

 血が、自身の一撃で出来た傷口より噴出した。

  犠牲の名の通りこの怪物の攻撃は、全て自分自身を犠牲にして行われるのだ。




 (こんなバケモノに、なりたくてなったわけじゃあるまいに)




  竜伊は目の前の怪物に深い哀れみを覚える。

 しかしもう誰にも、彼を元の人間へ戻す事は出来ない。

 できる事は唯一つ、少しでも早く葬ってやる事だけだ。

  竜伊の左腕が右腕のように変化を始める。

 瞬き数回のうちに左腕も変化を完了した。

  変化した巨大な左腕でコンクリートの地面を叩きつけ、竜伊は跳ねる。

 犠牲は空高く舞い上がった竜伊を見て、顔を笑みに歪めていく。

 下りてきたところを、骨のパイルバンカーで狙うつもりなのだろう。

 宙に居ては回避行動は取れない、竜伊の愚かさを犠牲は笑いながら骨の杭を放った。

  夜でも犠牲がよく竜伊を見ていれば気づいただろう。

 竜伊はとても楽しそうな笑みを浮かべていた。

  ―――読みが浅かったのは犠牲の方であった。

  骨の杭は竜伊の体を『通り抜け』た。

 自己否定による回避行動である。

 一瞬だけ犠牲の反応は遅れてしまう。

 その一瞬で竜伊は自己否定を解除、強烈な一撃を犠牲の脳天に叩き込んだ。

  一撃で犠牲の頭部は粉砕されてしまった。

 地面に倒れ付してから、ゆっくりその頭部より血を流し始める。

 もう二度と動く事は無い。

  竜伊は深呼吸してから自分の両腕を人間のものへと戻す。

 変化した腕と人間の腕の感覚の違いに眩暈を覚えて、竜伊は座り込んだ。

  竜伊は人でも、鬼でも無い。

 人と鬼の間に産まれる子供、鬼人でも無い。

 鬼としての性質を持ちながらも完全な鬼化はできず、腕や足といった体の一部しか変化させられない。

 人としての性質も持っており、鬼では使えないはずの魔術を使う事ができる。

  鬼でも人でも、鬼人でもない中途半端な存在、それが荒神竜伊なのだ。




 「すまないな冬未、俺はやる事がある…」




  今頃、戦闘六課のメンバーはこの屋上へと急いでいるだろう。

 彼らが来るよりも早く此処から離れないといけない。

 これから竜伊が会おうと考えている人物は、絶対に戦闘六課に会わせてはいけないのだ。

  竜伊は足を鬼化させると跳躍した。

 そのままとなりのビルの屋上に着地し、また跳躍する。

 着地した屋上には、冬未が待っていた。




 「もう行く気なの?」




  護神の上に座り、荒神冬未は小さな声で言う。

 竜伊はその声の儚さに足を止める。

 いまさら自分が愚か者であることを、竜伊は見せ付けられていた。




 「すまない……… 優と舞を、頼む」

 「何時の日か、堂々と、優と舞に会いなさい。 それで半分は許してあげるわ」

 「残り半分は?」

 「用事が終わった後の人生を、私と共に生きなさい。 それで全部」

 「分かった、全力を尽くそう」




  竜伊はもう一度跳躍して冬未の前から消えた。

 竜伊の背中が見えなくなっても、冬未はすこしの間、虚空を見続ける。

  オトネに深い嫉妬を覚えて、彼女は下唇をかんだ。























 「はァアアアアアアアアアア!」




  優が雄叫びと共に繰り出した一撃は、蛙のような姿をした異形の喉に命中した。

 薄汚れた毒々しい血が飛び散り、断末魔の声が木霊する。

  鬼殺しはその穢れを浴びて、その真紅の輝きを薄れさせる。

 鬼などの人外の生物を殺すために作られた武器でありながら、鬼殺しはその血に弱い。

 より強力な鬼殺しほど穢れに弱く、数回斬りつけるだけでその力を失ってしまう。

 それは荒神優の持つ鬼殺し六号と言えど例外ではない。

  30回、それが鬼殺し六号が穢れに耐えられる限界だ。

 その内の6回を使用し、蛙の姿をした鬼を滅したのである。

  蛙の鬼はその姿通りの跳躍能力を持っていたが、紗美と真紀によりその能力を生かせない廃墟の中に追い込まれてしまった。

 その後に廃墟にて待ち伏せていた優により倒されたのだ。




 「たく、力だけは一人前なのにそれを使う知能が無いんだよな。 こいつら」

 「おかげで楽に倒せたんだからよかったと思えよ」

 「まあそうなんだけどなぁ」

 「雑談をする前に後始末をしておきましょう」

 「そうだよな、頼むぜ真紀」

 「頼まれました」




  真紀は火の力を込めた呪札を数枚、蛙の上に置いた。

 それに力を込めようとした時に異変は起きる。

 死んだと思っていた蛙が跳ね起きたのだ。

 真紀はその突然の動きに反応する事ができない。

 呆けたような顔をして、自分を殴り殺そうとする蛙を見ていた。

  ―――とっさに動いたのは優だった。

  優は真紀と蛙の間に飛び込み、蛙の拳を鬼殺しで受け止める。

 だがそれでも防ぎきれず、優は地面へと叩きつけられ気絶してしまった。

 鬼殺しは優の手から離れ、地面へと落ちてしまう。

 蛙は地面に落ちた鬼殺しを見てから、気絶した優を捕まえて歪んだ笑みを浮かべた。




 「ヒトジチ………… ケケケケケケケケッケケッケケッケッケケ」

 「くそ―――! 馬鹿が」




  紗美が火で槍を作り、それを投げようとすると蛙は優を紗美へと向けた。

 蛙は優を盾にするつもりなのだ。

 紗美はそれに動揺してしまい、集中力を欠いた火の槍は飛散してしまう。

 その隙に蛙は優を抱えたまま逃げ去った。




 「待て―――――!」




  紗美と真紀は急いで追いかけるが、屋外で蛙に追いつけるとは到底、思えなかった。













  特別製『蛙』は自分の任務を果たして、疑問を感じていた。

 主の命令は、今自分が捕らえている少年を主の下へ運ぶ事である。

 5回まで生き返ることができる能力を使い、死んだふりをしてまで捕らえたのだ。

 何としても主の下へ運ばないといけない。

  ―――しかし何故、この少年なんだろう?

  蛙はそれを疑問に思う。

 たしかに鬼殺しを使えるのは脅威だが、別にそれならば鬼殺しを奪い取ればいい。

 なのに、何故『鬼殺しを壊してはならない』のだろう。

 そしてもっとも奇妙なのは『鬼殺しと少年を別々にする事』が必要なのだろう。

 疑問が次々と頭に浮かび蛙は足を止めた。

  その瞬間だった。

  突然、蛙の背中から手が生えた。

 別に普通の手である、爪も伸びていなく、鬼のように硬質化もしていない。

 それゆえに、その手は現実を壊す幻想を思わせた。

 ―――蛙の腹から背中までを、その手は貫通したのだ。




 「―――――――――――!?」




  蛙は突然襲い掛かってきた激痛に声も出ない。

 次に蛙の右腕が引き裂かれ、捉えていた少年ごと地面に落ちる。

 手が蛙から引き抜かれ、大量の血がそれを追って溢れ出した。

  いつの間にか地面に落ちたはずの少年はいなくなっていた。

 代わりに、その怪物は目の前にいた。

  パッと見れば、さきほどの少年によく似ている。

 だがその髪が血色をしており、地面に着きそうなほど長い。

 爪が異常に伸びており、その手は蛙の血で汚れている。

 そして髪の間からのぞくその瞳は、ぞっとするほど冷たく赤色に輝いていた。

  こんな恐ろしい存在が、人間のわけが無かった。




 「散々遊んでくれたな、糞蛙」




  自分の手についた血を舐めとり、怪物は愉しそうに笑った。

 怪物は蛙など話にもならない鬼気を放っている。

 それに中てられて、近くにあった花々が枯れた。




 「はは、あははは、あ――――ははははははははははははははは!!!
  愉快だ、実に愉快だ。 血は不味いが――― 久しぶりの殺し合いだ、楽しませろよなぁええ蛙!!」




  蛙は攻撃の姿勢に、恐怖に震えながらも移行した。

 蛙には逃げ切れる自身が、何一つも無かった。

  目の前の怪物は、もし蛙が逃げようとすれば遊びをやめ、一瞬で蛙を殺すだろう。

 そう、たとえ蛙が死力をつくしても、目の前の怪物にとっては一瞬で潰せる矮小な存在に過ぎないのだ。

  ガタガタ震える蛙の姿を見て、怪物はより笑みを深めた。




 「さて、先ほど一回死んだから、お前は生き返りの能力を持っているんだろうな。
  それは何回までだ? あと1回か、2回か、3回、4回、5回?
  まあ何回でもいい、死ぬまで殺してやろう………!」




  次の瞬間、蛙はもう一度死んだ。

 怪物の拳が蛙の頭を捉え、叩き潰したのである。

 すぐに再生が始まるが、蛙は自分が生き返ってしまう事に悲鳴を上げた。




 「すこし力加減を間違えたか……… まあいい。
  次はゆっくりと殺してやろう、悲鳴を上げろ、叫べ、そして……… くたばれ」




  怪物は蛙を何度も何度も、ゆっくりとゆっくりと殺すだろう。

 生き返る能力が無ければ一瞬で終わるはずの苦しみは、蛙にとって永遠を思わせるほどに続くのだ。

  愉しそうに、本当に愉しそうに怪物が宣言した。




 「では、始めよう」




  蛙の悲鳴が、死の恐怖に覚える絶叫が響いた。

 ―――こうするために、俺にこんな命令を!?

 いまさら、蛙は自分の主の目的を悟った。

 蛙は自分の主を呪う。

  怪物の笑い声が、蛙の最後に聞いたものであった。













 「優、大丈夫か? 優!」




  優が目を覚まして最初に聞いたのは、今にも泣き出しそうな紗美の声だった。

 半分以上、未だ眠ったままの頭で優は目を開く。

 最初に、紗美の泣き出しそうな顔が見えた。

 優は無意識のうちに紗美の頭を撫でる。

 すぐに紗美の顔は真っ赤に染まった。



 「ば、馬鹿! 何やってんだ!?」

 「怒鳴る前に涙を拭いとけよ」



  ポケットに入っていたハンカチを紗美に渡してから、優は立ち上がった。

 体はどこも痛んでおらず、むしろ普段より軽いような気がする。

 その奇妙な心地よさに、優は寒気がした。



 「どうしました?」

 「いや………!? 蛙は!」

 「私たちがここに来た時は、もういませんでした」

 「そうか………」




  何かなっとくが行かなかったが、優はそれを信じるしかなかった。

 気絶した後に何があったのかはわからなかったが、少なくとも蛙には逃げられたのだ。




 「くそ、あの糞蛙。 今度会ったら灰にしてやる!」

 「落ち着いてください紗美さん、優さんは無事だったんですから」

 「ああ、そうだな………」




  あふれ出してきた怒りを深呼吸で落ち着かせ、紗美は乱暴に涙を拭った。

 そしてそのまま優の手を掴んで強引に歩き出す。




 「な、何するんだ紗美!?」

 「すまねぇ真紀、俺は優を家まで送っていくわ」

 「はい、優さんをお願いします」

 「さ、紗美! 自分で歩けるから手を離せ!」

 「気にすんな、それとも恥ずかしいのかぁ?」

 「あッ! お前仕返しのつもりか! やる事はせこいぞ!」




  優は紗美の手を軽々と振り払った。

 優の腕力では振り払えないと思っていた紗美は、それにすこし驚く。




 「いつの間にか腕力ついてんじゃん」

 「こんな生活していれば嫌でもな、それに最近は寝不足なんだぞ!」

 「怒るなって、今日はもう終わりだから6時間は眠れるさ」

 「だといいけどな」




  優と紗美はゆっくりながらも立ち去った。

 その背中が見えなくなったところで、真紀も歩き出す。

  優が倒れていた所から、すこし横道にそれた所。

 そこにそれはあった。

  ズタズタに引き裂かれて原形を留めていない蛙の死体だ。

 強引に腕力だけでその死体は破壊し尽くされている。

 もはやそれは死体ともいえず、単なる肉の塊に思えた。




 「どうやら、うまくいったようですね」




  真紀がすこしだけ愉しそうにつぶやいた。

 その死体を今度こそ呪札で焼く。

  元は蛙の姿をしていた鬼の末路を見て、真紀は笑みを浮かべた。

 笑みは、人形の笑みを思わせた―――


























次回 第一章 第三話
  逢魔が時(夕方)〜それは魔物の時間〜





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