「はぁ…… やっと、一息つける……」

 

 

 

  机に倒れ伏せながら、カルは心の底からため息を突いた。

 彼は、倒れ伏せたまま、目の前の机を見る。

 その机の上には、軽く1000枚を超えて山積みになった書類の山があった。

 それこそが、カルを追い詰めている悪夢の具現……

 カルの目の下には濃厚なくまができ、彼が相当長い期間の徹夜を行っている事が知れた。

 

 

 

 「大変ですねぇ副指令」

 「これで四日だ…… あと何枚書類を処理すればいい!?

 「えっと…… ああ、やっと半分ですね」

 「死ねる……」

 

 

 

  隣で書類の処理を手伝っていた兎の獣人が放つ驚愕的な事実、カルはその災厄に一瞬意識を失いかけた。

 毎日、異常なハードスケジュールをこなしているのに、まだ先は遠い。

 ふとカルが横を見れば、そこには今だ、処理が終わっていない書類の山がある。

 正直、彼は本気で意識が遠のきかけた。

 というよりも、気絶できたらよかったなと、思っていた。

 

 

 

 「せめて仮眠を1時間くれ……」

 「無理ですよ、少なくてもあと500枚は緊急です、仕上げてもらえないと」

 「何処の作家の締め切り前だ!? 俺は売れっ子同人作家か!? 頼む、人間らしい時間をくれ!」

 

 

 

  悲鳴じみた―― いや、悲鳴以外の何者でもない声でカルは叫ぶ。

 しかし対する兎の顔色に変化はなし。

 なんというか、実はその顔は精巧に作られた仮面だといわれても、信じるほかないほど完璧なポーカーフェイスだった。

 

 

 

 「無理」

 「……酷すぎない?」

 

 

 

  もう残忍とか残酷とか、そういった次元に入った声。

 それにカルはもはや疲れきった声しか返せない。

 

 

 

 「分かった、分かったよ―― やるっきゃない」

 「そのいきです」

 

 

 

  カケラの変化のない兎の顔を見ながら、カルは渋々と書類に向き合った。

 一枚一枚が薄いといっても、百を超えれば塊で、千を超えれば山となる。

 なんというか、昔、とある事情で登ったエベレストよりも絶望的な山に思えた―― というよりも、間違いなくこっちのほうが絶望的だ。

 カルはその悪夢を克服するために、書類で生成された狂気山脈の攻略を再開しようとして――

 

 ――! ――! ――! ――……

 

  電話の音がそれをさえぎった。

 その場にいる全ての者が、死んだ魚みたいな濁った目で電話を恨めしく睨み付けた。

 だからこそ、その電話が鳴ることが何を意味するか、その場の全てのものが理解する。

 赤く赤い、異質な色合いの、真紅の電話。

 それが意味することは―― その電話の意味は―― 緊急事態にしか使用が許されない電話。

 最低でも、大量無差別テロレベルの。

 

 

 

 「――! 何だ」

 

 

 

  カルがその電話に跳びかかり、受話器を取った。

 その場にいる者達が、カルを注視する。

 そう、話すごとに青ざめていく、彼の顔を……

 

 

 

 

 

 

-------------------------------------------------------------

縁の指輪 

    六の指輪 二刻目 愛と憎悪の獣達

 

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  思ったよりも、その列車の後心地はよかった。

 ただしそれが普通の列車ならだ。

 横を見たとき角が見えた、天井を見たとき翼が見えた、足元を見たら尾が見えた。

 幻想小説の中に迷い込んだ気分になった。

 アリスとかなんやら、適当な幻想小説の主人公を思い浮かべたが、これに会うものは見つからなかった。

 

 

 

 「なんだか場違いな感じかな」

 「まあ、気にせずのんびりしていてください」

 

 

 

  すこし擦れた声で―― まあ、犬の声帯でよく人間語が喋れるなと思いつつ、錬は差し出されたお茶を飲んだ。

 お茶は赤く、といっても血の様な毒々しい色ではなく綺麗な落ち葉色。

 味は―― まあ、不味くは無かった。

 ―― 生ぬるくやたら薄いコーヒーよりは美味しいといえる程度だったが。

 でも、逆に言えば美味しくもなかった。

 挙句、どんな隠し味を入れたか分からなかったが―― 血の味がした、吐き気がするほど、血の味がした

 

 

 

 「人間の舌に合うかは分かりませんが」

 「飲む前に言ってよ」

 

 

 

  その会話を聞いた周りの獣達がくすくすと笑った。

 くすくすと言う割には、まるで猛獣の檻にいるような雰囲気を感じる声質だったが、その中にある感情は悪意など無い。

 冷静に―― 錬は自分の目の前にいる犬頭の青年に言った。

 血の味と、口から出すのはいやだった。

 

 

 

 「ちょっと―― 鉄錆みたいでした」

 「すみませんね、どうも血の味が上手く再現できないので」

 「言っておきますけど、“まだ”そっち側じゃないので気にしないでください」

 「あ、はい、すみません」

 

 

 

  彼の尻尾が垂れ下がり、耳が伏せられる。

 ――分かりやすい人だな、と錬は感じた。

 ―― まあ、考えてみれば場違いなどこの場にはいない。

 ―― なにせ、人間などこの列車にはカル以外いないのだから。

 自分も含めての発言に、錬は不愉快な思考に目を細めた。

 

 

 

 「ギャハハ、相変わらずすぐ尻尾にでるよなぁテメェは」

 「笑うな狼! これだから君達は品性がないと言われるんだ!」

 「あぁあ、さ・す・が・犬はいうコトが違うなぁ! ほぉら、三回回ってワンって言ったら言わないでやるよ」

 「オマエッ!?

 「へぇ、やるんですか!? やるんですか、いいじゃんやってみろ犬っころ!」

 「吠えるなこの狂犬病のキチガイが!」

 「言ったな!」「言った! それも理解できないか馬鹿狼!」「殺すぞ犬!」「犬犬五月蝿いんだよ!」

 

 

 

 「五月蝿いにはお前等だ!! はしゃぐのもいい加減にしろ!」

 

 

 

  言い争いを始めていた犬と狼の獣人。

 それを静止したのは、とんでもないほどの大声だった。

 なんせ、車両を貫通して飛んできたのだから――

  とんでもない勢いで車両をつなぐ扉が開かれ、そこから―― カルが現われる。

 その彼の姿に、その場にいる者達は例外なく凍りついた。

 剣幕はそのとおりだが、濃厚なクマとミイラじみた精気の無い顔に墓場から死体が怒鳴り込んできたと思うほどの状態だったのだから。

 

 

 

 「こちとら四日ぶりの睡眠なんだ! 邪魔するんならコンクリにつめて北極海に放置するぞ!

  それとも氷漬けにして地表に叩きつけて粉砕してやろうか! えぇ!?

 「お、落ち着いてください!」

 「ああ、とっくに落ち着いている! 現状可能な限りな!!」

 

  ――嗚呼、つまり、落ち着くなんて出来るわけ無いと言いたいわけですねカルさん。

 

  その場にいる錬と獣人達の心中はその瞬間一致した。

 錬もそうだが、長く彼の部下をやっている獣人達もここまで悲惨な状態の彼など見た事が無い。

 死体じゃなくて、地獄の鬼だと、現在の彼を表す言葉を訂正する必要があるのかもしれない。

 しかし、こんなバケモノと同列にされたら、むしろ地獄の鬼が泣いて「止めてください、お願いします」と言いかねないだろう、そんなカルだった。

 

 

 

 「大体なんだ! この状況は! 書類地獄に続いて、挙句は『悪魔』!

  ああああああああ、やってらんねぇ! 今日の俺の運勢は仕事運良しだったはずなのに!」

 「所詮占いですから」

 「だけどなぁ! なんか『いい事あるかも』って期待するだろうが!」

 「まぁまぁ……」

 

 

 

 

  大声で己の感情をあらわにして怒鳴り上げたためか、カルはそこで一気にテンションが落ちてため息を突いた。

 熱した鉄よりもそのテンションが落ちる速度は速いかもしれない。

 というよりも溶ける寸前の鉄に液体窒素のかけたようなものか、と考え、それじゃ砕け散るなと―― 本当に意味の無い事を錬は考えてみた。

 

 

 

 「あ〜 まだ目的地まで時間有るから、頼むから、俺を寝かせてくれ」

 「……いいですけど、中途半端ですよ」

 「無いよりはマシだ」

 

 

 

  犬の獣人が自分の時計を見てそう呟いた。

 予定での到着時刻までは一時間ちょっと、寝るとしては中途半端だ。

 深い眠りを貪るには短く、半分起きているような状態で寝るには余りにも長い。

 しかし、全く睡眠というものを味わえなかったカルには、まさしく砂漠で一杯の水と同等の価値だろう。

 

 

 

 「ああ、それと…… 俺にとっては犬も狼も関係なく、等しく仲間だ。 変なことで仲を悪くするな」

 

 

 

  それだけ言い放ち、カルは別車両へと消えていった。

 彼の後ろ姿が『燃え尽きたぜ、真っ白によぉ』だったのは、見間違いではあるまい。

 それに足して、錬は彼が『静かにしてください!』が無駄に終わった委員長みたいだなと思った。

 無駄な思考遊びも、時間つぶしにはいいかもしれない。

  カルの突然の登場と、爆発により、犬と狼の獣人の喧嘩は終結した。

 一気に車両の中は静かになり―― 中には軽く眠っているものもいた。

 そんな彼らを見ながら、錬は今更、なんで自分がここにいるのかを思い出す――

 といっても、概要だけ考えればすぐに終わるような物だった。

  あの時、梓織と再会した自分は彼女から、これから起きる事態、そう―― 緊急を要する事態を伝えられたのだ。

 それは世界者達が死織を使って、『悪魔』を殺そうとしている、ということだった。

 ―― いや、逆だ…… 『悪魔』を使って、死織を殺そうとしている、だ。

 「世界者に死織は利用されている」と、彼女は言った。

 そして、死織が死ぬ事により発生する結末も、彼女は言った。

 

 

 

 (無垢なるの単一化…… 俺の無垢なるに、死織の無垢なるの力が集まる……)

 

 

 

  つまりのところ、死織は世界者にとっては必要ない存在なのだ。

 それどころか、死織を始末することで錬はほぼ、確実に無垢なるに侵食され―― 敗北する。

 だが…… それを行なえる存在は、現状のところ悪魔しかいないと言う。

 

 ――「詳しい理由は省くけど…… 死織は今、ある意味、世界者より世界から逸脱した存在なの。

    それを『殺す』には、同じく世界から逸脱した存在でなければならない」

 

  それが、悪魔という事だ。

 去り際に梓織がくれた電話番号、それは聖十字軍の『真紅の電話』にと繋がる番号。

 その番号が書かれたメモ用紙は電話先で聞いたカルの言葉通り、燃やしてこの世には残っていない。

 ただ、普通の電話番号と規格が異なり、30ぐらいの番号を入力した事は覚えていた。

  カルの対応は、迅速という言葉すら生ぬるいほど、早かった。

 彼は現在、動かせる戦力を纏め上げ、その『悪魔』と死織との交戦予定地点へと列車を走らせたのである。

 錬は途中、その特別車両へと搭乗した。

  本来なら家から装備一式を持ってきたかったが、帰ったら間違いなく綾美に気づかれてしまう。

 その事を梓織も考えていたらしく、いくつか装備を持ってきてくれていた。

 『ミスリル繊維を織り込んだ黒いコート』『二つの小太刀』『数本の投げナイフ』。

 そして錬が呼び出した丙子椒林剣が、今の錬が持つ武器である。

  コートはあまり長くなく、着ていてもあまり立ち回りに影響はなさそうだ。

 しかしその分、軽さを重視しているのか織り込んでいる繊維は少なく、防御力はあまり期待できそうにない。

 どちらかといえば、他の武器をしまうためのポケットが目当てのようだ。

 小太刀は粗悪品というわけではないが、業物というほどではない―― こんなもので死織と鍔迫り合いなどすれば数回で折れるだろう。

 投げナイフはどれもとりあえず用意しただけという粗悪品で、真っ直ぐ飛ぶかどうか、投げ慣れている錬にも分からなかった。

 結論としては、あまりにも死織と戦うためには力不足の装備だ。

  だが、それを補って余りある強力な味方が、今回はいる。

 聖十字軍の実戦部隊、聖十字軍にも獣人が多いが中には人間に憎しみを持っているものも少なくない。

 だからこそ、心理テストなど問題が無いことを確認され、長い訓練を超えた者のみが外での行動を許されたこの部隊に入れる。

 能力的、精神的にも高水準にまとまった、精鋭だ―― 少なくとも、あの支部のような事にはならないだろう。

 

 

 

 (勝てるか、死織に―― 死織の無垢なるに…… 奴を、殺さずに捕らえられるか……)

 

 

 

  一度だけ、錬は心中で呟いた。

 確認作業、ただそれだけだ――

 

 

 

 (勝てるか、勝てないかではない―― 勝つんだ、それ以外に未来は無い)

 

 

 

  コートの中の、二つの黒い鞘が、ぶつかり合って甲高い音を立てる。

 まるで試合の始まりを告げるコングのような音だった――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  悪魔とは神に敵対するもの、異教の神々への蔑称。

 様々な宗教にそれは人を試すものとして表れ、人を悪路へと導く。

 ……しかし最後は『正義の味方』に倒される敵役。

 

  だが、違う―― 全く違う。

 真の悪魔はそんな“生易しい存在”ではない。

 文字通りの『超越的存在』、生物を超えた生きた神話。

 

  それを知っておりながら、黒い少女は、それと退治していた……

 

 

 

 「あはは! 悪魔って聞いたから角の生えた黒山羊でも考えていたんだけど――」

 「期待に添えなくてすまない」

 

 

 

  思わず脱力しそうな言葉で、『悪魔』は漆黒の女『死織』の言葉に答えた。

 実のところ、彼女達はその黒い着物、長い黒髪、意外なほどにその姿は酷似している。

 違うのは外見の年齢、大人と少女、そして互いをにらみ合う瞳の熱だった。

  ギラギラと、輝きそうなほどの殺意を秘めた瞳を持つ死織。

 対する『悪魔』、デーヴィは―― その瞳に感情など秘めていない。

 あえて言うなら―― 必死にコチラを見て吠える臆病な犬を見るような、哀れみの瞳だった。

 それを理解しているからこそ、死織の殺意がさらに鋭くなる。

 

 

 

 「気に喰わない目―― ね! 覚えておきなさい、私は死織―― 貴女を殺す女よ」

 

 

 

  一手目、死織は目に止まらないほどの速度で駆け、黒い小太刀でデーヴィの首を狙う。

 だがそれは、何事も無いように、何気ない動作で上げられたデーヴィの鉄扇に阻止された。

 そのままデーヴィは手首を捻り、あっさりと黒い小太刀は半ばから折れる、まるでそれが当然の如く。

  二手目、死織は蹴りを繰り出した。

 それも同じく、広げられた鉄扇に阻まれる。

 だがそれを利用して死織は後ろへと下がった。

 

 

 

 「……――ッ!」

 「どうか、したか?」

 

 

 

  まるで目の前で転んだ友人に話しかけるような軽い口調。

 軽く、あしらわれている……

 それに気づいた時、死織の顔色が変わった。

 彼女の唇に、その歯が唇を引き裂く事で生まれた朱が流れた。

 

 

 

 「殺す」

 

 

 

  瞬間、死織は暴風になった。

 まるで余りにも強大な風ゆえに、屋根を引き裂き、車を吹き飛ばすサイクロンのように。

 人を破壊する、斬撃の乱舞が始まった。

 だが、その渦中にあって悪魔の姿は―― 消えない。

 その両手に持つ鉄扇が広げられ、小さな盾のようになる。

 明らかに死織の猛撃に対して、小さく、脆く、一瞬で砕かれそうな盾。

 だが――

 

 

 

 (抜けないっ! 私の攻撃が――  死がコイツに届かない!)

 

 

 

  喰らえば必死の力、死を具現化し、物質化する死織の生み出した『死の刀』。

 しかしそれは… 悪魔の防御を超えられない。

 まるで嵐のように激しい斬撃の中、デーヴィはほとんど動いていない。

 その腕が少しだけ動き、だがその少しだけの動きで全ての攻撃が防がれていた。

 

 

 

 「無駄だ…… オマエは『死』にこだわりすぎている」

 「何!?

 「私は死なない、というコトだ」

 

 

 

  死織は攻撃をやめて、デーヴィから距離をとる。

 自分“だけ”では彼女を倒せないと悟ったのだ。

 その事実を自分でも驚くほど、死織は素直に受け入れていた。

 

 

 

 「……そうね、私じゃ貴女を殺せない」

 「そうだな『死』を持たない存在を『死なせる』ことはできないからな」

 「でも…… 彼らは違うと思うわ」

 

 

 

  瞬間、デーヴィはその場から消え去った。

 その消え去った直後、そこへ三本の槍が突き立つ。

 数十メートル離れた位置にデーヴィが現われ、呟いた。

 

 

 

 「ウイルノ・エンヴィー……」

 

 

 

  真っ黒な髪を持つ少年がいた。

  瞬間、デーヴィはその場から消え去った。

 その消え去った直後、そこへ一本の斧が叩きつけられる。

 数十メートル離れた位置にデーヴィが現われ、呟いた。

 

 

 

 「ザウラー・グラトニー……」

 

 

 

  全ての髪を切り落し、禿頭の巨漢がいた。

 デーヴィは顔色一つ変えず、突然現われた二人組みをにらみつけた。

 そして、認識が歪んだ―― その二人の出現で世界から現実が剥離した。

 当然だ、その二人には現実など意味を成さない、非現実の具現なのだから。

 

 

 

 「大罪シリーズか…… 何用だ、ガラクタ」

 「――…ぎ」

 「……―――」

 

 

 

  デーヴィの問いに、その二人組みは―― いや二人というより二つ ――は何も答えない。

 ただ、ウイルノ・エンヴィー…… 嫉妬の名前を持つ少年が、その口から油の切れた歯車じみた唸り声を出しただけだった。

 ザウラー・グラトニー、暴食にいたっては無言… そもそもその目は焦点があっておらず、意識があるのかすら分からない。

  エンヴィーは人で操られる人形に似た動きで、三本の槍を構えた。

 

 右手と左手で二本、口でくわえて一本…… あきらかに実践的とは思えない装備。

 槍を銜えた頭は、ほぼ90度真横に向けられ首が折れたようにも見えた。

  グラトニーは斧を普通に構える。

 薪割りにでも使いそうな斧だが、それにはべったりと血がついていた。

 その手足は筋肉質だが、明らかに肥満体で―― いや、もはや球体に手足がついていると極言してもいいような姿、あまりにもアンバランスな印象が拭えない。

  そんな彼らを従えているかのように、死織はゆっくりと彼らの前に歩いた。

 そして――

 

 

 「殺せ!」

 『―――ギ…ギギ―――』

 

 

 

  命令と共に、死織はデーヴィを指差した。

 爆弾の爆風にも似た勢いで―― 二つの世界者が突進する。

  世界者なら悪魔を殺せる――

 悪魔、世界者、鬼神、魔王―― それらは同じ次元に存在する、故に、彼らは互いに殺しあえるのだ。

 その事実を脳内で再確認しながら、デーヴィは初めて大きな動きを見せた。

  肩を走る回路に光が走る。

 マナと魔力を高速で合成、力に―― 現実湾曲確率を上昇させる。

 瞬間、デーヴィの身体能力はその肉体の構成では絶対に不可能な領域に上昇した。

  先行するグラトニーの斧を、デーヴィその左手で受け止める。

 皮膚が―― 今の彼女の皮膚はダイヤモンドを凌ぐ強度を持つ ――斧を弾く。

 しかし相手も同じく現実を超越できる存在、斧の『破壊力』が不自然なほど強化され、少しずつ皮膚に食い込む。

 斧と腕の鍔迫り合いという、異常事態。

 そこへ、エンヴィーが突入する。

 構える槍は―― まるでプラモデルのランナーを切りとって、先端を尖らせたような安っぽい品だ。

 しかし、それが必殺の威力を持つ事を、世界者を知る物には一瞬で理解できるだろう。

  デーヴァが掲げた鉄扇は、やすやすと貫通された。

 しかし、その一瞬の隙を突いてデーヴァは紙一重で槍を避ける、避ける頬から血が飛んで地面に落ちるよりも早く―― 蹴りを叩き込んだ。

 同時に現実湾曲確率を大幅に落とす―― 世界の反動が、直接、衝撃に変換された。

 まるで戦車の主砲を喰らったみたいに、エンヴィーの上半身が消し飛んだ。

 大量の、ありえないほど大量の銀の血液が壁にぶちまけられた。

 

 

 

 「――脆い」

 

 

 

  デーヴィはいともあっさりと、世界者を破壊できたことに逆に驚いていた。

 世界者を倒すには彼らの存在を否定できるほどの大威力の一撃を打ち込まないといけない。

 今の攻撃は、それには全く足りない―― 必要な攻撃がロケット弾なら、今の攻撃なんてピストル一発。

 ありえないと、デーヴィは警戒心を強めた。

 そして、一瞬の視界の歪みを見て、それが正しかった事を理解する。

  自分の顔の真横から、“空間を貫通して”槍が打ち込まれる。

 その空間の穴からは、光なく、濁り、腐った―― エンヴィーの眼光がギラギラと輝いていた。

 瞬間、獣じみた動きで死織が襲い掛かってくる、手には漆黒の刀。

 半身だけ身を捻り、デーヴァはその一撃を避けた―― 地面に降り立った死織と、自分の顔がキスでもできそうなほど、近い。

 そこへ―― グラトニーの斧が襲い掛かる ――死織ごと巻き込まんとする勢いで。

 だが、それにデーヴァは全く動じない。

  鉄扇を捨て、死織へと拳を叩き込んだ。

 死織はそれを回避できず、吹き飛ぶ―― 瞬間、デーヴァは彼女の手から漆黒の刀を奪い取っていた。

 それを無造作に振るい、グラトニーを斧ごと真っ二つにした。

  デーヴァは、無駄な行為だなと、今の戦闘を評価していた。

 結論から言えば、世界者の粗悪品である『大罪』シリーズでは、自分の相手ではないと理解できたのだ。

 今の攻防、たったそれだけで彼らの力と自分の力の差は理解できる。

 つまり、この世界者では自分を倒す事は出来ない。

 

 

 

 (何を、したいのだ)

 

 

 

  それを悟ったからこそ、デーヴァは悪い予感を覚えた。

 “アイツ”、世界者達の女王は―― 間違いなく最悪の存在。

 全てを悪意で腐敗させ、善意を殺意で踏みにじる悪魔より悪魔染みた女。

 間違いなく、この闘いはアイツの策略の一部であると、デーヴァは思った。

  死織、誰か全く知らない女が殺意を向けてきた事など、デーヴァはどうとも思っていない。

 悪魔である以上、数えるのが億劫なほど悪意や殺意を向けられてきた―― 実際に武器を持って襲われた回数は、考えるまでも無い。

 だが、それが世界者を―― 粗悪品といえど、従わせているというのは始めての事態だった。

  何か、機械を作ったあとに、部品が余っていた時のような危機感がデーヴァの脳裏を走る。

 だからこそ、彼女はもっとも単純な思考に落ち着いた。

 

  ――世界者は殺す――

 

  思考が疾走する―― 一瞬で必要な情報を纏め上げる。

 死織は『死という概念の物質化、それによる武器形成―― 戦闘能力の殺害特化』を持つ。

 しかし生きているである以上、そこまでだ。

 死人の摂理は、死人にしか理解できるはずが無い。

 結論、殺せる、大した敵じゃない、死を操る―― ちょっと珍しい『魂』だが、それだけだ。

  他の世界者にいたっては、問題外だ。

 理由はすでに思考した、必要ない。

 そして、デーヴァは不必要な思考を捨てた。

 

  ―― 敵対勢力、3、殺害開始

 第一目標、『嫉妬』、武器、三本の槍

 

  デーヴァが飛ぶ―― 真横に、まるで爆風のような速さと勢いで。

 鉄扇はたたまれ、小さな棒のようになっている―― そう、棍棒のように。

 デーヴァの今までに無いほどの神速の踏み込みに対応できず、エンヴィーは自らの目の前にデーヴァの存在を許してしまった。

 そして、デーヴァはその鉄扇を手の中に入れたまま、握りこぶしを作る。

 放たれた拳は、一撃でエンヴィーの顔面を文字通り叩き割った。

 頭蓋骨の前半分が、文字通り、砕け散る。

 骨と血と肉と脳漿の交じり合った、汚い赤と銀と黒が飛び散った。

  砕け散ったエンヴィーの首を掴み、デーヴァはその体を後ろへ放り投げる。

 その体にグラトニーの斧が食い込んだ、盾代わりに仲間を使われた事に驚きもせず、そのままグラトニーはエンヴィーの残骸を叩ききった。

 真っ二つになったまま、エンヴィーの体が宙を舞う―― ノイズが走り、それは、消えた。

 

  ―― 第一目標沈黙、存在崩壊、破壊完了

 第二目標、『暴食』、武器、手斧

 

  手斧を持つグラトニーは、それをまるで玩具のように放り投げた。

 実際は放り投げるなどできないはずの重量のはずだが、それは恐ろしいほどの速さと回転を孕みながらデーヴァへと飛ぶ。

 デーヴァは自らの首に投げられた斧が刺さる寸前、数十センチという紙一重の時に、蹴りを繰り出した。

 その長い脚は、見事に斧を蹴り上げ、デーヴァはその斧の柄を掴んだ。

 

  ――武装介入、マスターを書き換え

 ――抵抗、介入、突破、書き換え完了

 

  瞬間、斧は持ち主を裏切った。

 デーヴァは自分の物になった斧を、グラトニーのように投擲する。

 しかし、グラトニーよりも、それは早く、強く、そして致命的だった。

 グラトニーの顔、上半分が消し飛んだ。

 斧の一撃が、彼の頭部の上半分を破壊したのである。

 そして、暴食も存在を維持できず、消え去った。

  世界者二人は消え去った、極々短時間の内に―― そして、デーヴァは思考を再開する。

 止まっていた自我が蘇り、それは一つの質問を自分へと投げかけていた。

 ―― この女を、どうする?

  そう思った時、死織がデーヴァの視界から消え去った。

 普通なら驚き、急いで何らかの行為を行なうような状態―― だが、悪魔の目は彼女が飛び上がっていたことを確かに確認している。

 確かに彼女の強襲は人の意識の外を突く、回避しづらい攻撃だ―― 人相手なら。

 そして、デーヴァも地を蹴り、一気に死織の目の前まで飛ぶ

  呆然とする死織の顔を見ながら、デーヴァは回し蹴りを繰り出した。

 死織はとっさにその一撃を左腕で受け止める、鈍い、骨の折れる音が確かに聞こえた。

 そのまま彼女は蹴り飛ばされ、地面へと叩きつけられた――

 

 

 

 「――がァ……!」

 「……もう、オマエに勝ち目は無いぞ」

 

 

 

  すたん、と軽い音を立てて、デーヴァは地面へと降り立った。

 対する死織は折れた左腕を右手で押さえ、苦痛に顔を歪めている。

 もう、この状態を見ればどちらが優勢でどちらが劣勢なのか、どっちが勝つのか負けるのか考える必要も無い。

 当然―― デーヴァの勝利だ。

 

 

 

 「何を世界者に囁かれたのかは知らないが、お前では超越者を相手することは出来ない」

 

 

 

  そう言い放つと、死織の顔は一瞬で殺意に満ちた憎悪の色に染まる。

 『死』塗れの澱んだ精神、それに縛られた憐れな女―― デーヴァは彼女の存在をそう理解した。

 特異的能力である異能、その中でも異質な品物は、ときに持ち主の存在そのものを変質させてしまう。

 死織、彼女は間違いなく、己の能力に“喰われていた”。

 

 

 

 「…… さて、どうするか」

 

 

 

  デーヴァは口に出して、己の迷いを解決する手段を思考し始めた。

 単純な方法として殺してしまうというのもあったが、それが何か、致命的な事態を起こすのではないかという不安もある。

 だが、同時にそれ以外の手段となるとろくなものが思いつかない。

  だから、デーヴァは普段よりより深く思考の中に自我を埋めてしまった。

 目の前の死織なら、例え考え込んだとしても問題ではない。

 虎が死に掛けた猫を恐れないようなものだ、だから、だからこそ、油断した。

 

 

 

  ―― 飛び込んできたのは、の輝きだった。

 

 

 

  瞬間、恐ろしいほどの速さで黒い影が死織へと体当たりした。

 漆黒の髪、右目の蒼左目の紅―― 世界から逸脱した存在。

 言うまでも無く、破壊を支配する男―― 秋雨、錬。

 彼を見た瞬間、デーヴァは一瞬、全てを忘れ去っていた。

 

 

 

 「錬!?

 「死織ぃいいいいいいい!!!」

 「――ッ!」

 

 

 

  死織を吹き飛ばし、錬が彼女をさらに追撃する。

 一瞬で彼らはデーヴァ達が戦っていた場所から離れてしまった。

 それを見たデーヴァは、彼を追いかけようとして―― 襲い掛かってきた銀の輝きをまとう男の斬撃を鉄扇で防いだ。

 自らを攻撃した男を見て、デーヴァは思わず、叫んでいた―― その男が、ここにいるとは思わなかったからである。

 

 

 

 「カル・イグニーニス…… なぜ……」

 「愚問だな、悪魔!」

 「邪魔するな、カル…… オマエに関わっている余裕はない!」

 「悪魔の戯言に耳を貸すと思うか!」

 

 

 

  普段のカルからは想像できない様相で、憎悪に満ちた声で彼は叫ぶ。

 手にもつ武器はあの笛が柄の奇妙な剣ではない、金色の輝きを放つ、白い剣だ。

 オリハルコンどころではない、それを材料にして作られた超常金属、ヒヒイロカネ製の剣。

 もはや生成の方法は失われ、七つしか現在しないヒヒイロカネの武器。

 丙子椒林剣、四宝剣、トリシューラ、エヌマ・エリシュ、レーヴァテイン 、カリバーン。

 そして今、カルが用いる天之尾羽張(あめのおはばり)。

 そんなとんでもない物を持ち出すことが、カルの本気を表していた。

 

 

 

 「どけえええええええええええええええええええええええ!!!」

 

 

 

  デーヴァはその瞬間、今までの冷静な仮面を壊して、叫んだ。

 まるで、恋人との再会を妨害された、女のような叫び声だった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回 縁の指輪

六の指輪 三刻目 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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