「さて、何で傘をささないんだい?」

 

 

 

 

  青年の優しい声が、暗い横路地に座り込んでいる少女の耳へと届く。

 

 対して、少女は殺意すら感じる冷たい視線を返した。

 

  その少女は、雨が降っている中、傘すらさしていなかった。

 

 数分も屋外にいれば全身雨水で塗れ、風邪になるのは確定ともいえる雨の中で。

 

 いや、そもそも傘はいらなかった――― まるでかまくらのように薄い氷の膜が少女を雨より守っている。

 

 それこそが彼女の正体を告げていた。

 

  この地方で、俗にウィンディゴと呼ばれる存在――― 冷気支配の異能者。

 

 

 

 

 「うるさい、どっか、いけ」

 

 「そうもいかないな、君が寒そうだし」

 

 「殺すぞ」

 

 

 

 

  言葉と共に突然の怪異が起きた。

 

 地面より異常な速度で伸びた鋭い氷柱が青年の頬へと襲いかかったのだ。

 

 青年はとっさに顔を動かし、頬を浅く斬るだけに被害をとどめる。

 

 氷柱の先端は錐を思わせるほど鋭利で、人間など一撃で貫通できそうだった。

 

 

 

 

 「聞いたよ、君はこの能力のせいで両親に捨てられたらしいね」

 

 「………だから、なんだ」

 

 「うん、だから君を養子にしたいと思っているんだけど」

 

 「……死ね」

 

 

 

 

  宣言共に、今度は先ほどの比ではない、文字通りの殺害するためだけの氷柱が青年に襲い掛かった。

 

 ただ地面より伸びるだけでは無い、空中から、隣の民家の壁から、ありとあらゆる場所より氷柱が伸び、文字通りの360度より青年を襲う。

 

 まさに完全包囲、冷たい死を告げる氷槍の群。

 

 常人なら逃れる術は無く、死が確実な未来として襲い掛かる。

 

 だがそれは―――

 

 

 

 

 「え………」

 

 「安心してほしい、俺は死なんよ」

 

 

 

 

  氷柱が刺し貫いた場所に青年の姿は無かった。

 

 いるのはその刺殺領域の1メートル横、目の前にいた少女すら何時移動したのか分からない。

 

  初めて少女は、彼をまともに見た。

 

 そしてやっと気づく、彼は傘など持っていない。

 

 なのに……… 服は雨の中にもかかわらずまったく濡れていなかった。

 

 

 

 

 「さぁ、行こうか――― そうだ、とりあえずなんかお茶でも飲んで………」

 

 「ほっといて」

 

 「やだ。 俺は君みたいなのを見捨てるのは許せない主義なんでね」

 

 「………変な奴」

 

 「酷いな、自覚はしてるけど」

 

 

 

 

  そういいながらも、青年はどこからか魔法瓶を取り出した。

 

 やはり、いつどこからどうやって取り出したのかは分からない。

 

 まるで動画から一部を切り取ったみたいに、『途中』が欠けている。

 

  始まりから途中を含まず終わりに至る。

 

 それを感じ取った時、少女は彼が自分よりも異質な存在と知った。

 

 

 

 

 「あなた、誰?」

 

 「あ… そういえば、名乗ってなかったよな」

 

 

 

 

 「俺は、カル・イグニーニスと――― 今はそう名乗ってる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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                縁の指輪 

    五の指輪 二刻目 終焉存在<ライフロスト>

 

 

 

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 「ね、錬」

 

 「うん?」

 

 

 

  今日はアスラルに連れられて聖十字軍の支部へ行く日。

 

 それゆえに普段より早く起きた錬は、寝ぼけている頭を覚ますために洗面台へと向かった。

 

 途中、綾美に声をかけられたのだ。

 

  何か嫌な予感がしていたが、無視する理由にはならない。

 

 だから普段どおりに対応した。

 

 

 

 「あのね… 錬、また… 夜中に飛び出したりとか、してないのね」

 

 「してないけど、どうかした?」

 

 

 

 

  前、錬が自分の正体を知る前に衝動的に行なっていた『狩り』の事を行っている。

 

 錬は夜中という単語ですぐにそれを考えついたが、何故そんな事を聞かれるのかはわからなかった。

 

 確かにすこし前は日常的に行なっていたことだが、今はやっていない。

 

 そもそもそんな余裕はもはや存在しないのだから。

 

 

 

 

 「綾美、夜中に出歩いているなら君に気づかれないわけ無いだろう?」

 

 「そう、だよね――― 勘違い………なら…」

 

 「綾美?」

 

 

 

 

  うつむいて、小さな声で、自分に言い聞かせるように言う綾美に不審なものを感じて錬は彼女の名前を呼んだ。

 

 何故だかは分からないが、今の綾美は『違う』ような気がしたのである。

 

  質問されるのはいいとしても、何で今こんな質問をされるのかが分からない。

 

 それが異様な違和感となって錬の心へとのしかかる。

 

 嫌な予感だ、数日前の夜に、綾美と話した会話の内容が思い出された。

 

 気づかれかけているのだ――― 今の錬の事を。

 

 

 

 

 「ねぇ錬、聞きにくい事なんだけど――― 「どうした?」 ―――――何か、隠してない?」

 

 

 

 

  その嘆願するような口調に、その言葉に、錬は凍りついた。

 

 必死に、必死に、必死になって、言い訳を、ごまかしの言葉を必死で。

 

  数日前の夜の、最悪の再生だ。

 

 綾美から、錬へと投げられた言葉は以前より不安と、悲しい確信に溢れていた。

 

 以前より、錬が追い込まれている状況に近づいているのだ。

 

 

 

 

 「隠してなんかいないよ、ただ………」

 

 「血の匂いがするよ、錬」

 

 

 

 

  心臓が悲鳴をあげた、心が断末魔に似た音で軋む。

 

 気づかれていたのだ、当然だ。

 

 吸血鬼から血の匂いを隠す事の方が無理だったのだ。

 

 おそらく、数日前のあの夜も綾美は血の匂いに気づいたからこそ、錬に話しかけたのだ。

 

 それにやっと錬は気づいた。

 

 

 

 

 「ナイフさ。 整理してたら指を切ってね」

 

 

 

 

  血の事を聞かれたら、こう答えよう。

 

 そう用意していたセイフが口から勝手に放たれる。

 

 まるで他人が言っているようなその言葉に、錬は吐き気を覚えた。

 

 

 

 

 「そう――― なんだ」

 

 

 

 

  しかし彼女の顔はそれでも良くならない。

 

 きっぱりと、一瞬の間もなく血の匂いの理由を言われたので逆に怪しんでいるのかもしれない。

 

 錬はすこしは考えるふりをして言うべきだったかもしれないと思う。

 

 しかしあの瞬間の自分にそのような冷静さなど無い事を、そして今も冷静さは取り戻されていない事も知っていた。

 

  もう、隠すのも限界かもしれない。

 

 

 

 

 「そうだよ、だから心配要らないって」

 

 「そう。だよ、ね?」

 

 「そうだよ、全く、心配性だな」

 

 

 

 

  まだ納得できないという感情を隠す事無く、綾美は立ち去っていった。

 

 錬は朝からいきなり襲ってきたこの事件にいきなり心身を消耗してしまっていた。

 

 今度からはより、細心の注意をして今の状態を悟らせないようにしないといけない。

 

 綾美の言葉と態度は錬にそれを促す絶対的な力があった。

 

 

 

 

 「気をつけないと、いけないな」

 

 

 

 

 

  ――――――だが、そんなボロ布のようなごまかしが今更効かない事を。

 

 ―――――――綾美が錬の事をどれだけ思っていて、どれだけ錬の事を見ているかも。

 

 ―――――――壊れかけた錬に分かるわけが無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  目覚まし代わりは、電話の音。

 

 フェンリは寝起きのせいでまともに動かない体で、何度か失敗しながらも何とか枕元の電話を取る。

 

 そして口を開いて、一瞬で寝ぼけていると分かる声で受話器に語りかけた。

 

 

 

 

 「ふぁい、フェンリですが………」

 

 『お前、相変わらず朝弱いな… いつも夜更かしするなっていっただろうに』

 

 「―!? 義父さま」

 

 

 

 

  電話の相手の声を聞いた時、一気に彼女の目が覚めた。

 

 親への愛というよりは、異性へのそれに近い感情を彼に持っているフェンリにとって、今の状態は許しがたい醜態。

 

 そもそもとして彼の周りには彼に好意を持つ女性が多すぎるのだ――― と彼女は心の中で悲鳴をあげた。

 

 

 

 

 「ご、ごめんなさい!」

 

 『謝らなくていいって、無理言って長野まで飛んでもらったんだから』

 

 

 

 

  今、フェンリがいるのは聖十字軍の長野支部、そこの一室だった。

 

 支部といっても聖十字軍が偽名で経営しているホテルであり、普通に一般人も宿泊している。

 

 ここで休日を満喫している彼らは、ここが自分達の想像もつかない巨大組織の一部であると夢にも思っていないだろう。

 

 

 

 

 『それで… 調べ物は進んでるか?』

 

 「ええ、“蒼”と“彼”にも会ってきて聞いてきました。

  しかし、これが本当とすると“無垢なる”がなおさら謎の存在になります」

 

 『世界者というカテゴリーにはいれたがな… そもそもそれは世界者にとって何なのだろうな?』

 

 「ひとつ言える事は、彼らの中でも“無垢なる”はかなり異質な存在ということです」

 

 

 

 

  フェンリはあの魔女と彼の姿を思い浮かべながら言う。

 

 魔女の方は何度も会っているのでいい加減なれたが、彼のほうはそうもいかない。

 

 なにせ彼自身がフェンリにとって会うだけで緊張を強いられる存在なのだ。

 

 貴重な世界者に関する情報提供者だが、それ以上に彼は重要な意味を持っていた。

 

 

 

 

 「まだ“月美”の頃にはあくまでイレギュラー… 正式な世界者ではなかった」

 

 『だろうな、あくまで精神寄生体… 世界者というにはあまりにお粗末だ」

 

 「ええ、でもよく邪魔者の排除などに使用された」

 

 『…爆弾代わりか… 不愉快な話だ』

 

 

 

 

  彼の言ったとおりだった、無垢なるは世界者にとって爆弾のように使われている存在だったのだ。

 

 邪魔者の親しい人間の、心の闇を利用して寄生させ、宿主と邪魔者を殺し合わせる。

 

 外道しか考え付きそうに無いほど、えげつなく邪悪な手段。

 

 無垢なるは――― 逆に言えばそこまでの存在だった、あくまで道具、使い捨ての。

 

 

 

 

 「しかし、今度は違う…」

 

 『秋雨に寄生――― 自らの天敵を取り込むつもりか…』

 

 「ええ… 神殺しに神、いや邪神ともいえる彼等が介入した」

 

 『………焦っているのか、それともこの事態は連中にも予想外の展開なのかもしれないな』

 

 「はい、ともかくこちらは今度は『黄』に会ってきます―――

  精神科の医師でもあり、魔王である彼女なら精神寄生体についてもっと深い情報をもっているかもしれません」

 

 『ああ気をつけろ、あの女はとんでもない食わせ者だ』

 

 「魔王です、とっくに覚悟の上」

 

 

 

 

  フェンリはそう言い放ち、受話器を戻した。

 

 朝から重く嫌な話であったが、おかげでしっかりと目がさめた。

 

 そしてその顔は、自らの服装を見て一瞬で青く染まる。

 

 本来ならしっかりとした戦闘服は、酷い状態となっていた。

 

  昨日は酷く疲れていたので、制服のまま――― 聖十字派遣軍の服のまま寝ていたのを思い出した。

 

 本来なら黒がベースの戦闘服は、フェンリ専用のカラーと補強を施されており普通の戦闘服より高価である。

 

 ただでさえ動きやすさと術的な防御を考えて作られたその服の価格は高級なビジネススーツに匹敵する。

 

 だがその着るお金みたいな服は、寝返りなどでぐしゃぐしゃになっていた。

 

 

 

 

 「…最悪だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ねぇ、アスラル… 悪い事は言わないからやっぱ列車とかで行こうよ」

 

 「なに、そんなに信用できないの?」

 

 「普段眼帯装備の人に車の運転なんて任せられるか!」

 

 

 

 

  家の前に止まっていたそれを見て、錬は思わず真横にいるアスラルに抗議の声を上げた。

 

 一目で高級車と分かる黒い車、問題はここまで来たところで運転手が立ち去っていったという事だ。

 

 そしてアスラルが眼帯を外し、眼鏡を取り付けてポケットに手を伸ばし……… あろう事か運転免許を取り出したのである。

 

 瞬間、錬は彼女が運転すると悟りその危険に震えた。

 

 

 

 

 「盲目なんでしょアスラルは!」

 

 「視力はあるわよ、一応1.8ぐらい」

 

 「魔眼でしょうが! 周囲に破壊と混乱をばら撒く車なんて放射能漏れしてる原子炉みたいなもんだろうが!」

 

 「失礼な事をいうわよね綾美ちゃん」

 

 「え…」

 

 

 

 

  彼等の言い争いを何処吹く風と言わんばかりに無視していた綾美は突然話しかけられて呆けた声を出した。

 

 こっちを向いているアスラル、綾美には眼鏡に反射する陽光に阻まれ彼女の眼は見えなかったが… 殺気じみた視線を感じる事が出来た。

 

 

 

 

 「………どうともいえません」

 

 「………安心しなさい、魔眼封印用の眼鏡つけていくから」

 

 

 

 

  そう言ってアスラルは自分のつけている眼鏡を指差した。

 

 眼鏡を通してみた彼女の目の色は黒、魔眼の禍々しい輝きはそこにはない。

 

 よく見れば眼鏡はフレームに複雑な模様を刻み込まれており、それを時々光が走っている。

 

 何らかの力を持つ道具であることがすぐに知れた。

 

 

 

 

 「普段から使えよ、普通眼帯つけてれば心配になるだろうが」

 

 「長い間眼帯で暮らしていたから、どうも眼鏡は嫌いなのよ」

 

 

 

 

  呆れたと言わんばかりの声で錬が言うが、アスラルはすねた子供のように言い返した。

 

 アスラルはすこし早足で運転席側のドア前まで進み、車を指差して言う。

 

 

 

 

 「で、乗るの、乗らないの?」

 

 「乗るけど… 運転できるの」

 

 「できなければやってられないわよ、私はルシフやフェンリとは違って生身の人間なのよ」

 

 

 

 

  ルシフという人物は知らなかったが、フェンリの異常なほどの身体能力は知っていた。

 

 アスラルから聞いた話によれば生身で世界一周ができるらしい。

 

 海すら凍らせる事で進む事ができるのでそれすら障害にならない、そもそも生身で音速突破可能という時点で滅茶苦茶だ。

 

 しかもそれも余力を残してである。

 

 

 

 

 「ここから車でおよそ三時間、すこし高速を使わせてもらうけど」

 

 「高速か……… そういえば車に乗るのって久しぶりだな」

 

 「そうなの?」

 

 「一年前ほどにタクシーを使った程度だよ」

 

 

 

 

  そのタクシーを使った事情というのは、夜中の狩りのせいである。

 

 つい調子に乗りすぎた錬は鬼を追いかけすぎてかなり離れた町まで行ってしまったのだ。

 

 しかたなく返り血をごまかし、帰りにタクシーを使用した。

 

 今思えば、ハンカチで拭った程度の処理でよくばれなかったものだ。

 

 

 

 

 「さぁ後ろの席に乗りなさい、機嫌が悪いから飛ばすわよ」

 

 「謝りますからやめてください」

 

 

 

 

  すこし笑ってから、三人は車へ乗り込んだ。

 

 錬はさきほど述べたように車に乗った経験は皆無。

 

 しかしそれでも錬は柔らかい背もたれの感覚に思わずこの車が一般車とは絶対的に違うモノと確信する。

 

 そして自分の座っている席、その下に隠しスペースがある事も感じ取る事が出来た。

 

 思わずそのスペースを開いてみると、中には自動小銃を初めとする様々な火器が収納されていた。

 

 

 

 

 「ああ、安全装置はかかってるけど全部本物だから気をつけてね」

 

 

 

 

  錬と綾美の青ざめた顔をバックミラーで見ながらアスラルは言う。

 

 ゆっくりと、壊れた玩具のような動きで綾美は振り返ってアスラルを見た。

 

 

 

 

 「事故らないでよ」

 

 「信頼しなさい、私も事故はごめんよ」

 

 

 

 

  各種点検を行い、アスラルはアクセルを踏み込んだ。

 

 そしてすぐにクラッチを踏みギアをセカンドへと変えた。

 

 この車はAT(オートマチック)ではなくMT(マニュアル)なのだ。

 

 しかし錬達は車の知識など皆無で気になどしない。

 

 たとえ、ATよりMTの方が運転が大変だとしても。

 

 そしてMT車特有のあの現象も知らなかった。

 

 

 

 

 「えっと…」

 

  ――――!

 

 

 

 

  異音と衝撃と共に車が停止した。

 

 勢いのまま綾美は前に倒れこみ、座席に顔面を激烈な勢いでぶつける。

 

 錬はいつのまにかつけていたシートベルトで事なきを得た。

 

 打ち付けたおでこを撫でながら、恨めしそうにこっちを見る綾美を見てポツリと錬は呟いた。

 

 

 

 

 「嫌な予感はしたんだよ」

 

 「錬… 私にも警告して欲しかったよ」

 

 

 

 

  エンストを起こしたのだ。

 

 おそらく理由はMT車の初心者が一回はやってしまう………

 

 

 

 

 「ごめんなさい、クラッチはなすの、速すぎたわ…」

 

 

 

 

  錬達を振り返ってアスラルが言う。

 

 彼女の頬を冷や汗が伝っているのが、錬達にも見て取れた。

 

 瞬間に、錬達の心中に一言、絶望的な言葉が浮かんだ。

 

 「果たして、無事に着けるのかと」という、恐怖。

 

 

 

 

 「あははははは、大丈夫。 今のでやっと思い出したわ」

 

 「信頼置けないよ!」

 

 「無事に着けますように、生きて帰れますように………」

 

 

 

 

  悲鳴じみた声をあげる錬の横で、ひたすら手を会わせて祈り続ける綾美。

 

 彼等からの無言の威圧 ―――「失敗しないでくださいお願いですから」――― にアスラルはひたすらに冷や汗を流した。

 

 思い出したというのは本当なのだが、しっかりと行なえるかは別の話だ。

 

 

 

 

 「大丈夫よ、大丈夫。 私は旅客機の運転もできるわ」

 

 「車とは全く関係ないね」

 

 「あはははははは」

 

 「無事に帰れますように帰れますように帰れますように帰れますように………」

 

 

 

 

  講義する者、祈る者、焦る者、どれもこれも必死だ。

 

 それゆえにどれもかれも空回りしていた。

 

 

 

 

 「ああアスラル! シートベルトしてないって!」

 

 「どうりでなんか変な警告音がするかと…」

 

 「うわぁぁあ、死にたくない!」

 

 「神様仏様何でもいいですから無事に着けますように………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「そういえばアスラルが運転免許取ったのって何時だっけ?」

 

 「え、どうしたの?」

 

 

 

 

  聖十字軍、司令室にて一人の人離れした美女と帽子を被った男が話し合っていた。

 

 男は本日の予定を、正確にはここへ来るはずの人達の事を思い出して独り言のような声で美女へと話しかける。

 

 

 

 

 「アスラルちゃん… 運転免許…… あれ、偽造だよ」

 

 「…あぁ、そういえば任務で運転できるようになったけど、免許取らせる暇が無かったから偽造したんだっけ」

 

 

 

 

  さらりととんでもない事を言って女はパクパクと机の上に置かれたクッキーを頬張った。

 

 聖十字では表に立てない人々、獣人などがいるため彼等のための偽造パスポートを作る事が多い。

 

 いや、一応各国家に承認を得ているのである意味では偽造ではないのかもしれない。

 

 ともかくアスラルも運転ができるようになったので、いつものように偽造した運転免許を渡したのだ。

 

 

 

 

 「最後に運転させて何年だっけ」

 

 「えっとボクの記憶通りだと… たしか二年と五ヶ月前。カナ?」

 

 「やっべ」

 

 「どうしたの?」

 

 「ココへ来るのにアスラルが車を使いたいって言ったんでつい………」

 

 

 

 

  もし彼女の記憶どおりの年月、運転していないとするのなら………

 

 

 

 

 「地獄絵図でも展開中、カナ?」

 

 「ああ、おそらくはな」

 

 「あっちゃ………」

 

 

 

 

  机に倒れ伏せて男は頭を掻き毟った。

 

 事故や違反をしてつかまった場合、あの装備を持っていたらテロリストと思われて当然だろう。

 

 最悪の場合は裏から手を回して助ける必要があるかもしれない。

 

 

 

 

 「俺が行っておけばよかったよ」

 

 「ボクはそのほうが余計心配だな、飛ばすでしょ、キミ」

 

 「法定速度は守るさ」

 

 「逆に言えばどのような状況でも法定速度までは出すんでしょう?」

 

 「当然だろ」

 

 

 

 

  自信溢れる彼の言葉に思わず女は机に突っ伏した。

 

 一度乗った時に彼の運転の脅威は思い知っている。

 

 絶対にAT車に乗らないのだ、彼の運転はもはやF1の領域に入っており、カーブですら速度を落とさず入ってそのまま曲がっていく。

 

 ある種、ただ速度を出されるよりよほど心臓に悪い。

 

 

 

 

 「さてさて、それでも心配だから俺は見に行ってくるよ。 迎えもかねてな」

 

 「バイクでも使う?」

 

 「いや、徒歩で十二分だ」

 

 

 

 

  瞬間に、彼の姿はその部屋から消え去った。

 

 彼の能力による現象で、女はこの怪異にもはや慣れていた。

 

 

 

 

 「“飛んだ”ね… まったく、普通に扉から出て行くべきだとボクは思うよ」

 

 

 

 

  今だ自分以外の人間がノブに触れた事も無い扉を見て思わずそう呟く。

 

 この部屋はこの施設に居る隊員たちにすら知られていない場所だ。

 

 普通の場所ではなく、ある種の異界なのである。

 

 聖十字軍本部たる異世界『アルカナ・ワールド(《世界》のタロットカード)』、それがこの部屋がある場所だ。

 

  別名では他の名で知られ、とある目的で製作された世界。

 

 聖十字軍はあくまでココを借りているに過ぎない、本来の目的が果たされるそのときまで。

 

 

 

 

 「かつての罪人の群れが、今は守護者か… 変な世界だよね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  結論から言えば無事、高速に入るには成功した。

 

 あの出発の事態以降、危険な事態は起きていなかった。

 

 

 

 

 「ね、大丈夫でしょう?」

 

 『………まぁね』

 

 

 

 

  しかしそれでもいつ事故を起こすか分からない状況は錬と綾美を消耗させていた。

 

 アスラルの偉業を達成して幸せそうな声に対し、疲れ果てた彼らはそれを言うのが精一杯である。

 

 だが綾美は何とかそれ以降の言葉を搾り出す事に成功した。

 

 

 

 

 「でもまだ着いたわけじゃありません」

 

 「心配性ねぇ、大丈夫大丈夫」

 

 「………はぁ」

 

 

 

 

  最近になってから、アスラルの言葉遣いが砕けるようになった。

 

 それなりに長い間共に暮らして信頼しあえる仲になったからか。

 

 しかし何となくこっちがアスラルの地なのだろうと綾美は感じている。

 

 声が明るく感じるのだ、今のアスラルは。

 

 

 

 

 「さて、高速に入って一時間、そろそろサービスエリアに入って休憩するわよ」

 

 「賛成、よく考えれば朝早かったから食事もおにぎり程度だったしね」

 

 

 

 

  そういいつつ、アスラルは一瞬だけ視線を逸らしてサービスエリアが近いことを確認。

 

 そして車をサービスエリアへと入れて行った。

 

 減速、駐車場への駐車などもきちんとこなし、彼らは数時間ぶりに車の外へ出る事ができた。

 

 

 

 

 「ふぅ、別に息苦しいってほどじゃなかったけど、外と中じゃ全然空気が違うね」

 

 「そりゃエアコン効かせても締め切ってるのは確かだし」

 

 「………もうすこし隣に…」

 

 「どうした綾美?」

 

 「え、なんでもないよ」

 

 

 

 

  背中を伸ばす錬の後ろで、ポツリと綾美は呟く。

 

 その呟きを聞いた錬を何とかごまかし、綾美は何となく周囲を見渡した。

 

 この休憩所特有の空気は久しぶりだが、時間が過ぎても大して変わっていない気がした。

 

  実のところ、綾美は逃亡生活の間にかなりの回数、高速を使用していた。

 

 別に車に乗せてもらったというわけでは無い、トラックの屋根や荷台などに隠れて乗っただけである。

 

 こういったサービスエリアはトラックなどが確実に止まっている、もしくは止まる場所などでよく別のトラックに乗り換えたものだ。

 

 思えばかつての自分はとんでもない事をしていたんだなと、綾美は呆れた。

 

 

 

 

 「さーて、ここの食事って意外と美味しいのよねぇ、前に来たのはティナを送った時だったし」

 

 「………たしかその時は俺が運転していたはずだが」

 

 「あれ。そうだったかしら……… え」

 

 「後ろよアスラル!」

 

 

 

 

  叫び声をあげたのは錬でもアスラルでもなく、綾美だった。

 

 とっさに振り返りながら蹴りを放つアスラル。

 

 だがその蹴りは宙をきり、アスラルの背後にいる存在には当たらなかった。

 

 

 

 

 「いつもですけど… 心臓に悪いわ、副指令」

 

 「はは、悪い悪い、どうしても後ろから話しかけるのが癖でな、治せないんだよ」

 

 「自覚しているなら何とかしてくださいませ!」

 

 「怒るな怒るな、せっかく君の眼を真っ直ぐ見れる幸福な日なんだから」

 

 「そういうコトを自覚無しでいうから鈍いって言われるのです!」

 

 

 

 

  まるで滝のように、二人の会話は止まる事が無かった。

 

 親しい親友のような会話だが、それでも青年の異常が目立つ。

 

 何せ――― 彼は文字通り、その瞬間、そこにいたのだ。

 

 

 

 

 「誰、ですか?」

 

 「ああ、綾美さん、だよね。 俺はカル・イグニーニス、聖十字軍の副指令だ」

 

 『え―――』

 

 

 

 

  その名前は、驚愕と違和感を錬と綾美に与えた。

 

 彼らは過去の記憶にて遭遇した、カル・イグニーニスと呼ばれた男と彼とは全くの別人なのだから。

 

 髪は『過去のカル』が銀の反射を持つ黒髪だったのに対して、彼は普通の黒髪だ。

 

 身長も『過去のカル』より低く、日本人の平均よりすこし高いぐらい。

 

 それ以上に、身に纏う雰囲気が全く違った。

 

 

 

 

 「うん、どうした錬君。 俺の顔に何かついていたのかい?」

 

 「い、いえ……… ちょっと予想外の人が来たので…」

 

 「ま、副指令なんて肩書きは飾りみたいなもんだって」

 

 

 

 

  あくびを噛み殺しながらカルは言う。

 

 その呑気な口調に、思わず綾美は彼が本当に副指令なのか疑った。

 

 しかしアスラルとの会話を聞いていた限り、そうであるとしか思えない。

 

 余りにも予想外な人物像に綾美はめまいを覚えた。

 

 

 

 

 「しかし副指令、なんで貴方がココに?」

 

 「迎えに着たんだよ」

 

 「どうやってここに入ったのか、聞いていいですか?」

 

 「ああ、実はココ、聖十字の秘密の拠点があってな。

  近くの森に隠した入り口から入ってこれるんだよ」

 

 

 

 

  そう言って彼は自分の後ろ、すこし遠くに見える森を振り返らずに指差した。

 

 カルの顔には悪戯が成功した子供のような笑みが張り付いている。

 

 

 

 

 「それにアスラル、予定ではそろそろ着くはずじゃなかったのか?」

 

 「そ。それは…」

 

 「錬君、綾美さん、どうせエンストとか道を間違えたとかで遅れたんだろう?」

 

 「………見てたみたいにいいますね」

 

 「そのとおりです」

 

 

 

 

  動揺するアスラルを尻目に、錬と綾美は数々のアスラルの珍事の数々を思い出し呆然と呟いた。

 

 まさしく彼の行ったとおりの原因が重なり、実はかなり遅れているのだ。

 

 実際のところ、本当の予定では高速を降りて近くのレストラン辺りで食事をしているはずだったのである。

 

 

 

 

 「いそがないと彼女が待ってるぞ、ほれ」

 

 

 

 

  そう言って彼は自分の持っていたビニール袋を錬へと投げた。

 

 反射的に錬はそれを受け取り、その中身をのぞく。

 

 中身は数種類のコンビニのおにぎり、ペットボトル入りのジュース、それが数人分。

 

 

 

 

 「俺が運転するから食いながら行くぞ」

 

 「嫌よ、副指令の運転は心臓に悪いもの」

 

 「アスラルがいえる事じゃない」

 

 

 

 

  自分の事は棚に上げたアスラルの言葉に錬はツッコミを入れた。

 

 なんだかペースを乱されているなと思いながらも――― 錬は幸せを感じていた。

 

 今は自分を襲う『運命』を気にしなくても済むからだ。

 

  死は、今は遠くに霞んでみる、すぐにまた近づいてくるだろうが、今は遠く感じられる。

 

 それはアスラルを初めとして、綾美や『副指令』などの自分の周りから生まれるものだ。

 

 まだ、世界は捨てたものじゃない、そう心から錬は思った。

 

 

 

 

 「………錬」

 

 「どうしたの綾美?」

 

 

 

 

  錬はそのとき、自分の耳に飛び込んできた声に気づいた。

 

 その声は綾美のもので、錬は彼女の名前を呼ぶ。

 

 きっと、そのときの錬は久しぶりの幸福という輝きに眼を焼かれていたのだろう。

 

  だから―――

 

 

 

 

 「発作の薬は飲まなくていいの?」

 

 「ああ今日は発作が起きてないか……… ―――!?

 

 

 

 

  だから、何の気負い無く、極普通の声で放たれた問いに答えてしまった。

 

 

 

 

 「何で言ってくれなかったの、錬」

 

 

 

 

  返ってきた声は冷たい。

 

 一瞬、錬は誰の声か分からなかった。

 

 

 

 

 「綾美………?」

 

 「気づかないとでも思った、錬。

  今の楽しそうな錬を見てね、確信した………」

 

 

 

 

  錬はゆっくりと、壊れたブリキ人形のような動きで綾美の方を向く。

 

 さきほどまでの楽しげな雰囲気は――― 砕け散っていた。

 

 やっとの事で見た綾美だが、その顔は伏せられていて見えない。

 

 ただ、震えているように見えた。

 

 

 

 

 「錬が普段とは違うと思ってた、普通ならこんな『日常』で幸せなんて感じないもの―――」

 

 その声は―――

 

 「それでも、今までは自分の無垢なるの事を知ったからだと思ってた―――」

 

 ―――まるで罪人が自らの罪状を述べるような―――

 

 「ねぇ、錬――― 私から、血の匂いを隠せるとでも、思っていた―――」

 

 ―――致命的な発言だった。

 

 「その血がどんな理由で流れた血か、分からないとでも――― 思ったの!」

 

 

 

 

 「え………」

 

 「こんな『普通』で幸せになるほど、錬は不幸にいたんだ、やっと分かった」

 

 

 

 

  なにを言われたのか、錬は分からなかった。

 

 ただアスラルが錬達を呼び、綾美が振り向いて返事をして、呆然とする錬の手を掴んで歩き出すのを他人事のように感じて―――

 

 そして、やっと意味に気づいた。

 

  綾美は気づいていたのだ、とっくの向かいに、おそらくは数日前の夜、いやその前から。

 

 しかしアスラルと錬の必死のごまかしに気づき、だからこそ気づかないフリをしていたのだと。

 

 だから、『日常』に幸せを感じるほど追い詰められていた錬に、そこまで追い込まれていた錬の姿に。

 

 ―――限界を迎えたのだ。

 

 

 

 

 「気づかないでいて、ごめんね錬」

 

 

 

 

  鳴きそうな声で言われた謝罪に、錬は心を切り裂かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回 縁の指輪

五の指輪 三刻目 生贄血統