壊れた物は二度と元に戻らない。

 

 たしかに、元の形に戻す事は出来る――― しかし誰がそれを『元』に戻ったといえる?

 

  人の体を例に取ろう。

 

 怪我をした時、人は血を流し、その血が固まりかさぶたが出来る。

 

 そして数日すれば傷は無くなる――― 見かけ上は。

 

 現に怪我をした部分の細胞はすべて入れ替わっている。

 

 ほら、『元』には戻ってない――― それに大怪我なら傷跡が残るだろう。

 

 ましてや怪我をしたのが心なら………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「――――はは――――――………あはははは…」

 

 

 

 

  かすれた声で笑う、力なく、ただもらすだけの声。

 

 それが『 』と呼ばれた者の、終わりだった。

 

  発狂したのだ、仕方あるまい、まだ十にも満たない幼子が知るには余りにも残酷な光景と事実。

 

 あっさりとその地獄は少年の心を引き裂いて、磨り潰して、ぐちゃぐちゃにしてしまった。

 

 まだそれだけなら救いはあったかもしれない………

 

 行なったのが  でなければ。

 

 

 

 

 「ねぇさん――― ごめんなさい………」

 

 

 

 

  ただそう呟く、少年の手に持つ刀から血の雫が落ちる。

 

 そうしなければいけなかったという事は理屈だけとはいえ分かっていた。

 

 故にこの罪を裁くものはいない、永遠に消えない罪を背負うしかない。

 

 一つだけの手段をのぞけば―――

 

 

 

 

 「おじいちゃん、僕もそろそろ……… 行くよ」

 

 

 

 

  刀の切っ先が、持ち主の胸を向く。

 

 そのまま刀を使えば、剣先は少年の命を奪う。

 

 分かっていても、刀冶にはそれが止められなかった。

 

 止めてもやめないというのもそうだが、彼は自身の欲望のせいで起きたこの事態に恐れおののいていた。

 

 なんで、こうなったのだと。

 

 

 

 

 「さよなら、錬」

 

 

 

 

  そういいつつ、少年は自殺した。

 

 夜月はこうして――― 錬から作られたできそこないの魂は、こうして自分の人生に幕を閉じたのだった。

 

 

 

  錬はこうして蘇る。

 

 一つ、手にしてしまった力を持って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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                縁の指輪 

    四の指輪 八刻目 踊る因果

 

 

 

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 「迎えに来たよ、錬」

 

 「―――――綾美?」

 

 

 

 

  呆然とした顔で、錬は綾美を見ていた。

 

 スラム街でリムジンでも見たような、砂漠で鯨を見たような―――

 

 場違いとしかいえない。

 

 錬ですら一瞬、自分が見た都合のいい幻想であると思ったほどだ。

 

 

 

 

 「なんで、ここに?」

 

 「れ――――ん! 助けに来ないとでも思った!?

 

 

 

 

  思わず声を荒げて言う綾美。

 

 この期に及んで、いまだ救いに来た事を否定する。

 

 救いに来た綾美が怒っても仕方ない。

 

  だがそれに気づいたとき、錬の精神は怒りで沸騰する。

 

 綾美の無謀と、それを喜んでしまった自分に。

 

 一瞬でも『それ』から意識を離した事に。

 

 

 

 

 「さぁこんな暗いところさっさと―――」

 

 「ふざけるな綾美! 俺の自閉をなんで解いた!

  奴が、侵食が――― 再開する!」

 

 

 

 

  錬は正常な思考を取り戻すと同時に、その手に刀を出現させて叫んだ。

 

 あまりにも突然の変化に驚く――― そしてやっと気づく。

 

  錬が自閉していたからこそ、無垢なるの汚染は一定以上侵食しなかった。

 

 今、錬は覚醒している、無垢なるへの妨害は無い。

 

 その隙を、無垢なるが見逃すわけが無いのだ。

 

 

 

 

 「逃がさないよ、錬を殺して俺が世界に生まれるんだから、さぁ

 

 

 

 

  おぞましい声、最も穢れている故に無垢なる存在。

 

 ――― 無垢なる ――― が支配した、夜月。

 

  手に持っているのは丙子椒林剣ではない、あの日、あの運命の瞬間、月美がもっていた白骨じみた剣。

 

 今の錬には分かる、アレこそが無垢なるの本体なのだ。

 

 人の体を入れ物にしてのみ具現できる無垢なるの腕、その骨の剣。

 

  戦慄に冷や汗を流しながら錬は綾美へと語りかける。

 

 彼女だけは逃がさないといけないと思ったからだ。

 

 しかしその返事が何なのか、その予想はできていた。

 

 

 

 

 「脱出しろ綾美、ここは俺が引き止める」

 

 「いい加減にしない? 私が貴方を見捨てるわけないでしょう!」

 

 

 

 

  綾美が爪を伸ばし吸血鬼の爪を構築する、そして虹の光がその身を包む。

 

 本当の錬が綾美の返事を聞いて、呆れた顔をしながらも丙子椒林剣を構える。

 

 夜月が白骨の剣を振るう、そして――― 三人は疾走した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「向こうで戦闘が始まったらしい―――」

 

 

 

 

  フェンリがポツリと言う。

 

 彼女が抑えている無垢なるは一切の抵抗を止めていた。

 

 精神世界での戦闘が始まり、外部への干渉を行なう余裕が無くなったのだ。

 

 

 

 

 「綾美も一緒よ、勝てるわ」

 

 「だが無茶な試みだな、自分で自分の一部となった無垢なるを倒す。

  自分で自分の脳へメスを突き立てるようなものだ」

 

 「それを何とかするのが人というものよ」

 

 「実例を知っているから何ともいえん」

 

 

 

 

  会話する余裕があるだけ以前より状況はマシだろう。

 

 しかし決して猶予は無い、激戦の舞台が精神世界へ移行しただけだ。

 

 そして昼夜達は待つしかない、結果が希望でも絶望でも。

 

 

 

 

 「では昼夜、戦闘用意だ」

 

 「っへ?」

 

 「私が相手ならこの隙を逃さない、必ず追撃をしかける――― 自分の使える最強戦力で」

 

 「………世界者」

 

 

 

 

  その名を呟いた時、世界が冷えた気がした。

 

 世界に影が忍び寄る、凶悪な悪意に侵食される世界。

 

 違和感が強烈な勢いで迫ってくる。

 

 

  そして、違和感が、姿を、昼夜たちの前に晒した。

 

 

  それは二足歩行をする邪悪な獅子。

 

 泥や土で汚れたファー付き黒いロングコート、金色の髪―――獅子の鬣、死人の茶色に近い皮膚の色。

 

 二足歩行をする異形の獅子、まさに彼はそう表現するのが一番あっていた。

 

 

 

 

 「トロメア――― オリジナルか」

 

 「始めまして神喰い狼、フェンリ=アレクシア」

 

 

 

 

  トロメアの本体、彼とフェンリはにらみ合う。

 

 互いに敵意と殺気を放ち、互いを認識する。

 

 絶対に相容れない敵だと。

 

  昼夜が無言で弓を構え、トロメアに矢を射る。

 

 力を込めていられた矢は破魔の力を持つ、だがその矢はトロメアの――― あろう事か口で受け止められていた。

 

 そのまま噛み砕かれる。

 

 

 

 

 「不味いな」

 

 

 

 

  あまりにも異質なパフォーマンス。

 

 彼にとってもっと効率よい防御法を持っている、だが効率の悪い方法を選んだのは演技。

 

 自分が相手と異質な存在を分かりやすく教えるために。

 

  故に、自分がバケモノと証明した故に。

 

 昼夜は今、自分の持てる力の全てを行使してこの異形を滅ぼす事を躊躇など無く決意。

 

 己の戦友を召喚する。

 

 

 

 

 「ハザン!」

 

 

 

 

  昼夜の叫びに答え、神鳥がこの世界に出現する。

 

 その翼は剣にも似た輝きを放ち、トロメアに突貫した。

 

 トロメアは無造作にその手を振るいハザンを迎撃する。

 

 それが、合図。

 

  矢が雨の如く放たれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  夜月の一撃を錬の丙子椒林剣が防ぐ。

 

 火花と共に紫電が踊る、それが空間に花を咲かせる。

 

 一瞬、それすらも陳腐に思えるほどの高速攻防。

 

 それは互いが吹き飛ぶ事で終わった。

 

 

 

 

 「錬!?

 

 「綾美、本当の無垢なる相手じゃお前の異能では防ぎきれない」

 

 

 

 

  それは一瞬だけの攻防で理解できていた。

 

 現実世界での攻防は、錬が無垢なるへ抵抗していたため無垢なるは真の力を発揮できなかった。

 

 だが今度は違う、月美という戦闘の達人で無かった少女、彼女を戦巫女すら圧倒する存在にした無垢なる。

 

 その本当のスペックが発揮されている。

 

 今の綾美で相手できる存在では無い。

 

 

 

 

 「逃げろ」

 

 「逃げられるわけ無いだろう、ここはもはや俺の領域だ――― 生かすも殺すも俺次第

 

 「だから――― 何だ寄生虫ごときが」

 

 

 

 

  再度の攻防、神速の斬り合い、しかし錬の方が足りない。

 

 夜月の攻撃をかする程度だが、錬は喰らっていてそのダメージを確実に増やしている。

 

 捌ききれていない、錬では無垢なるに勝てない。

 

  そこへ綾美が飛び込んできた。

 

 夜月の背後より跳びかかる、そして虹の輝きを纏う両手を夜月の後頭部へ叩き込んだ。

 

 糸の切れた人形のように夜月は吹き飛んだ。

 

 

 

 

 「案外とうまくいくものね」

 

 「何をやってるんだ、逃げろって………」

 

 「確かに防げないけど、無力じゃない」

 

 「だからって」

 

 「いいから、逃げ道を見つけれるのは錬だけよ。

  ここは錬の世界、錬しか、この世界を知らない」

 

 

 

 

  綾美がその異能の出力を上げる、強引に引き出された異能は綾美を消耗させていく。

 

 しかしその無茶苦茶な異能開放は綾美の消耗を代価に、闇を引き裂くように迫る夜月の連撃を防ぎきった。

 

 閃光、閃光閃光、閃光閃光閃光閃光閃光………

 

 そのたびに綾美は顔を苦痛で歪める。

 

  錬はとっさに助けに入ろうとする、しかし今、綾美が何のために命を燃やしているのか考えて思いとどまる。

 

 綾美のためにもこの状況を打破する術を見つけないといけない。

 

 だが――― どうしろと。

 

  この世界は錬の世界でありながら、無垢なるの世界でもある。

 

 自分の精神なら全てと言えずとも大体理解できる、だが今は何処にあるのか何があるのか理解できない。

 

 しかしだからこそ――― 何か違うと理解できた。

 

  本当に無垢なるの領域に自分が囚われているのなら、自分が生存できるわけが無い。

 

 何処かで矛盾がある――― そこが無垢なると自分の境界線だ。

 

 そこを見つけ、破壊する、それだけが無垢なるの封印法。

 

 失敗するという事は、自分の破壊を行ってしまうということ… 精神崩壊ではすまない。

 

 良くて精神崩壊、悪ければ、一瞬で絶命だ。

 

 

 

 

 「綾美、しばらくしのいでくれ」

 

 「やってみるけど、急いでね」

 

 「おう」

 

 

 

 

  妨害されるわけにはいかない。

 

 これから始まる戦いは今までのものとは質が違う。

 

 精神をすり減らす事になろうとも、自分の奥へ奥へ入っていく―――

 

 そして無垢なるとの回線だけを破壊する、内へ進む戦いだ。

 

 

 

 

 「させない

 

 「こっちこそ、させない!」

 

 

 

 

  駆け出す夜月へ綾美が飛び込む。

 

 右肩からの体当たり、そして肘の一撃。

 

 夜月には大した痛手ではないが、その攻撃により後ろへ後退してしまった。

 

  今の夜月にとってやらなければならないのは錬の妨害だ。

 

 しかしそれに意識をとらわれれば綾美の攻撃で足を止められる。

 

 綾美へ集中し、倒してから錬を殺ればいい、だがそれも駄目だ。

 

 もし綾美へ攻撃を集中させれば命を削ってでも彼女は時間を稼ぐ。

 

 それでは間に合わない。

 

 

 

 

 「この、なりぞこないの吸血鬼と、半人ごときに―――

 

 

 

 

  ―――なんで、勝てない。

 

 

  錬は人間の感覚を捨て、より深く同調する。

 

 あまりにも危険な深度へ同調したので錬自身が自分の破壊に晒される、血涙が流れるので目をつぶった。

 

 視界が赤に、染まらない。

 

 破壊が脳裏に閃光を生む、意識が消えそうになる。

 

 いや、消えないことが奇跡の領域だった。

 

 

  ―――すこしだけでいい、すこしだけ意識集中を邪魔すれば、錬は自壊する。

 

  無垢なるには分かっている、今まさに錬が行なっている事は髪一本分のミスですら死に繋がる境地だ。

 

 それは彼の意識をすこしだけでも乱せば、失敗に終わる。

 

 そこまで考えた時、この状況を好転するアイデアを思いついた。

 

 何も、錬を直接攻撃しなくともいい――― ここにはアレもいる。

 

  にたりと、夜月が邪悪に微笑む。

 

 そしてその切っ先が獲物を振り向く、その先にいたのは、綾美。

 

 

 

 

 「お前を嬲れば、アイツ、苦しむよな?

 

 「――――ッ!?

 

 

 

 

  その声はあまりにも冷たく、精神が凍る。

 

 何を言っているのか、意味を理解したとき、それが迫ってきた。

 

  閃光が、幾度も幾度も一瞬の内に輝く。

 

 今までに無いほどその攻撃達は苛烈だった、今までが遊びに思えるほどに。

 

  それもそうだ、今まで彼は錬という本当の敵を殺すために余力を残さなければいけなかった。

 

 だが今は違う、彼の目的は綾美の殺害、これこそが今の無垢なるの目標。

 

  閃光が相手の攻撃に追いついていない。

 

 攻撃のダメージ、その光と音への変換が間に合わない。

 

 それでも変換こそされているため、ダメージは軽減されている。

 

 だがそのとき、綾美の腕の皮膚が裂かれ鮮血が散った。

 

 

 

 

  ―――変換し切れない、突破された。

 

 

 

 

 (考えちゃ、だめ!)

 

 

 

 

  異能は肉体より精神に影響を受ける。

 

 つまり突破された、効かないと考えてしまえば、異能自体にも影響をもたらす。

 

 今まで鉄壁を誇っていた異能変換能力がその基礎を虫食いのように削られていく。

 

  剣が牙突の構えを取る。

 

 必殺の一撃、それを防ぐために力を前面に集中。

 

 空気すら阻み、閃光が輝く――― 最大防御。

 

 無垢なるの必殺の一撃に対し行なえる、必死の壁。

 

 だが思ってしまった思考がその壁を罅入れさせる。

 

  ――― この壁で、防げるのかと。

 

 弱気が冷え込む朝の冷気のように、心へ忍び寄ってくる。

 

 

 

 

  ――――――!

 

 

 

 

  一撃は、壁をやすやすと破り、綾美の左胸を貫いた。

 

 

 

 

 「――――!?

 

 

 

 

  人間なら即死のダメージ、だが、吸血鬼のため心臓の破壊だけでは死なない。

 

 だが血の力の根源である心臓の破壊は吸血鬼にとっても痛手である事はかわらない。

 

 下級吸血鬼なら一瞬で灰となるところだ。

 

  だが綾美はそれに耐えた、しかしその隙はあまりにも大きすぎる。

 

 心臓を貫いたまま、剣先は地面に突き立てられた。

 

 まるでピンで留められた蝶、そして断頭台に固定された無罪の罪人、中学の理科で解剖される蛙。

 

 すなわち―――

 

 

 

 

 「―――――――――!」

 

 

 

 

  激痛で叫ぶのを綾美は耐える。

 

 剣で縫い付けられたまま、新たな剣で右腕を半ばまで切断される。

 

 そして傷口を剣先を回し、抉る。

 

 見事なまでに、苦痛を与えるためだけの攻撃。

 

 

 

 

 「叫べよ

 

 

 

 

  小さな声で、唇が触れそうなほど顔を近づけて無垢なるは言う。

 

 その笑みはまるで『邪悪』を抽象画で描いたような笑みで。

 

 

 

 

 「惨めにさ、助けを呼べよ、懇願しろよ――― お似合いだぜ、出来損ない

 

 「…………」

 

 「何人、錬に会うまでに見捨てた?

 

 「……………!」

 

 「そうすればいいんだよ、何度もしてきたんだ……… 簡単だろ?

 

 

 

 

  何を言っているのか理解できない、綾美はそう思い込み考えるのを止めようとする。

 

 だがそれを心を読んでいるようなタイミングで剣先が傷口を抉り、逃げる事を許さない。

 

 無垢なるは、そう、心を読んでいるように綾美の中の汚らわしい部分をさらけ出す。

 

 

 

 

 「それとも錬から逃げたくない理由でもあるのか?

 

 「―――――………」

 

 「言ってやろうか?

 

 「――――ッ!」

 

 

 

 

  綾美は思わず叫びそうになって、何とか押さえ込む。

 

 必死になって抵抗を試みるが、全く意味が無い、心臓の傷口が広がるだけだ。

 

 そして………

 

 

 

 

 「お前は錬に依存しているんだよ

 

 「………違…う…」

 

 「錬の記憶など蘇らなければいいと、錬が自分だけを見てくれればいいと。

  お前は自分と同じような闇を持つ錬に、好意という形で縋り付いているだけだ。

  お前が長い闇の中でやっと見た『光』だものな

 

 

 

 

  瞬間、綾美の理性は吹き飛んだ。

 

 自分の中にあったそれを、自覚していないそれを射抜かれてさらけ出されて。

 

 

 

 

 「お前はもう錬がいないと生きていけない、もしお前は錬が自分の前からいなくなりそうだったら―――

 

 

 

 

  言葉が鼓膜を震えさせて綾美に伝わってくる。

 

 聞きたくない、聞いてはいけない、それは――― 綾美を壊す言葉だから。

 

  何の恥じらいも無く未練も迷いも無く綾美は叫んでしまった。

 

 錬が聞けば間違いなく集中を乱す悲壮感に溢れた絶叫、それを聞き無垢なるは満足げに微笑んだ。

 

  その双眸を錬が見開く。

 

 思わず無垢なるは哄笑をあげて、気づく。

 

 錬が綾美の絶叫で目を開けたのではない、見つけたのだ、無垢なると己の境界線を。

 

 

 

 

 「動くな、綾美を殺す

 

 「ッ………!」

 

 

 

 

  無垢なるの言葉に錬は己の胸に付きたてようとしていたナイフを止める。

 

 後はそのナイフを用いて自分を破壊し、無垢なるを摘出すればいい。

 

 だがそれには少なくとも数瞬の時間を要する。

 

 吸血鬼でも殺すには十二分な時間だ。

 

 

 

 

 「あはは、綾美。 お前のせいだ

 

 「………何で…私…は………」

 

 「錬、教えてやるよこの女の本性を

 

 「――――ッ!」

 

 「お前が他人だけ見るのならこいつは

 

 「―――――――――――――ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?!?!?!

 

 

 

 

  とてつもなく大きな声、叫び、絶叫。

 

 だが肺の空気全てを吐き出すようなそれは長く続かない。

 

 そして息を切らせたのを見計らったかのように、無垢なるは言った。

 

 

 

 

 「お前を殺す

 

 

 

 

  そのとき、数多くの出来事が起きた。

 

 まず、綾美が無茶苦茶な行動で脱出する、己の半身が引き千切れるのを無視して自分の体を引き裂きながら剣から逃れた。

 

 心臓から脇までが引き裂かれ大量の血が噴く。

 

  綾美は脱出直後、攻勢に出た。

 

 流れた血をそのまま無数の針先に変えて撃ち出す、それは無垢なるを射しぬく。

 

 だが刺さったままでも無垢なるは綾美へと攻撃を仕掛けた。

 

 しかしそれは綾美が血を無垢なるごと振るい、彼を投げ飛ばす。

 

  錬はその瞬間、迷わず打って出た。

 

 自分の最深部、その先には無垢なると自分のつながりが見える。

 

 その因果を断ち切る、それができるのは自分の破壊の力のみ。

 

 

 

 

 「―――――壊れろぉおおおおおおおおお!」

 

 

 

 

  ドシャ!

 

 

  血と肉の斬れる音、その混ざり合った血の音。

 

 生きている音が聞けば吐き気を覚えるようなおぞましい音がする。

 

 それこそ死を呼ぶ口笛、死の言葉。

 

  傷口を抉る、浅い深度の破壊では無垢なるに復元される可能性もある。

 

 思いっきり深い深度へ破壊する必要があった。

 

 

 

 

 「――――にぃ…」

 

 

 

 

  肺を傷つけ吐血し、口から血を流しつつも錬は勝利の笑みを浮かべる。

 

 世界は崩壊し始めていた、錬と無垢なるのラインが壊れその狭間の世界が消えていこうとしているのだ。

 

 そしてすぐに錬はその領域から帰還した。

 

  綾美もその世界から自分の肉体へ意識を帰還させる。

 

 消えていく中、感情の無い目で無垢なるを見つめていた。

 

 ゆっくりと静かに呟く、それを無垢なるは唇の動きで読み取る。

 

 

 

 

 「あぁ、それはよかったな

 

 

 

 

  消えていく世界の中に立ち尽くしたまま、無垢なるは幸せそうに微笑む。

 

 その瞬間、彼の邪心はなくなっていた。

 

 ただ楽しそうに、本当の意味で無垢に微笑む。

 

  そして綾美は完全に帰還した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  弓がへし折られた、その弓と運命を同じにしたように主は『く』の字になって倒れている。

 

 フェンリは唇から血を流しつつもそれに耐えていた。

 

 身動きは取れない、錬の完全無効化はフェンリの行動すら阻害する。

 

 他人の痛みを自分も感じてしまう、そのような優しさを持つ彼女に対してそれは拷問と同じだ。

 

 

 

 

 「フェンリ、何故戦わん?」

 

 「………」

 

 「戦え! キサマは戦場に生きる存在のはずだ―――」

 

 「………生きていればどこも戦場に相違ない」

 

 「そういわれれば、そうだな… だがこの戦場の類でなければ……… 血の匂いが無い」

 

 

 

 

  獣じみた笑みだった、肉食獣が肉を貪りその美味に微笑めばこうなりそうな笑み。

 

 それは戦いを楽しむ事の出来るほどの人道を外れた存在のみが出来る笑みだ。

 

 だがその笑みはその異形の獅子にはよく似合っていた。

 

 

 

 

 「私は血が嫌いだ」

 

 「それは――― 残念だ」

 

 

 

 

  放たれる致死の拳。

 

 フェンリに避ける手段は、無い。

 

 一か八か彼女はその拳に対して力を働かせようとするが、無垢なるの停止にほとんどの領域を裂いている状態で何処まで防げる物か。

 

  だがそのとき、彼女は見た。

 

 綾美が起き上がりながら、指輪を投げる姿を。

 

 それが示す意味を一瞬で理解し、フェンリは動く。

 

  フェンリが手を錬より離して、トロメアの拳を受け止めた。

 

 驚愕するトロメア、その目は――― 綾美の投げた指輪を受け取った錬に釘付けされている。

 

 

 

 

 「葉震(ばしん)!」

 

 

 

 

  フェンリに受け止められた右腕が、肘から先を失った。

 

 神速の斬撃、太刀筋すら見えないその一撃が彼の腕を斬り飛ばしたのだ。

 

 水銀の血が舞う中、トロメアの蹴りが攻撃をした存在を蹴り飛ばす。

 

 

 

 

 「美しい太刀筋だな――― 秋雨錬」

 

 「お褒めいただき、光栄だ」

 

 

 

 

  蹴りを後ろへ飛ぶことで軽減し、危なさが無い滑らかな動きで着地する。

 

 言うまでも無く、その曲芸を行なった人物は錬だ。

 

 そう――― 秋雨錬だ。

 

 

 

 

 「修羅にお前ならなれただろうに―――」

 

 「すまないが底(そこ)まで行く気はまだなくてね」

 

 「―――シィッ!」

 

 「はぁあああ!」

 

 

 

 

  二度目の激突、錬の剣とトロメアの拳が拮抗する。

 

 錬の丙子椒林剣は確かにトロメアの体を破壊している、だがそれと互角の速度でトロメアの腕は再生していた。

 

 差し引きゼロのダメージ。

 

 

 

 

 「甘い!」

 

 「私を忘れるとは―――なッ!」

 

 「フェ―――」

 

 

 

 

  フェンリの蹴りがトロメアの顔面へと襲い掛かる、だがそれを左手でトロメアは防いだ。

 

 その皮膚へ薄く霜がはる、トロメアの腕はその数瞬後、完全凍結した。

 

 

 

 「――――絶対零度!?

 

 「怒挽(どばん)!」

 

 

 

 

  魔法や魔術を行使して“物理法則を突破”すれば−273.15℃をも突破できる。

 

 そこまで行けば零点振動――― 絶対零度でも止まらない振動 ―――すら完全に凍結する、フェンリのそれはまさにそれだ。

 

 ありとあらゆる物質の運動を静止させる力、すなわちそれは世界法則すら超える神の氷。

 

 世界者でもその前には停止する。

 

  錬はその隙を逃さない。

 

 放たれた蒼の斬撃、音すらその前に断ち切られる。

 

 無音の――― 音すら超える斬撃、トロメアはそれによる錬の『破壊』にその右腕を粉みじんにされた。

 

 

 

 

 「―――ムッ!」

 

 

 

 

  反撃の拳はもはや一撃一撃が戦車をも潰す破壊の鉄槌だ。

 

 それを剣の腹でワザと受け、その勢いを使ってさらに加速する。

 

 駆け出す勢いを殺さない、錬の攻撃は攻撃、防御、加速を止まる事無く流れる滝のように続け、さらに苛烈となっていく。

 

  フェンリはそれを見て自分の出番が無い事を悟った。

 

 ここまでの速度の行動では同等の速度を出せても互いが邪魔になり互いの速度を抑えこんでしまう。

 

 もはやそれは絶対不可侵の結界、そこで行なわれる決闘だ。

 

 

 

 

 「―――来い」

 

 

 

 

  それを劇的に変えたのはトロメアの一言だった。

 

 魔方陣が彼の左腕を覆うように出現する、そして闇が現出。

 

 トロメアはそこから、あのレプリカの使っていた物と同じ形状の――― ただし倍以上の威圧感と禍々しさをもつ大剣を引きずり出した。

 

  錬には――― 破壊という現象を五感の如く認識できる存在には分かる。

 

 あれは『崩壊』という現象が物質と結びついた存在なのだ。

 

 聖剣というのが『天使の力』や『神の力』という現象に結びついたものなら、たしかにあれは聖剣だった。

 

 そうあの武器の名前は――― 聖剣『崩壊』。

 

 

 

 

 「―――全力だ、お前ほどの修羅相手に手加減という無粋はせん」

 

 「…知った事かッ!」

 

 

 

 

  そして錬の速度は瞬間、もはや動体視力を超越するほど加速した。

 

 紅の力を行使し、自らの人という制限を外す。

 

 故の人外の速さ――― もはや加速をし続ける必要も無い、次で決まる。

 

 

 

 

 「怨()―――――――ッン!」

 

 「斬神(ざしん)ッ!」

 

 

 

 

  『崩壊』の力は絶大だった。

 

 空間すら軋みを上げ断末魔のように歪む、そしてその歪みそのものが破壊力となるのだ。

 

 砕けた空間をナイフにし、空間の修正される力を投擲とする脅威の斬撃雨。

 

 その直死の雨は酸性雨のように鉄を溶かすわけではない、命を消しさるのだ。

 

  だがその雨を、まるで地面を走る光の矢のように、駆け抜ける影がある。

 

 錬は最低限の動きで交わし、もしくは剣先を軽く当てて向きを変えて空間ナイフの雨中、疾走していた。

 

 止まらない、今まさに彼は神速を超えている――― そしてその全てを一撃に込める―――

 

 

  そう必滅の一撃へ!

 

 

 

 

 「            !」

 

 

 

  振られた剣はまっすぐに振った地点から地面のギリギリまで進んだ。

 

 今までの速さから地面へ足を叩き込み、それを杭の様にして一気に静止する。

 

 そこで紅の魔術によるブーストが終わった。

 

  現実の速度へ帰還し、ゆっくりとなった光景の中、錬はトロメアの姿を見つけるため振り返る。

 

 当然ながら彼は、ふたつになっていた。

 

 錬の一撃は彼が盾代わりに構えた『崩壊』を破壊し、そのまま右肩に入り左脇から抜けた。

 

 一刀両断。

 

 

 

 

 「俺の勝ちだ」

 

 

 

 

  高々と錬は空を見上げて宣言した。

 

 消えていくトロメアが、光の破片となって空へ舞い上がる。

 

 合図にそれがなったのか、綾美が錬へ飛び込んできた。

 

 そんな彼女を錬は強く、強く抱擁する。

 

  とんでもなく長い別れの先の、再会だと感じた。

 

 現実では短い時間と知っていてもそんなもの関係ない。

 

 ただ、ここにこうしている。

 

 それが幸福だった。

 

 

 

 

 

  その様子をすこしはなれた場所からそっと見ていたフェンリは、ふと昼夜がいなくなっている事に気づいた。

 

 彼女が居たはずの場所には大量のがこぼれている。

 

 大丈夫かと思ったが、彼女には不死の呪いがある事を思い出して、大丈夫だと思った。

 

  すなわり面倒な事を私に押し付ける気だと完結。

 

 すこしだけ彼女への罵りの言葉を呟き、自分のやるべきことを思い出す。

 

 

 

 

 「さて、昼夜が逃げたという事は、指輪の説明は私の仕事か…」

 

 

 

 

  喜ぶ二人へ向かって、ゆっくりとフェンリは歩みだした。

 

 

 

 

 

 

 

次回 縁の指輪

              始まりの終わりより終わりの始まりへ

 

 

 

 

 

 

 





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