黄昏に染まる。

 何もかもが、赤く染まる。

 彼女と何度も話をしたこの聖堂は、自分にとって特別な場所だ。

 彼女と初めて二人で来た場所も、この女神の座していた聖堂だった。

 その思い出さえ黄昏に染まるその場所で、俺は――――泣きじゃくるように叫んでいた。


『起きろぉ!! 起きてくれよッ!!』


 厳かなる聖堂の中、崩れ落ちる体を抱きとめる。

 この女性は誰だろうか。それも判らないまま、俺はいつの間にか抱いている華奢な女へと呼びかけ続けた。

 力なく垂らされている女の腕はピクリとも動かず、ここにある事実を冷酷に突きつけてくる。


『頼むから……起きろってんだよ!!』


 その想いは届かない。その願いは叶わない。

 事実は真実としてこの場に存在している。

 理性は淡々と状況を認識し、いい加減に認めろとまくし立てる。それを振り払うかのように首を振った。

 体温の失われつつある体を、強く揺さぶる。しかしいくら揺さぶろうとも、いくら呼びかけようとも反応は無い。


『なんで……! なんでだよ……!!』


 答えは返らない。

 抱きしめたその体が、人形のように冷たくなっていく。

 何故か抱き締めている自分の手が、紅く濡れていた。

 ステンドグラスから差し込んだ赤い夕日のせいだろう。そう、思い込む。必死に自分を騙す。

 しかし現実は在るべくして存在する。

 夕日にしては紅すぎるその色、生暖かな温度の伝わるその液体がなにであるのかを、冷酷に突きつけてくる。

 それで決定的だった。もう、否定のしようも無い。両の手を朱に染めたときの記憶、それが鮮明に映し出される。

 そう、この腕に抱いているこの女性は他ならぬ自分自身の手で――――


『う……あ、あ……うああぁぁぁぁぁあぁ――――!!!!』
























「ああああぁぁああぁぁ――!!!!」


 悲鳴をあげて、亮はばね仕掛けのように飛び起きた。

 呼吸は荒く、心臓は早鐘を打ち続けている。


「ハァ――ハァ――ハァ――!!」


 呼吸が一定のリズムを刻んでくれない。

 みっともなく乱れた呼吸は胸を大きく上下させ、熱い吐息を連続して吐き出し続ける。


「こ……こは?」


 周囲を見渡し、次に両手を見た。

 抱いていたはずの冷たい体は――どこにも無い。


「ゆ、め――――」  


 口にだしてようやく自覚した。

 彼女は――パイは無事だ。この手で救った記憶が、確固として存在している。起き抜けの頭でも、それを確かなものとして認識できた。

 しかし、今の夢は――


(一歩間違えてりゃ……マジで起きてた悪夢だ、な)


 亮は体を震わせた。

 起こりえたかもしれない夢に怯えたせいか、全身汗まみれになっていた。冷えた汗が体温を急速に奪っていく。恐らく、震えたのは寒気のせいだけではないだろう。

 顔を手で覆って呼吸を落ち着ける。身体の調子は――やはり芳しくなかった。

 まず右腕が動かない。いくら力を入れようとも反応すらせず、まるでそこだけ自分の体でないような感覚さえ覚える。おまけに金槌で打たれたような頭痛が規則的に訪れ、軽い嘔吐感もある。両脚と左腕も反応が鈍い。

 しかし、生きている。身体への反動は覚悟していたことだ、最悪の場合意識不明になっていたことを考えれば、よほどマシだ。その上に、ようやく誰かを救うことが出来たのだ。これ以上を望むべくも無い。


「パイ――」

「パイ? ああ、パイナップルか。一応あっけどよー、朝っぱらから果物だけなんて力はいらねえだろ。肉も食っとけ」

「…………は?」


 なにやら聞き覚えのある、耳に馴染んだ声を聞いた。

 いや、幻聴だろう、彼がこんな所にいるはずはない。どうやら思っている以上に、心身ともに疲れているようだ。

 それも当然かもしれない。なにせあれほど心身を酷使したのだ、幻聴を聞くのもまあ無理は無いだろう。


「それじゃ、肉じゃがでもつくろっか? 材料はあるみたいだし」

「…………」  


 今度の幻聴は女性のものだった。

 いつも二人一緒にいるからといって幻聴までセットで出てくることは無いだろうに、としみじみ思う。

 しかし参った。二度も幻聴を聞いてしまうとは本当に疲れているようだ。深呼吸をして落ち着こう。


「肉じゃが? オマエ、ンな家庭的なもの作れたのか……。カップラーメンが関の山かとぐぶげあぁ!?」

「あ、ゴメン。手が滑って、フライパンが飛んでいっちゃった。大丈夫?」

「…………」


 ……幻聴にしてはやけにハッキリ聞こえるのは何故だろう。

 いや、判った。これは夢だ。起きたつもりでまだ夢を見続けているのだ。考えてみれば簡単なことだ。

 さて、いつまでも寝続けているわけにはいかない。この新たな悪夢から目を覚まさなくては。


「なんでキッチンからここまで飛んでくんだよ!? おかしいだろ絶対!」

「そうでもないよ。こう、円盤投げみたいに『うりゃ』って投げたら届くと思う。というか、届いたよ?」

「手が滑ったとか言って、思いっきり投げてるじゃねえか!」

「…………」



 ――――そろそろ現実と向き合うべきかもしれない。

 亮は天井を仰ぎながら何度か深呼吸をした。そして、思い切り息を吸い込み――


「なんでオマエがここにいる!!?」  


 朝の第一声にしては大きすぎる声で、目の前の男にそう叫んだ。


「失敬な、俺だけじゃなくて浅見もいるぞ」

「単数形だろうが複数形だろうがどうでもいいっ! なんでここでパンかじってんだ!?」

「ああ、これ朝飯。俺ってパン派なんだわ」

「パンを食ってる理由じゃなくて、オマエがここにいる理由聞いてんだよ!!」


 ベッドの脇でのんびりとパンをかじってる男――伊藤に指を突きつける。


「俺がここにいる理由なんて決まってんだろ。ここ俺の部屋だし」

「――オマエの、部屋?」

「うん。ここ、伊藤ちゃんの家だよ」


 部屋の奥からひょっこり顔を出してきた浅見が後を続けた。

 言われて部屋を見渡すと、確かに自分の部屋ではなかった。

 ベッドは不必要な大きさを誇り、家具や調度品は明らかに自分の部屋には置いてないものだ。ついでに言えば、この部屋は亮の自室の三倍ほども大きかった。


「伊藤の家って……なんで俺がオマエの家で寝てるんだ?」

「――なんも覚えてねえのか、亮?」


 伊藤が神妙な顔つきになる。普段がおちゃらけている分、一度真剣な表情になると周囲の空気を変えるほどの存在感を放つのが伊藤という男だった。


「どういうことだ。説明しろ」

「……あとで説明してやっから、今は寝ろ。気づいてないだろうけどな、今にも倒れそうな顔色してるぞオマエ」


 伊藤は掌でトンと亮の胸を押した。軽く押されただけであるにもかかわらず、亮はそのままベッドに倒れこむ。


「ほれみろ、ヨロヨロじゃねえか。わかったらさっさと寝ろ」

「今はそんなことより――」

「だーかーらー、説明は後でちゃんとしてやるっての! 寝ねーと説明しねえからな」


 やや目をつり上げつつ、ビシッと指を突きつけて伊藤はそう言った。

 こうなっては寝ない限りは意地でも説明しないだろう。亮は溜息をついた。


「――わかったよ、寝る」


 諦めて目を閉じる。

 一度決めたことは意地でも突き通す伊藤の性格を熟知しての判断だった。


「俺らは隣の部屋にいるから、なんかあったらすぐ呼べよ」


 パンを食べきった伊藤は立ち上がり、扉のノブに手をかける。


「――伊藤」

「あん? なんだ優等生」


 振り返った伊藤の顔は、再びいつもの表情に戻っていた。


「――ありがとう」

「……なにがだ?」

「いや、なんとなく礼を言うべき状況なんだろうと思ってな」

「――ったく、律儀なこと言ってないでとっとと寝ろ」


 ポリポリと、照れくさそうに頭を掻きながら伊藤は部屋を出て行った。

 ほどなくして眠気がやってくる。どうやら言われたとおり、大分疲労しているようだ。


(……アレも、夢だったのか?)


 まどろみの中、一人となった部屋でひどく不確かなそれを思い返す。

 現実味の無い、しかし記憶に深く残っている、『狂痛』の最中の出来事。

 闇の中で名も知らない誰かと対話をした、夢か現かもわからないその記憶。


(どこからどこまでが本当なんだかな……全く)


 何もかもが――ともすれば、ここにいる現状すら夢のように思えてしまう。

 夢と現が入り乱れた記憶を整理し始めることには、亮は再び夢の住人となっていた。






















「寝たぞ。説明しろ」

「起きたなりそれかよ……。むちゃくちゃ直球だな、優等生」


 寝ている間に部屋に戻ってきたらしい伊藤は、呆れ顔でそう言った。

 先ほど起きたばかりの亮はそれに構うことなく説明を求めた。何もかもが曖昧なこの状況下では、せめて現状くらいは確かなものとして把握しておきたかったのだ。


「改めて説明しろって言われてもなあ……。なあ浅見、どう説明したもんだろうな」

「単純明快に説明したらいいんじゃないかな? 単純馬鹿らしく」


 半開きの扉の奥から浅見の声が届く。


「なんかムチャクチャ引っかかること言われた気がするが……まあいっか」

「……いいのか?」

「こういうのは気にしたら負けだろ」


 亮は何とも言いがたい表情をした。

 ある種の真理かもしれないが、そこに辿りつくまでに何があったのかはあまり聞きたくない。十中八九隣の部屋の少女が原因だろうとは思ったが、それは心のうちに留めておいた。


「んじゃ、簡単に説明するとだな」

「説明すると?」

「うむ。暇だから亮でもからかって遊ぼうと思い立って家に突撃したところ、死人みたいにぶっ倒れてるオマエを見っけたワケだなコレが。聡明な俺は即座に病院に連れてこうかと思ったんだが、それじゃ普通すぎて面白みが無いってことで俺の家に強制連行、んでもって未来の名医予定たる俺の直々の執刀で緊急手術。数時間に及ぶ大手術を乗り越え、現在に至る……とまあ、こんなところだな」

「…………」


 未知の言語を聞かされた気分になり、亮は右手で顔を覆った。どこからツッコめばいいのかさえ判らない上に、どこまで本気なのかすら判断できない。ともすれば、どこまでも本気の可能性さえあるのが恐ろしい。


「さっぱり判らん」

「なぬ!? こんなにわかりやすく説明してるのにかっ」


 伊藤は大仰に驚くポーズを取る。それを半眼で見ながら、亮はその台詞の中に一つの事実を再認識した。


「まあいい……。倒れてたってのは本当だろうしな」

「――随分と冷静だな? まず真っ先に驚くとこじゃねえのか、そこ」

「さあ、どうだろうな」


 そこへ、扉奥から浅見が姿を現した。両手にはお盆を持っている。


「お待たせ~。注文の肉じゃがとパイナップルとアップルパイでーす」

「……マジで作ってたのかよ、肉じゃが」

「というか……その組み合わせには一体どういう意図があるのかな、浅見さん」


 病人の朝飯にしてはひどく挑戦的なメニューに、亮はたらりと汗を流した。

 少なくとも病院ではこのような食事は出ないだろう。そもそも、料理のジャンル自体に喧嘩を売りかねない勢いだ。


「あれ、パイナップルとかアップルパイとかが食べたいんじゃなかったっけ?」

「特に頼んだ覚えはないと思うんだけど」

「あれ、おかしいなあ……。寝言で言ってたからよっぽど食べたかったのかなと思ったんだけど」

「寝言?」

「うん。『パイ』とか『起きろ』とか『喰らう』とか言ってたから、起きたらパイナップルとかアップルパイとかを食べたいのかなーって」

「…………」


 普段は寝言を言ったりしないはずなのだが、どうやら今回は違ったらしい。しかしそれでも、その三つのキーワードをそう解釈する人間は、日本広しと言えども一人か二人ではないかと思う。


「パイナップルとアップルパイは判ったけど、この肉じゃがは……?」

「伊藤ちゃんが肉も食べた方がいいって言ってたからだよー。私も、栄養が偏りすぎちゃうとダメかなって思って」

「えぇと……いや、やっぱいいや」


 ――前々から思ってはいたのだが、やはり浅見さんはどこかズレている気がする。確かに栄養が偏るのは良くないが、このメニューは違う何かが偏ってしまっている気がする。

 もっとも……ズレていると言っても、いつも一緒にいるこの馬鹿よりは相当マシな部類ではあるが。


「む? 今なんか失礼なこと考えてたな、優等生。ビビッと来たぞ」

「気のせいだろ」


 動物的な直感で何かを察した伊藤を適当にあしらい、亮は浅見からお盆を受け取った。

 『和洋折衷』というより『混沌』といった方が相応しいような組み合わせだったが、せっかく用意してくれたものを無下にするわけにもいかない。たっぷりと時間をかけて食べることにした。








 ――そうして、しばらくは静かな食事の時が過ぎた。

 もっとも、食べているのは亮だけである。浅見と伊藤はベッドの脇にある、やたら高そうなソファーに腰掛けていた。

 二人は既に食事を済ませているらしく、亮の食べている様子を黙って見ていた。じっと見られ続けるのはなんとなく気恥ずかしいものがあるが、空腹だったこともあり食は進んだ。よく考えれば昨晩は何も食べていなかった。

 食べ続ける横で、やがて意を決したように浅見が口を開く。


「ねえ、三崎くん。そろそろ、私達にも教えてくれないかな」

「教えるって……何を?」

「決まってんだろ、亮。オマエが倒れてた理由だ」


 亮の箸を動かす手が止まる。


「……なんでもないよ。多分、疲れてただけだ」

「――本当?」

「本当だよ。嘘を言っても仕方ないだろ、浅見さん」


 自然に見えるように努めて、亮は返事をした。

 伊藤が胡乱うろんげな視線を向けてくる。完全に信じてられていないようだ。

 もっとも、こちらとしても信じてもらえるとは思っていない。だからといって真実を告げるわけにもいかない。この二人に話せるのは――事実までだ。

 真実が突拍子もない話だという事を差し引いても、この二人にそれを教えるわけにはいかなかった。この二人を巻き込むわけにはいかない。だからこそ――数日前にはあえて突き放したのだから。


「判ったよ、とりあえずはそれで納得しといてやらぁ」

「伊藤ちゃん――」

「しゃあねえだろ。こうなったら意地でも話そうとしねえだろうしな、コイツ」


 ジト目で見てくる伊藤の視線を外す。

 当然といえば当然だが、やはり機嫌を損ねさせてしまったらしい。


「んで、病院はどうする? 一応、俺ン家の医者には診てもらったけどな」

「いや、病人には行かなくていい……。それに、それじゃ普通すぎて面白くないんだろ?」

「うるせえっ」


 今度は伊藤が目をそらした。

 言動こそ不可解極まりないような人間だが、その行動指針には芯の通ったところがあった。恐らく病院に連れて行かずに伊藤家の医者に診せたのも、こちらの事情を気遣ってのことだったのだろう。

 苦笑しつつ思う。全くもって、伊藤将義という人間は――


「相変わらず素直じゃないな」

「オマエにだけは言われたくねえよ」


 それを最後に、会話がパタリとやんだ。

 再び右手の箸を動かし、黙々と食事を続ける。


(――――な、に?)


 その動きが、ゼンマイの切れたように止まった。

 自然に動かしていた自分の右手を凝視する。


(右手が……動く!?)


「――? どうかしたの、三崎くん」

「あ、いや……なんでもない」


 慌てて食事を続ける。表向きは平静を装っていたが、内心では混乱していた。


(右手だけじゃない……頭痛も吐き気も、消えてる)


 食事を続けながら、それを自覚した。倦怠感は多少残っているものの、痛みは消えている。まるで、スイッチを切り替えたかのような変化だった。


(また、か……。どうなってるんだかな、この体は)


 前に伊藤たちが家に訪れてきたときと同じだった。あの時も、満身創痍だったはずの体が気づいたら回復していたのだ。それも緩やかな回復ではなく、まるでスイッチを切り替えたかのように突如として体調が回復していた。

 何もかもが、出鱈目デタラメだった。


(考えても判るわけないか……原因からして、ワケがわからないんだしな)


 しこりのように残り続ける不安感を振り払いつつ、箸を口へと運び続ける。

 ふと視線を上げると、浅見がこちらの食べる様子をじっと見ていた。


「ねえ、おいしいかな?」


 正直に言って、料理の組み合わせは無茶苦茶だ。それでも一品一品の味は確かだった。


「あぁ、おいしいよ。ありがとう、浅見さん」


 浅見が嬉しそうに微笑む。何故かその様に、ウサギが連想させられた。

 亮は肉じゃがを食べ終えると箸を置き、次はナイフでアップルパイを切り分ける。

 そして混沌メニューを食べ続けた。最後まで、食べた。

 二人はその様子を、ただじっと見続けていた。












To be Continue












作者の蒼乃黄昏あおのたそがれです。

小説を読んでいただきありがとうございました。

簡単な一言でいいので、ご感想を頂けると嬉しく思います。

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『第零話:終わり逝く世界』をお送りさせて頂いてます。






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第三十二話 : 夢見

















汝が悲劇は廻り続ける


汝が罪を請け負う限り