それは幾つかの偶然によって起きた幸運な出来事だった。
 砲撃が直撃した扉や壁は最奥の所在を確実に隠蔽する為に分厚い構造になっていた事。
 大地の精霊の加護も付加して更なる対策が施され、厚さと相まって城塞並の堅個さとなっていた事。
 見知らぬ少女が扉の直ぐ傍で無く、少なからず奥へと足を動かしていた事が生存に繋がった幸運なのだった。

 並大抵どころではない設備を大きく穿っているのだ。市街地に存在するどんなに頑丈な物体を盾にしたとしても破砕される。
 今、目の前に生まれた砲撃跡地には破壊し切れずに大きく抉られた状態で扉は消滅、出入り口であった場所の壁は抉れていた。
 火薬やイオンの匂いが現場に漂っていない所から純粋な物質砲弾を使用していたのが窺える。

 それを踏まえるとすると、やはりこの少女が軽い外傷のみで済んでしまったのは奇跡と言える。
 砲弾の用途は単純には二つ。着弾と同時に破裂して標的及びその周囲を破壊、もしくは着弾物を抉り/貫通して内部目標を破壊。
 前者の破壊跡は広範囲となり、後者の場合は直線状に抉れる。そしてこの砲撃は前者と言え、砲弾の破片が大いに飛散しているのだ。
 それも全方位に万遍無く、音速を軽く超えて瞬時に飛来するのだ。それを間近に無防備で居た人間が生存出来るはずが無い。

(――――)

 脈や外傷を確かめてみても衝撃によって気絶しているだけであり、この少女自身は今自分の身に起きた奇跡を知らずに意識を失っている。

「その娘の容体はどうなのだ…?」

「大した傷は見受けられない。気絶してるだけ」

「…そうなのか?」

 二人はエリスが咄嗟に展開した障壁により無傷で終わっている。
 エリスは不思議な表情で気絶している少女の顔を覗き込むと確かに顔色はそれほど悪くなく、少し唸っていた。

「――行く」

「うむ」

 そうしているとリンクスの急かす声にエリスは顔を上げる。その瞳は何所までも力強く、前回の襲撃で彼女の心構えを強固に仕立て上げた。
 自分に何が出来るか、何をすべきか。まだ何一つ知らないものの、覚悟は確実に彼女の中で育まれている。
 例え今、この少女をこの場で見捨てたとしても、彼女は迷わずに背を向けて外へと駆け抜けていけるのだ。丸腰の現状で、自衛が精一杯なのを履き違えない。

 再び書物館の室内へと戻ると周囲は閑散とした、来た時と変わらない空間が広がっていた。
 変化があるのは爆発で扉の周囲一帯が舞っている粉塵が溜まっていた埃と混じって空気が酷く淀み、砲撃が建物を貫通したという証拠の穴が少し高めの壁面に生じているのみ。
 それ以外には何も窺えなかったのでエリスは少し拍子抜けしてしまう。では先ほどの攻撃は一体何だったのか? そう考えずにはいられない。

「流れ弾。目標を外した攻撃なのかも…」

「何とも傍迷惑な。しかし何故この場所が攻撃を受けぬのかのう?」

 建物越しに聞こえてくる爆音はあらゆる方角から届き、その数も距離も実に様々。町全体を攻撃しているのは間違いなく、この施設だけ攻撃の手が及んでいないのは奇妙。
 襲撃者が徐々に迫っているという解釈は空から轟く数々の轟音によって否定出来る。ギルの町では空から襲撃者が訪れたのだ。今度も如何様な手段によって空より攻撃の手を打っていると見える。
 それでも攻撃が来ない。この施設は周囲の建造物の中でも特異な形状をし、狙うとすればまず手始めとして狙い易いはずなのだが…。

「…離脱が先決。まずは荷物の回収を」

 考えても仕方が無い。一度呼吸を整えて駆け出す。何時までも着弾地点に留まっていたら人に見つかってしまう。
 既にエリスの耳は解放されていつもの様に尖って露出をしている。見つかれば余計な面倒事が増えてしまう事請け合い。
 しかしその考えも横を走るリンクスを見ると、そう考える自分が滑稽と思えてしまうのは仕方が無い。

「どういう了見でその娘を連れているのか説明は貰えるのだろうな?」

 正確にはエリスの視線は彼の背に負ぶさっている気絶している少女。何故かリンクスはこの少女を放っておかずに連れていたのだ。それが全く理解出来ない。
 気を失っている人間など足手纏いであり、ましてや見ず知らずの相手ともなれば尚の事。
 未だに攻撃の手がこの場所に及んでいないのだから、あの場に放置しても誰かが発見するのは時間の問題だけであった。

 だのに彼は背負って走っている。エリスが見捨てておけずに自身が連れて行こうとするのはあり得たかもしれない。
 しかしリンクスがその行動に出たのは全くの予想外で意図が理解出来ない。彼ならば絶対に見捨てる選択を選ぶとエリスは踏んでいたのだ。

「この娘は、戦場における運を持っている」

 そしてその返答に含まれている意味も理解出来ない。

「助かるはずもない状況下で、この娘は生き延びた。それに留まらず、単なる気絶で済んでいるだけ。
 戦場では奇跡ほど信用出来ない状況は無い。でも『運』は存在する」

「戦いの場にその様なモノが必要というのか…」

「違う。戦いでは実力が全て。運とは生き残る為の事象を引き寄せる可能性を示す。
 事象には連続性があり、幸運が続く強運な者ほどその傾向にある。なればその存在を手放すは逆に損。現状で何ら情報が無い中で運を手にするのが何よりの強力な手数に出来る」

 抽象的な表現にエリスは理解が追い付けないが、概要は理解した。この少女は運が良くて生き延び、彼はその幸運に肖ろうとしていると。
 合理的な考えとは言えないが、無いよりはマシなのは確かである。やはりリンクスの行動は理解し辛く、自分がまだまだ未熟であると痛感する。

 人目を避ける為には正面口の他を探す必要があったが、二人はそれが億劫とばかりに窓を裂いて外への道を作った。
 魔法が行使出来るエリスにより風の刃で切り裂いたので割る時に発生する甲高い音は起きずに悠々と脱出を成功させる。
 常時であれば即座に警戒態勢に移行されるかもしれないが、既に先の砲撃により警報が発令されているお陰で把握はされていない。

 例え気付けたとしても町の現状では巧く機能をしないのは必至。半ばより倒壊した家屋は数知れず道の塞ぎ、破砕地点では今も現在進行形で黒い狼煙を上げ続いている。
 絶え間ない人々の悲鳴も炸裂音に掻き消され、集権都市だけが有する巨大かつ圧倒的な秩序が崩壊していた。

 空は常に轟く怪叫(かいきょう)の鳥が地を焼き払う吐息(ブレス)を放ち、地上では咆哮と共に放たれる風の弾丸は何人も近寄らせない。
 勇猛なる戦士がその中を掻い潜り、四足の化け物に斬撃を見舞うもその装甲を切り裂けず、体を掴まれて握り潰される。
 集団戦によって終ぞや一体を撃破しても同じ容姿の奴等は新たに姿を現わす。彼らは知らないのだ。地平線を黒く塗り潰す程の進攻していた姿を。
 知っていれば彼らとて絶望しかない不毛な戦いを挑まずに逃げ惑うであろう。そして逃げる事も叶わない現実の中で、他人と同じ運命を辿る事になると…。



 リンクスとエリスが向かう先は宿泊施設。そこに彼らの日常生活品から戦闘装備品の全てが安置されている。
 本来ならば刃物の一つは携帯しているのだが生憎と書物館に通う日と襲撃日時が合致してしまった。不運としか言いようがはないが、致し方が無い。
 逃げるも戦うにしろ最優先事項は装備の確保。街中にある戦闘装備の専門店という手もあるが、既に品を纏めて逃げたり非常時として全て戦いに投入されているのが大半だ。
 だが彼らは残っていたとしても見向きもしない。何故なら攻撃を仕掛けて来ている相手は常識外の敵であるのは彼らは身に染みているからである。

 残り物である鈍な武器で太刀打ち出来るなど毛頭考えてはいない。
 その点での調査もこの世界を知る為に調べたが、リンクスが有する高振動単原子切断刀(HVFダガー)を超える獲物はそこいらにそうそうないのが分かっている。
 それこそ伝説級の聖剣や邪剣が上をいくと考え、国中に知れ渡る刀匠が鍛え上げる最高の一品ならば或いはといった所である。
 下手な装備で対抗するのは危険であり、余計な考えで現状を悪い方向へと持っていくのは自殺しに行くのと同じ事であった。

 書物館への攻撃が先の一撃以外に皆無な状況から出足は恐ろしいまでに好調。何一つ攻撃に曝されずにいる。
 付近一帯は上空からの攻撃が無く、遠距離からの砲撃による面制圧砲撃による被害が見受けられるが、人の姿は少ない。
 人々の考える遠距離攻撃とは即ち有視界内の戦闘による魔法攻撃や矢による射撃を意味する。
 そうした観点からすると目に見えない場所からの砲撃は数多の流れ弾か、そうした類の魔術による攻撃としか映らない。そのために住人達は町から逃げ出そうし、自ら死地へと飛び込んで奴等に殺されていく。

 そもそも空からの攻撃が可能な相手なのだ。逃げ場など初めから無いも同然なのを彼らの中で気が付く冷静さを持った者が居たのかは――誰も知る由も無い。
 リンクスとて理由を推し量る事は少ないが現状では安全に街道を掛け抜ける事が出来るのは理解していた。所々の砲撃地点を駆け抜ける一瞬に確認し、相手の出方を推測する。
 幾ら安全地帯が存在すると分かっていてもそれがどれ程の範囲で、そしてどの様な行動で上空からの攻撃を受けるのか判断し切れないのが現状。
 それが道を走る先に件の獣が活歩していたとしても/そいつが遠目ながらも此方に気が付いたとしても/力強い走りで高速に接近していたとしたらどう打って出るのか――

 頭部の砲身が先頭のリンクスに向けられる。容姿は肉食獣に属するであろう姿であるが、眼球は草食動物に近い顔の側面に付いている。
 顔の全面に付いている肉食獣は他の動物を捕食する為に距離感を重視し、襲われる側の草食動物は両側面に付けて視野を広くする事で監視範囲を重視した結果とされている。
 では砲撃の際に重視すべき瞳の付け所は何処であるのか? それは距離感が必要となる顔の前面にあるべきなのだ。

 故にリンクスは後ろに伸ばされた手をエリスが掴み、それを引っ張って緩やかに進行軸をずらした。
 地上の生き物は横に強く縦に弱い。そして速いものには刺激的に反応し、緩やかなものには反応が遅れる。

 砲身よりその筒の大きさに見合った弾丸が放たれる。音速より速いそれの轟音が二人の耳に届く前に千切れ飛ぶ事となる。
 されど彼らには弾が真横を通り過ぎて遥か後方の曲がり角の家を爆砕する。二人には衝撃波に皮膚を引き千切られる錯覚を覚えさせたのみ。
 そのまま一撃を避けた二人はもう一歩で懐に飛び込める地点で屈み込み、獣もそうであろうと判断をして腕で薙ぎ払おうとする。

 その薙ぎ払いは石畳の大地を抉るが本来あるべき対象は空を切るのみ。獣は二つの瞳を生物ならばあり得ない左右が独立して動かしている。
 しかしそれでも対象は捉えられない。何故なら二人は左右()ではなく、獣の上()へと跳躍をして方向先の建造物の内部へと隠れたのだから。
 その場に隠れてやり過ごす事はせず、更なる奥へと進入して窓より裏道へと入る事で追撃をかわした。

 屋上の屋根伝いでは空を警戒している奴等に容易く発見をされてしまうので、完全なる陸路で道なりを行くしかない。
 倒壊・炎上をしている建物に未知の通路を通り、その上相手に発見されずに目的地に辿り着くのは並大抵の危険行為ではなく、無謀の領域である。
 裏道の終着点で立ち止まり、浅く覗き込んだ先には同型の獣が複数体。これがこの町の現状であり、覆せない現実。

「―――」

 壁が崩れて零れて足下に落ちている拳二つ分の大きさの煉瓦を手にし、高く投擲する。煉瓦は獣の頭上――此処一帯の平均的な建築物の高さ程――を通過していく。
 奴らの広範囲の視界は伊達ではなく、即座に空を飛翔する煉瓦に気が付いて皆一斉に空を見上げる。だがどれも攻撃をしようとする者は居なかった。
 空を見上げた事で地上の地面付近の視界は疎かとなり、その隙に街道を即座に横断。無論、奴等の目が彼らを捉えるも、数瞬の遅れで攻撃は掠らずに通過を許してしまう。

 追撃しようにも既に家の中から新たな裏路地へと消えていったために完全に姿を見失う。
 絶対的に無理で無謀な行為もリンクスの手によって活路が見出され、エリスはそれに何一つ疑う事なく追走する事で道を切り開いていた。
 それでも彼女にとっては冷や汗もので、行動を一つ取るにも一瞬の遅れが死に直結している行為ばかりなので安堵する余裕も無い。

 先頭を行くリンクスを見続けていたエリスだが、彼の行動に何一つ躊躇いが無い事に感嘆の念を抱かずにはいられない。
 先ほどから呼吸の乱れや疾走に衰えが一つも見せないのだ。一つ一つの動きが完全なる戦場を駆け抜ける戦士(いくさびと)のそれだと行動で見せている。
 彼が止まるのはほんの数瞬で、道の曲がり先に奴等が居る時に限るのだが、それは突破する策を練る為であるためという驚きの突破力を見せつける。
 窓を通るにも動きに戸惑いも躊躇も無い、暗殺者(アサシン)の如き隠密性で家々を横断していく姿に不謹慎ながらも学べる事が多分にあった。

「――到着」

 一体幾度奴等の攻撃を掻い潜り、血の気が引く思いをしたであろうか。
 何一つ攻撃に曝されていない宿の一室、リンクスが宿泊に取った部屋に着いたエリスはベッドへと一直線にダイブしていた。
 緊張の連続を超えた摩耗の領域で減り擦らし続けていた先に生まれた安息の一時に、意識が簡単に飛びそうになる。
 文句の一つはおろか唸り声も上げらない程に疲れている彼女の様子からは死人のそれと変わらない不気味な沈黙を醸し出している。

「休んでる暇は無い…」

「――――分かっておる……」

 未だに気絶している少女をベッドに寝かし、窃盗にあっていない鞄より必需品を取り出している。
 起き上がるのがとても億劫だと如実に体現させた動きで起き上がったエリスは彼のナイフを一本と白銀色の刃を持つダガーを受け取った。
 リンクスとて自身の武装のナイフを二本とも貸すわけにもいかず、エリスに見合った武装を手に入れるまでは一本が継続する。

 エリスの小柄な体系にしては力強い部類に入るのだが、それでも叩き斬るよりも流して裂くという行為に近い為に彼女に見合った得物がそうそう見つからずにいる。
 この世界の武器は精錬精度が低いので叩いて強引に引き裂くという言葉に相応しく、エリスの攻撃手段では刃で叩くという事になる。
 癖は人それぞれではあるがエリスはそれが顕著に現れており、リンクスの世界で戦闘用に使用されるHVFダガーでしか威力が発揮出来ないのが現状。

 硬度と洗練されている刃であると評判のミスリルのダガーを試しに使用しているが、不純物が多い不良品(リンクス視点での話である)なのでやはりエリスの実力を発揮するに至らない。
 HVFダガーとて彼女に見合った得物ではなく、単に切れ味が他に類を見ない点で優秀だからこそ現時点で一番使い易いとしている。
 そしてリンクスの愛銃40mm口径砲身イオン推進狙撃銃(サジタリウス)が彼の長年を共にする得物であった。長い砲身の為に全長が2mを優に超し、それを隠す為にこの巨大な鞄を使用していたのだ。

 荷鞄から愛銃を取り出した他に小さな鞄を中より二つ取り出す。一つには最低限の必需品と金品を詰め、もう一つには彼の装備一式が詰まっている。
 有事の際にこの大きなカバンは盾にするには無駄に大きい為にこうして何時でも破棄出来る状態を維持していた。

「…行こう」

 装備する時間も惜しく、この場が何時までも安全とは限らない。此処に居る人々が勝手に安全な場所だと認識しているだけである。

「良いのか、商売道具を丸々この場に置いていってしまっても…?」

「構わない。脱出に不必要な物を持てば邪魔にしかならないから」

 渡された一つの荷物を背負いながらの問い掛けは意図もあっさりと返されてしまって蛇足だと明確に感じさせる。
 置き去りにされる印象深い荷鞄の中にはまだ多くの物品が内包し、各地の珍しい物・希少な物が詰め込まれている。
 エリスが背負った鞄はその中でも最重要な物を選りすぐっているのは理解するが、やはり勿体ないと感じてしまうのは状況が切迫している事を未だに理解していないためなのだろうか。
 此処までの道のりは嘗てない背筋を凍らせるものであったが、それを脱したと思う気持ちがまだ未熟なこの身が緊張を緩めてしまっていた。

「――来た…」

 窓を開け放ち、リンクスはそのまま上へと上って行く。エリスは驚いて窓から顔を出して見上げると、壁面の出っ張りを器用に指に掛けて屋上へと消えていく姿が辛うじて見えた。
 エリスも後を追って同じ様に上って行く。彼女は森の中での生活に木登りは日常で鍛え上げられているので、些細な出っ張りも上る材料として十分であった。
 人が壁をよじ登る姿に眼下の人々の幾人かが気が付いているが、最早エリスが姿を隠す必要は無い。この状況下でエルフがどうとかを問う程に悠長な事態ではないのだから。

 赤い瓦が敷き詰められた斜めに傾いている屋根。屋根裏であると主張する天開きの窓が屋根を突き出るように存在する平坦な場所。
 元より一際高い建造物の施設の屋根は強い風が吹き抜けて行き、街中である場所が高さを変えた事で赤い草原がぽつりと町の中で隠れていた。
 そんな原っぱの中で一人の青年が黒い筒と鞄を背負って空を見上げている。その眼光は澄み渡る晴天を見詰める穏やかさなどではない、獲物の動向を見定める狩人(ハンター)である。

 徐々に大きくなっていく重低音の轟音にエリスは漸くリンクスの意図を理解した。彼の視線の先を追うと当然そこには空を飛ぶ黒鳥が真っ直ぐ近づいて来ている。
 『アレ』は今にしてみれば漸くこの安全地帯を急襲しようとしているのだ。誰が此処が安全な場所だろ言ったのか――それは人であり、攻撃を仕掛けた奴等では決してない。
 では何故今まで攻撃をしない場所を有していたのか。簡単な事だ。森の中での狩りで使う常套手段。狙った場所に獲物を誘き出して確実に捕らえる囲い。

 『 罠 』

 だがこの響く音は密集する建造物に阻まれ、そして他に響く砲撃音や人々の混乱した騒音に気がつく筈も無い。
 当然空からだけでなく地上からも奴等は迫って来ている事だろう。包囲され尽くした中で、初めから無かった活路を奴等が絶望を届けに来たに等しい。

「―――」

 リンクスが空いている手で鞄の中を弄り、長方形の細長い黒い箱を一つ取り出した。その形があの実銃の箱と酷似している様に見える。
 そう考えると彼の身の丈を超える黒い筒は実銃と似ていると見えなくも無い。あのオーク達と同じ様に弾倉を装填、コックを引いて腰を落とした。

 筒先を接近し続ける黒鳥に向けられて静止。少ししても何も起こらず、鳥はその姿を大きくしていく。
 その姿は既にエリスの肉眼ではっきりと捉える事が出来、異常であると直ぐに理解出来た。何一つ羽ばたく事も無く、日の光を反射する背中が非常に金属の光沢に酷似している。

 ――――!!!!

 肌を引き裂く衝撃。その直後に劈く爆音が真隣より轟いた。以前に一度体感した感覚。
 しかしあの時は元々轟音の鳴り響く中での発生だったために今みたいに膝を付いてはいなかった。
 地上でも音に気が付いて人間達が騒いでいるが、エリスは三半規管が麻痺して屋根から落下しないでいるのがやっとである。

 その間に黒鳥は非常に近い空を通過していく。先ほどまで無かった黒い煙を吐き出しながら、突風を残して遥か向こうの町の中へと消えていった。
 遅れて届く爆音。その発信源では黒鳥が墜落して炎上する巨大な黒煙が空を染めていく。周囲を見渡せば、既に近い空を旋回していた他の鳥が迫って来ている。
 当然だ。落とせるはずも無い仲間が初めて落とされたのだ。不安分子の芽は迅速に対処するに越した事は無い。

「エリス」

「な、何だ…?」

「彼女を連れて町を出ろ」

 聴覚が回復して初めて掛けられた言葉に難色を示す。

「貴様はどうするのだ?」

「…ん、用事を済ませてから町を出る」

 そうして手に持つ筒を城へと向けられる。最も狙うであろうはずの巨大な建築物が未だに威風堂々と顕在している。
 奴等の狙いはやはりこの町の中枢なのはあながち的外れではないのだと、最後に料理するのだとばかりに何一つ攻撃に曝されていない。
 そんな場所に彼が向かう理由とは何なのか。エリスにそれを計るほどにリンクスを理解出来ていなかった。

「何をしに――――いや、合流地点はあの森の中であるな。
 中に入れば此方の領分、入る場所を問わずして妾は見つけて進ぜる故に有り難く思え」

 言葉して問えば答えを返してくれるだろう。だが、それを知った所で自身に何も出来る事は無いのは言わずもがな。だからこそリンクスは逃げろと言っている。
 ならば出来る事をするまでである。この町の近郊に森林地帯があるのは地図上でも確認している。森の中の如何なる場所でも風の精霊の加護のあるエリスならばリンクスを見つけ出せる。
 故に言葉を飲み込み、いつもの様に胸を張って違う言葉で宣言をした。

 “待っているのだから必ず戻って来い”と。

 そして彼は答える。

「…了解」

 肯定で答えてくれた。
 エリスは力強く頷き、屋根伝いに去り行く彼の背中を最後まで見届ける事なく室内へと戻る為に背を向けた。
 お互いが意図的に離れるのはこれが初めてであろう。いや、彼は初めからエリスの存在を眼中には入れていなかった。
 彼女がリンクスから目を放してしまうと既に一人で先へと進んでいたのだ。彼女はその後を必死に追い縋っていた。

 だが今、彼は彼女の居る場所に帰って来てくれると言ってくれた。エリスが彼の進行先に佇んでいるのでは無く、分たれた道の先に再び道が合流するのだ。
 背中を追い続けていた。決して届く事のない背中だが、手を伸ばして初めて彼の手を掴む事が出来たと思えてならない。
 嘗てない心の高揚感と胸の高鳴りにエリスは嬉しさを痛いほどに感じている。そしてその手をしっかりと掴み取る為には、自身が必ず生き延びなければならない。

 再び部屋の中へと戻り、鞄を胸に寄せて未だに眠り続ける眠り姫を背負う。エリスより長身だが引き摺るほどではなかった。
 直ぐに追撃は来る。階下の人々を救う手だては無く、彼らは蹂躙されると分かっている。
 彼らを見捨てる。それは罪であろう。己が為に他を捨て、捨てる事で己が為す。

「―――済まない」

 懺悔は済んだ。開いたままの窓をとても落ち着いた眼差しで見据え、助走をつけて窓枠に足を掛ける。
 そして跳躍。女の子を一人背負っていての跳躍であるが、それを感じさせない力強い跳びであった。
 道を挟んだ先の家の屋根に着地すること数瞬後、背後の宿泊施設に数え切れないほどの砲撃が命中して吹き飛ばされていく。



 地上戦闘が主だった過去に、航空戦力は絶大な威力を誇っていた。空から見る地上は任意の場所を狙いたい放題で、制空権を獲得する事こそが戦いを制するとまで言われていた。
 だが時代が進むに連れて地上からでも対抗出来る兵器が登場し、高高度の空が既に黒色の空の領域であっても撃墜が可能になるほどに発展してしまった。
 特にレーザー兵器や電磁加速砲(レールガン)の登場によって戦闘機の機動性でさえ回避が困難な領域にまで達したので時代は再び地上戦が主体の時代へと戻ってしまう。

 ステルス無人機の存在があったからこそ辛うじて航空戦力が戦いの場を未だに有しているが、時間の問題であるのは明白だった。
 そのはずの航空戦力は、この世界において当然の結果を顕著な形で成果を上げ続けている。そして元の時代の帰結へとも辿っていた。

 リンクスは今走っている屋根を蹴り、隣の屋根へと移動をする。彼の走っていた個所を通過する弾痕。その一つの丸の大きさは優に親指ほどもあり、直撃をすれば即死は免れない。
 空が一瞬だけ陰ると直ぐ上空を航空機が通過していくと劈く音と荒れ狂う暴風を置き去りにしていく。ジェットバーニアではなくジェットタービンなのは既に切り裂く音の違いで判別はついている。
 胴体下部の両脇に抱える形で二基設置され、駆動範囲が広く取られている構造から滞空が可能なのだろう。旋回においてもノズル(推進炎噴出孔)が駆動すれば機動性も格段に向上する。

 翼から一筋の雲を描いて戻ってきている。進行方向からであるが、足は決して緩む事は無い。
 両翼に接続されている筒状の物体から白煙を引く何かが発射された。それと同じくして疾走するリンクスのサジタリウスからも銃弾が放たれる。
 一対のナパームロケット弾は無誘導で直進し続け、リンクスの進行先に見事に着弾をして爆発。ジェル状の爆薬は慣性に従って後方へと爆発領域を拡大、初期爆発の何倍もの領域を業火に包んだ。

 そしてリンクスの一撃は航空機のタービンエンジンのエアインテイク(空気吸引口)へと吸い込まれ、機体を激しく振動させて片エンジンが暴発。
 二つの推進により安定性した飛行能力を得ていた機体は錐揉みしながら地上へと落下していき、何処の家に突っ込み、機体を激しく損傷させたために爆発。
 そうでなくとも装備している兵装が損傷したのだからあの灼熱の業火では機体は無残に溶解している事だろう。

 初めから地上制圧の兵装であるがためにちょこまかと動き続ける一人の人間に対する武器ではない。ましてや発射の後は直進しかない。
 故にナパームロケット弾が発射した直後に進行先を変更し、横へと避けたリンクスは無傷で改めて城へと走り続けている。
 航空機を知るからこその芸当。されど知らぬ者にはこの町の結果から推し量る事が出来よう。

 地上へと降りて城へと目指すが、まだ城を狙う段階でないためかあの砲身を有する獣はこの一帯には居ない。
 航空機は街中へと戻ったリンクスを既に撃破したと認識しているのかエンジン音は近くには無い。
 城へと続く真っ直ぐで大きな街道は人でごった返しており、使えたものではない。しかも城門は閉まっているので巨大な壁面を上る術が無い彼らは路頭に迷う羊の群れ。

 追撃の無くなった彼が城壁へと辿り着くのは容易いもので、ましてやこの世界は重力が弱い。
 裏手に周る時間も惜しく、人々の視界に入らない影が出来ている個所へと勢いをそのままに突っ込む。

 まずは跳躍。これだけで20mはある城壁の半分近くへと辿り着く。
 次に壁を蹴り、疾走の勢いで城壁の窪みに掛ける足場を頑なにさせ、直上へと跳躍。これで残り数mの場所まで届く。
 跳び上がった勢いが無くなる前に手足を巧みに操り、窪みを掻き分ける様に駆け登る。そして城壁の最上部へと片手を掛けて到達する。

 背負い直していたサジタリウスを空の手に携え直し、壁の向こうを顔半分だけ覗かせて確認。
 広大な中庭には噴水や美しい花々が咲き乱れ、花壇は気品に満ちている。但し、整然と並ぶ騎士達の暗黙たる顔ぶれが無ければさぞかし立派な光景だったであろう。
 今の今まで出撃していなかったのは戦局を見定めたためか、それとも保身に走ったためなのか。どちらにしても彼らの出撃が間近なのは確かな様だ。
 ならばその後の城内の警備は極端に少なくなり、潜入が容易くなる。街へと視線を戻すと、何処よりも高い地点に居るために戦局が良く分かる。

 宿泊施設は疾うに燃え盛っており、完全に包囲されているとしか見えない。
 となればこの町の主を脱出させるために騎士達は今待機しているとも捉える事が出来るがどちらにしろ、不可能に近い。
 城門前のごった返しは城掘りの橋まで進入させない様に警備が厳重に敷かれており、抗議する人々の波に警備員はたじたじだ。

 彼らの押し問答を軽く眺めていると門直上の物見台から甲高い鐘の音が鳴り響く。
 その数秒後には城門が重苦しい音を鳴らして開放されていく。中を見れば騎士達だけでなく、魔術師であろう者達が城門へと歩き出している。



 さて、何処まで奮戦できるのか見させてもらおう。






 結果を言えば彼らはよく踏ん張れたのだと言えよう。だが相手を知らな過ぎた。
 魔法の領域を超える遠距離からの砲撃。空からナパームロケット弾に機関砲の掃射。
 手も足も出ないで死に絶えた騎士と魔術師は過半数を突破しているだろう。そして残りの者達は言わずもがな。
 それでも相手の数を減らせているのは大したものではあるが、空への対応は魔術師の魔法による牽制が精一杯。

 仄かに燃え立つ陽炎は所詮は儚く、一薙ぎの風で胡蝶となる。
 あれらを相手にして善戦をしているが所詮は善戦でしかない。戦線を押し返す事も維持する事も出来ない悪足掻き。
 人の意地を持ってして散り行く命達であるが、決して無駄ではないと言えるのは一つだけある。

 彼らが出陣した為に城内の警備は手薄となり、リンクスが侵入するのを極端にし易くなった。
 そして『目的』を果たした後は城門を駆け抜け、混線している場所を避けて通る事で脱出を簡易化してくれている。
 知らずの内に彼らは人身御供として役に立ち、戦線の穴を通って外への活路を突き進む。

 その中でも街を徘徊する数多の砲頭獣(カノンウォーリア)と遭遇する確率は常時高い。
 高速のまま街道の角を最短距離で曲がった瞬間にぶつかる視線。そして薙ぎ払われる黒い腕が角の家の壁を粉砕する。
 その間にHVFダガーの一閃を喉に叩き込み、血飛沫を噴出させて崩れ落ちさせる。複数体が間近に居たので他を足の腱を切り裂いて行動を大幅に制限。

 斬撃の手が届かなかった一体が走り去るリンクスの背中を捉え、撃ち壊す行為を実行する為に射線軸の先を重ね合わせる。
 彼は体を一回転させる。その際に銃を構え、トリガーに指をかけ、引き金を引いて発砲をした。360度回転し終わった時には回転前と同じ姿で疾走を続けている。
 撃ち放たれた弾はリンクスに向けられた砲身の中へと吸い込まれると見紛う程に真っ直ぐに進入して、カノンウォーリアの砲弾に着弾した。
 砲身は千切れ飛び、砲塔の頭部は跡形も無く吹き飛ぶ爆発で仲間を巻き込んで死に絶えた。

 城から街を囲う壁まで既に半ばを越している。呼吸の乱れも無く疲労も見せないので順調そのもの。
 航空機はこの町の軍の掃討に全てが回り、カノンウォーリアも包囲網を狭めているので接触率が極端に下がった。
 前方は廃墟の静寂を、背後からは断続的に轟く爆音が木霊す対照的な状況が現時点を戦場より離れていくのを顕著に現わす。

 戦いの爪痕は人が最後まで抵抗する希望を踏み躙るかの如く打ち砕き、復興への道を閉ざす杭を打ち込む。
 破壊尽くされたならば呆然とする人々を先導する者が現れれば一筋の光となって道は開く。されど原型を半分近く残された建物の残骸ばかりでは解体に時間が掛かり、何より凄惨さが目に映る。
 人は目に見たものを信じ、そして関連付けをして認識する。

 砕かれた家であった建造物

 壁の血糊

 抉れた地面

 人の屍

 咳き込ませる煙と異臭の発生源

 視界に広がるあらゆるものが情報として目に映り、認識される。それを知覚するかしないかで始めに別たれ、その先も様々に分割される。
 当たり前のものは当たり前の風景とし、見知らぬモノならば注意深く観察をして確かめようとする。理解不能な事やモノであれば思考が停止してしまう時もある。
 知覚も認識も出来ていても認めたくない事柄であればそれを忘れようと拒絶な態度を取り出す――――ではこの光景を人はどの様に認識をし、知覚するのだろうか。

 地面に突き出る様にして立ち並ぶ建造物群が次々と縦横無尽の直線に沿って崩れ落ちていく光景。
 荷馬車の台車の車輪が脱落し、荷台も屋根も無く鋭利な刃物で両断したかの如き裂け口が至る所発生し続ける。
 建物が三角の積み木で積み上げられたのが台座を崩されて崩落する様が新たに起こり、崩れた衝撃で起きる粉塵が周囲に立ち込めていた。

「――――…!」

 突如として始まった現象の根源に居続けたリンクスは砂塵のカーテンが一筋揺れるのを見逃さずに横に跳ねる。
 煙を脱出して次の建物の陰に隠れるもさらに加速して離脱を図る。が、突然仰け反る様にしゃがみ込み、そのまま壁を蹴って減速を補う。
 その間に頭上を何かが通過し、減速したままであったならばの場所にも同様な事が起きる。そして路地裏両脇の建物が重苦しい擬音を奏でて崩れていく。

(――単原子ワイヤーの類…)

 脇に置かれている酒樽の脇を通過。直後に酒樽は分解の領域で切り裂かれて中身をぶちまけた。
 壁を蹴り、窓を破って侵入した部屋を斜めに進んで隣の家へとコンボで窓を突き破る。部屋は微塵切りにされ、その階層は陥没。隣の家も同様の道を辿る。
 彼が通過する後は全て何かに切り刻まれて原型を留める事は無い。時には進行先で先回りをされて粉微塵に分解されている。

 HVFダガーで虚空を振るう。金属同士が衝突する高音が鳴る。
 台所である場所で置かれている包丁を片手で二本挟み込んで投擲。切り裂かれながらも刹那の閃光とともに飛散。

(…そして刃物付き)

 リンクスの動きは逃げから徐々に迎撃へと移行されて行き、遂にその手の蠍を奢る槍(サジタリウス)が放たれる。
 イオンの電極に帯びた弾丸は容易く腐食させた壁を突き破り、遥か彼方へと直進していく。
 張り詰めた空気の中で静寂が訪れる。彼が存在する建物は一向に崩れる気配も無く、沈黙だけが残された。

「――――」

 痛みすらも覚えさせる静けさが、先ほどまでの破壊と攻防が過去に起きていたのかすら疑わせる。
 大河の流水が突如としてその流れが止め、鳥の囀りや木漏れ日の音すらもその瞬間に消えてしまう刹那の間。
 時が経つ感覚は時として早く、そして緩やかに。張り詰めた空気は否応なく世界の狭間を垣間見させる。

 一瞬の輝きを見逃さず、身体を横に逸らす。遅れた黒髪の先端が切り裂かれ、服にも刻まれる。
 通過したモノはやはり極細い糸。その先端は壁を突き抜けているために確かめようがない。
 張り詰めた状態の糸がそのまま迫り来る。跳躍してやり過ごすが糸の伸びが緩まり、一本一本が独立した曲線を描いて襲い来る。

 HVFダガーで糸ともワイヤーとも判別付かぬ線の軌道を逸らし、先端部分であろう半透明の刃を弾く。
 分子の結合の合間を分裂させて斬る刃とて、同じ単原子構成となれば棒の叩き合いでしかない。糸を切る事が出来ず、刃とて簡単には直角に触れさせない。
 糸の往復で家は自重に耐え切れずに崩落していく。その場より離脱する間も数多の糸との攻防は途切れず、粉塵の舞う中でも相手の攻撃は緩まない。

 完全なる劣勢に置かれていてもリンクスは表情一つ変えず、相手の動きを見定めていく。
 縦横無尽にあらゆる方向から攻撃が迫り、こちらの動きの先を見抜き、誘導すらしようとしている。
 姿見えぬ傀儡の奏者はリンクスを操る人形の刃で戯れている。されど踊らされる者とて人形の糸の先を見据えていたのだ。

 再びの射撃はまたしても虚空を貫く。先ほどと同じく空虚な物を貫くばかりが本懐とするはずが、世界を揺るがす衝撃が鳴り響く。
 そして数軒先の建物が盛大に吹き飛ばされた。爆炎も爆風も無いその爆発は異質なものである。音に物が耐え切れずに千切れ飛んだ音の物質干渉現象。
 初めての変化に新たな流れが生じ、時は加速していく。路地の壁が爆発したかの如く突き破られ、巨大な何かがリンクスに迫る。

「――!!」

 避けるにもあまりにも近過ぎた事象に時間が無さ過ぎた。一瞬でそれに接触、人があまりにも簡単に宙を舞う。
 間近の壁に衝突。されど壁が負けて穴が空き、その先の壁でも止めるに至らない。幾つもの建物も貫通して漸く止まる場所は吹き飛ばされた所より100m以上も先であった。
 場所によって支柱を折られて崩れ出した所もあり、勢いの凄まじさが如実に表れている。

「…やり過ぎよ。どう責任を取るつもりなのかしら。あんなに勢いをつけて攻撃する程でもなかったでしょう?」

 白い肌とは対照的な黒く艶のある長い髪に漆黒の瞳。豪勢さは一つも無いシンプルな黒のドレスに身を包む流麗の女性は巨大なそれに姿を現した女が非難の声を掛ける。

「そういう割には随分と手古摺ってたじゃねぇか。見てたぜ、銃弾が直撃間際で防ぐに手一杯だっただろ。
 あそこで俺が吹き飛ばしてなけりゃもう一発ぶち込まれてただろ?」

「それでもやり過ぎには変わりないわ。貴方の所為で逃げられるだけの距離と時間を与えてしまったじゃない」

 直線に貫通された先を見据えた先は見えないが、盛大に吹き飛ばしたために追撃に時間が掛かるのは言うまでも無い。
 巨大なそれは「あー…」と言い訳の間を作り、やっちゃった感全開で苦笑いをするが女性の機嫌を損ねたのは直らない。

「わりぃわりぃ。だが俺達の仕事のプランに抵触するわけでもなしに別にいいじゃねぇか」

「…………そうね。それなら貴方の血で我慢する事にしましょうか」

「いやホントに済まなかった誠心誠意謝るから勘弁してくれ」

 ジト目で睨まれてへこへこと頭を下げる巨体。女性はそんな姿を「ふんっ」と一瞥して歩き出す。
 その後ろ姿に安堵の溜め息を零し、のそのそと後を追従する。

 二人の会話に今まで幸運にも隠れ続けていた一人の人が顔を出した。
 助けが来たと勘違いしたその人は歩く二つの影を見る前に分解されてしまう。
 崩れ落ちて赤い水溜りの中に肉の塊を加えた野犬の餌を形成する。

「足りないわね。こんなんじゃ全然足りないわ」

 手の持つ半透明のナイフに付着する赤い液体を啜りながら女性は呟き、巨体の方はその姿に呆れ顔で溜め息を吐く。

「おめぇのその渇きはどんだけ人の血を啜れば満たされるってんだ、ブラッド(・・・・)?」

「私の心が満たされるまでよ。分かってるはずじゃない、ガルム(・・・)





 日が地平線へと沈む頃、ウルドは空と同じ茜色の炎を発している。
 遠くからも町の象徴である城が紅蓮に染まり、黒煙が華々しく新たな支配者の存在を教えていた。
 再び日が昇ればその時は町が存在しているかどうかは奴ら次第で如何とでも出来てしまう。
 その上、彼ら(・・)まであそこに居たのだから本格的に動き出すのもそうそう遠い未来ではないのは確かだ。

「っかは…」

 喉に詰まっているものを吐き出して気道を確保する。吐瀉物が濃い赤の液体だとしても、彼は見向きもしない。
 確認せずとも現時点における自身のダメージは重々承知している。口から垂れる血を拭う事もせず、ひたすら歩き続けていた。
 普段の巨大な荷鞄を背負って軽々と歩く姿からは想像もつかない重苦しい足取りで腹を押さえて一歩を踏み出す。

 吹き飛ばされたリンクスはインパクトの時に辛うじて荷物を間に挟み、直撃だけは防ぐ。
 数件の衝突は避けられなかったが、後の建造物への激突はサジタリウスで受け止める事に成功した。
 されどリンクスとて無事ではなかった。荷物を挟んでもあれほど吹き飛ばす威力は肋骨を半分以上砕き、内臓も損傷もしくは破裂を起こしている。
 銃を支えた右腕は破砕に近い複雑骨折。左腕は良くて骨折寸前の土砂を水で固めて乾燥させて出来た骨組状態。辛うじて足だけが軽傷で済んでいる。

 停止した場所は何処かの家の中。そうと分かると同時に起き上がり、全力で逃走を図った。
 町の何処からでも確認出来る城の塔より離れる方角へと向かう。当然肉体の損傷の悲鳴が頭を貫くが、決して足を緩める事は無かった。
 既にあれらと戦うための力が無くなった今、逃げる以外に生き延びる術は無い。相手との距離が出来たのは幸いで不可能ではない打算である。

 門は無残な形で破壊され、町の内外の凄惨な死を遂げた人の姿など目もくれずに離脱を果たす。
 完全なる包囲網だったが故に囲いの外は完全なる無人の状態だったのが、彼の幸運と言って過言では無かった。
 そして夕日が沈む今となってウルド近郊の森林地帯の中を、体を引きずって歩いている。

 元より深手であった上に全力で走るという傷を更に深める手段に出たのだ。今や歩くことすらままならぬ状態にまで肉体は壊れていた。
 膝をついてしまえば最早立ち上がる事は叶わないだろう。木の幹に左手を付き、倒れない様に歩くのが限界となっている。

「………っ――――はぁー…」

 息を吸うたびに肺が裂けていくのを分かる。吐いても収縮する肺と横隔膜が肋骨と損傷している内臓を圧迫。
 夜の訪れに外気が低下して行き、肌に感じる冷気が裂傷の痛みを酷くする。体温の低下は免れず、痛みと寒気を感じない体の箇所は何処にも無い。
 体を伝って足より滴る血の跡を残して進み続ける彼は、一つの広場に辿り着く。

 既に日が沈んでどれ程に時間が経過したのか判断が出来ぬ程に限界が来ていた彼を、月の優しい光が出迎えてくれた。
 夜空に雲一つ掛からない満天の星空を脇役へと押し退ける欠けていない満月は蒼銀の輝き。短い草でのみ満ちた広場は光の輝きを余す事なく綺羅綺羅と映し鏡となる。
 柔らかな夜風に波打つ草原に光の水面が波立ち、地上に天の川が出来上がる。此処は夜な夜な精霊達だけが舞う独壇場。精霊達だけの舞踏会なのだと、何故かすんなりと理解出来た。

「――――」

 精霊の踊り場に背を向け、来た道を引き返す。その動作だけで体の捻じりで肋骨がさらに内臓に突き刺さる激痛に視界が揺れた。
 左腕がとても軽い音を立ててひん曲がる。今まで持ったのが不思議なほどに耐えていた腕の支えを失い、遂に倒れ伏す。
 左肘を付いて起き上がろうとしたが、背負う銃と剥ぎ取る動作が出来ずに下げ続けた鞄の重量も加算されて持ち上がらない。

 元より胸の筋肉の内側で支える肋骨が半分以上失っているのだから力が入らないのは当然であり、入ったとしても直ぐに折れてしまうのは既にもろ過ぎる腕の骨では自明の理。
 下半身で起き上がろうにも重心が上半身の方にある以上、勢いをつけなければ不可能で、それすらも出来ないまでに損耗をしている。

 草の香りが血の匂いに混じって鼻腔を突く。視界の焦点は定まらずに虚空を見えているかすら怪しい。
 聴覚が森のざわめきを聞き届け、震える鼓膜の振動は激しい頭痛にしかならない。もう、痛みすら感覚から遠のいていく。
 閉じた瞼に体の感覚を鋭敏にするが認識すら覚束無い有様で、意識が遠のいていく。唯一心臓の静かで弱々しい鼓動だけがはっきりと最後まで知覚出来た。

 人間が居るべきではない精霊達の居場所で事切れるのは本意ではなかったが、領域に入っていなかったのは僥倖。
 それだけを思い、意識を保っていた気力を霧散させて混濁もせずに意識を手放した。
 木々のざわめきが彼の眠りの意味を理解するかのように激しく鳴り響き、既に届かない音だけが空しく鳴り続けた。




 光の御手が優しく彼の頬を撫でる。

 その手は温かく、光は彼を余す事なく抱き締めた。


 胎児を愛でる慈しみ満ちた優しい顔で見詰めながら――――






 開いた瞼の先に見えたのは小さな小川であった。日の光が流れに合わせて煌めき、小鳥のさえずりが優しく木霊す。
 風が靡いて肌を撫で、髪を揺らす。胸の奥の鼓動が/静かな呼吸で上下する胸が外気や温度を感じる全身の感覚が感じられる。
 視線を上下左右に動かし/それに連動して首が動き/腹の筋肉も微細に使われる。澄んだ森の匂いが鼻腔を刺激する。
 自身の体に目を落とすと損傷の激しい見慣れた衣服。血の模様も鮮明にこびり付いた臭いも香っている。

「………生きてい、る?」

 右手を目の前に翳し、左手で隈なく擦るが異常が何一つ感じられない健全状態。左腕も然り。
 片膝を曲げて踏ん張り、立ち上がる。それにおける全ての動作に異常は無く、内臓器官にも痛覚は皆無。
 ありとあらゆる肉体機能に不備は無い健康体。それが如何に異常な事態なのかは語るまでも無い。

 死に体から何一つ傷の無い健全な体になる。
 リンクスの世界でならば不可能ではないが、それはきちんとした医療機関で処置を受けるか非合法でも改造を受ける事で蘇生出来る。
 が、此処は異界。その様な高度な機関などなく、ましてや彼が倒れたのは誰一人とて居ない森の中。
 その様な状況から現状へと持っていける手段など何一つも無いのは理解している。故に怪奇に思う。

 彼は神の存在を知る由も無く、宗教とは無縁なので天国や地獄を妄想する事なく事態の異常性を考える。
 現在地点は不明の森であろう川の辺。自身は先ほどまで岩場の背を預けていた様である。明らかに倒れた付近では無い。
 最後の視界が身体機能の低下で判別が困難であったが、此処では無いのは確信が出来る。

 光に染まった草原(海原)。走馬灯の代わりに映る光景として申し分の無い情景を忘れるほど生き物を捨ててはいない。
 何者かの手によって助けられたとしても死人を生き返らせる手段など常軌を逸している。魔法、という考えもあるが蘇生魔法は禁呪に近い高度なものだ。
 通りすがりの高等魔術師が“偶然”リンクスを見つけ、善意で助けた――妄想を通り越して異常な思考はおめでた過ぎる。

(…?)

 気配を感じて振り返ると岩場の陰、腰を掛けて起きた場所からは見えなかった場所に眠りについている少女を見つける。
 完全な状態でも起きる前の状態が状態が故に機能まで完全では無かったらしい。幾ら死んだとはいえ、不覚でしかない。
 静かな吐息で眠っている少女は深く寝入っているらしく、完全な脱力な状態で布を敷いた地面に寝転がっている。

 線の細い肢体に長い金色の髪、エリス・シルヴィア・シルフィードがそこに居た。

 彼女が自分を発見してぎりぎり治癒を施して助けた――否。幾ら彼女とて死人を此処まで回復させるのは不可能。
 精霊との個での契約すら出来ていない半人前以前のエルフの少女が出来るはずもない。
 だが、彼女が何かを知っているのは確実だろう。元々合流を予定し、森の中で見つけるのは容易と豪語していた。

「―――」

 振り返る。川下の方より近づく気配を察知し、視線を向けると一人の少女が近づいて来ている。
 その少女の容姿から書物館より連れた修道女であると判断出来る。

「あ――」

 向こうも此方に気が付き、驚きに目を見開いた。
 おまけに信じられないとばかりに口に両手を当てて驚きの度合いの大きさを物語る。

「まさか、本当に――」

 食料でも調達して来たのか、手元から落ちた幾つもの木の実が彼女の足下で転がっている。
 その様子からある程度は推測は出来た。自身が元々どの様な状態にあり、そして今ある姿に彼女が驚愕するまでの状態へと変化した事を。

「状況を説明出来るか…?」

「え、あ、はいっ!!」

 安直な質問にあたふたとしながらも頷く少女。
 以後は彼女による身振り手振りを交えた飛び飛びの説明がしばらく続く。
 内容を統合すると以下の通り――

 少女の名はシャルロッテ・ライトレーベル(途中でどもっていた)。
 気が付いた時にはこの森の中でエリスが横に居た。話によると助けられたのを知り、そして町の事を知る。
 戻ろうにもこの森の中で迷うのが落ちだと言われて来るというもう一人を待つと言ってしばらくして森のざわめきにエリスが過敏に反応。
 自分を放って森の彼方へと走り去ってしまい、茫然としていた所で強力な魔法の発動を感じてそれを頼りに獣道を進んだ。
 その場所に着くとエリスが傷だらけのリンクスに懸命に治癒魔法を掛けている処に出くわした――。

「――…私も治癒魔法を得意とする方でして手伝わせて頂きましたが、失礼ながら傷が塞がっても助かるとは到底思えませんでした」

 当然の反応だ。骨折や裂傷は復元が簡単でも内臓の損傷や失血を補えるわけでは無いのだから。
 リンクス自身がそれが分かっていたからこそ、生きている事に疑問を抱いている。

「ですがエリスさんはそれでも決して諦める事なく治癒魔法をかけ続けていました。
 私の進言に耳を貸すこともなく、寝る時間も治癒に当ててずっとずっと―――今朝方、疲労から気を失う形で眠りについたんです。本当に三日三晩、休まずにずっと……」

「………」

 右手の平を見詰める。この戻った手は低級の魔法を掛け続けたお陰で復元出来た賜物。
 失血した血も回復するまでエリスは治癒魔法を掛け続けた結果が今の健康体。

「エリスさんは泣いておられました。貴方の事を色々と怒って罵倒していましたが、彼女の思いを私は確かに感じました。

 絶望などしていられない、希望はあると。」

 胸元の十字架を握りしめ、自身に言い聞かせる様に呟いた。

「出来うる限り私も手伝わせて頂きました。未熟ではありましたが、無いよりは増しでしたから」

 未熟な者が二人。されど二人。この違いがリンクスの明暗を分けたのだろう。
 質を数で補い、そして絶え間ない治癒によって死を免れ、思いは形となって目を覚ました。

「そう、なのか…」

「はい、そうです。暫くぶりに眠ったエリスさんには悪いのですが起きてもらいましょう。罵倒は甘んじて下さいね」

 此方の認識した瞬間に繰り出されるであろう跳び蹴り。容易に想像出来る未来をエリスに近づくシャルロッテの後ろ姿を見て思う。

 ――が、

「…必要は無い」

「え?」

「起こす必要は無い…」

 声に振り返ると彼が無言で追い越し、エリスさの横でしゃがみ込んで髪を撫でている。
 彼女を気遣っているのだろう。自身の為に頑張ってくれたまだあどけない少女を。シャルロッテはくすりと笑い、そんな彼の気遣いに優しさを感じた。
 そして周囲を見回す彼は一点で目線が止まる。置かれている荷物類。エリスが持っていた物に加えて彼の鞄に大きな黒い筒の様な物。

「………」

 鞄の中身を漁って確かめるリンクスは、当然の結果を目の当たりにする。拉げた銃器に弾倉、予備の弾丸にクリスタルは破砕されている。
 ケースに格納されていた銃器一式を詰め込んでいた鞄を防御に回した結果に、直撃の恐ろしさを物語る。
 それでもサジタリウスの弾倉一式が無事なのはそこまでの威力では無かったというわけであった。

「――何を、しているのですか…?」

 背後から声を掛けられ、丁度二本置かれていたHVFダガーを腰の鞘に差してから振り返る。
 少し困惑した表情で此方も見ており、リンクスの行動が理解出来ないでいた。そのまま愛銃と鞄を背負い、完全に出歩く態勢が整えられている。

「見ての通りだが…?」

「――エリスさんはどうするのです?」

「…寝かせておくのが良いかと。疲労は寝て回復するのが最良」

「そんな事を聞いているのではありません!!」

 少女にしては威勢のいい、一歩間違えればヒステリックに成りかねない声高で激昂する。

「彼女は貴方の為に懸命に助けたのですよ? そんな彼女を貴方は捨てるのですか!?」

「必要な報酬はもう一つの鞄の中に既にある。それを二人で分けるといい」

 武装一式が彼の背中の鞄に、もう一つのエリスに持たせた鞄に金銭を。
 商人らしくそれ相応の金額が金貨として内包されている。しかし、シャルロッテは頭を振って否定する。

「そんな事を言っているのではありません! 貴方の命を救ってくれた人を、エリスさんの事を何とも思っていないのですか!?
 途中で諦めることもせず、最後の最後まで貴方の無事を思った彼女の想いを踏み躙るのですか!?」

 シャルロッテは断じて認めるわけにはいかなかった。エリスという少女がどれ程彼の無事を祈っていたのかを、込められる魔法の優しさから伝わってきていた。
 彼女の想いの強さは一途でただ一人を助けるために全身全霊を掛けていたからこそだった。そうまでさせる男性をシャルロッテは素敵な人だと考えていた。
 そうでなければ助かるはずも無いと思えた人が助かるなどありえない。だからこの男性は慕われる立派な人だと思いたかった。

 しかし、目を覚ました彼の口からはそれを裏切る言葉が紡がれた。

「…? エリスは自分でそうしようとしただけなのでは? 此方がどうなろうとも本来エリスには無関係のはずだけれども…?」

 理解が出来ないと、首を傾げていた。彼女の思いはなに一つ届いてはいなかった。
 だから私はそれが信じられなくて、口を開けたまま呆然としてしまった。故に彼が立ち去って行こうとも、姿を追う事すら出来なかった。
 疲労困憊のエリスは目を覚まさない。あの時と同じ、リンクスはエリスを起こす事なく立ち去って行く。


 町で別れ、そして再び交差した二人は交わるだけで再び道が別たれた。

 分岐した道は容赦なく別離を行く。





 奴等の侵攻手段は遠距離寄りの奇襲から始まる。不意打ちとなって町全体を混乱させ、地上の制圧部隊を侵入させる。
 上空支援を多分に受けた部隊は滞りなく町を制圧。傭兵や駐留軍を容易く打破している。

 個による脅威は絶大なもので単体を撃破するのは楽では無い。それが部隊で攻めてくるのだ。混乱で散漫となった攻撃では太刀打ちなど出来る筈も無い。
 それでも優秀な人材と指揮官を内包する所では善戦をして押し返す兆しもあるにはあった。されど子供が這う虫を踏み潰すかの様に簡単に潰されてしまう。
 航空支援による爆撃。黒衣の女性を見た者は切り捨てられ、巨人により捻り潰される。圧倒的な戦力を前に、この世界の魔法も意味を成さなかった。

 奴等の活動は漸く表立った活動へと現した。初めは辺境の町を消すという行為を散々と繰り返してきたらしく、国では謎の怪奇現象として噂になっていた。
 そして本格的な侵攻の手始めとしてウルドを攻め入り、制圧。国の主要都市群の一角が即座に奪われたと知れたのが半月も後の事であった。
 何故ならウルドから脱出出来た人が皆無。誰一人とて生きて知らせられた人間が居なかった為に、外からのウルドの異変を感じて調べた結果知れた事実なのだ。

 事態を重く見た国王は出兵を決断、ウルドを奪還すべく大軍を送り込んだ。そして軍がウルドの町で出迎えたのは――否、歓迎したのは廃墟と化した無人の建物群であった。
 至る所に血の跡や破壊された痕跡がありありと刻まれているも、肉片一欠片とて有機物の物体が見つからなかった。
 酒類、鍛練武器、商会支店舗、城内の金庫室。混乱の中で人々が略奪してくる類の多くがその場に安置されたままである。

 暴れるだけ暴れて奪って撤退をした、と考えるにはあまりにも異常な現場なのだ。
 人どころか有機生命体の欠片も無い――あるのは血で描かれた大きな落書き。何も奪われていない――襲ってきた奴等の目的が何一つ理解出来ない歪な行動。
 命を取り零し一つもせず、命だけを奪い去って行った死神の戯れの残り滓。兵士達は乾いた血の仄かな臭いと異様な程の静寂の町に気分を害して吐く者が続出。

 誰が思おうか。戦いに来たはずのその場所は悪魔の悪戯に蹂躙された人々が繁栄していた町の跡でしかなかった、と。

 無駄に終わった出兵は以後も数回行われ、その全てが同じ結果と相成った。
 神出鬼没に突如として一つの町に現れては全ての生命を奪い去って行く。念話で通信という手段を持つ魔導師により襲撃の事実は伝わるが、それだけだった。
 一纏めに兵力を出しては対処が出来ないと各地へと分散させて警護に当たらせるも、軍の中でも上位に位置する部隊が駐留していた町が襲われ、結果に差はなかった。
 念話から届く声は常に『化け物』『悪魔の使い』『冥界の門からの異形の大軍』と要領の得ないものばかり。逆に相手の存在に怯える材料として上の者達を震えさせるだけだった。





 深い針葉樹林と広葉樹林の入り混じった混沌の森。重力が小さいとなれば木々がより巨大な幹と葉を束ねるのは当然の流れなのだ。
 日の光など遥か上空で生い茂る巨大な葉の群団に覆われて細々と深夜の街灯としての役割と化している。
 薄暗い森の中は湿度が高く、地面は板を敷き詰めたような葉が腐葉土なって仄かに温かさを保っている。

 腐った枝や落ち葉を踏み抜く足音。日の光が当たり難い場所ゆえに昼間は静かで澄んで聞こえる。
 体のラインが分かる密着した戦闘スーツに身を包んだリンクスは白い息を吐きながら坦々と森の中を進んでいた。
 腰にHVFダガーを二本。背中にはサジタリウスがある完全兵装。この世界の物品は何一つ身に付けていない。

 普段着としていた超重量型民間服は戦闘による破れが酷くて自重で引き裂かれていくので破棄された。
 敵から入手した銃は破壊された為に骨董屋に高値で売却。商人をやっていた性でガラクタから面白い値段を引き出せた。
 お陰で探索における必需品の買い物に困る事なく、順調に情報を得る事が出来た。

 漸く動き出した相手は襲撃する町をミズガルド全土に拡大させ、駐屯地の発見を撹乱させている。
 おまけに奪うのは人の屍ともなれば民衆どころか国そのものを欺くための材料となって見当違いの行動を取らせている。
 現時点で特定するのは難しい。だが襲撃周期に攻撃手法・戦闘時間、そして国の地形図を使えば可能だ。

 襲撃をされた町の時期を調べ、廃墟を探索し、計算する。調査に旅する間に新たに襲われた町があればそこも寄って調べる。
 途方も無いはずの旅は調査の結果によって導き出された場所へと彼は踏み込んで行く。その過程として現在、前人未到の名も無き深い森を踏破中。

 奴等は駐屯地より航空母艦を用いて移送を行い、目標地点手前で部隊を展開。後は知っての通りに町を蹂躙する。
 その証拠が消えた町の近郊の一点から大部隊が展開する痕跡がありありと残されていた。町との距離がkm単位で離れていたために見落とされていた事実。
 結局は航空輸送によって部隊は高高度で運ばれていたのだから空を知らないこの世界の住人は気が付く筈も無い。
 それが分かれば後は航空機の移送元を襲撃時期と部隊数を考慮して地図上で計算、機体数と重量が当たれば以後は楽である。

 その結果、今のリンクスが居る場所がその一つ。異種族を排斥する人間は特定の地域へとは入らない傾向にあるため、相手にしてみればこれ程使える場所は無い。
 確証がある訳ではないが確かめてみる価値は十二分に存在する。例えリスクを負ったとしても、彼が躊躇う理由にならない。
 突如として森の風となって走り出した。規則的な道のりなど無く、蛇行しながらの走りであるのにも関わらず最短の道を滑らかに進んで行った。

 彼が走り出して場所の数分後。四足の獣が突然姿を現わして足を深く沈ませる程の重量を見せつける。
 見るからに硬い鱗に全身を覆い、鋭利に突き出た厳つい顔で地面を鼻で擦りつけ始めた。全身を通して滑らかな流線を描き、足は柔軟に富んだ巨大な筋肉が隆起している。
 人の姿に酷似した存在がその背中に跨って周囲を観察している。耳が獣の様に毛で覆われ、臀部には揺ら揺らと揺れる尾が存在していた。

「何か見つけたのか?」

 上空の木の茂みより飛び降りて傍に着地した男の声に周囲を見回した男が頷く。
 彼らは一様に獣に跨っており、まるで獲物を追う狩人のようである。現にその背中には大きな鉈があり、小型ながら弓も片手に携えている。

「ああ、侵入者のようだ。しかも人間と来たものだ。匂いがまだ濃い、此処からそう遠くへは行っていないだろう」

「応援を呼ぶか?」

「相手は人間一匹だぞ? 俺達二人で簡単に追い詰められるさ」

「…それもそうだな」

 獣の尻を軽く叩き、手綱を引くと示す通りに動いて進行方向を変えた。自分の身体を動かすのと同じ様な手早い一連の動きから、お互いの信頼関係がよく分かる。
 体を前屈姿勢にして背に張り付き、足で腹を蹴ると獣は走り出す。巨体に似合わない俊敏な動作で一瞬の内に森を掛け抜けていった。
 後から来た男もそれを追う様に走り去っていく。向かう先は、リンクスが走り去った方角へと。

 巨木が占領する森では互いに根を拡大する競争が続いている為、木と木との間隔は広い傾向にあるも場所によっては絡み合っている。
 物によっては融合したかの様に幾つもの木々が一纏まりとなって一際巨大な幹の巨大な樹木へと変貌している。
 人がその根元を通るにも、跨る大きな獣でも悠然と通過出来る広さではあるが、極限の速さで駆け抜ける場合は狭くなる。

 真横を樹木だったものが一瞬で通り過ぎるのを追う間もなく目の前に新たな木の幹。
 突風に体全体を一瞬にして押し流される間隔を有しながら獣に軽くかわさせ、更に突き進む。
 一秒で何本もの木々を通り過ぎる。行く先は何一つ変化を見せない森の風景。光景が瞬間に通り過ぎるも同じ光景がまた広がっていく。

「………おかしくないか?」

 既に追跡を開始して数分が経過している。それを意味する事を疑問に思った仲間が並走して問い掛けて来る。

「ああ、匂いは確かに続いているが一向に姿が見えない。人間が走っただけでサンドラが追い付けない速さが出る訳が無い」

 彼らが跨っている獣サンドラはこの森の奥地に住まう気高き龍族の一角。翼は疾うに退化し、代わりに森を自在に駆け回る足を手に入れた。
 身体を小型化した代償に柔軟性と機敏性、高加速性を手にした事で彼らに勝てる者が森の中で何一つ存在しない強さを有している。
 そんなサンドラに跨る人に似た者たちもサンドラの背に乗る為に許される条件は厳しい。それ故彼らの連携は一心同体。
 タッグを組んだ彼らに勝る者は完膚なきまでに存在しなくなり、どんなに遠くへ逃げようとも必ず捕捉されてしまう。

 しかし今、追跡している筈の人間の姿を捉える事が叶わないでいる。脚力は本より俊敏性も此方が圧倒的に上なのだ。だというのに追っている匂いがあまりにも近づけない。
 匂いの発生源がこちらと同等の速さで遠ざかっている。それはつまり、人間がサンドラと同等の脚を有しているに他ならなくなる。

「匂いは相変わらず人間一匹だけしかしない。なのに追い付けない…どんな化け物だっ」

「やはりここは応援を呼ぶしかないか?」

 その進言に歯噛みする。簡単に事が片付くと高を括ってしまった自身の失態に情けなさを感じていた。
 サンドラに騎乗する誉れ高き自身の尊厳を深く傷付けられたのだ。だが此処でさらに失態を重ねる事も許されない。

「――頼む。私はこのまま追撃を続ける」

「了解だ」

 一人が追撃のコースから外れ、近くの高台へと上り詰めていく。
 見降ろす先は深い緑の葉で埋め尽くされた濃緑の海。侵入者はおろかもう一人の仲間の姿もこの濃さの中では視認出来ない。
 観賞に浸る程に短い付き合いでは無いこの森に見惚れる筈も無く、サンドラの頭を軽く叩いて行動を促す。

 耳を塞ぐほどには高くは無い音程の遠吠え。されどその声は遥か先の山に反射して反響する。
 ひとつの吠えは長く重みがある。それを数回繰り返すと、同じ様な声で違う場所より複数の遠吠えが反響し合う。
 仲間との連絡手段の一つである援護要請。それに応答し、駆け付ける者達がこれより一斉に相手を追い詰めていく。

 こうなってしまえばこの森で逃げられる存在は決していない。ましてや相手が人間ともなれば、サンドラの速さを有していても不可能だ。
 森での狩りはこちらの領分、地形の理の時点で優劣の差は歴然である。狩られるのは、時間の問題であった。



 サンドラと人間では初めから体格の差で数倍は容易く異なっている。
 そうなれば木々をすり抜ける動作では小柄な人間の方に分があり、速度が劣っていても移動距離の短縮で速さを距離で補える。
 さらにリンクスは元々高重量圏の人間、そして過重量の服を脱いでこの世界の倍以上の身体能力を有して疾走すればサンドラの劣らない運動性能を発揮する。
 腐葉土の足場なので引き離すだけの加速を発揮出来ずにいる為に並走を甘んじていたのだが、数多に聞こえる遠吠えに茶番の終わりを知る。

「――――」

 前方から聞こえてもいたのだから既に囲まれた状態からのサバイバルが開始されている。
 速度を落とし、周囲の状況を注意深く観察し始める。背後から感じられる気配は加速度的に近づいて来ているが、問題は無い。
 速度をそのままにHVFダガーの柄に手を掛け、一閃を放った。



 人間を二人で追うと言った彼は少しばかり自尊心が高いのは知っていた。
 だからといって今回の判断は間違ったとは僕は思ってはいない。人間が一人で、此処まで事態を発展させるなど誰もが予測できるはずも無いのだから。
 それでも彼は判断を違えた事を深く恥じているのだろう。故にこの事態を早急に鎮圧して慰めてあげなくては。
 彼は人一倍気が強いが、その分脆い部分もある。悔しさを発条(ばね)にこれから伸びる成長を滞らせない様に手伝うのが友人としての務めだ。

 連絡の分だけ遅れた距離を補う様に次々と障害をかわして凡そ一直線に匂いを追尾する。
 その道中、軽い地鳴りを感じ取ったサンドラが足を止めて耳を立て周囲の気配を探り出す。私も同じく聞こえた重低音に耳を傾けた。
 すると断続的に進行先より地鳴りと音が届くのを確かめ、サンドラを再び走らせる。

 嫌な予感がするのは決して考えすぎでは無い。サンドラに追いつかせない単体の人間。
 これだけで十分に危険な匂いに帯びた相手だと勘ぐる事が出来る。そんな存在が居るであろう道先での異変に、焦燥に駆られても無理も無い。
 現場らしき場所の辿り着くと案の定、目を見張る状況が広がっていいた。

 太い幹が、超重量の自身を支えていた木が根元より倒れていた。それも一本では無い、真っ直ぐに何十本も。
 樹齢は最低でも500年は聳え立ち続け、この先もこれまでの数倍は軽く成長し続けるであろう木が、無惨に横たわって列を成している。
 サンドラも彼も、生まれた時からずっと経ち続けた姿しか見た事が無い木の成りの果てを目の当たりにして沈黙していた。

「――な、何が一体どうして…なにがあったんだ!?」

 漸く正気を取り戻してサンドラを先に進ませる。太い幹は巨大な障害となって道を阻み、跳び越えなければ通れない。
 流石のサンドラも横の動きは速くとも縦の動きには弱く、一つ一つ渡るのに苦労している。
 如何にか先を進んでいると、最後の一本を渡り切った所に彼の友人が立往生をしていた。

「――? どうした、何故追わない?」

「…やられたよ。此方が倒れた樹木に気を取られている内に匂いが途絶えた」

 そこで気が付いた。辺りに立ち込める濃厚な樹液の香り。巨大な幹の遙か高みの枝まで水を吸い上げる道管、そして退役である樹液を循環させる質量に帯びた粘液。
 折れた部分より漏れ出す膨大な液体は相応の刺激臭に帯びており、既に体に染みついた臭いは然る事ながら一帯にまで拡散している。
 追跡しようにもこうまで掻き消されては鼻が利かない。サンドラにも尋ねてみても樹液の香りで既に無理であった。

 最悪の予感は回避されたものの相手がより一層怪しさを増し、得体の知れない存在をさらに追うのを躊躇う気持ちが生まれる。
 二人は立ち往生したまま途方に暮れ、どうするべきは何一つ分からずに居た。

「――お前達の手に余る相手らしいな」

 頭上より聞こえる洗練された女性の声。聞き覚えのあるその声に二人は反射的に背筋を伸ばして振り返る。
 二人のサンドラは既に相手に対してひれ伏しており、横たわる巨木の幹に乗っている存在に対して敬意を表していた。

 四足の足で巨木に跨るサンドラ。しかし二人のサンドラとは異なり、鱗が張り付いた見た目では無く滑らかに重なり合って流線を描き、全身を覆っている。
 筋肉は主張した隆起では無い、しなやかさと力強さを併せ持つ美に帯びた脚線。走る為に生まれた龍としか思えない程にその姿は流麗で威風堂々としていた。

 そんなサンドラに跨る女性もまた、美しい。琥珀色の柔らかな髪を一纏めにして表れているうなじが顎のラインを強調して顔の造形をさらに美しく際立たす。
 鳥の羽根の様に純白で整った獣耳は彼らの種族で最も美を象徴する部位。種族だけでなく、その容姿すら人間を見惚れさせる。
 その身に羽織る獣の皮を体に慣らして着込んでいる姿は狩猟での勇ましさを美しさと共に崇高なる存在である事を一目で認識させる。

「幹の根元を一部。それだけを抉り、自らの重みで倒している。その切り口の技量、そして応用の頭の回り―――徒者では無いな」

 膝を付いて頭を伏せる二人は戦慄する。目の前に存在している女性が、相手を警戒する言葉を発したのだ。
 これは二人で対応したは間違いであり、一歩間違えば最悪の事態が待ち構えていたのと同意義である。この女性に此処まで言わしめる人間に恐怖した。

 この森の幹の硬度はそこいらの金属防具を優に上回る硬さを誇っている。でなければ雨風と巨大な自身の重みに数百年も立ち続けられるはずも無いのだから。
 それをあっという間に多くの木の幹を切り裂き、倒れる様にと(きこり)の木倒しとばかりに切り口を切り刻んだ。
 その切り口は磨いた机の表面の様に艶やかで損傷が無い。樹液で表面に直接触れる事は叶わないが、見ただけでそれは分かる程に綺麗である。

 故に彼女は相手の異常性を即座に認知した。だが未だに相手が人間であるとは知らずにいるのだから、その異常性もさらに修正を余儀なくさせる。
 女性の背後には複数の部下が居り、彼女が手を振ると一斉に散り、相手の追跡を指示した。既に彼女の言葉から彼らは察している為、油断は無い。

「お前達もよく働いてくれた。これより追撃は私の部隊が引き継ぐ事になるが、同行するか?」

 この女性の部隊が動く。それ即ち、最も逃げる事が叶わない存在が相手するという意味。
 先ほどまでの二人の追跡など子供の隠れん坊もいい所。これで遂に異常な人間は樹海最強の部隊と相対する事となる。

「謹んで、同行させて頂きます!」

 先に答えたのはやはり気高い友人の方であった。元々この女性を慕い、いずれ求婚を申し込むと豪語していた程に惚れ込んでいる。
 彼だけでなく、部族の全ての男が即婚者でもそう思わせるほどに彼女は美しい。かく言う自分もその一人。
 応援を呼んだ相手がこの女性で、さらに同行出来るなど夢にも思わなかった。断る理由はあるはずもなく、二人は恭しく頭を下げて肯定を示した。

「では、参ろうか」

 その様子に苦笑気味の笑みを浮かべて出発を促す。
 頭を下げていた二人はこれを見逃し、しっかりと見ていたならば骨抜きにされて一歩も動けなくなるであろうからして、ある意味では幸いであった。

 彼女のサンドラは軽く屈伸すると遥か高みに、そして道先へと一息に辿り着いた。その跳躍は優に幹の幅を超越している。
 あれ程苦労して幹を跳んでいた彼らとは比べ物にならない性能を秘めたサンドラに一瞬だけ呆けた二人は慌てて自らのサンドラに騎乗し、置いてきぼりにされない様に急いで後を追う。


 本当のサバイバルはこれから始まる。



Fiaba Crisis ~ 山猫の旅商人 ~
quest episode : 05 - Individual -



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