STRATOS4

 

   CODE−102b FOX ONE

 

 

          * * *

 正午を時計一回り分ほど過ぎた下地島迎撃基地、そのランウェイにはトレーラーに搭載された四機のスクランブル機が控えていた。うちの二機には既にパイロットが乗り込んでいる。

「え………と、巡航高度三万を超えた後、進路修正、標的軌道確認、それから………」

 超高々度迎撃機TSR−2MS、コールサイン登録《SASIBA−2・2》。そのコクピットに収まって暗記したマニュアルを忙しなく復唱しているのは、パイロット候補生の空であった。見るからに緊張している空に、前方の操縦席に収まっている翼が茶々を入れる。

「おいおい。今更何をビビッてんだよ。ま、いざってぇ時はこの俺様がビッと決めてやっからよ」

 本人は激励のつもりなのであろうか。その自信はどこから沸いてくるのか、疑いたくなるほど自信に満ちている。その彼の根拠のない自信が却って不安を煽り、指摘された気恥ずかしさも重なって、空は声を荒げて怒鳴る。

「バカか!? それが不安だっつーの! 始めての二番待機なんだぞ? 緊張しろよ」

「ハハッ、心配すんなって。あと数時間後には俺等はヒーローだぜ!」

 が、翼は一向に自分のペースを崩さなかった。このよく言えば剛胆、悪く言えば無神経な彼の気概にも、ここまで来ると不安になるよりむしろ呆れてしまう。

「ったく、もう自分が迎撃する気でいるぜ………ま、仮に出撃したとしても、墜とすのは岩崎先輩達だろうけどな」

 言って、隣のトレーラーに搭載された迎撃機、《SASIBA−1・1》のコクピットを見やった。待機順一位で控える下地島迎撃基地のエースパイロット和馬と、そのナビゲーターを努める圭がリラックスした様子でコクピットに収まっている。

「く………モテモテアイテムゲットだと思ったのになァ………」

 空の指摘に、翼はがっくりと肩を落とした。

 そもそも大気圏外のメテオスイーパーが迎撃に失敗しない限り出撃さえ回ってこないのだ。そう考えると、ほんの少し翼を哀れみながらも、随分気が楽になった。相変わらずの翼に、いつも通りに肩を竦めてみせる。

「………ったく、またそれかよ」

          *

 第六オービタルステーションを発った二機のコメットブラスターは地球の軌道上を周回し、間もなく迎撃ポイントへ達しようとしていた。上層大気の摩擦で装甲が灼熱し、機体が激しく振動する中で、四人のパイロット達は直線的な視線で、目視確認できる距離にまで迫った彗星を見据えていた。

“ミサイル発射三十秒前”

 何の気負いもプレッシャーもない。ただ、純粋に自分たちの能力を信用し、任務の成功を確信しているだけだ。

 彼女達は、並外れた競争率の中で狭き門をくぐった自他共に認めるエリートの中のエリートなのだから。

“《CB−1》、《CB−2》、オン・コース”

 目の前に果てしなく広がる星の海は、誰しもが一度は夢に見、そしてほんの一握りの人間しか臨むことのできないものであろう。何十億年もの距離の中で幾多の星が奏でる、光と闇の無音の協奏曲。

 そんな宇宙の神秘は彼女達の視野の中にはなかった。それを夢見ていた頃の自分の姿など、彼女達は覚えていないのか。良くも悪くも彼女達は与えられた任務のみを確実に遂行する、絶対的な技術と、絶対的な自信を持ち合わせているのだ。

「ミサイル発射十秒前………」

 操縦把を握る二人が業務的に告げる。

 トリガーのロックを解除し、指をかけた。

 ナビゲーターがやはり事務的な声色でカウントを刻み、

「《フォックス・ワン》」

 コールサインと共に、何十回と繰り返してきた動作を、何の躊躇いもなく、正確に。

 迎撃機の擁していたミサイルがその懐を離れ、青白い軌跡を描いて巨大な彗星に接近してゆく様を、彼女達は無表情で見送った。

 弾頭を分離、三方向に展開する。これが《トライデントミサイル》が、《三叉の矛》の名を冠する所以だ。

「爆発まであと5秒」

 再び起爆トリガーに指をかける。

 何の問題もない。ある筈もない。

「4………、3………、2………、1………」

 爆破、の声と共に、《CB−1》を駆る千鶴がトリガーを絞った。

 指定された時間と場所に寸分違わず。橙色の炎が出現し、何物にも遮られることなく余波が球形に膨張してゆく。

 それは人類の生み出した最大の脅威にして最後の希望、空間をねじ曲げるが如く発生した巨大な破壊エネルギーの海に、彗星の質量が呑み込まれた。

 が。

「………!」

 千鶴を始めとする四人のパイロットが目を見開いた。

 爆発に呑まれた彗星の破片の一つが、いち早く炎の壁を突き破って彼女達の傍らを過ぎっていったのだ。彼女達の仕事は彗星を消滅させることではなく爆砕すること。その破片の幾つかは最終的に地球の大気圏に吸い込まれ、地上に達する前に燃え尽きる。

 その大気圏の消化できる質量の限界を、彼女達は知っていた。

          *

「美風、ノンビリしてないで早く着替えな!」

 体にフィットした白いパイロットスーツに袖を通しながら、彩雲が美風を急かし立てた。パイロット控え室には、同じくパイロットスーツに身を包んだ静羽と香鈴の姿もある。そんな中で美風だけはまだ下着姿のままでテーブルに腰を掛けて足を投げ出し、ストローを銜えている。

「へーきへーき。どーせ出番無しだって」

 今回の待機シフトには、静羽・美風が第三待機、彩雲・香鈴が第四待機で組み込まれていた。有事の際には二機一組で出撃し迎撃にあたることになるので、美風達は第一陣にトラブルが発生した時のための第二陣ということになる。勿論前提としてコメットブラスターによる一次迎撃があるわけだから、美風の言うことも尤もではある。

 だが、命令として待機が言い渡されている以上、それに従う義務があった。それを等閑にする美風に、無論彩雲は黙っていない。

「美風! たとえ出番が無くても、これは任務なんだから………」

 叱咤する彩雲を、突如としてアラート音が遮った。

 四人が息を呑む。

「………来たの?」

 と、静羽。

 この場にそれに答えることができる者はいなかった。彩雲でさえ、美風に着替えを促すことも忘れて立ち尽くしている。

 美風にも、先程までの気怠そうな表情はなかった。

 その胸中では、不安と恐怖の波が荒れ狂っていた。

          *

「軌道算出はまだ!?」

 喧噪に包まれた管制塔では、沙也華が珍しく焦燥感を露わにしている。

 メテオスイーパーによる一次迎撃失敗の報が下地島迎撃基地に届いたのは一分ほど前のことだった。隕石が基地の迎撃担当区域に落下してくるならば、一刻の猶予もならない。無意味と知りながらも、語気を荒げてオペレーターに詰め寄らずにはいられなかった。

 ややあって、オペレーターの手掛けるコンソールに新たな表示が開き、それを読み上げる。

「データ届きました。飛来する破片は4。中国、ロシア方面2,ミクロネシア1、日本に1つ来ます。直撃すればかなりの被害が予想されます」

 沙也華が眉根を寄せ、唇を噛み締めた。

「迎撃エリア進入は16分後です」

 まさに、その事態が発生したのだ。数日前から出撃を確定できるコメットブラスターと異なり、一次迎撃の結果次第であるメテオスイーパーの任務は秒単位。

 ここから先は時間との勝負。

 発令を仰ぐべく、指令補佐の沙也華が必死の形相でロバートを振り返った。

「うむ」

 短く頷くと、しかし彼は表情一つ変えず、

「下地島迎撃隊、発進せよ」

 号令を下した。

          *

“スクランブル。一番気二番機発進!”

 さながら水を得た魚のように。

 管制塔からの指示が全てのスピーカーを通じて報じられ、それまで倦怠感に包まれていた基地の内部が、一転して活気に沸き返った。

 これまで何度と無く待機を命じられては待ちぼうけの繰り返しだったパイロットや作業員達にとって、これは尻拭いと称される地上部隊の実力を示し名を轟かせる数少ないチャンスなのだ。

「よっしゃあ! 気合い入れろ! てぇら回せ!」

 整備主任の浩一郎の、ここぞとばかりに腕を回し檄を飛ばす。

「て、てぇら?」

「何スか、それ?」

 聞き慣れない言葉に、迎撃機のコクピットに収まっていた空と翼が問い返す。彼等が沖縄に来て日が浅いことに思い至った浩一郎は、声高々と笑ってみせた。

「ハッハッハ。気分だよ気分。それよりテメェ等分かってンな? 下手打ったらただじゃおかねぇぞ!」

 脅すような口調は、初めての出撃が現実のものとなった新人パイロットへの浩一郎なりの激励であった。

「へっ」

 それを悟っているのかいないのか、翼は余裕の表情で鼻を鳴らし、

「………プレッシャーキツいっス」

 引きつった顔を更に強張らせて、空が呟いた。

          *

 第六オービタルステーション。

 ミサイルを放った二機のコメットブラスターには、既に帰投命令が下されていた。指令を確実にこなし任務を全うした彼女達に責任はない。

「破砕のタイミングがズレた原因が分かりました。標的の一部に強度の低い部位を確認」

 つまり、エネルギーが分散されて全体に伝わらず、一次爆発で分裂した破片が破壊されずに残ってしまったと言うことだ。幾らかの確率で起こりうる事態ではあるが、そしてそのために地上部隊が控えているのだが、それでも美春は眦を細めた。

 致し方ないことだが、プライドに障らないと言えば嘘になる。

「本部より通達。これより指揮権は地上部隊へ移行。下地島基地より二機のスクランブル機が発進しました」

 それを聞いた美春の表情が、また少し違った変化を見せた。彼女に背中を向けているオペレーター達がそれに気付くことはなかったが、

「………下地島」

 思うところがあるのだろうか、どこか忌々しげに呟いた。

          *

「ただの尻拭いじゃねぇってトコ、見せてやれよ」

 青白い炎を吐き出して雄々しく飛び立ってゆく二機の迎撃機を見送りながら、浩一郎がその後ろ姿に語りかけた。

 

 

「うわ、ホントに出た」

 隕石来たる遙か上空に向かってほぼ垂直に上昇してゆく迎撃機を、今までパイロットスーツに身を包んだ状態で見送ったことのなかった静羽達は、待機室の窓から見詰めていた。

 主エンジンとブースターを併用したスクランブル機の轟音が、ガラスを震わせている。

「アタシ等の待機順が繰り上がるよ………」

 出撃の可能性がいよいよ濃厚になり、美風は今になって焦り始めていた。不安と焦燥に駆り立てられながら、

「………」

 震える指でパイロットスーツのファスナーを閉めていた。

          *

 零距離発進の凄まじい圧力に揺さぶられながら、しかし何十回と出撃を経験している和馬と圭の二人は、臆することなく前方と計器を見据え、和馬は操縦把を握り締めている。

“《sasiba−1・1》、《sasiba−2・2》、目標高度三万フィートに接近”

 管制塔からの報告が、閉塞感のあるコクピットの中、和馬達の許にも届く。

 ナビゲーターを努める圭が、鋭い目許を更に細めて計器を追い、落ち着いた口調で告げる。

「目標高度到達。ブースター切り離しまで後三十秒」

 その時、進行方向を注視していた和馬が不意に息を呑んだ。

「………!」

 大きく見開かれた彼の両眼には、彼等の進路を横断しようとする、黒い点の群れが映っていた。

 

 

 管制塔のオペレーターが逐一読み上げるデータは、美風達の待機する控え室のスピーカーにも届いていた。

“《sasiba−1・1》、《sasiba−2・2》、共にアフォート”

「ウソッ、何で!?」

 それは即ち、和馬と圭、空と翼が揃って任務続行不能に陥ったことを意味する。予期せぬ事態に、内心では自分達の出撃を願っていた彩雲でさえも驚愕の声を上げた。

 静羽は即座にノートパソコンに取り付いてフライトデータを引き出そうとする。

 香鈴は驚きさえ殆ど表に出さず、黙々とケータイに指を走らせる。

 そして美風は、この状況を理解できているのかいないのか、虚ろな視線を彷徨わせていた。管制塔を介して伝えられるパイロットの交信も、耳に入っていたとしても、頭に入っているかどうかは疑わしかった。

“《sasiba−2・2》、無事か?”

 初めての第二待機で初めての出撃、そこで初めてのトラブルに陥った空と翼を案じて、パイロットの和馬が直接安否を問う。

“い、インテイクに何か吸い込んだみたいです”

 流石に混乱しているのか、普段は何事につけ鷹揚に構えている翼の声も切迫していた。ナビゲーターの空が更に何事か捲し立て、それをなだめるように圭が緊急着陸を促す。

 その遣り取りに、美風は相変わらずの放心状態で耳を傾けていた。

 が、意外にも最初に結論に辿り着いたのも彼女だった。不意に顔を上げ、掠れる声で呟いた。

「………バードストライク?」

          *

「《sasiba−1・1》、《sasiba−2・2》、迎撃コースより離脱」

 オペレーターが告げた。

 ただでさえ一秒一刻を争う緊急発進である。そのスクランブル機が、飛行不能に陥ってしまったのだ。

 もう猶予も選択肢もない。

「………指令!」

 指令補佐の沙也華がロバートに決定を仰ぐ。

「………うむ」

 

 

 控え室にけたたましいアラート音が鳴り響いた。

“《sasiba−3・3》、《sasiba−4・4》、スクランブル・オーダー”

 先程までのオペレーターの報告ではなく、それは、指令補佐を務める沙也華から美風達への『命令』であった。一旦命令が下された以上、否が応でも自分達が隕石を撃墜しなければならない。

 それがメテオスイーパーなのだ。

「うそ………」

 美風の顔から血の気が引いていく。第三待機に組み込まれたのは今回が初めてのこととはいえ、第一待機でさえも滅多に出撃のない下地島迎撃基地である。自分達に出撃が回ってくる、小数点以下ゼロがいくつ並ぶか分からない確率は、完全に、無視していた。

 アラート音に鼓膜を震わせている、自分の耳が信じられなかった。

 しかしいきなり舞台に押し上げられて顔面蒼白の彼女とは裏腹に、焦らされ続けた静羽や彩雲の決意は既に固まりきっていた。

「いよいよ来たわ」

 神妙な、しかし決意に満ちた声で静羽が言う。それを受けて、彩雲は意気昂揚と声を張り上げた。

「よっしゃあ! 汚名返上のチャンス到来!」

 誰よりも早く彩雲、次いで静羽、香鈴もパイロットスーツのヘルメットを引き掴んで、ランウェイへと通じるドアを蹴り開けざまに駈け出してゆく。

「あ、待って………」

 反射的にヘルメットを掴み上げ、美風も三人の後を追う。それは条件反射と言うより、一人取り残される恐怖に駆り立てられての行動だった。纏まらない思考を纏めようと努力する間もなく、ドアをくぐる。

 が――。

 アスファルトに一歩目を踏み出した瞬間――美風を押し包む下地島の空気が一変した。陽光に灼かれたアスファルトの表面は高温で揺らいでいるが、美風は鳥肌が立つような感覚に襲われた。

 待ちに待った出撃を目前に控え、昂奮のピークにある静羽達はそんな美風の異変に気付く余裕はない。これ以上無いほどの全力疾走で、息切れ一つ見せずに迎撃機に向かって行く。

 しかし――

 

 

(はぁ、はぁ、はぁ――)

 ランウェイが遠い。走り慣れているはずの距離が、地平線の果てまで続いているように感じられる。

 体が思うように動かない。

 足が重い。必死で足を動かしているのに、仲間達の背中はどんどん離れていく。

 一度でも止まってしまったら二度と走り出せなくなりそうで――

(あ………)

 ランウェイのエンドライン。

 ここから先はパイロットの領域。

 気が付けばその手前で美風は立ち止まっている。

 立ち止まってしまった。

(ど………どうしよう)

 足を止めた途端体に恐怖がのし掛かってくる。

 行かなければならない。

 彗星の破片が隕石となって墜ちてくる。自分の目の前、走れば十秒とかからないところにそれを撃ち落とす迎撃機が待機している。それを飛ばすのは――

(ホントに、アタシがやるの?)

 ――やればできる子なんだ。

 当時は一片の疑いさえも抱くことのなかった両親の言葉が断片的に甦る。

 ――あなたは、パイロットになるのよ。

(無理よ………アタシには無理………)

 時間は規則正しく、無慈悲に過ぎ去っていく。

 隕石が墜ちる。沢山の家が吹き飛ばされる。沢山の人が死ぬ。

 誰かが落とさなければならない。

 自分はパイロットだ。でも、もし失敗したら。

 沢山の人の命が――

(ヤだ………こんなの、アタシには重すぎる………)

 何故自分の肩に、突然何万人もの命が預けられるなんてことが――つい先刻まで普通の女の子で、普通の生活をしていた自分に。

 藤谷先輩がいる。岩崎先輩もいる。きっと夢だ。コメットブラスターが迎撃に失敗するなんて。先輩達が失敗するなんて。

 第三待機の自分に出撃が回ってくるなんて。

 ――美風?

 ――何してるの!?

 仲間の自分を呼ぶ声が遠く、遠く聞こえる。

 足に力を入れようとする。体が鉛みたいに重い。足が張り付いてしまったかのように動かない。

 たった一歩。

 立った一歩踏み出せば超えられるところにあるオレンジ色のライン。

 目を瞑って――思い切って――足を一歩前に出すだけ――なのに。

 鋼鉄の壁が聳り立っている。

(ダメ………動けない………こんなの嫌………誰か………)

 捕食者に怯える小動物のように、美風は恐怖と重圧に肩を震わせる。仲間の声が、教官の怒号がどんどん遠退いていく。視界が回転し、混濁していく。

 隕石が。

 沢山の家が。

 大勢の人が。

(助けてェ――――

 

 

   そのとき確かに、

     風が背中を押した。

 

 

 ――――!?)

 海の風は気紛れだった。

 時に美風を混沌の底に陥れ、

 時に太陽の下へ引きずり出す。

 甲高い鳴き声に誘われて、美風は空を見上げた。真円を描きながら、風の上を滑っている一羽のカモメ。

 空はこんなに明るかっただろうか、と美風は考える。

「あ………」

 ふと足下に視線を落とす。美風は我が目を疑った。

 先程まで爪先の十数センチ前にあったエンドラインが、踵の後ろにあった。

 美風は茫洋と、自分の立っているその場所を見詰めている。

「こらァ、本庄ぉ――ッ!」

 聞き慣れた怒鳴り声が耳に飛び込んで来て、美風は顔を上げた。

「何してる!? さっさと乗らんかぁッ!」

「美風!」

 ここは?

 国連天体危機管理機構、下地島迎撃基地、1−4番ランウェイ。

 アタシは?

 メテオスイーパー部隊所属、超高々度迎撃機パイロット――。

 パイロットだ。

 拳を固く握り締めて、美風は大きく、一歩を踏み出す。鉛だった体は、風になったみたいに軽い。

 彼女を阻むものはもう何もなかった。トレーラーまでの短くて長かった距離を一息に駈け抜ける。拳を固めたまま。トレーラーのステップに足を掛け、一気に駆け上がる。天蓋の開いた迎撃機の前部シートに、その身体を滑り込ませた。

「美風、大丈夫?」

 思い詰めた表情を崩さない美風に、心配した静羽が声を掛ける。

 美風は答えない。

「美風?」

 頭からヘルメットを被り、バックルを締める。それでも美風は押し黙ったままで、しかし静羽もそれ以上声を掛けるのを止めた。暫しの間、時間にすればほんの数秒、二人の間に緊張を孕んだ沈黙が漂う。

 その沈黙を破ったのは、美風の方だった。静羽を振り返って、言う。

「ゴメン、ちょっと考え事してた。でももう大丈夫!」

 静羽は一瞬やや驚いたような表情を見せて、しかしすぐに唇を引き結び、強く頷いた。

 美風の言葉は、昨今までのお座なりな台詞でも、その場凌ぎの気休めでもなかった。曲げられることのない信念と、意志と、確信が伝わってきた。

 静羽には分かったのだ。

 美風が、本庄美風という名の殻を破ったことを。

          *

「グラウンド、《sasiba−3・3》、スターティング・エンジンズ!」

 エンジンが唸りを上げ始める中、窮屈なコクピットの中に威勢の良い美風の声が響く。

「ビフォー・スターティング」

 トレーラーのキャリアがせり上がり、迎撃機の機首が持ち上がっている。前傾姿勢で操縦把を握ったまま、計器類に抜かりなく目を馳せる。

 ――ビーコンライト、

「オン」

 ――バックバルブス、

「オープン」

 ――スタートプレッシャー、

「43PSI」

 インカムマイクを通じて呼応する、静羽との呼吸も見事に合っている。腹這いになっているシートの下から、現実味の溢れる振動が伝わってくる。

「ビフォー・スターティング、コンプリート!」

 ――スタート、ナンバー2!

 

 

「《sasiba−3・3》、レディ・フォー・ランチ」

 今や美風の頭は沖縄の海のように澄み渡っていた。ただ透明なだけでなく、遙かな夢を抱え、熱い意志を漲らせている。

 訓練で叩き込まれたプロセスを、僅かな滞りもなく消化してゆく。この日この瞬間を待ち望んだ彩雲と、香鈴のペアもまた然り。

“《sasiba−4・4》、レディ・フォー・ランチ”

 射出用意完了。美風の額を一滴の汗が滑り落ちたが、そんなことには構いもしない。

“ランチパッド、クリアー”

 整備主任の圭一郎も報告を挟んだ。管制塔から、最後の通告が下る。

“《sasiba−3・3》、《sasiba−4・4》、クリアー・フォー・ランチ”

 静羽、彩雲、香鈴、そして美風の瞳に、迷いは無い。

「ラジャー、クリアー・フォー・ランチ、《sasiba−3・3》」

“ラジャー、《sasiba−4・4》”

 

 

「行くよ!」

 告げるでもなく、彩雲が言う。

「オッケー」

 平然とした口調で、香鈴が応える。

 短い遣り取りの中に込められているのは、信頼。

「マックスパワー!」

 彩雲と香鈴の駆る迎撃機が、咆吼と共に炎を吐き出す。

          *

 緊張はピークに達している。これまで体験したことのない重圧に肩を押さえつけられ、しかし美風は真っ向から立ち向かい屈しなかった。

 エンジンの起動音が二人を急かし立てるように高くなっていく。それに伴って動悸も速くなっているが分かる。そして、四つの瞳は僅かにも揺らぐことなく宇宙を睨め付けている。

 ――パワー、セット。

 裂帛の喊声と共に、

「ブラスト・オフ!」

 美風は渾身の力でスロットルを引き絞った。

 一切の縛めを振り払うかのように。四つの噴射口が彼女に代わって気炎を噴き、重力に抗い、やがて逃れて、一直線に上昇する。

 振り払った重圧に代わって、今度は文字通りの圧力が二人の身体を圧迫する。零距離発進の加速度に骨が軋み、身体が悲鳴を上げる。それでも美風は瞼を下ろすことを許さず、一途に空を、その先の宇宙を見据えている。

 同時に計器に目を馳せることも忘れない。高度計は一息に跳ね上がって三万フィートに達し、時を同じくしてRATOポッドの燃料が尽きる。

 ――ブースター、バーン・アウト。

「ブースター、セパレーション!」

 ――ブースター、セパレーション。

 美風の掛け声で、パイロンを介して装備されたポッドが切り離された。同時に、水直尾翼に後付けされたロケットブースターに炎が灯る。

 更なる圧力が二人を襲った。

 それはシミュレーターで経験した人工的な圧力の比ではない。彼女達は、彼女達の手で、地球の重力に逆らい打ち勝とうとしているのだ。

 パイロットとして。

「くぅ………ッ!」

 ついに美風の口からも苦鳴が漏れる。しかし目は閉じない。強く堅く見開いている。瞬き一つしないと、決めている。

 不意に、空の色が変わった。

「あ―――」

 その変化が意味するものを、美風は殆ど本能的に理解する。

 対流圏から、飛び出したのだ。自分の翼で。

「宇宙………」

 並はずれた圧力をも忘れ、美風は恍惚とした表情で呟く。

 成層圏の色だった。

 

 

「《sasiba−3・3》、《sasiba−4・4》、オン・コース」

 下地島迎撃基地の管制塔では、コンソールにモニターされた情報をオペレーターが声高に読み上げ続ける。

「発射まで、あと二十秒」

 司令官のロバートは無言でレーダーの光点を追う。

 彼の傍らでそれを聞く沙也華も、空の、教え子達が消えていった一点を見詰め、胸の前で両手の指を組んでいる。

「しっかり………」

 祈るように呟く。

 

 

「………!」

 束の間、宇宙に近づいた空の色に見惚れていた美風は、ふと現実に引き戻された。

 そこには自分の身体を圧迫する執拗な圧力があり、成層圏外縁部へと上昇する迎撃機の生々しい振動があった。最早そこは彼女にとって、彼女の両親でさえも話に聞いたことしかない、未知の世界である。

 越えた。

 そして。

 炎の尾を引きながら落下する彗星の欠片を、視界の中央に置いている。

 美風は理解した。どれだけ両親の言葉を反芻しても、教本を読んでも理解できなかったものを。操縦把を握る手に、力が込もる。

“発射十秒前、8………、7………、6………、”

 安全装置を外し、トリガーに指を掛ける。触れるか触れないかのところで、人差し指が小刻みに震えていた。

 静羽の神妙な秒読みが、胸の鼓動を急かし立てる。

“5………、4………、3………、2………、1………”

 指の震えは、止まっていた。

 美風の唇が、どれ程か宇宙で大音声にすることを夢見ていたコールサインを、宇宙に最も近い場所で、紡ぐ。

「《フォックス・ワン》!」

 

 

「2………、1………」

 同時刻、香鈴が正確なカウントダウンを刻み終え、彩雲もまたトリガーを引く。

「《フォックス・ワン》!」

 二機の迎撃機の懐から、二装のミサイルが躍り出て、瞬く間に加速し、白い尾を残して成層圏を進む。

          *

 管制塔のコンソールが、短い電子音を上げた。聞き慣れた音であるにも関わらず、沙也華は喉から心臓が飛び出しそうな感覚に襲われ、息を呑んだ。

 レーダーから複数の光点が消失したのを確認したオペレーターが、報告する。

「ミサイル正常に作動、命中しました」

 それを聞いて、沙也華は、引き攣らせっ放しだった相好を崩し、握りっ放しだった手を解き、胸を撫で下ろした。

「はぁ………」

 気がつけば、全身は疲労困憊で、汗が方々に滴っていた。自分で出撃するより疲れるかもしれない、と沙也華は思う。そして、そんなことを考えられるようになった元パイロットの自分に苦笑する。

「………ふむ」

 彼女の隣で、司令官ロバート=レイノルズは満足げに頷いた。

          *

「ふぅ、やった………」

 達成感と満足感と少々の疲労感が同時に押し寄せ、彩雲は脱力してシートに沈み込む。思えば彼女も出撃してから固唾を呑みっ放しだった。漸く一息を吐いて、後部シートの香鈴を振り返る。

「さあ、帰りましょう」

「うん」

 地球を守る一大任務を成し遂げての帰投である。香鈴もまた胸のすくような想いで、表情の薄い顔に、気色を滲ませて頷いた。

 その表情が、一拍置いて後微妙に変化した。

「………え?」

 彼女の視線を追って前方に向き直った彩雲が、驚愕の呟きを漏らす。

 

 

“美風、どうしたの? 早く反転しないと!”

 静羽は必死の形相で繰り返し美風の名を叫んでいた。

 彗星の破片は撃破した。任務は完了した。それなのに、操縦把を握る美風は機首を返そうとしない。いくら呼びかけても反応がない。

 ひょっとして意識を失っているのか、と静羽の脳裏を微かな不安が過ぎる。上昇を続ける迎撃機は今にも帰投限界高度を越えようとしていた。成層圏外縁部は空気の密度に乏しいため翼による反転は儘ならず、一歩間違えれば取り返しの付かないことになる。

 美風の眼は、しっかりと開いていた。自分が一直線に向かっている、自分達の命を一瞬で奪うであろう危険地帯に、茫洋と向けられていた。

 ――もうちょっとで、外に………。

 手を伸ばせば届きそうな距離に見えた。このままスロットルを引き続けばあそこに辿り着ける。と、一切の他意無く美風は思った。

 あの向こうの色が見たい。純粋に、そう思っていた。ふと、後ろ髪を引かれるような感覚に捕われた。

 ――あ………。

 冷静に考えれば理解できる、あらゆる事象が美風の頭に舞い戻った。

“美風!”

「ごっ………ゴメン!」

 静羽の切迫した声を聞き、自らの愚鈍さを悟り、美風は慌てて操縦把を倒した。

 機首のRCSが、白い炎を噴いた。

          *

 青く澄み渡った空の下。

 潮の香りを孕んだ海の風が、程良く熱気を攫い、旗を靡かせていた。

 高いフェンスに囲まれた下地島迎撃基地に、一番いの鵬翼が、鋭いエンジン音をかき鳴らしながら、小躍りしたい衝動を抑え込みながら、帰って来る。

「《sasiba−3・3》、《sasiba−4・4》、クリア・トゥ・ランド。ランウェイ1−7。ウィンド、ゼロックスゼロ、ワンゼロノッツ」

 管制塔から、大任を果たした二機の迎撃機へ。最後の指令と情報が送られていた。

 すぐさま、喜びを噛み殺したような甲高い声で、返信が入る。

“クリアー・トゥ・ランド、ランウェイ1−7、《sasiba−3・3》”

“クリアー・トゥ・ランド、ランウェイ1−7、《sasiba−4・4》”

 基地のありとあらゆる場所が、大歓声に包まれていた。彼女達を手塩に掛けて育てた教官達も、迎撃機を精魂込めて磨き上げた整備員達も、次は自分だと意気込む下位待機のパイロット達も、総出で美風達の凱旋を出迎えた。

「ハッハッハッ! やりやがったなこん畜生ッ!」

 自分のことのように嬉々として腕を振るのは、整備主任であり教官である圭一郎だった。口汚さこそあるが、それは紛れもなく彼から美風達への祝辞だった。

 その隣で口を尖らせているのは、彼女達より上位待機であって、自分の手で隕石を落とすことを既定事項にしていて、出撃しておきながら不運な事故によって任務中段を余儀なくされた翼である。

「ンだよ、先越されたぜ」

 言葉通りの悔しさと、自分達の同輩が見事それを為し遂げた抑えがたい喜びを抱え、憮然とした表情を渋面に貼り付けていた。

 更にその隣で、同じく不本意にも手柄を譲る形になってしまった空は、素直に彼女達の実力を認め、不器用な笑みを浮かべていた。

「空、翼、飲むぞっ!」

 既に昂奮で陶酔している圭一郎が、二人の教え子の肩を掴む。

 空が、彼にしては比較的温度の低い眼で、ボソリと呟いた。

「未成年ですよ」

「………そうだっけ?」

 

 

 無事にランウェイに降り立った静羽達は、漸く息苦しいヘルメットを外し、新鮮な下地島の空気を胸一杯に吸い込んだ。心地よい薫りを肺から全身に浸透させ、先程まで地球の最も外側にいた自分の、二本の足が地面についていることを確認する。

「ふぅ………、これでハンデは帳消しになるといいね」

 未だ興奮の冷めきらない様子で、それでも現実的なことを言ったのは静羽。

 その想いは大同小異で、彩雲もまた肯いた。香鈴も首を縦に振る。

 三人から少し離れたところで、同じようにヘルメットを外した美風は、押し込められていた二括りの髪を揺らし、漸く人心地がついたという様相で、大きな息を吐き、

「………ふぅ」

 未だ高鳴りの収まらない胸を、撫で下ろした。

          *

 翌日。

「おまたせしましたぁ、こちらのテーブルへどうぞ」

「日替わり都合5つ、冷やし中華7つ、餃子3枚です」

 下地島唯一の中華食堂広陳は、未だ迎撃の興奮が冷めきらない静羽達の思惑など素知らぬ顔で、昼食時の賑わいを見せていた。商売繁盛の裏では当然の如く、店員達が注文や配膳や片付けに忙殺されている。

 チャイナドレスに身を包んだ静羽、彩雲、香鈴、そしてランの四人が、大皿や伝票を抱えて店内を東奔西走していた。

「………ったく、こんな時にまたあのボンヤリ娘は、行方不明かい?」

 一人厨房で休み無く中華鍋を震い続けるリンが、背中越しに愚痴とも詰問ともつかない問いを投げ掛けた。

「す、スミマセン………」

 足を止めた静羽が、苦笑気味に、一応詫びる。その歪みが回ってくるのは彼女達のところなのであるから筋違いといえば筋違いだったが。

 リンはそれ以上何も言わず、静羽も再び忙しく店内を駆け回り始める。

 そんな彼女達に、おずおずと、どこか遠慮がちに声を掛ける者がいた。

「あの………僕等の注文………」

「諦めろ翼。俺たちは広陳で昼飯食えない定めなんだよ」

「く………」

 空の諦観に、翼は恨めしげに水さえ運ばれて来ないテーブルに突っ伏す。

 そんな同輩の嘆きを、やはり知る由もなく、静羽はひとり恨めしげに呟く。

「もう、美風ったら何処に行っちゃったのよ!」

          *

 眼下には蒼い海が水平線まで広がっていた。

 砕けた波が飛沫を跳ね上げ、燦々と降り注ぐ太陽の光がそれを光の粒に変え、束の間の輝きの後、また広く深い海の一部となって消えていく。それらはやがて、また別の場所で、別の形で、違った輝きを見せるに違いない。

 この海の上を、風が駈け続ける限り。

 翼を一杯に広げた鳥が、頭の上で真円を描いた。

 基地から程近い岬の、翼を失った鳥の下に、美風は踞って何やら作業をしていた。足元に鞄を放り出したまま、黙々と。手を動かし続ける。

 できた、と小さく呟き、満足げな笑みを浮かべて、美風は立ち上がった。左右で結った髪が風に流されて顔に掛かるが、気に留めない。その手には、白いコピー用紙で折った紙飛行機が握られていた。

 いつかと同じように。顔の前に構えて、大きく振りかぶって、投げる。

 海の風に乗った紙飛行機は、一点の曇りも無い空の下を、一点の淀みも無い海の上を、滑るように飛んでいく。

 飛んでいく。

 美風の瞳が、安堵に似た微笑みを象った。

 その時。

「あ………」

 一筋の風が駆け抜け、飛行機の翼が不安定に揺れた。と思った次の瞬間、紙飛行機は白い翼を翻し、押し戻されるように方向を変えた。そして再び風の上を滑り始める。

 鋭い機首を、美風に向けて。

「―――」

 海の風は気紛れだった。

 まだまだ実力不足だと評する辛辣な嘲笑か。それとも祝辞のつもりなのか。

 美風の唇が、緩やかな弧を描いていた。またしても羽ばたくことのできなかった紙飛行機は、彼女の手の中に収まっていた。

「大丈夫」

 潮騒の中一人答えた美風の声は、自信に満ちていた。

 澄み切った空を見上げ、その向こうを脳裏に描いて、美風は風に告げる。

「もう、逃げないよ」

 下地島の風は、今日も翼を運んでゆく。

 

                       《TO BE CONTINUED》

 

 

 

 

          * * * * * * *

 あとがき

   前話を投稿させて頂いてから4ヶ月が過ぎてしまいました。諸事情ありまして、S

   Sの執筆をお休みさせて頂いておりました。中途半端なところで中断していて、続

   きをお待ちになっていた方(←いるわけねーだろ)ご迷惑をお掛けしました。

   この4ヶ月の間にストラトスフォーは小説が発売されて、何やら続編のOVAの製

   作も決まったようですね。小説の方はアニメの原作という形ではなく番外編だった

   ので、暫くはアニメのストーリーに従って、オリジナルも加えながら、SSを書か

   せて頂こうかと思います。

   ここに来て漸く一段落ついたので、書きかけのまま埃被っていた原稿を仕上げたの

   ですが、まだ勘が戻らないので少々見苦しい点などあるかもしれません。また、相

   変わらず忙しいのでvanの二次創作も含めて続きはいつになるか分かりません

   が、長い目で見てやってください。

   感想・ご指摘などいただけたら光栄です。

        鳳蝶   v_dreadnaught@yahoo.co.jp

             bibliophile@ezweb.ne.jp