Dream 第八幕 二人
いつの間にか夜が明けていた。昨夜はなんとなく家に戻りづらく、結局納屋で夜を過ごした。何時ぐらいだろうと時計を探してみるが、納屋の中には時刻を指し示すようなものはどこにも見当たらなかった。
仕方ない。家の時計を見てこよう。
納屋から出る。
外は目が開けられないくらいに眩しかった。朝の陽射しが降り注ぐ縁側。
緑が屋根にその手を伸ばし、家の壁のほとんどの場所に木々がぶつかっている。そのうちこれも綺麗にしてやろう。園芸はやったことがないが、このままだとあまりにもこの家がむごい。
玄関先に回ると、そこには晴子が立っていた。
真っ黒な大きな鞄を手に提げている。買い物に行くにしては、いくらなんでも大きすぎる。鞄の足の部分にはローラーがつけられていた。
街中でも普段は見かけない形、旅行鞄だろうか?
「なんでそんなものを持ち出してきたんだ」
「決まっとるやろ。旅行や、旅行」
俺に気がつくと晴子はそう告げた。
「旅行? 仕事はどうするんだ、それに観鈴も」
「仕事はしばらく休むことにしたんや。観鈴のことは、あんたに任せる」
晴子の口から出てくる言葉が信じられなかった。こいつも観鈴の今の状態は知っているはずなのに、それなのに旅行? 怒るよりも先にあきれた。
「観鈴もあんたのこと好いとる。せやから、うちがおらん間はあんたが面倒見たってや」
「…観鈴は今、夢を見ている」
自分でもわからないうちに、言葉が口をついていた。
「その夢が、観鈴をこんな風にしてるんだ」
いきなり何を言い出したのかと、晴子が不審そうな目で見つめる。それでも、言葉を続けた。こいつもこの話を知っておく必要があると思ったから。
「そのうちに観鈴は、あるはずのない痛みを感じるようになる。それから、観鈴は忘れていく。俺のことも、あんたのこともな。そして、最後の夢を見終わった朝、たぶん観鈴は……観鈴は死んでしまう」
自分の言葉が嫌に空々しく響いた。改めて口にしてみて、馬鹿げた話だと自分でも痛感した。
「あんたなぁ、言ってええ冗談と、悪い冗談があるで」
そうだ、こんな話を本気にしてもらえるはずがない。それでも……いや、だからこそ。
「こんなたわ言を言う男を、娘と二人きりにしていいのか?」
晴子は「はぁ」と、ため息を漏らして頭を軽くかく。
「観鈴が言ったことや。観鈴が、自分の口ではっきり言ったんや。うちに旅行に行くように、出て行くようにな。あの子のあんな真剣な眼、久しぶりにみたわ。それにな、うちはあの子の本当の母親やない、だから行くんやないか」
本当の母親やない。その言葉が、重くのしかかる。それ以上、話すことは何もなかった。遠ざかってゆくその背中を、俺はずっと眺めていた。その姿が消えたとき、空を見上げる。
雲ひとつない。また暑い一日になりそうだった。
観鈴の部屋に入ると、ベッドはもぬけの殻になっていた。トランプがあたりに散らばっているものの、持ち主の姿はどこにも見当たらない。居間にでもいるのか?
どこからか、とんとんとん、と包丁の音が聞こえてきた。
その音に導かれるように台所に足を運ぶと、額に汗をかきながら、顔色の悪い少女がご飯を作っているところだった。
無理をしていることが一目でわかる。俺が作るから、おまえは寝ていろと止めに入ろうとすると、
「いいって。それにこういうことしてないと、本当に病人になっちゃったみたいだし」
そう言って料理を続けた。
「そういえば、晴子に旅行に行くように言ったらしいな」
観鈴の背中を眺めながら、俺は独り言のようにそうつぶやいた。面とむかって話すことなんて、今はできそうにない。弱りきっているのに、それでも朝食を作ろうとしている顔なんてみたら、きっと何も言えなくなってしまうだろう。
「なぁ、どうしてそんなことを言ったんだ?」
「お母さんのため、だから…」
手を休めることもなく、そうつぶやいた。
「晴子のため?」
包丁の音が止まる。
「わたしの病気は、友達と一緒にいるとなるの。きっとね、足の痺れもその病気が原因だと思う。今日の朝おきたら、手も少し痺れてきてた。きっと、お母さんがこんなことを知ったらすごく困っちゃって、仕事も何も、手がつかなくなっちゃうと思う。いっつも無責任なこと言ってるけど、本当は優しい人って知ってるから。だから旅行に行ってもらって、一緒にいないことにしたの。わたし、お母さんのことが大好きだから」
「………」
「ね、往人さん。往人さんは、旅人さんなんだよね」
「あ、ああ」
今はそんなこと関係ないだろうに、こいつはいきなり何を言い出すのだろう。
「そろそろ旅、戻っていいよ。きっと一緒にいると、往人さんもっと苦しんじゃう。わたしと関わらなければ、往人さんがそんな風に悩むことも、苦しむこともなくなるから。だから、だからね、旅に戻っても――」
すすり泣くような声。最後のほうは、もう言葉になっていなかった。自分が発しようとしている言葉。それがどれほど自分にとってどれほど辛いことか、それが分かっているから。
友達。それは観鈴にとって、この世の中において何よりも大切なものなのだろう。それを自分から手放そうとしている。
観鈴の言っていることは、正しいのかもしれない。間違っていないのかもしれない。観鈴から離れれば、もしかしたら本当に、痺れもなくなるのかもしれない。
それでも、俺は……。
「苦しくなんかない」
「えっ?」
「心配するな。俺は苦しくなんかないし、何も悩んじゃいない」
「でも……」
戸惑ったように、少し後ずさりする。
「観鈴、もう人のことなんか考えるのはやめろ。自分がどうしたいかだけを考えろ。誰もおまえをわがままなんて責めたりはしない」
観鈴が俺のほうに振り向く。やはり無理しているようで、顔色は青かった。
「…ごめんね、本当は……いて欲しい……。往人さん、…空の夢のことも、癇癪のことも全部知ってるのに……、それでもわたしと……暮らしてくれる。一緒にいてくれる。迷惑がったり、気味悪がったりしない。だから本当は……、ずっと、ずっと一緒にいたい。ずっと一緒にいて欲しい」
それは観鈴が必死で語った、精一杯の自分の気持ちだった。
「往人さん、一緒にいてくれる?」
観鈴が問いかける。答えなんて、最初から決まっていた。
「起きてたのか」
観鈴の部屋に戻ると、トランプのカードを切る少女の姿があった。
「大丈夫さっきまで寝てたから」
札を並べていく。昨日と同じように、絵柄をそろえる遊びでもする気だろうか。
「いい夢だった。昨日とは全然違う、すごくいい夢」
「空の夢か?」
「ううん。今度は夜の森。森の中で話をしてるの」
「誰と?」
「よく覚えてないけど……すぐ近くに誰かが寄り添ってくれてた。わたし、その人に『海ってなんだ?』って訊いた。そうしたら、教えてくれたの。海のこと、たくさん。話してるだけで、すごく楽しかった。言葉を全部包んでいつまでもしまっておきたいって思ったぐらい。あんな夢なら、もっとみたいな」
『夢はだんだん、昔へと遡っていく』
『その夢が、女の子を蝕んでいくの』
夜の森にいたと、観鈴は言った。
それは、夢が昔へと遡っているということを意味しているのかもしれない。だとしたら、もうあまり時間は残されていない?
「観鈴、海に行こう」
驚いたように、観鈴が俺のことを見る。
「昨日いけなかっただろ」
「でも…」
自分の足先を見つめる。まだ痺れは残っているのだろうか。
「まだ日も早いし、ゆっくり行けばきっと大丈夫だ。俺が必ず連れて行ってやる。それに、行きたいんだろ?」
「うんっ」
微笑んでこくりとうなずく。
俺は一人先に廊下に出た。
手も痺れてきている。観鈴はそんなことを言っていた。
『病みはじめてしまえば、それから先は早かった』
不吉な予感がよぎり、慌てて首を振る。
関係ない。俺は観鈴を海に連れて行く。できないはずがない。
二人、家を後にした。目指す海まではわずかの距離。いつもの堤防のすぐ下だ。五分もすればつく。何も心配はいらない。
午後の陽射しは強かった。アスファルトが溶け出してしまいそうなほどの強烈な熱気に包まれて、地面から熱が生まれていく。アスファルトに落ちた汗が、一瞬で蒸発した。
右足を出す。額の汗をぬぐい、左足を出す。一歩一歩を確かめるように観鈴は歩いてゆく。いつか言い合った、海へ行くという約束。それが今、手の届くところまできている。
最初の角を曲がったところで観鈴は足を止めた。俺は肩を貸す。小さい観鈴の体が熱く火照る。この小さな体で、どこまでいけるだろうか。
道の向こうが陽炎に揺らいでいる。
どこまでも終わりがないように思えた。
海は、こんなにも遠かっただろうか。
「暑いな、大丈夫か」
アスファルトに足を踏み出すたび、靴は履いているのに、牛革を貫通して、焼けるような熱気がじかに足を熱しているように感じた。
「うん、だいじょうぶ」
頼りなさげに歩いていた観鈴の肩に手を回し、体重を支えた。瞬間、何か言いたそうに観鈴が俺を見つめた。その瞳がうるみ、頬を涙が伝っていく。
「ごめんね、すぐに治るから……海は、また明日……にははっ」
無理な笑顔は、すぐに歪んでしまう。
悟った。俺は近づきすぎてしまったのだ。
「あっ……うぐ……」
もう止まらなかった。俺の手を振り解き、観鈴は泣きじゃくった。それは癇癪などではなく、得体の知れない発作そのものだった。
観鈴を肩に背負う。軽い。まるで紙のような重さだった。その軽さが、たまらなく切ない。どうすればいい、どうすれば……。
「一応はこれで大丈夫だ」
「そうか、悪かったな。休みの日なのに働かせちまって」
「気にするな、病人に休みの日なんてない。医者っていうのはそういうものだ」
診療所に観鈴を運ぶと、聖は以前と同じように、慣れた手つきで彼女を介抱してくれた。おそらく観鈴が幼いころから、癇癪を起こすたびにこうして見てきたのだろう。
「なあ、聖。観鈴はどうして癇癪なんか起こすんだろうな」
今まで考えたこともなかったが、よくよく考えてみれば、高校生にもなる人間が、癇癪を起こして泣き叫ぶというのもおかしな話だろう。
「…これはわたしの勝手な推測だが、観鈴ちゃんの本当の病気は、癇癪ではないような気がするんだ」
「どうゆうことだ?」
聖の顔を見る。あごに手を当てて、深刻な表情で続ける。
「彼女は、他人を傷つけないために癇癪という手段を用いている。いわば、一つの自己防衛の手段としてだ。癇癪を起こし、他人と一定以上の距離を常に保とうとしている。いや、体がそうさせている。というべきか…」
「自分を守るために癇癪をわざと起こしているってことか?」
「そういうことだな」
…癇癪以上の何か……。
まさか足の痺れが? いや、考えすぎか。所詮は聖の思いつきでしかない。
聖の首に包帯が巻かれているのに気づいた。
「なあ、首筋のそれ、どうしたんだ?」
「ああ、昨夜寝ちがえてな」
「そうか、それは災難だな」
二言三言聖と会話を交わして、観鈴の眠っている病室に入る。
眠っているはずなのに、まだぶるぶると体を震わせている。
癇癪。はじめて間近で見て、その恐ろしさがわかった。
助けようとしても、観鈴がそれを拒む。友達と一緒にいることが原因なのだから、そうするのも無理はないだろう。地面に倒れこんでしまうほど彼女は泣きじゃくっているのに、一緒にいる人にはどうすることもできない。ただ、見ていることしかできない。
今日もまた、海に行くことはできなかった。すぐ近くにあるはずなのに、手を伸ばせば、もう届きそうなのに…。
明日はどこまでいけるだろうか。もっと海に近づけるだろうか。それとも、さらに遠のくのだろうか……。
診療所。窓のブラインドを上下させて光りを調整していた。別にそれをやりたかったわけではない。ただ、何かをしていないと体が落ち着かないのだ。じっとしていると、何か重圧的なものに胸が押し潰されそうになる。
だから、気を紛らわせるために、そんな無駄なことを繰り返していた。
「ねぇ往人さん。往人さんの探してる人とわたしの夢、関係あるんだよね」
ベッドの上から、観鈴がそう話しかけてきた。
「さあな、関係ないんじゃないか」
「ううん、往人さん真剣な目してた」
下手なことを言っても逆効果になりそうな雰囲気。しょうがなく、俺は今までに聞いた母の言葉を聞かせていく。
…この空の向こうには、翼を持った少女がいる。
…それは、ずっと昔から。
…そして、今、この時も。
…同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている。
…そこで少女は同じ夢を見続けている。
…彼女はいつでもひとりきりで…
…大人になれずに消えていく。
…そんな悲しい夢を、何度でも繰り返す…
「それが、往人さんの知ってる全部?」
「ああ」
嘘だった。もっとも大切な言葉は、心の奥底にまだしまいこんである。
『友達が近づくだけで、その子は苦しがる』
『だからその子は、ずっとひとりぼっち…』
『…それから、だんだん体が動かなくなる』
『あるはずのない痛みを感じるようになる』
『夏はまだ、はじまったばかりなのに…』
『知っていたのに、わたしはなにもできなかった…』
これだけは、いうわけにはいかない。言ってしまえば、観鈴が空の少女と自分の姿とを重ねてしまうかもしれない。そして……それが導き出す答えは……。
『女の子は、死んでしまうの』
それが現実になってしまいそうで、それが怖くて……。
「これはわたしが、いろいろ考えて辿り着いた答え。聞いてくれる?」
ああ。っと、うなずく。
「わたしの夢は、もうひとりのわたしなの。その子には翼があって、きっと自由に空が飛べた。それなのに今、その子は苦しんでいるの。だから、わたしに何かを伝えようとしてる。…だから、わたし頑張って夢を見る。もっと夢を見れば、わかるかもしれないから。その子がどうして苦しんでるのか、そうすれば、その子のこと助けてあげられるかもしれない。いい考え。ナイスアイデア。そうしよーっと。おやすみっ」
ぱふっと、頭から布団をかぶる。
『そして、最後の夢を見終わった朝……』
「馬鹿っ!」
頭に浮かんだ恐ろしい予感。俺は無意識に布団を剥ぎ取っていた。
「にはは、わたし、馬鹿だから」
笑顔のままだった。
「なっ……、観鈴」
慎重に言葉を選んでいく。
「おまえの言っていることは、正しいのかもしれない。間違ってはいないのかもしれない。でもな、夢の中のおまえが苦しんでいるとしたら……、このまま夢を見続けたら、おまえもそいつと同じことになるかもしれない」
…この空の向こうには、翼を持った少女がいる。
それはもう漠然としたイメージではない。少女は空で苦しんでいた。それはずっと昔から。
俺は、少女を救うために旅をしてきた。それなのに、どうしたらいいか分からない。
いつの間にか、俺の中で空の少女と観鈴が一つに重なっていた。
「往人さん。わたしが夢を見始めたのは、きっと偶然じゃないんだよね?」
俺の顔をのぞきこむ。
「わたし、今年の夏は特別だって思った。がんばって、友達をつくろうって思ってた。そうしたら、往人さんに会えた。そうして、夢を見始めた。往人さんの言う空の少女も、わたしの空の夢も、きっと、全部が一つにつながってるんだよね」
そして、夏は続いてゆく。俺を、観鈴を…全てを巻き込んで…。