Dream 第七幕 異変

 

 静けさで目覚めた。セミの鳴き声と扇風機の回る音、いつも通りの茶の間の風景。畳の上で寝返りを打つと、体が左右に揺れる。首筋のあたりに、何か重いものが淀んでいるような気がした。

 落ち着かない……。そういえば、朝だというのに観鈴の姿がどこにもなかった。不自然に感じて起き上がると、そこを後にし、観鈴の部屋へ。

「起きてるか? 入るぞ」

 引き戸を開く。

 観鈴は両足をベッドの上に投げ出して、手でさすっていた。

「なにやってんだ?」

「足が痺れたみたいになってて、なかなか治らなくて」

言って、自分の足を不思議そうに眺める。

「昨日、歩きすぎたんだろ」

「そんなことないと思う。このごろ朝はだいたいこんな感じだから。前からたまにあったけど、いつもはすぐに治るの」

「ただの低血圧だろ、すぐによくなるさ」

「にはは、そうだね。学校行かなくちゃいけないもんね」

「そう思ってるんなら、その遅刻癖はなおしたほうがいいな」

カチカチカチカチ

時計の針が、観鈴の足のことなど無関心なように秒針を刻んでいく。観鈴は、ただ黙って足を揉んだり叩いたりしていた。その横顔には、焦りの色が見え隠れ。そろそろ事態の悪さに気づき始めたようだ。

「どうする、病院に行ってみるか」

「大丈夫、すぐによくなるから」

 いつの間にか口調は早口になっていた。観鈴自身、戸惑いを隠しきれずにいるのだろう。

 結局、授業が始まる時間になっても観鈴の足はよくならなかった。

 学校に行かなきゃ、と無理やりに体をベッドから降ろそうとする観鈴を引き止める。どう考えてもいけるような状況ではない。

「とにかく今日は一日しっかり休んで、明日疲れを残さないようにしろ」

「でも、ご飯とかは? 往人さんの分も」

こんなときにも他人の食事の心配をするあたりが、こいつらしいといえばこいつらしいか……。

「気にするな、腹が減ればその辺のものを食べるから」

「そうしてくれると、嬉しい」

「どうせ夏風邪だろ、変なジュース飲むからだ」

「それは関係ないと思う」

「じゃあな、大人しくしてろよ」

 部屋をあとにすると台所へ向かう。

 晴子が牛乳パックを冷蔵庫から取り出して、そのまま口飲みしていた。

「二日酔いなんて久しぶりやわ、いったぁ」

頭を重そうにかかえている。昨日も相当飲んだようだった。

そういえば、喉が渇いたな…。

「なあ、俺にも牛乳わけてくれないか」

「ん、なんや、うちと間接キスでもしたいんか。間接やのうて直接したろか。うははは」

「馬鹿言ってないで貸せっ」

晴子の手から強引に牛乳を奪い取ると、貪るようにそれを喉に流しこんだ。重い、体の芯が疲れている。

空の紙パックをゴミ箱に叩きこむ。

「なんやえらい機嫌悪いな、どうしたんや」

「…観鈴を看てやってくれ」

「ん、どうかしたんか? あの子」

「具合が悪いんだ」

「はは、あれやな。どうせ何か変なもの拾い食いしたんやろ。そこに漢方薬あるから、それでも飲ましときゃすぐ治るわ。そしたら、うち昼まで寝るから後よろしくな」

「顔ぐらい出してやれよ」

「頭痛いねん、うち。病人が二人顔つき合わせても、気が滅入るだけやろ? それに、あの子もいまさらそんなんで元気でぇへん。あんたがそばにおったら、それでええやろ」

そう言い残して、晴子の姿は廊下に消えた。相変わらず役に立たない母親だ。いや、母親ではないか。

拳を握りしめている自分に気づいた。

俺は、何に苛立っている。なにを動揺している?

『あんたがそばにおったら、それでええやろ』

 晴子の言葉。

 観鈴はただの夏風邪だ。少し休めばすぐに元通りになる。

 だが、一つの予感が脳裏にしがみついて離れない。

 夏風邪……本当にそうなのか? 俺は、何かもっと大事な、大切な何かを忘れていないか。あれは、いつだったか……。

何も出てこない。

 まただ。記憶の奥底に鍵が掛かっているような、そんな感覚。

枝が揺れる。編みこまれた樹木の緑の向こうに、青空が広がっている。

見覚えのある風景。俺はこんな光景を昔見たような記憶がある。

けれど、どこで見た光景なのか、それがどうしても思い出せない。

「寝てろよ」

部屋に戻ると、観鈴は上体を起こし膝の上でトランプを広げていた。

「往人さんも一緒に遊ぶ? 二人なら神経衰弱とかババヌキとかできるね」

「やらない」

「どうして?」

 観鈴が不思議そうに言う。

「たくっ、遊んでたら、休んだ意味がないだろ」

「だって、眠たくないんだもん」

札を集める手が、不意に止まる。今まで集めていたものを束ねると、それを自分の膝元にもう一度ばら撒く。

「どうして?」

観鈴の勉強机の横にあった椅子に腰掛ける。

「今朝の夢、変だったから」

 また札を集め始める。裏側になっていたものをめくると、ハートのマークが描かれている。観鈴は、自分の膝元に散らばったトランプからハートだけを選んで集めていく。

「空の夢じゃなかったのか?」

「ううん」

ハートを集めていた顔が曇る。

「空の夢だったけど、今までと全然違った」

観鈴の瞳が震えたかと思うと、手に持っていたトランプのカードが全てベッドの下に散らばった。そんなことにすら気づかないかのように、観鈴は言葉を続けていく。

「ぽっかりと月が浮かんでて、すごく明るかった。わたし、空に昇ろうとしてた。そうしたら、声が聞こえてきたの」

「声?」

「うん、たくさんの人の声。わたし、それでわかった。みんながわたしを閉じ込めようとしてるって。耳の中がわんわん鳴って、それ以上昇れなくなって、それで……」

 その先は何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。小さな観鈴の体は、子犬のようにぶるぶると震えていた。

 それは、今まで聞いていた空の夢とは、似ても似つかないものだった。話し終えても観鈴はまだ不安げで……。まるで、今にもその『声』が聞こえてくるかのように、怯えているようにも見えた。

「もう、見たくないな」

「ただの夢だろ、気にするな」

頭にぽんと手をのせてやる。それで不安が紛れたようで、

「うん、それじゃ気にしないね」

「ああ、しっかり休め」

頷きながら、トランプに手を伸ばす。

「おまえなあ」

 観鈴がトランプを並べる音だけが聞こえてくる。子供のように無邪気に遊ぶ姿。そうだ、夢がどんな内容だろうと関係ない。悲しくても、怖くても、しょせんそれは夢なのだ。現実の観鈴はこうして俺のすぐそばで楽しそうにトランプで遊んでいる。そう、観鈴はここにいる。

 ………。

 どのぐらい時間が経っただろう。いつの間にか、全く物音がしないのに気づいた。観鈴のほうをみると、トランプを広げたまますうすうと寝息を立てていた。夢は見ているのだろうか?

 最初は空の夢。

 それが悲しい夢であることに、観鈴は気づいた。そして、今朝夢が変わった。観鈴は以前、夢は時間を遡っていると言っていた。だとしたら、夢が突然変わったことは、何を意味しているのだろう?

 次に観鈴は、どんな夢を見るのだろう?

 気がつくとあたりは闇に染まっていた。いつの間にか眠っていたらしい。慌ててベッドに視線を寄せる。

くぅくぅと気持ちよさそうに寝息をたてる観鈴がそこにいた。

夢を見ているかは分からないが、少なくとも悪夢にうなされているわけではなさそうだ。

「結局、今日は海にいけなかったな」

苦笑する。観鈴の一大事だってのに、そんなことを心配する自分が馬鹿らしかった。でもきっと観鈴が起きていたら、同じようなことを気にしていたのだろう。

「海には明日行こう。だから、おまえは早くその足を治せ」

 

 

 静かな夜。セミのざわめきも、梢の風に揺られる音色も、全てが眠ってしまったような静寂だった。なにひとつ、変わったことなどない。

 夕食の時間になる。一応観鈴に聞いてみたが、返ってきた答えは食欲がないというものだった。

 俺も同じ。結局何も口に入れぬまま、その時は過ぎていった。

 日付がかわったころ、晴子が戻ってきた。

「ほら、土産や」

千鳥足で言う。手には寿司折が提げられていた。いつもなら喜んで食いつきそうなものだが、今はそんなものを見ても何の感情も生まれない。

「今から飲みながら食うでー。ん、観鈴はもう寝てしもたんか」

「観鈴はずっと寝てたよ、朝からずっとな」

「なんや、お寝坊さんやなあ」

「しゃあない二人で食うで。皿だしや」

「一人で食ってくれ」

「なんや、付き合い悪いやんか。一緒に食おうや、おいしいんやでここの寿司」

「食わない」

「なんでそないなこというんや、一人で食うより二人で食べるほうがおいしいやん。な、お酒飲みながら、つつこ」

 憎悪にも似た感情が、頭の中を渦巻いていく。観鈴の容態は一向に治る気配はない。こいつは、それを知っていながら関わろうとしない。

 一つ屋根の下で暮らしているというのに、結局……こいつは……。

「な、どうして観鈴を引き取ったんだよ」

 どこまで行っても、叔母でしかないのだろうか。

「なんやあの子話してたんかいな。引きとったんやない。押し付けられたんや」

 驚くようなそぶりを見せることもなく、晴子はさも当然といった様子で言った。どかっと椅子に腰掛ける。

「嫌や、言うてんけどなー」

 その態度が、さらに俺の中の怒りを彷彿させていって、そして……。

「そのせいで、あいつはあんたに甘えられないんだろっ!」

思わず一喝していた。その瞬間晴子の、今までどこか余裕があったような笑みが消える。

「…うちなんかに……甘えたいわけあらへん、うちほんまの親やないから」

しぼり出すような声。それは、始めてみる晴子の弱気な姿だった。

「そんなの関係ないだろ。あいつにとっての親は、あの日からあんたひとりだけなんだ。自覚しろ、あんたが観鈴のただひとりの母親なんだよ」

「なんや、ずいぶんと偉そうやな」

椅子から立ち上がる。

「うちはな、二十歳にすらなってへん小娘やった。そんなころに、今日からあなたがこの子の母親ですなんて、いきなり幼い子どもを押しつけられたんや。その気持ちが、その重みが、あんたに分かるんか? うちが望んだわけでもないのに、ある日いきなりこの子はあなたの娘ですって、幼い子どもを預けられた気持ちが、あんたに分かるんかっ!!」

「………」

「ほれみろ何も言われへん。結局それや。あんたに人を説教する資格なんてない。よそ様の事情に土足で足を踏み入れて、わずかの知識で全てを理解した気持ちになって、偉そうに説教をたれる。あんたのやってることは、ようするにそういうことや。ああー、なんか気分悪うなってもうた、飲も」

 …何も言えなかった。俺は居場所を失って、部屋を後にした。

 狭いはずの廊下ががらん、と嫌に広く感じた。孤独というのは、こうゆうことのことを言うのだろうか。

「………」

 何も知らない。だけど、それでも俺は……。

 頭を冷やしてこようと思い、玄関に行き靴を履いた。気づかれないよう玄関の戸をそっとしめる。さすがに田舎町の深夜では人通りもほとんどないようで、外に出ても、人とすれ違うようなことは一度としてなかった。

いま存在しているのは世界中で自分ひとり。そんなふうに思ってしまうくらい、静かな夜だった。

あてもなく進むと海沿いに出た。そのまま進む。結局、着いたのはここだった。堤防への階段を登り、どっかりと腰を下ろした。

波の音。海の手前は砂浜。幾重にも押し寄せる波が、しゅわしゅわと砂に吸い込まれていく。

子供のころから、俺は母親と旅をしていた。家族の暖かさが染み込んだような、そんな家での暮らしに憧れていた。そうして辿り着いた、田舎の町の小さな一軒家。だがあそこにあるのは、くたびれた生活の匂いだけだった。観鈴と晴子、二人はああやって暮らしてきたのだ。お互いの隙間をじっと保ったまま。

 目を閉じて、波音に聞き入る。何度でも、それを繰り返す。

『海に行きたい』

 それは観鈴の声ではなかった。頭の奥から浮かびあがってくる、遠い記憶。子どものころに聞いた、懐かしい声。

『海に行きたいって、その子は言ったの。でも、連れていってあげられなかった。やりたいことがたくさんあったの。でも、なにひとつしてあげられなかった。夏はまだ、はじまったばかりなのに……知っていたのに、わたしは何もできなかった。誰よりもその子の側にいたのに、救えなかった』

一言一言、ていねいに語る声。

『女の子は、夢を見るの』

『最初は空の夢』

『夢はだんだん、昔へと遡っていく』

『その夢が、女の子を蝕んでいくの』

わからない言葉もあった。でも俺は、一生懸命に聞いた。大事なことを伝えようとしていることは、わかっていたから。

『最初はだんだん体が動かなくなる』

『それから、あるはずのない痛みを感じるようになる』

『そして……女の子は、全てを忘れていく』

『一番大切な人のことさえ、思い出せなくなる』

『そして、最後の夢を見終わった朝……女の子は死んでしまうの』

そこで一度、言葉が途切れた。こみ上げてくるものを、必死で抑えているようだった。

『友達が近づくだけで、その子は苦しがる。だからその子はずっとひとりぼっち。二人の心が近づけば、二人とも病んでしまう、二人のとも助からない。だから、その子は言ってくれたの。わたしから離れて、って』

『やさしくて、とても強い子だったの』

『だから……往人。今度こそあなたが救って欲しいの。その子を救えるのは、あなただけなのだから』

 見回すといつもの堤防。少しの間、眠っていたらしかった。

 夢……だったのか?

 語っていたのは、俺の母親。

 そうだ、確かに俺は、母親と今の会話を交わした記憶がある。

ただ、いつ交わした会話なのか、それがどうしても思い出せない。ずっと昔のようにも、ごく最近のことのようにも思えて……おかしい……なぜここまで記憶があいまいなのだろう。

『女の子は、夢を見るの』

『最初は、空の夢』

『夢はだんだん、昔へと遡っていく…』

 そう言えば、観鈴は言っていた。

 自分が見る空の夢は、時間を遡っている。空気の流れや風の匂いでわかると。まるで、観鈴のことを言っているようだ。ぼんやりと考えた瞬間、頭に亀裂が走ったように感じた。

 だとしたら……。

『その夢が、女の子を蝕んでいくの。最初は、だんだん体が動かなくなる』

今朝、確かに観鈴は言っていた。

 足が痺れたみたいになってる、と。

 もしも、もしも母の言葉が本当に観鈴のことを言っているとするのならば……。

『それから、あるはずのない痛みを感じるようになる』

『そして……女の子は、全てを忘れていく。いちばん大切な人のことさえ、思い出せなくなる。そして、最後の夢を見終わった朝……』

『女の子は、死んでしまう』

 違う!

 そんなことはありえない!

 母が話していたのは、空にいる少女のことのはずだ。俺の母親が、観鈴のことを知っていたはずはない。

だが、偶然とは思えないほど、その言葉は今の観鈴と一致している。まるで、外れようのない予言を辿るように。

「どういうことだ……」

 必死で記憶をたぐり寄せる。

 なぜ俺はこんなことを覚えているんだ?

 なぜ母親はこんな話を俺にしたんだ?

『往人。今度こそ、あなたが救ってほしいの』

『その子を救えるのは、あなただけなのだから』

眼差しや息遣いまで、今でははっきりと思い出せる。

ただどうやったら救うことができるのか、それだけが、綺麗に切り落としたように、まるで思い出せない。

なんだったか、どうして俺はそんな重要なことを忘れているんだ。

自問しても、答えなんてあるはずもない。

立ち上がり、暗闇の先を見つめた。波音は続いていた。そこにあるはずの海。この町ではあまりにも身近すぎて、誰も気にかけたりしない海。

『海に行きたいって、その子は言ったの』

 観鈴を海まで連れてくる。それは、簡単なことのはずだった。

………。

……。

…。

『でも、連れて行ってあげられなかった』







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