Air 第十三幕 空へと帰る日

 

「やった……やっとたどりついた。ずっと探してた場所。幸せなばしょ……ずっと、幸せなばしょ……」

「神尾さんっ」

 観鈴の肩を支えるように抱きかかえていた晴子のそばへ、美凪が駆け寄る。それに続いて、聖、敬介も。

「おい。観鈴、僕だ、敬介だ。お父さんだよっ! 頼む、返事をしてくれ……」

「観鈴ちゃん、キミの探していた場所、ゴールはもっと先なんだ。もっともっと遥か遠くにあって、たどり着くには何十年もかかる。だから、こんな場所で終わっていいはずがないんだ」

 それぞれが観鈴の意識を回復させようと叫び続ける中、コップから零れ落ちたような微弱な声が、小さく響いた。

「…嫌や」

 それは、晴子がこぼした言葉。

「そんなん嫌や……観鈴……うち、そんなん嫌や」

 コップからはやがて滝のように水が流れ出し始めて、晴子の声もまた、その場にいる誰よりも大きなものに変わっていった。

「そんなん嫌や――っ! 置いていかんでやっ……うちをひとりにせんでやっ……あんたに何もかも教えてもらったやないかっ。ひとりきりやない生き方、あほで甲斐性なしやったうちに教えてくれたやんか……酒飲むことだけが幸せやったうちに教えてくれたやないか。家族と一緒に生きるいうことや……その中でうちは守るものができて、強くなれて……それで、幸せをつかんだんや……あんたを幸せにすることが、うちの幸せやったんや……あんたと一緒にいられたら、幸せなんやっ。な、ずっとみんな一緒に幸せに生きてこ……これから先ずっと……みんなで……ほかにはなんもいらんから、新しい服もいらんし、贅沢もできんでええ。みんなの輪の中心にあんたがおって、うちもその輪のなかに混じっとって、それだけや……。それだけでええ。また海を見にいこ……あんたが好きなヘンなジュース飲んで歩こうや……飽きるぐらい遊ぼ。ずっと、神尾の家で仲良お暮らそ……な……だからいかんといてや、うち、おいていかんといてやっ……な、観鈴……観鈴っ……観鈴……観鈴―っ!!」

出会いの夏祭り……

「これ、ほしいな」

「うん? なんや?」

「きょうりゅうの赤ちゃん」

「は……違うんやけどなぁ、これヒヨコやねん」

「飼いたいな……」

「ええよ。買うたる」

「わーい」

 そして時間がたって、何年もすぎて……また夏がきて……ふたり笑ってる。

大きく育った……幸せと一緒に。

 そんな未来が来ると、信じていた。そんな未来が来ると、願っていた。なのに、現実はもっとずっと辛いもので……。

 どさり、大きな音を立てて布袋が地面に落ちる。それを落としたのは、その場にいた四人の誰でもなかった。

「嘘……だろ……」

 声のしたほうに晴子が振り返ると、真っ黒なトレーナーを着込んだ男が立っていた。その後ろには、二、三人の男女がひかえている。

 往人と和樹、佳乃と小百合。

「はは……なんだよ……俺さ、ずっと頑張ってきたんだぜ……。もう一度観鈴の笑顔が見たい。ただそれだけだったんだ。それで……ずっと旅をしてきて、京都まで行って、呪いを解けば、きっと観鈴も助かる。そう信じてここまで来たのに、その結果が、これだって言うのかよ……」

「居候、あんた……帰ってきたんか……」

 晴子のもとに駆け寄っていき、往人は観鈴を抱き寄せる。軽い……信じられないぐらいに軽くて、その軽さが、いまの観鈴の命の重さのように思えて、やるせなかった。

「息、してないんだな……」

 観鈴の唇に手を近づけて見ても、温かい感触はまったく感じられない。まるで死んでしまったように、観鈴の唇は、閉ざされたままだった。

「認めねぇ……俺はぜったい認めないからな……観鈴の命が、こんなことで尽きようとしてるなんて、こんなことで、今までのこと全てが無駄になるなんて、そんなこと、あってたまるかよっ!!」

「諦めなさい。国崎往人」

 また、別の声がした。幼い少女の声。プラチナ色の長い髪をなびかせて、少女は其処に立ち尽くしていた。

「その子はやりとげたの。母親と一緒にずっとずっと、家族であろうとあり続けた。そしてついに、家族になることができた。それは簡単な道のりではなかったけれど、彼女はやり遂げることができた。だから、もう休ませてあげて」

「休ませてだと、ふざけるなっ! こいつは、見限っただけだ。呪いのせいで身体の自由が効かないから、だから生きることを諦めて……けど、それは観鈴の本心じゃない。こいつは誰よりも苦しい思いをしてきた、辛い思いをしてきた。だからこそ、誰よりも強く、生きたいと願っていたはずなんだ。本当は……こんな結末なんて、望んでいない……」

「それは独りよがりな考え方。観鈴ちゃんは一生分の幸せを、この夏、味わうことができた。彼女は苦しんだ末、苦渋の選択の末に死を選んだんじゃない。幸せだと、母親とともに暮らせたことが本当に幸せだとそう思えたから、これ以上お母さんを苦しませないために、自ら死を選んだ。呪いはまだ解けてはいないから。これ以上一緒にいれば、二人とも倒れてしまうから、二人とも死んでしまうから。だから自分が犠牲になることで、それを回避しようとした。それは自己犠牲の心と言えるかもしれない。けれど、少なくとも彼女は後悔はしていない。本当に幸せで、十分すぎるくらい幸せで、もういいと思えたから、だから、自らの命を絶つことを選んだ」

「紗衣さん」

 佳乃の低い声がその場に響いた。紗衣という少女の考えを根底から打ち破るために、彼女は言葉を続ける。

「もう十分に幸せだと思うことができたから、大切な人を傷つけたくなかったから、だから観鈴ちゃんは自らの命を絶つことを選んだ。そう言いましたよね。それってつまり、自殺を肯定するってことですか? もう十分頑張った。お母さんと、本当の家族になることもできた。だから、もう楽になってもいい。たしかに観鈴ちゃんはそんなふうに考えていたのかもしれません。けれど、それはたくさんの人たちの好意を無下にするということ。周りの人たちみんなが自分を助けるために必死になってくれているのに、そんなこと全然お構いなしで、自分のわがままを通すということ」

「わがまま……?」

「ええ、わがままですよ。人の好意を素直に受け止めず、自分の勝手な考えを通す。それが、わがまま以外のなんだっていうんですかっ!」

 紗衣は目を細め、じっと目の前の少女、佳乃を睨みつける。

「興味深い意見ね。観鈴ちゃんがここで全てを終わらせることは、彼女の身勝手な行動でしかないと、本当にお母さんやみんなのことを思うなら生きろと、つまりそう言いたいわけだ」

 冷静に……でもはっきりと怒りの片鱗がうかがえる口調で、紗衣は感情の塊を佳乃にぶつける。正直な話、彼女はいらついていた。理由は、自分の考えが全面否定されたこと。たしかに見方を変えてみれば、佳乃の言っていることは正論なのかもしれない。結局観鈴のやったことは自己満足でしかなく、晴子を中心に観鈴を助けようとした多くの人の心を踏みにじっただけなのかもしれない。だが……だからと言って……。

「それじゃあ聞くけど、観鈴ちゃんがあのままお母さんと一緒に居続けようと、そう思った場合、その先に訪れるのは、なに?」

「えっ……」

 静かに言い放った紗衣の言葉の前に、思わず佳乃は押し黙る。

「翼人の呪いが解けない以上、観鈴ちゃんの身体が蝕まれていくのは必然。どうあがこうが、結局彼女は倒れることになる。彼女がやったことは、確かに罪深いことかもしれない。でも、彼女にはその道しか残されていなかった。時間は有限で、その時間を最後まで使いきろうとしなかったことこそが彼女の罪。あなたはそう言いたいのでしょう? でもだからと言って、いつかは終わる、幸せな時間。そんなものに身をゆだねて、母親と自分、互いの身体が蝕まれていくのを、ただじっと絶え続けていけと言うの? 死が、互いを別つまで……」

 苦しみぬいた末の死か、安楽とした死か……。どちらがよいかなんて、結局は人の価値観次第でしかない。

「第一、当事者のいないところで討論を続けたところで、なんの意味があるというの?」

 観鈴が倒れ目を覚まさない以上、紗衣の言う当事者がいないという言葉はあながち間違ってはいなかった。会話に参加することもできない、会話を聞くこともできない。ならばそれは、いないことと同じことだろう。

「翼人の呪い、翼人の呪いって……くそっ、紗衣! お前言ってたじゃないか。わたしに協力すれば観鈴を助けてあげるって、なのに、その結果がこれかよ!」

 握りしめた左の拳を右手に叩きつけて、往人が叫ぶ。

「言ったはずだよ。わたしの目的はあくまで、空に囚われた翼人の封印を解くこと。封印を解いて、もう二度と人と翼人が関わらないように、観鈴ちゃんの魂ごと、神奈備命の魂を空へと還すこと。神奈備命の魂を消滅させ、もう二度と輪廻の輪に戻ってくることがないよう、永久の眠りにつかせること。それこそが、観鈴ちゃんと神奈備命、双方の魂を救う結果になるのだから」

「それじゃ結局、観鈴を見殺しにするってことじゃねえかよ! 何が人と翼人が関わらないようにだ。あいつには、観鈴にはそんなこと関係ないだろ!」

「関係ないことはないよ。観鈴ちゃんは、本来神奈備命が輪廻転生により生まれかわるはずの存在だった。だけど神奈備命の魂は空に囚われていたから、輪廻の輪がうまく回らなくて……」

「ごちゃごちゃうるさいんだよ! どれだけそれらしい理屈を並べようが、お前のやろうとしてることは観鈴の自殺を肯定し……いや、観鈴を殺そうとしているだけだ!!」

「だったら?」

 往人に言葉をぶつけられた紗衣は小さくため息をついて、言う。

「だったらなんだって言うの? 八尾比丘尼にかけられた身体を蝕む呪いは何十年、何百人分もの怨念や法力僧たちの力で作り出された強固なもので、解くことは不可能なんだよ? そしてその呪いは八尾比丘尼から神奈備命へと、記憶と共に受け継がれ、そしていま、呪いは神奈備命の魂と同化した観鈴ちゃんの中にある。呪いを解くことができない以上、誰かが犠牲になるしかないの。観鈴ちゃんは自分の身体が呪いのせいで蝕まれていることを知っていたから、お母さんを巻き添えにしないように、自ら死を選んだ。まったく、何度も同じことを言わせないでよ」

「お前は、それでいいのかよ……」

「……? どうゆうこと?」

「さっき言ってたよな翼人と人間がもう二度と関わらないように、関わりあって、哀しい思いをしないようにって、なのにいま、観鈴はその翼人の呪いのせいで命を落とそうとしている。人間なのに、だ」

「…仕方ないでしょ。神奈備命の魂が観鈴ちゃんのなかにある限り……」

「なあ、あんた、紗衣って言ったか? 難しいことはようわからんけど、翼人ってのと人間が関わりあうゆうんは、そんなに悪いことばっかやったんか?」

「はぁ、当たり前でしょ! そもそも翼人と人間が関わりあうことさえなければ……」

「本当に、そうなんか? うちは観鈴と一緒におって幸せやったで。不幸やったなんて、ぜんぜん感じへんかったわ。あんたの言うとおり、今までの人たちは悲劇で幕を閉じたのかもしれん。けどな、人って一人一人違うんやで。観鈴とその人たちは違う。観鈴の最後も悲劇で終わるなんて決めつけるんは、おかしい思うんや。せやから、うちは諦めへん。あんたは呪いを解く方法はないって言っとったけど、うちはそんなん絶対認めへん。これで観鈴とお別れなんて、嫌やん。子どもが親より先に逝ってまうなんて、うちは絶対に嫌や。うちはもっとずっと、観鈴と一緒にいたい。うちだけやないで。きっとこの場にいる全員が、それを望んでいるはずや。何か方法がある。居候たちは空の呪いってやつを解いたんやろ。ほなら、観鈴にかけられた翼人の呪いってやつも、きっと解くことができるはずや」

「…根拠のないことをすらすらと、よくもまあそんな自信たっぷりに言えたものだね。たしかにあなたは観鈴ちゃんと一緒にいて幸福を感じていた。それはあなたのことをずっと見ていたわたしにもよくわかる。でもだからと言って、今までの人たちみんながあなたと同じ思いだったと思うなんて、思い過ごしもいいと――」

 そこまで言いかけて、紗衣の脳裏をたくさんの思い出が横切っていく。最初に現れたのは、美凪とみちるの思い出。美凪とみちるの別れは、たしかに悲しい出来事だったのかもしれない。けれど、その別れは美凪の心を成長させた。

みちるは幸せだったたくさんの記憶を胸に、空へと帰っていくことができた。

次に現れたのは、柳也と神奈。柳也は神奈と出会い、人間として、心の成長を遂げた。人の命を軽んじていた柳也は、不殺の誓いを胸に命の尊さを改めて思い知らされ、育ての親、法師の教えを、神奈の言葉を通し改めて知ることができた。そして彼の意思は湖葉へと受け継がれ、湖葉は結希と出会い、翼人の伝承を思い出し、彼らにかけられた呪いを解こうと誓いを新たにし、そして自らの意思、自らの願いを、往人へと託し……そしてその願いは今も、受け継がれ続けていて……。

「………」

 人と翼人が関わりあうことは、悲劇という名の銃弾を人に向けることに繋がる。わたしは、そう信じ続けてきた。だけどこうして思い返してみると、その引き金が引かれたことはあったのだろうか? むしろ銃口を向けられたことで、それが放たれないように、悲劇を生み出さないように、人々は皆、必死にあがいてきたようにも思える。

 だとしたら、

わたしのやっていたことは、誤り、なのだろうか……。

「ごめん。わたし、嘘ついてた」

 人と翼人が関わりあうことが全ての罪の根源。その考え自体が過ちなのだとしたら……。

「観鈴ちゃんを救う方法はないと言ったけれど、でも、本当はあるの。たった一つだけ」

「……!」

「わたしはずっと、人間と翼人が関わりあうから悲劇が生まれると思ってきた。だから、この方法では翼人と人間の仲を裂くことができないから、ずっと内緒にしてきた。でも、間違っていたのはわたしの考えで、人間と翼人が共存していったとしても、それが不幸に直結することにならないのなら、幸せに繋がる可能性があるのだとしたら……」

 深く息を吸い込み、紗衣は言う。翼人の始祖としての威厳をこめて、これからも生きていく全ての人々に向けて、最後の翼人、神奈備命(神尾観鈴)に向けて。

「ひとよきけ 汝らの始祖、アダムとエバが知恵の果実を食した罪により、汝らには死という概念を星神より与えられた。だが、これは星神が汝らを罰しようとしたわけではない。輪廻転生、死すればいずれは新たな命としてこの世に生まれいでることもあるだろう。生まれ変わるということは、やり直すということを意味する。過ちを犯すことが罪なのではない。過ちを犯し、その罪を償おうとしないことこそが恥ずべきことで、それこそが真の罪なのだ。ゆえに、星神は人間にチャンスを与えた。過ちを正すチャンス。生まれ変わり、今度こそ同じ過ちを犯さぬようにするためのチャンス。…人と同じくして、翼人もまた、罪を犯した。人身と交わってはならないという星神の掟を破り、星神により罪を与えられた。そう、翼人にもまた、死という概念がつきまとうようになっていったのだ。わたしは、翼人は人の上の、上位の存在と信じてきた。故に、彼らに間違いは許されないと信じ、死を迎えた翼人は輪廻の輪から外れ、二度と生まれ変わることはなく、完全な魂の消滅を迎えると思ってきた。それこそが、翼人に与えられたを罰する方法だと信じていた。それゆえ神奈備命を空より解き放ち、その身に呪いを宿らせたまま、彼女をの眠りにつかせようとしていた。だが、それは過ちだった。翼人も人も、星神にとっては等しく愛すべき存在なのだ。故に、過ちを犯した翼人の魂もまた、輪廻転生により過ちを正すチャンスを与えられていた。なのにわたしは、それを奪おうとしていた。神奈備命の魂を消滅させ、もう二度と現世に蘇らせぬようにと、星神の想いを読み違え、罪を償うという星神が与えたチャンスを奪おうとしていた。故に、我は呪いを受け入れよう。神奈備命の魂を束縛する呪い。その全てを、我が身で受け入れよう。それこそが、星神の想いを読み違え過ちを犯してしまったわたしにできる、唯一の善行なのだから」

 彼ら翼人は、自らの、先祖たちの幾千幾万の思い出や経験を、次の世代へと伝えていく。翼人が不老不死と呼ばれていた由縁には、この記憶の継承が大いに影響しているのは事実だろう。だが、翼人の始祖である紗衣は真の意味で不老不死の力をその身に宿している。それはなぜか?

 元来翼人とは、地上に生きる幾万の生命の監視者であった。だが翼人の一人が人身と交わるという禁忌を犯し、監視者であるにも関わらず、死という概念を与えられるという矛盾が生じてきた。死を与えられ、それでも監視者としての役目をまっとうしようと考えぬいた方法、それこそが、記憶の伝承。記憶の伝承という秘術をつかい、遠い昔、千年以上も昔、翼人、八尾比丘尼は自らの記憶を我が子、神奈備命に託した。その身に宿した、深い呪いとともに……。

 最初、往人には紗衣が何を言っているのか理解できなかった。それほどまでに、彼女の気配は異様なものに感じられた。行動をともにしたのはわずか数日の間だったが、ここまで彼女が異質とも言える言動をとるとは、正直思っていなかった。

 でも、少しだけ時間が過ぎて、紗衣の言った言葉の意味を理解できるだけの時間が過ぎて、往人はようやくに、彼女のやろうとしていることが理解できた。

 翼人八尾比丘尼は、自らの記憶を我が子に伝えるために、記憶の伝承を行った。だがその行いは皮肉にも、彼女のなかに眠る呪いまでも神奈備命へと移す結果に終わってしまい……その呪いにより、柳也は命を落とした。

 紗衣が今からやろうとしていることは、八尾比丘尼と同じこと。神尾観鈴(神奈備命)から記憶を受け継ぎ、同時に、かけられた呪いをその身に宿す。

「待てよ……そんなことしたら、今度はお前がっ!」

 にっこりと笑って、紗衣は答えた。

「大丈夫だよ往人、今の観鈴ちゃんの呪いを全て受け継げば、確かにわたしの命は失われてしまうと思う。でも、それで全てが終わってしまうわけじゃない。始祖とは言っても、わたしも翼人だからね。輪廻転生の輪に戻って、いつかまた、生まれ変わることができる」

「だけどよっ」

「それに……わたしは罪を犯したから。蓮鹿や往人、たくさんの人たちの純粋な想いを利用して、自らの望みを叶えようとしていたから……罪は、償わなくちゃいけないから……」

 紗衣の表情には、少しだけ悲しそうな気配が漂っていた。でもにっこりと笑っていて、悲しみの気配なんてどこにも感じられないくらいにっこりと笑っていて……観鈴のそばへと近寄り、紗衣は観鈴の華奢なその手を、ぎゅっと握りしめる。

「本来は記憶を伝える役、観鈴ちゃんが言わなくちゃだめなんだけど、今回は特別に、わたしが言うね」

 小さく深呼吸して、彼女は言葉を続けた。

「幽玄なる力、永久の風、我らの願い……今こそ力持つ者が受け継ぐ、星の教え、ひとえに……悠久の名に相応しきものよ、彼の者の持つ羽根の記憶。その魂に、救いのを」

 それは、失われた翼人の言語。幾重にも言葉を束ね、淡い光に託し、観鈴から力を受け継いでいく。森羅万象。全てを受け入れるかのように……。

 やがて、紗衣の詞は終わった。

 すると……

「あれ……わたし……?」

 倒れたままずっと目を閉ざしたままだった観鈴の瞳が開かれ、彼女は自らの足で立ち上がる。

「観鈴!」

「あ、お母さん。どうしちゃったんだろ? わたし、もう駄目だと思ってたのに、なのに今は全然苦しくないの。痛みも痺れも、最初からそんなものなかったみたいに、全然感じないの」

「そっか。よかったな観鈴、ほんまに、ほんまによかったな……」

 晴子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちていく。後から後から、とめどなくあふれ出し続けて、どこにこんなにいっぱい溜まっていたのだろうと思うくらい、たくさんの涙が零れ落ちていった。それは、喜びの涙。

「…全部、そこにおる紗衣って子のおかげやで。観鈴、しっかりお礼言わなあかんで」

「紗衣……さん? わっ、いつの間にかいっぱい人が集まってきてるし」

 観鈴は自分の周りにたくさんの人たちが集まっていることに、とても驚いている様子だった。

「観鈴」

 男の声が響いて、観鈴は笑顔でその人の方へと振り返る。

「往人さんっ!」

「悪いな。色々迷惑かけた。だけど、もうずっと一緒だ。お前が嫌だって言っても、ずっと一緒にいることにするよ」

「うんっ」

 とても嬉しそうに、観鈴は笑顔で答える。そしてプラチナ色の、幼い少女のほうへと近寄っていき、数え切れないくらいお礼の言葉を述べる。

「…気にすることはないよ。これは罪の償いだから。わたしが犯してきた罪への、わたしなりのけじめだから」

紗衣は、表情を崩さずそう返し、言葉を続ける。

「わたし、ずっとお母さんを探してた。ずっと昔カラスさんに、とってもあったかいものだよって教えられて、だからずっと、わたしのお母さんを探し続けて……」

 言葉を続けていた紗衣の身体が、ゆらりとぐらつく。呪いをその身に受け止めた影響だろうか? 往人が彼女を支えようと手を差し出すと、それより早く、晴子が彼女を抱きとめていた。

「だいじょうぶか?」

「ん……ちょっと苦しいかも。でも、まだ大丈夫。もうちょっとだけ、此処にいられそう」

 紗衣は、息苦しそうに何度も咳をこぼしていた。

「何がどうなってんのかわからんけど、一つだけ分かっとることがある。あんたは、観鈴の命の恩人や。ずっと支えとってやる。せやから、なにか言いたいことがあるんやったら、しっかり言うんやで」

「…ありがと」

 お礼の言葉を紗衣は述べて、晴子に抱きかかえられたまま、彼女はゆっくりと瞳を閉じる。

「どうしたんや? なにか言いたいこと、あったんやないのか?」

「ほんというとね、わたし少しだけ、観鈴ちゃんに嫉妬してたの。だって、こんなにあったかい匂いのするお母さんを、独り占めしてたんだもん」

「はは、そうゆうふうに言われると、少し照れるな」

「結局わたしはお母さんを見つけることはできなかったけど、お母さんがどんなにあったかいものかはわかったよ。…こんなに素敵なものだったんだね。お母さんって」

 閉ざしていた瞳を開き、紗衣は言う。

「ねえ、晴子さん。次に生まれ変わったら、わたし、お母さんに会えるかな?ずっと探してた、とってもあったかいもの。わたし、お母さんに会えるかな?」

「当たり前やないか。あんた、自分で言うとったやないか。罪を行うことが悪いんやのうて、それを悪いことと認めないことが悪いことやって。あんたは充分に反省した。それで、あんたなりのけじめまでつけようとしとる。せやから、絶対に会えるで。今度こそ絶対、あんたの探してたお母さんに会うことができる」

「ふふ、ほんと? だったら嬉しいなぁ。わたしのやってきたこと、無駄じゃなかったんだね。遠回りだったけど、たくさん間違ったこともしちゃったけど、それでも、無駄じゃなかったんだよね」

「ああ、無駄なんかやない。人が生きていくなかで無駄なことなんて、何一つないんや。どんなに苦しいことでも、どんなに意味のないと思えるようなことでも、それは遠い未来、必ず自分の役にたってくれる」

「そっか……無駄なことなんてないんだ。だったら嬉しいな。わたしのやってきたこと、ちゃんと意味があったんだ。あはは、嬉しいな。ごほっげほっ」

 苦しそうに身体をちぢこませると、紗衣は咳をこぼす。

「往人、晴子さん、それにみんな。今度わたしが生まれ変わったら、みんなが生きている間に生まれ変わることができたら、そうしたら今度は……友だちになってくれるかな?」

「当たり前だろ。なに当然のこと聞いてんだよ」

「ふふ、ごめんね。当然だよね。ちょっと聞いてみただけ……」

 再び、彼女は瞳を閉じる。

「ふわぁぁ……なんだか眠たくなってきちゃった。ごめん、少し眠るね……」

「ああ、おやすみ」

 晴子をはじめ、その場にいる全員が理解していた。これが、紗衣との今生の別れとなろうことを……。

「おやすみ……」

 強い陽射しが射し込む中、紗衣の魂が白く透き通っていく。

 始祖と呼ばれた翼人が、空へと還っていく。幸せな記憶を胸に、たくさんの人々に看取られて、空へと……。

 




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