Air 第十一幕 夏祭り
「朝や、観鈴……お祭りの朝やで……」
時計は早朝を指し示している。そう、観鈴はやりとげたのだ。眠ってしまったら、全てが終わってしまう。だから眠らないよう、トランプで眠気を振り払ってきた。そして、ついに朝を迎えた。
「…あれ……なんでや……」
違和感には、すぐに気づいた。
「観鈴、ちょっと待ったってや……」
カーテンの隙間から、朝日が射し込んでこない。どうしてだろう?
不安に思い、晴子は立ち上がると部屋を後にする。玄関先へ回り、がらりと外へと続く戸を開けた。
「…なんやこれ……冗談やろ……?」
水が、降りしきる。
世界はもの悲しく、灰色に染まっていた。灰色に染まった世界の遥か上のほうから、けたたましい音を上げて、雨粒が降り注いでくる。
「こないに雨降ってたら、祭り中止になるやんか。そないな話あるかいな……」
雨粒が長い髪を濡らし、頬を伝いしたたり落ちていく。玄関先、晴子はずぶ濡れになって立ち尽くしていた。
「…そうや……天気予報やっ……」
濡れた体も拭かず、晴子は黒電話へと走る。
急ぎダイヤルを回す。通り雨だと信じて、ダイヤルを回していく。
「………」
その顔が青ざめて、電話の子機を落としそうになる。
「台風て……なんやそれ……そないな話聞いてるかっ、ぼけっ!」
がちゃん! 怒りに身を任せるようにして、電話を叩きつける。
「…午後から暴風圏て……無理やんか……絶対中止やんか……」
体中から冷気の塊が噴出して、全身を寒気が包み込んでいく。
「あかん……冷静にならんとあかん……なんか手があるはずや……祭りは延期されへんし、延期されたところで、明日の夕方まで観鈴が起きとるなんて無理や……祭りの主催者んところ行って、拝み倒すか? そんなん通るんかいな……あかんわ……うちあほやから、ええ案思いつかへん。それでも……あほでも、思いつく限りのことせなな……」
電話帳を開き、次々に電話をし続けた。一人目が駄目なら二人目、二人目が駄目なら三人目、三人目が駄目なら……それを、繰り返し続けた。でも……。
「あかん……」
受話器を下ろし、力なくため息をつく。
「こんだけ手当たりしだい電話して、なんも打つ手なしやった。なあ……どうしたらええと思う……」
誰にでもなく質問を投げかける。だけど、返事を返してくれる人なんてどこにもいなくて……。
「台風が逸れる……そんなん奇跡とおんなじや……頼むわ、天気予報、はずれてぇな……午後からは、晴れてぇな……小雨でもええわ……祭りできる天気にしたってや……頼むわ」
部屋に戻ると、観鈴は一人トランプを続けていた。
「ごめんや、観鈴……続きしよ」
観鈴の瞳が外のほうを向く。
「………」
「あのな、観鈴。今、曇ってて湿気多いけどな、午後になったら晴れるで。天気予報そう言うてたよ。最近の天気予報はよく当たるからな。安心やなー」
最近の天気予報はよく当たる。自分で口にした言葉なのに、本心では信じたくなかった。
「雨がやむまで、トランプしてよな」
「うん、楽しみ」
ぱたぱた……。
ある程度トランプを続けていると、晴子はちょっとやぼ用やと言って立ち上がり、再び玄関先へと歩いていく。
玄関先で、さきほどと同じように晴子はまた水に濡れて、立ち尽くしていた。風が横から強く吹きつけていて、飛ばされそうなくらいだった。
「…なんでやろ。うち、そんなに悪いことしてきたんやろか……昨日までは、ずっと晴れてたやん……なんで今日に限って、こうなるんや……あの子、ごっつ頑張ってるやん……うちが幸運吸い取ってしもとるんかいな……」
そんなことを言っている間にも、雨水はなお勢いを増して降り注ぎ続けていた。濁った空の色と同じように、晴子の心もまた、濁ったままだった。
またしばらく時間が過ぎて……。
「観鈴、寝たらあかんで」
「うん……」
答えはしたものの、観鈴の反応はほとんど無くなっていた。弱々しく、今にも寝入ってしまいそうだった。
「ほら、トランプ持っとき」
手渡されて、観鈴はカードを膝の上で並べ始める。
「そや。もう少しの辛抱やからな。もうすぐ祭り始まるからな。外、雲ってるけど、雨は降ってへん。ちょっと降ってたみたいやけど、もうやんだ。やっぱ天気予報はよぅ当たる。たぶん、夜にはお星様見えるで」
自分で言っていて、少し悲しくなる。
「一緒に星も見よな。あそこ小高いから、プラネタリウムみたいに、どこもかしこも星空や。でも観鈴は食い意地張っとるからなー。花より団子、言うやつやろ?」
「うう……そんなことないよ」
言ったとたんお腹の虫が鳴って、観鈴の顔が真っ赤に染まる。
「ええで。なんでも好きなもん食べたらええ。もちろん、屋台でも遊ぶで。いろんな景品もらえたらええな。それで……最後にな、うちがなんでも好きなもん買うたる。せやから、な……それ持って、帰ってこよな。思い出と一緒にな」
ぱさっ……。
観鈴の手から、一枚のカードが落ちる。
「観鈴っ」
「ねむたい……もう眠りたいな……」
「あほ……なんでそんなこと言うんや……お祭り、いくんやろ……?」
「うん……いく」
「ほな、もう少し頑張ろ」
「トランプしてよ……」
「ほら、カード持ちや」
「うん……」
札を持とうとするが、もう彼女にはそんな力すら残っていないようだった。観鈴の体が、力なく倒れる。
「観鈴っ……」
それを晴子が抱きとめる。
「あかんよ、観鈴……寝たらあかんよ……」
「…うん……」
ずっと、強く抱きしめ続けた。出かけるときがくるまで。
「神様……もし、いてるんやったら……お願いや……どうか、この子を夏祭りにいかせたってや……奇跡を起こしたってや……そうしたら、うち、もうなんもいらんから……これからずっとうち、不幸やってもええから……この子さえ、夏祭りにいけたら……頼むわ」
紗衣は、ずっと神尾の親子をずっと見守り続けていた。
もちろん、家のなかに監視カメラをつけているわけではないのだから、二人の会話全てを聞き取ることなんてできない。でも、ときおり玄関先の戸ががらりと開き、晴子が姿を表し、雨風に晒されながら無言で立ち尽くしている様子を見ていると、彼女の心情を深く理解することができた。
だからこそ、紗衣の心の中で葛藤は続く。
人と翼人が関わりあってしまったことこそが、そもそもの悲劇の始まり。だから、人の身になにが起ころうと、わたしはただそれを見守るだけでいい。見守ることしか許されない。
翼人とは、もともとそうゆうものなのだ。
だから、わたしは間違っていない。間違っていないはずなのに……。
頬を水が伝っていく。ああ、この土砂降りの雨のせいだ。そのせいで、全身が濡れてしょうがない。どこか雨宿りできる場所を探そう。そうすれば、この頬をぬらす激しい雨も、少しは治まってくれるだろう。
水分をたっぷりと吸って重たくなった翼を広げ、紗衣の小さな身体は豪雨の降りしきるなか、雲の彼方へと消えていき、やがて見えなくなってしまう。
「時間や……出かけるで、観鈴……大丈夫や。きっと晴れてる……きっと晴れてる」
淡い期待を胸に宿し、二人は玄関先へと歩いていく。がらりと戸を開き、目の前の情景をぼんやりと見つめる。
「…神様なんて……どこにもおらへん。奇跡なんて、起きへんのやな……」
雨はあいもかわらず、降り注ぎ続けていた。こんなにいっぱいどこにたまっていたのだろうと思うくらいに、降り注ぎ続けていた。
「夏まつり……」
ふたりは水に濡れながら、ここまで、神社までやってきた。そして、立ち尽くしていた。突然に、晴子がその場に崩れ落ちる。
「あほや……うち、あほや……やってるわけあらへんのに……それでも頑張ってみたら……何かがあるかもしれん思て……ここまで頑張ってきたのに……それやのに、やっぱり……なんもあらへんかった……結局、報われへんのやな……この子、こないに頑張ってるいうのにな……この子が、なにを悪いことしたいうねん……いい子にして待ってたやないか……ごっついい子にして……」
雨はなお、勢いを増していく。
「やっぱりうちのせいか……うちがこの子、不幸にしてるんか……うちがおらんかったら、今日も晴れてて……ここも、夏祭りで賑わってたんやろか……この子も、屋台でいろんなもの買って、食べて……それで笑ってられたんとちゃうか……にははーって……」
髪を雨で濡らしながら、観鈴は神社を一通り見回す。辺りは、一面の、雨。
「お祭りは……?」
「観鈴……祭りはな、中止や……中止なんや……見ての通りや。雨、振ってんねん。ざーざー振ってんねん……」
「恐竜の赤ちゃんは……?」
「…売ってへん。そんなもん……どこにもおらへん。ここにはなんもないんや……飼いたくても、無理なんや」
期待の眼差しをこめた観鈴の言葉を、自分の一言一言が粉々に砕いていく。それを理解することができてしまっていたから、それがわかってしまっていたから、晴子は声を出すことそのものに、苦痛を感じずにはいられなかった。
「…あのときと一緒や……うちはなんもできへん……突っ立ってるだけで、なんもできへん。結局うちは、あんたに何もあげられへんのやな……」
「………」
観鈴は地面にうつむいたまま、ただじっと一点を見つめ続けていた。まるでそこに、地面に生き物がいるかのように。
「ずっとうちらは時間をさかのぼって……やっと十年前のあの日に辿り着いたいうのに……結局、同じやった……許してや、観鈴……」
「うん……」
晴子に身を委ねていた観鈴が、ゆっくりと目を閉じる。
「つかれた……」
それを、晴子は抱きとめた。二人は水に打たれ続ける。いつの間にか、晴子も目を閉じてしまっていた。まるで世界の終わりのように……静かな時。終わってしまうのだろうか、このまま。ここで終わってしまうのだろうか……。
もう、水が振る音しか聞こえなかった。
………。
……。
…。
「あ……」
小さく声が聞こえた。晴子は観鈴を抱いたまま、ずっと先を見ていた。視線の先は、神社の。階段の上に、『それ』があった。信じられないものを見る目で、晴子は『それ』を見つめていた。
捨ててしまったはずなのに、あの日、確かに捨ててしまったはずなのに……。
瞬間、遠い日の記憶がよみがえる。
神社の境内で、晴子は首の長い恐竜のぬいぐるみを片手に持ったまま、その場に立ち尽くしていた。
その日は、観鈴の誕生日。数日前におもちゃ屋でぬいぐるみを購入して、それからずっと、渡そうか渡すまいか、ずっと悩み続けてきた。悩みぬいて、ようやくに晴子は答えを導き出す。
「…今までずっと守ってきたんやからな。別々の生活を。それで十年間過ごしてきたんや。なんて長いんやろな……その間、ずっとうちと観鈴はすれ違いに生きてきた。そうするしかなかったんや。でもな、うちは後悔してへん。この十年間をほんまの親子のように過ごしてきてたら……やっぱり、いつかひとりに戻ったとき、惨め過ぎるやろ」
いまはわかる。自分のその考えが、間違っていたことを。観鈴と一緒に暮らし続けてきた、いまならわかる。
だけど、あのときはそのことに気づけなくて……。
晴子は、手にしていたぬいぐるみを地面に投げ捨てる。ころころと地面をころがっていって、こつん、と木の幹に当たった。
バイクにまたがると、ぐぉぉぉぉぉぉぉぉんと赤い車体がうなり声を上げて、走り去っていった。
そう、あのとき確かに捨てたはず。それなのに…・・・それはたくさんの人の思いを吸い込んで、そこで待っていた。この世界の思いを、いつか叶えるために。
「ずっと待っててくれたんやな……よかった……感謝や……観鈴……観鈴っ、起きるんやっ」
「ん…なに、ママ……」
「恐竜さん、いてるで、あそこに」
「え……?」
「いこ。取りにいこ。ふたりで取りにいこ」
「うん……」
「目閉じたら、あかんっ。まだ寝たらあかんでっ。まだ観鈴、なんも買うてへんやろ? これからやないか……な、一番楽しいのはこれからやないか……だから、頑張ろっ。思い出や。ふたりで、ええ思い出つくろ。お母さんとの思い出や。嫌か?」
「ううん……おもいで作りたい……」
「せやろ。な、頑張ろ」
「う、うん……がんばる。みすずちん、ふぁいと……」
「せや。観鈴ちんは強い子や」
「うん、つよい子……」
「よし、いこ」
二人、歩いていく。階段に置かれた生き物を目指して。
「はっ……はっ……」
「頑張ろ……ええか恐竜の赤ちゃん、目の前にいてるからな」
「うん……」
「手、伸ばしたら、取れる。ほら、がんばって手、伸ばし……」
母は娘の腕をもちあげる。
「そうや。そのままや」
晴子が手を離すと、観鈴の手もぱた、と膝の上に落ちた。
「お母さんも一緒に捕まえたる。手、持っとったるから、ふたりで捕まえよな。せやから、それはふたりの思いでや。幸せな思い出や。大事に育てよ。ふたりで、育てていこ」
再びその手を拾い上げる。手を繋ぐようにして、二人はなにもない目の前に手を伸ばし始める。そのとき、びゅうと強い風が吹いて、晴子が持っていた、水を防ぐための傘が一瞬で手から消えた。二人の額から、滝のように水が流れ落ちる。それでも、二人は必死に……手を伸ばし続けた。
「ほら、もっと伸ばし……そうしたら、届くから。すぐそこにいてるから……うまく捕まえや……」
水が二人を打ち続ける。
「もう……つかれた……」
再び、手が落ちる。
「あかん、観鈴……」
「ねむい……」
「お母さんと一緒に頑張ろ」
「おかあさんと……」
晴子はぎゅっと、観鈴の手を握りしめる。
「な……お母さんと頑張ろ」
「うん、おかあさんとがんばる……」
「よっしゃ、ええ子や。頑張ろ。ここまでこれたのは、うちらの力だけやない。霧島の先生や遠野さんや、みんながおったからここまでこれたんや。せやから、みんな一緒や。みんなで幸せになろ」
「うん」
再び、手を伸ばす。
「ほら、もうちょいや……もうちょい……届くで……うちらの幸せに」
二人の差し出した指が、ぬいぐるみの身体に重なる。
「ほら、つかまえた……」
「やった」
「うちからのプレゼントや。観鈴へのプレゼント。ずっとあげられへんかったけど……出会った日から、ずっとあげられへんかったけど……受け取ってくれるか」
「うん、うれしい」
「そか。よかったな……よかったな、観鈴」
「かわいい……にははっ」
拝殿の奥、両手を泥で汚したプラチナ色の髪をした少女は、一つの家族を見守っていた。翼人は人と関わりを持ってはいけない。だから彼女が行ったのは、恐竜のぬいぐるみを階段の上に置く、ただそれだけのこと。
「ゆっくり育てていこな……これ、うちらの幸せやから……ずっと、これからも育てていこな……大きなるから……もっともっと、うちらの幸せ、大きなるから……一緒に歩いていこな……今日からスタートや。やっと始められた……うちら家族や。観鈴とうちと恐竜と、あの居候も帰ってきたら、いれたらなあかんな。な、観鈴。うちら家族や。ごっこやないで……ほんまもんの家族の暮らし……その始まりや。はは……よかった。ほんまによかった……ごっつよかった……よかったわ……思い出持って、帰ろな……神尾の家に……」