Air 第十幕 試練
観鈴が晴子のことを『ママ』と、母親とあらためて認めるようになった最初の日、二人は抱き合うようにして眠った。お互いが、お互いを求めるようにして……。
二人の結びつき。それは、親子の絆。
晴子は自分のことを、観鈴とは無関係のおばさんと自称していたときがあった。でもそれは違う。晴子は最初から、彼女の、観鈴の母親だったのだ。
振り返ると、二人にはいろんなことがあった。どうしても親子だとは思えないときもあった。けど、親子だった。だからこそ親子だったというべきか。いまはわかる。二人が乗り越えてきた道が、どんなに困難だったのかがわかる。それが、どんなに大変だったかも。だけど、今も二人はこうしてここにいる。二人一緒にいる。それが、親子だという証だった。
「今考えてみると、ぜんぶ試練やった気がするわ……。足が動かんようになったんも、うちのこと忘れてしもたんも……ぜんぶうちが、あんたの母親になるために……あの日からやり直すための……試練やった思うわ……最初から、出会ったときからそうしておけば良かったことばかりやった。そうしてたら、あんたもこないに苦しまんで済んだはずやのに……うちがふがいない母親やったせいやな……でも、それを超えたうちらや。なんだって、超えてゆけるわ。あんたの病気もようなっていく。すべてがいいほうに向かっていくわ。な、観鈴」
「ママ」
それは、晴子の願望のようなものだった。苦しいことばかりだった。辛いことばかりだった。だからそのぶん、このあとは楽しいことが続く。きっとそうに違いないという、晴子の願望。
「観鈴、明日は夏祭りやで。あんたが楽しみにしとった」
「お祭り? 屋台とかでる?」
「仰山出るで」
「わーい」
「それ見てまわりながら、ふたりで遊ぼな。一番楽しい日や」
「楽しみ〜わたし、恐竜の赤ちゃん、ほしいな。今年も出てるかな」
観鈴の記憶は、六歳当時に退行したままだ。観鈴が恐竜の赤ん坊、ひよこをほしがったのはこの町に来て最初の夏の出来事。それは観鈴にとって、去年の出来事でしかない。だから彼女は、今年も、という言い方をした。
「ひよこやろ。きっと出るで」
でも、それでもいいと思えた。記憶を失ったのなら、もう一度やりなおすだけ。今度は間違えない。母親と娘。親子として、今度こそ、きちんと向き合っていけるように……。
「じゃあ恐竜さん、飼ってもいい?」
「ああ、ええで」
「やった」
「せやから、辛くても頑張ろな」
「は……あう……」
観鈴は苦しそうにうめき声をあげて、ベッドの上を激しく転げまわっていた。
そんなことはなかったのに。今までずっと、そんなことはなかったのに。とうとう始まってしまった。
かつて、湖葉が言った言葉。
『最初は、だんだん体が動かなくなる。そして……あるはずのない痛みを感じるようになる』
あるはずのない痛み、それが……現実のものに変わる瞬間だった。
「観鈴ちゅわん、ご飯やで〜あまあまの卵焼きや〜」
ドアを開け、晴子が部屋のなかに顔を覗かせて、
ガチャン。
晴子が手にしていた食器が、床に落ちて割れた。
「どないしたんや、観鈴っ……!!」
苦しむ観鈴の元に駆けつける。
「イタイ……」
「どこがや? お母さんがさすったるで。痛いのて……ここか……?」
「ううん……」
「違うんか……ほな、ここか?」
「ちがう……」
「足か? 手か……」
途方にくれた顔で、晴子は観鈴の体に触れる。
「ちがう……でもイタイ……どこかわからないけど、イタイ……」
「わからんとこが痛いわけないやろ。なんでや……どないしたんや……」
「はっ……イタイ……」
そして、晴子は気づく。かつて観鈴が言った言葉。その言葉が、ゆらりと脳裏に大きな弧を描く。
「観鈴……まさか、あんたが痛いとこって……」
「つばさ……つばさがあったら……好きなときに、好きな場所にいけるね。にはは……イタイ」
苦しみに耐えられず、笑い顔が歪む。晴子は立ち尽くしていた。
「そんなん……酷すぎるやん。さすったることさえできへんなんて、そんなん酷すぎるやん。あんたが苦しむとこ、そばで見とるだけなんか? うちにはそれしか許されへんのか? 観鈴・・・…」
必死で観鈴の背中をさする。けれど、痛みはおさまらない。
そのとき、晴子の顔色が変わった。もっと大切なことに、気づいてしまったようだった。
「そういえば……前に居候がいっとったな。あるはずのない痛みがどうとか、観鈴が忘れるとかどうとか……」
必死で考える。頭の中の、言葉のつまった箱全てをひっくり返して、中に入っていた言葉全てをさらけ出していく。箱から飛び出してきた言葉を必死でかき集め、その中の一つを拾い上げる。
「せや、たしかに言うとった。そんで、霧島の先生も言うとったはずや。呪いがどうとかで、そのせいでわけわからん痛みが観鈴を襲って、観鈴が記憶を失ったのも、そのわけわからん痛みからうちを救うためやって」
ただ、呆然とする。
「なんでや……こないな大事なこと、なんで今まで忘れとったんや。そうや、それで忘れてしもたら、その後はどうなるんやったっけ……」
さらに考える。箱をぶちまけて、あたりに散らばった言葉一つ一つを拾い上げていく。霧島聖は、痛みが二人を襲うようになると、そこまでしか言わなかった。でも、国崎往人は言った。はっきりと、その口でつげた。
それは、思い出したくもない言葉の欠片。だけど結末は始めからそこに転がっていて、晴子は思い出したくもないその言葉の欠片を、両手で拾い上げる。
「…うそやろ? 明日の朝起きたら、この子……この子、死んでしまうんか? うそやろ……?」
ぎゅっと、晴子は観鈴を抱きしめた。
「なんでや……ずっと元気やったやんか……観鈴、ずっと元気やったやんか……観鈴は、うちとおったら幸せなはずや、幸せやったら、良うなってゆくんとちゃうんか……そんなん関係ないんか……結局、観鈴は悪なってゆくだけなんか……結局……この子のなにもかも、奪ってゆくんか……」
目の前の観鈴に目を向けると、彼女はまぶたを閉じようとしていた。
「寝たらあかん、観鈴……観鈴、あかんで……今寝たら、あんた死んでしまうかもしれへん。あんたおらんようになったら、うちどないしたらええんや……寝たらあかん。夏祭りいくんやろ、お母さんと一緒に、夏祭りいくんやろ……」
やせ細った観鈴の華奢な身体を、晴子はぎゅっと抱きしめ続ける。
「すこしラクになった」
しばらくして、観鈴はぽつりと言った。
「そか……」
両手で抱きしめていたその手を、晴子はそっと離す。
「もう……大丈夫なんか?」
「ううん……まだすこしイタイ……」
「………」
「だから、横になってる」
「寝たらあかんっ」
「どーして?」
「ふたりで夏祭りいく約束やったやろ?」
「うん」
「いきたいやろ?」
「うん」
「ほな、寝たらあかん……」
「どうして?」
「………」
不思議そうに問いかけを繰り返す観鈴。その問いかけに、晴子ははっきりとした答えを出すことはできなかった。それでも……。
「よくないことが起こる気がするんや……ごっつ嫌な予感や」
「どうなるの?」
「観鈴とうちが……離ればなれになるんや……もう二度と会われへん……そんな予感や」
予感……それは本当に単なる予感なのだろうか? 心のどこかで警告音がなる。災厄が、ゆっくりと近づいてきているような……眠ってしまったら、全てが手遅れになってしまうような、全てが……終わってしまうような……。
それは……予感ではなく、確信。根拠なんてなにもない。けれど、間違いないと思えた。だからこそ晴子は必死で、観鈴が眠ろうとするのを止めようとする。
「わかった。じゃ、寝ないね」
晴子のそんな想いが通じたのか、観鈴は、笑顔でそう答えた。
「ママと会えなくなるの、やだもん。わっ」
再び、晴子は観鈴に抱きついていた。
「うち……あんたのこと大好きや……」
「うん。わたしもママ大好き。にははっ。じゃ、ねむくならないようにトランプしよーっと」
ぱたぱたとトランプのカードを並べ始める。そうしているうちに、いつしか晴子の姿は部屋の中から消えていた。
いつかと同じように、晴子は台所で一人うなだれていた。
「結局……結局、観鈴は助からんのかいな……ほなら、なんや……うちら、なんのために頑張ってきたんや……そんなん嫌や……うちは、あの子さえ助かったらええねん……後は、なんもいらんねん……」
その場に崩れ落ちる。
「…そや……あの子の願いだけは叶えてやらんと……ふたりで祭りに出るんや。そうすれば、きっと助かる。あの子、幸せにしたるんや……うちなんかどうなってもええ。あの子だけは、幸せにしたらんと……」
再び、晴子は立ち上がる。ぱたぱたというトランプの音だけが、暗くなってからもずっと聞こえ続けていた。普段なら眠っているはずの時間。けど、ずっと起きていた。観鈴は一睡もすることなく、トランプをし続けていた。
ぱた……。
………。
「観鈴」
その音が止まるたび、晴子は部屋の外から呼びかける。
「起きてるよ、ママ」
「そか……」
ぱたぱた……。
また音が聞こえ始める。永遠に続くかのように、トランプの音は鳴り止むことなく、小さな音を鳴らし続けていた。
『病み始めてしまえば、それから先は早かった。二人の心が近づけば、二人とも病んでしまう。二人とも助からない。だから、その子は言ってくれたの。わたしから離れてって』
湖葉が言っていた言葉を、紗衣は口に出し、思い返していた。
わかっている。観鈴の夢は、もうすぐ終わる。次に眠ってしまえば、観鈴の夢は、終わりを迎える。
晴子がそこまで気づいているのかはわからない。寝るなと言い聞かせられ続けるのは、観鈴にとっては酷な話かもしれない。だけど、観鈴は頑張って起きていた。どんなに眠たくても、眠らないように、頑張っていた。
なぜ…?
紗衣は自らに自問する。その答えは最初からわかっていた。母親と一緒に、夏祭りに行くため。ただ、それだけのため。祭りが終われば、花火の火が散りゆくように、観鈴の命も燃え尽きるだろう。それは予想ではなく、確信だった。
観鈴の命の炎、蝋燭に灯された灯りは、限界を迎えようとしている。観鈴が倒れずにトランプを続けていられるのは、蝋燭が消えてしまう前の、最後の一輝き。それだけのことでしかない。そして夏祭りが終われば、蝋は溶けきり、蝋燭に灯されていた灯りは、光を失ってしまうだろう。
でも……本当にそれでいいのだろうか……。
観鈴は、必死に生きようと頑張ってきた。晴子も、観鈴のために必死に頑張ってきた。それが終わろうとしているのに、もうすぐ、全てが終わってしまおうというのに……。
わたしはそのことを知っているのに、何もしないでいる。見ているだけで、手を差し伸べることすらしない。神尾観鈴は生きることを望んでいない。だからせめて苦しまないように、神奈備命の魂とともに、安らかな死を。
わたし自らの手で、終焉を……。
そう思っていた。そう思ってきた。なのに、あの子はあんなにも必死で生きようと頑張っている。どんなに苦しくても、どんなに辛くても、諦めず、記憶を失っても、それでも尚生きようと頑張っている。
わたしは、それを見捨てようとしている?
幸せになりたい。誰もが望む当たり前の感情。あの子が求めようとしているのは、ただそれだけのことなのに……それなのに、わたしは彼女を救うすべを知っていながら、見捨てようとしている?
考えて、自らの想いを振り払う。
人は愚かな行いを続けてきた。だから、誰かがその代償を支払わなければならない。たとえその者に罪がなくとも、人類そのものが、罪深い生き物なのだ。
知恵の果実を口にした罪。神の使いである翼人を自らの手先とし、戦争の道具として駆り立てた罪、そして……翼人を空に封じこめた罪。
だから、これは断罪だ。神尾観鈴自身に罪はない。だけど、背負ってしまった罪は、誰かが償わなければならない。
そもそもいま観鈴ちゃんが苦しんでいるのだって、もとはといえば、往人がわたしの言葉を無視して強引に翼人の封印を解いたことが原因なのだから、だから、わたしは見ているだけでいい。もうすぐ終わる、一つの家族の終焉を。たとえそれが悲劇で幕を閉じようと、全ては人の罪から始まったことなのだから、わたしが悩むことなど何もない。それが、罪深き者どもの理なのだから。
もとより翼人と人が関わりを持ってしまったのが、全ての過ちの原初。ここでわたしが観鈴ちゃんたちに手を貸してしまえば、また同じことの繰り返しになるだけ。
だから……わたしは見ているだけでいい。
わたしは何もしなくていい。
わたしは翼人。誇り高き翼を持つ者の、始祖なのだから……。