Dream 第六幕 つばさ
「もしかしたら、わたし、昔は空を飛べたのかなぁ」
いつもの通学路で、観鈴はそう言った。
「ひょっとして、夕べも夢を見たのか?」
「見たよ。すごく気持ちよく飛んでた」
両手を広げて、堤防に向けて走り出す。それで空を飛んでいる気にでもなっているつもりなのだろうか。
こけた。
「イタイ…」
「ほら、立て」
手を差し出してやると、観鈴は俺を支えに立ち上がろうとする。
「夢はいつもと変わりなかったか」
「ううん、少し違ってた。同じだったけど、わたしが違う気持ちでいた」
潮風の海を見つめるようにして、二人腰を下ろす。
その先には、真っ青な空。
「いつもどおりわたしの体が、空に飛んでいる。足の下の雲はいつもより少なくて、海と陸が見渡せた。白い波の線が陸に押し寄せて、消えたりしてた。自分が本当に高い場所にいることがわかって、こわかった」
「そっか……」
「ね、往人さん。どうしてわたし、空のわたしはあんな悲しい思いをしているのかな。あんなにきれいな風景で、すごく気持ちいい風の中で……わたし知りたい。だから、ずっと空を見てた」
空には入道雲が一つ。とても大きい。きっとあの中に何かが隠れていたとしても、地上にいる人たちは誰もそれに気がつかないだろう。
空に囚われた悲しみ。それは、俺が想像する少女の姿と重なる。
空の遥か高みで、風を受け続ける少女。
その姿は、天使のような神々しさを持って俺の描く絵の中にあった。
白い少女の手足と、一対の両翼。
だが彼女に人と同じ感情があるならば、それはあまりにも悲しい光景だった。ひとりきり、無限の時間の中に住む少女。長い時間をかけて風は、彼女にどれだけの仕打ちを与えるのだろうか。
そして、その光景を自分のこととしてこの少女は見ている。
俺たちは立ち止まって木の影の中にいた。セミの声が、ふたりの沈黙の間を埋めていく。どれだけの間沈黙が続いたのだろう、わずか一分だったかもしれないし、一時間以上たっていたかもしれない。
先に口を開いたのは、俺のほうだった。
「夢だろ。おまえには関係ない。おまえはいつものように笑ってろ。おまえが笑ってないとさ……」
どうしてだか、俺まで寂しくなる。
「笑ってないと?」
「いや、なんでもない。とにかく笑ってろ」
「うん!」
笑顔。笑ってくれた。
チャイムの音が鳴り響く。
「じゃあ、そろそろ行くね」
いつも通りの登校風景。そうだ、いつも通りだ。あいつはいつも通り笑って学校に登校する。何も変わらない。これからもこんな日常が続いていく。だから、何も心配することなんてない。
俺はいつも通り商店街へ足を運んだ。寂れた商店街、見かけるのはほとんどが主婦。人形芸などに足を止めるはずもない。
「よう、芸人。売れているか」
「そう思うか?」
「いや、まったく」
診療所から現れた医師にきっぱりと言われる。
「で、何かようか?」
「暑いから中で麦茶でも飲まないかと思ってな」
悪くない提案だった。
ワックスが塗られたきらびやかな床。読んだ形跡のまったくしない本棚の本たち。給水機の横の紙コップは、まるで山のように積まれている。
診療所の中は、まるで人が入った形跡がなかった。
ここもそんなに儲かってなさそうだな。
「それにしても、あんたが俺を茶に誘うなんて珍しいな」
「旨いようかんが手に入ったからな。一人で食ってもつまらないだろ」
長方形の木箱からぎゅっと引き締まった、美味しそうなようかんが顔を出す。木箱には製造元らしき店の名前が描かれている。なるほど、確かに高級そうな雰囲気だ。
触れただけで形がいびつに変化してしまうほどやわらかいそれに、メスが入り綺麗に等分されていく。
メス?
「こっちのほうが使いやすいんだ。大丈夫、ちゃんと熱湯で消毒してある」
「雰囲気の問題だろ……」
「なら食わなくてもいいぞ」
「いただきます」
ようかんを口に運ぶ。あんこが口の中でとろける。うまい。こんなにうまいものがこの世にあるとは知らなかった。
「俺は今日始めてあんたの知り合いでよかったと、心底から思うよ」
「おいおい、現金な奴だな」
「それにしても、最初は泥棒だと思われてたってのに、変われば変わるものだな」
「はは、確かにな」
ん、なんだあれ?
聖の背後に人影らしきものが描かれたものがあった。近寄ってみると、それは写真立て。聖、佳乃、それに父親と母親らしき四人が幸せそうに映っている。
母親の腕に抱きかかえられた佳乃はまだ赤ん坊だった。母の温もりを感じとっているのか、すやすやと眠っている。
母親か。俺の母親は、結局何を語ろうとしていたのだろう。
…この空の向こうには、翼を持った少女がいる。
…それはずっと、昔から。
…そして、今、この時も。
…同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている。
子守唄代わりと言ってもいいぐらい、繰り返し聞かされた言葉。
ただ、それだけではなかったはずだ。この言葉を通じて、母は俺に何かを伝えようとしていたはずだ。それが、どうしても思い出せない。
なぜ忘れてしまったのだろう?
とても大切なことだったはずなのに。
『ね、往人さん』
『どうして。わたし、空のわたしはあんな悲しい思いをしているのかな』
観鈴が一瞬見せた、助けを乞うような目。
俺だって何も知らないんだよ、観鈴……。
「また、観鈴ちゃんのことを考えているのか」
「ば、馬鹿。そんなわけないだろ。なんでおまえのとこの家族の写真を見て、観鈴のことを思い出さなきゃいけないんだよ」
「ほうほう」
ニヤニヤ笑いながら聖が俺を見つめていた。
その照れ隠しするなよ、って顔はなんだよ。
「君は観鈴ちゃんの癇癪のことを知っている。それでも一緒にいようというのだな」
「…そのつもりだ」
そうか、と小さく聖が言う。
「なあ、国崎君。一つ昔話をしてやろうか」
「なんだよ?」
「昔な、この町には腕のいい医者がいたんだ。美しい妻と秀才な娘、それに生まれたばかりの天使のように可愛い赤ん坊」
「秀才な娘ねぇ」
「黙って聞け」
睨まれる。
「医者は幸せだったよ。だけどな、ある日事件が起こった。陣痛が起きた女性が運び込まれたんだ。医者は優秀だったが外科医だった。つまり、出産に関しての知識はあっても経験はない、ということだ。隣町に行けば産婦人科はあるが、そこで一つ問題があった」
「問題?」
「病院というのは面倒でな、ここの病院は○○大学付属、あっちの病院は××大学付属などというふうになっている。つまり自分の病院で見えないから近くの病院で見てもらう、と簡単にはいかないんだ」
「…じゃあ、もし別の大学の付属の病院に見てもらったらどうなる」
「事前に電話などで連絡を入れておけば問題ないが、無断でやれば親元に対する裏切り、ということになるな。そんなことをすれば大学からの援助がなくなってその病院はすぐに消える。診療所なんてちっぽけなものならなおさらだ」
「ひどい話だな」
「とにかく、隣の産婦人科はうちとは別の系列だったんだ。生まれてくる子供のことを思えばすぐにでもそちらに回すべきだったのだが、結局その医者は自分のためにそれを拒んだ」
「…でも、子供は生まれたんだよな」
たずねると、聖は静かに顔を横に振った。それが真実を語っていた。
「流産だったよ。完全に医師のミスだった。母御さんのほうは、先生は一生懸命やってくれた。この子は運が悪かったと、そう言ってくれたよ。そんな事情があったとは、彼女は夢にも思わなかっただろう。結局、その医者がこの世を去ったのはそれからすぐだった。車にぶつかって即死だったそうだ。それが単なる事故だったのか、それとも自殺だったのかは不明だがな」
「………」
俺は、黙って聞いていた。
「国崎君、その医者は間違っていたと思うか」
「…分からない」
「だろうな。だが生まれてくるはずだった赤ん坊は死に、診療所はいまもここにこうして建っている。二人の娘を無事に育て上げ、今も病や怪我に苦しむ人々を救い続けている。それだけは事実だ。」
いつの間にか聖の瞳が赤く潤んでいた。彼女も俺と同じく、幼くして親を失っていたのだ。きっと、これからもその母親と聖は顔を合わせ続けていくのだろう。この小さな海辺の町で暮らしていくかぎり。
「国崎君。本当に大切なものを、間違えるなよ」
夕焼け、観鈴と二人歩いていく。
いつも通りの夕方。
…いつから、いつから観鈴と二人でいることが『いつも』になったのだろう。俺はそれをいつも通りと、確かにそう感じていた。
俺は一人きり生きてきた。一人だけで旅をしてきた。そして旅の果てに海辺の町にたどり着き、俺は独りぼっちの少女に出会った。
そうして俺たちは、二人になった。
光りが色を変えていく。オレンジ色の輝きが、世界を包んでいく。
「夕焼け空も好き。どこかに帰れそうな気がするから」
観鈴の影が長い。二つに束ねられた髪が風に揺られ、きらきらと光る。
いつだっただろう。ずっと前にも、こんな情景を見ていたような気がする。子供のころ、母親と旅をしていた時だろうか。
無意識に見上げた空。赤焼けの陽を受けて、雲が流れていく。
なくしてしまったものの欠片、夕闇の中に漂っていく。
夜が来れば、それは痕跡も残さずに消えてしまうだろう。
観鈴を家に帰すと、俺は堤防で一人、空を見上げていた。空の色は薄い黒色に変わりかけていて、あたりを静寂とした空気が包み込んでいく。
「この空の向こうには、翼を持った少女がいる」
「それは、ずっと昔から」
「そして、今、この時も」
「同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている…」
言葉を口に出す。
…そこで少女は同じ夢を見続けている。
…彼女はいつでもひとりきりで…
…大人になれずに消えてゆく。
…そんな悲しい夢を、何度でも繰り返す…
視線を地上に戻した。
『そこで少女は、ずっと同じ夢を見続けている』
『何度生まれたとしても、決して幸せにはなれない』
『彼女はいつでもひとりきりで』
『そして、少女のままその生を終える』
『そんな夢……』
なんだろう、今のは。
意味を考えるには、あまりに象徴的すぎる。夕暮れと観鈴の印象が重なり、そんな言葉になったのだろうか……。
いや、何かを思い出しかけている。もっと、大切な何かを。
鍵をかけられているように、頭の奥が強くきしむ。
何かが染み出してくる。それは、悲しい予感。
神尾家、夜。
珍しく早く帰ってきた晴子から呼び出しをくらった。
思えば晩酌以外であいつと話すことほど珍しいことはないだろう。
「昨日は、一日中あの子遊んでくれたそうやな」
「まあな。ずっと付き合わされた」
「そうか。ありがとうな」
礼を言われた。俺が好きで観鈴のそばにいるのだから、そんなことを言われる筋合いなんてないのに。
「もう、ええよ」
「えっ?」
言葉の意図が分からず、思わずそんな声を漏らす。
「もうええよ。お目付け役。あんたにはもう無理や。あの子は誰かと親しくなると、癇癪起こすんや。あの子、もうあんたにべったりやからな。癇癪止めるんはもうあんたには務まらへん」
その言葉で気づいた。
もしも観鈴が晴子のことを慕っているなら、ずっと一緒に暮らせるはずがない。観鈴は癇癪を起こし、晴子はそれを止められないだろう。
「うちはあの子に好かれてへんからな。適任ちゅうわけや。まったく、難儀な子やで」
自嘲するように笑う。
「それでも俺は、観鈴のそばにいるよ」
ふらふらとそこを出て行く。晴子も、今日はもう酒に誘わなかった。
青白い月明かりだけが俺を見ている。
…そこで少女は同じ夢を見続けている。
…彼女はいつでもひとりきりで…
…大人になれずに消えてゆく。
…そんな悲しい夢を、何度でも繰り返す…
それは、思い出したばかりの言葉。いつ聞いたのかさえ分からない。まるで、最初からあったかのように、俺の中に深く根を張っていた。
同じ夢を見続けている少女。空にいる少女。
空の夢を見続けていると観鈴は言った。俺と会う前、観鈴はひとりきりだった。いつでも子供のような奴だった。そして観鈴の姿が、不意に消えて見えてしまうようなことがあった。それはまるで、空に溶け込むようで……。
単なる偶然とは、どうしても思えない。
『そんな悲しい夢を、彼女は何度でも繰り返す』
それは、観鈴が夢を見続けているということなのだろうか?
悲しい夢。
『どうしてわたし。空にいるわたしはあんな悲しい思いをしているのかな』
空にいる少女と観鈴。それは同じものなのかもしれない。仮に空にいる少女の夢を、観鈴が見続けているとしたら……。
『観鈴はいつもひとりきりで、大人になれずに消えてゆく』
違う!
浮かんできた言葉をすぐに打ち消した。そんなはずはない。あいつはひとりきりじゃない。晴子も俺も、いつもずっと近くにいる。
目を閉じる。
疲れているのだろう。まぶたは熱く、じわりと涙がにじんだ。
堤防。登校前のわずかの雑談はすでに日課になりつつあった。
「体、大丈夫か」
「うん? どうしたのいきなり。平気だけど」
「いや、なんでもない。暑さでばててるんじゃないかと思っただけだ」
「往人さんは少し元気なさそう……」
「そんなことはない。俺はいつも元気だ」
「にはは」
笑っていた。少なくとも、いまは観鈴の身体になにか負担がかかっているわけではなさそうだ。少しだけ安心する。
「そういえば、結局海で遊ぶ約束、うやむやになっちまったな」
「うん、あのときはごめんね。癇癪起こしちゃって」
「いいさ、気にするな。癇癪のせいでみんな離れて行っても、俺だけは絶対にお前を見捨てたりしない。それに、晴子もいるしな」
「お母さん?」
「そうだ、お母さんだ。なんたってお前をこの世に産み落として、今までずっと育ててきたんだからな。そんな人をお母さんって呼ばなかったら、誰をお母さんって呼ぶんだよ」
「違うよ……お母さんは、本当のお母さんじゃ」
海のずっと向こう。水平線を見続けながら、彼女は続ける。
「お母さん。晴子さんは、本当は叔母さん。わたしがヘンな子だから、押しつけられたの。すごくつらかった。だって、押しつけられたほうにわたしは迷惑をかけるんだもの。晴子叔母さんは嫌がったけど、結局わたしはここで暮らすことになった。でも、晴子さんには自分の生活があったから、一つ屋根の下だけど、別々に暮らしてるの」
何を言えばいいのだろう……いや、何も言えることなんてない。
歯で舌を強く噛み、一言も言葉を出せないようにする。
『何も知らん奴が偉そうに人に説教するのは単なる自惚れやで』
あのとき俺は、癇癪を知らなかった。観鈴と晴子の関係を知らなかった。
お母さん。そんな人は、最初からどこにもいなかったというのだろうか……。
「海へは明日行こう。今度こそ、な」
「ほんとっ?」
「ああ、本当だ。今度は本当に約束してやる」
そうだ。観鈴は一人じゃない。悲しいなんて考える暇もないくらい、最高に楽しい思い出をたくさん作らせてやる。
…この空の向こうには、翼を持った少女がいる。
…それはずっと、昔から。
…そして、今、この時も。
…同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている。
考えているわけでもないのに、ふたを開いた虫かごのようにあとからあとから言葉が飛び出してくる。
違うのに、観鈴が空の少女なんてことは絶対にありえないのに。
…そこで少女は同じ夢を見続けている。
…彼女はいつでもひとりきりで…
違う違う違う違う!!
…大人になれずに消えてゆく。
…そんな悲しい夢を、何度でも繰り返す…
違う! 観鈴はここにいる。
「観鈴、夢の中のおまえには、翼があるか?」
そうだ、直接聞けばいい。翼なんて、そんなものあるはずないのだから。
「翼…?」
「夢の中で、おまえは空を飛んでるんだろう?」
「あ、そうだね。でも自分に翼があるかなんて、考えたことないよ」
「そっか、もういい」
答えを知らされなくて、ある意味よかったかもしれない。
真実を知るのは、もっとも辛い選択かもしれないから……。
「往人さん?」
「あ、ああ……」
観鈴の声で、現実に呼び戻される。
「行こうな、明日。海」
「うん!!」
嬉しそうな声が、あたり一面にこだました。
そうだ。明日こそは、海へ……。
あとがき、というか駄文。
聖の言っていた病院云々については、ぶっちゃけ本当かどうか不明です。
『ブラックジャックによろしく』を読んでいたときのうろ覚えの知識なので、色々突っ込みどころ多いかも。まあ、正しい病院事情よりストーリー的な面白さを優先したってことで適当に流しちゃってください。