Air 第七幕 必然

 

 翌朝、早朝。

 二人は麦わら帽子や潮干狩りのセットを片手に、海に行く準備を進めていた。いや、正確にいえば海で遊ぶための道具を準備しているのは観鈴一人だ。晴子のほうは、台所でじゅーじゅーと香ばしい匂いを漂わせながら、お弁当作りに没頭している。

「卵焼きは甘いほうがええか?」

 台所から居間に向けて、晴子が顔を覗かせる。

「うん、すごく甘いの」

「ようし、ええで砂糖たっぷりの卵焼き作ったるわな〜。浜辺でふたりで食べよな」

 晴子がお弁当作りに戻り、観鈴は出かける準備をしながら料理が出来上がるのをじっと待つ。

 それはどこにでもありふれた、幼い子どもと母親のやりとり。ずっと遠回りをして、いくつもの困難を乗り越えて、やっとたどり着いた場所。

 晴子は思う。はたしてこの三日間で、自分と観鈴は家族になることができるのだろうか……それとも、敬介のもとに観鈴を返してしまうのか……。

 ええい、なやんどってもしゃあない。とにかく、やるしかないんや!

「あつい」

「せやな……でもちょっとの我慢や」

 きっこきっこ。

 車輪が回る音が、やけに大きく感じる。車椅子の音というのは、こんなにうるさいものだったろうか?

「わたし、家に帰る……家でトランプして遊ぶ」

 家を出てから、観鈴はずっと家に帰る、家に帰ると同じ言葉を連呼していた。アスファルトをじりじりとした熱射が襲い、空気そのものを蒸し暑いものに変えていく。この暑さでは誰でも根をあげてしまうだろう。病み上がりの観鈴ならなおさらだ。いくら車椅子に乗っているとはいえ、陽光は空から降り注ぐのだから、感じる暑さ自体は普通の人のそれとなんら変わりはない。

「そんなこと言いなや。ゆうべから一緒に出かけるって決めとったのに……せっかく作ったお弁当も無駄になるやんか…」

 自分でも、かなり無茶なことを言っていることはわかっていた。炎天下の中を病人に歩かせるなんて、どう考えてもおかしいに決まっている。でも、それでも晴子は自分の考えを変えようとは思わなかった。敬介との約束の日まで三日しかないのだ。家に帰れば、観鈴はきっとトランプに没頭してしまう。さきほど観鈴自身、トランプで遊ぶと言っていたのだから、これは間違いないだろう。晴子だって鬼ではない。別に観鈴がトランプで遊ぶこと、それ自体は一向に構わない。けれど観鈴がやるトランプ遊びというのは、決まって一人きりでやる遊びばかりなのだ。本来トランプとは数人で遊ぶゲームのはずなのに、観鈴はたった一人で行う遊びばかりを選んだ。いや、今も選び続けている。それは、下界との完全なる拒絶だった。トランプ遊びに没頭してしまえば、晴子の声は観鈴には届かない。仮に届いたとしても、それは自分の遊びにアドバイスをくれる便利な存在か、もしくは自分のテリトリーに勝手に進入してきて雑音を繰り返す存在でしかない。だから、海なのだ。

 あそこなら二人で遊ぶことができる。追いかけっこも水の掛け合いも一人ではできない。海に行けば、観鈴は自分の存在を認めてくれる。晴子には、なぜだかそう思えてならなかった。

「帰る……」

 晴子のそんな心情などまったく知らず、興味もないという様子で観鈴は言う。

「海が見えてきたら、暑いなんて思わんようになるから……せやから、そこまでいこ」

「うーん……」

「頼むわ、観鈴ちゃん。甘い卵焼きもあるんやで、観鈴ちゃんのリクエストで作ったんや。楽しい一日にしよ……なっ」

「………」

 赤子をあやすように、晴子は精一杯の優しさをこめていった。けれど、観鈴は答えない。無視しているというより、自分とはなんら関係ないところで女性が独り言を言っているだけ。観鈴の心情は、そんなところなのかもしれない。

「………」

「な、ほんまに帰るんか」

「うん」

 沈黙を続けていた観鈴に晴子がそう声をかけると、ようやく、観鈴はそう言葉を返してきた。

「ほなら、うちが作った弁当はどうなんねん」

「しらない」

「そうか……ほなら、もう好きにしいやっ。ひとりで遊びたいんやったら、勝手に帰りやっ、あほっ!」

 それは、逆切れでしかなかった。晴子自身、そんなことはわかっているはずなのに、身体のうちから沸き上げてくる激情の波を抑え込むことができず、感情をぶちまけていた。感情をぶちまけて、あとは一人帰路に着く。

「………」

 ひとりその場に取り残された観鈴の体を、じりじりと陽が容赦なく照り付けていき、地面を焼いていく。

「あつい……くらくらする……帰ろうっと……」

 きこ……。

「すごくあつい……」

 きこきこ……。

「手、つかれる……」

 きこきこ……。

 がきっ!

「わあ……何かにはさまっちゃった……うごけない……」

 道路上に開いた溝。歩行者や車で走る分には全然関係ないものだが、車輪を使う乗り物にとっては小さくても非常に危険な溝だった。自転車なら横転していてもおかしくなかっただろう。まあ、そもそも自転車の場合溝にはまる前に方向転換していただろうが。

 元来のぼんやりとした性格もあったのだろうが、空気全体の蒸し暑さが観鈴の注意力を散漫にしていたのだろう。だから、車輪を溝にとられるなんてミスを犯した。

「うごけない……」

 前に押しても後ろに引いても、車輪はぴくりとも動く様子はない。

「イスから降りよっと」

 体をくねらせて、足に負担が掛からないように車椅子から降りる。

「わ……じめん、すごくあつい……」

 観鈴のはいていたのは生地の薄いサンダル。だから、よけい暑く感じたのかもしれない。

「うーん……すごく暑い……のどかわいた……ジュースほしいな……」

 きょろきょろとあたりを見回す。さっきまで一緒にいてくれた長い髪の女の人は、もうどこにもいない。

「ジュースほしい……」

 暑さにばてたのか、観鈴は地面に座り込む。そのまま、一歩も動く気配はなかった。

「おばさん……おばさん、どこ……」

 暑さもあったけれど、少しだけ、恐怖もあった。知らない場所に突然放り込まれたような恐怖。実際左右をきょろきょろと見回してみても、観鈴の知っている場所、景色はどこにもなかった。いや、正確には昨日もこの場所には来ているのだけど、知らない場所であることに変わりはなかった。

「あつい……もーダメ……」

 口から漏らすため息さえ生暖かく、暑さを増長させていく。

「はあ……うぐっ」

 急に、目じりにあついものがこみ上げてきた。それが涙だと気づくのに、そう長い時間はかからなかった。と、そのとき。

 ぴと。

「わ、つめたい」

 泣き出していたその頬に、四角い容器がそっと当てられる。

「帰ろか……」

「おばさん……」

 晴子は観鈴の体をぎゅっと抱き上げると、彼女を車椅子の上に座らせる。

「よかった……いなくなっちゃったのかと思った……」

「ジュース、飲み」

「うん……」

 ぷすっとストローを差し込んで、ちゅーちゅーとジュースをすすり始める。

「おいしい……」

「そか。よかったな……」

 きっこきっこ。

ふたたび車椅子が動き出して、二人はゆっくりと帰路につく。車椅子を押す晴子も、ジュースをすする観鈴も、互いに何も話そうとはしなかった。ただ黙って、無言で歩き続ける。やがて見慣れた家が見えてきて、晴子は知らず知らずのうちに速度を上げていった。自分自身暑さにばてかけて、早く家に帰りたいと思っていたのだろう。

「ん……」

 神尾の家の前にはちょっとした石段がある。二、三段程度の小さな階段で、車椅子を上げ下げするときに、そこで毎回てこずるのだ。その場所に、長い髪の女の子が座り込んでいた。知った顔だ。たしか名前は、遠野美凪。

「あ……」

 こちらの姿に気づくと、ぺこりと小さく会釈をしてくる。

「あんた……どないしたんや。こんな場所で」

「神尾さんの…お見舞いに来たのですが…お出かけしているみたいだったので、悪いとは思ったのですが、ここで待たさせてもらっていました」

「家の前でずっとか? 鍵かかって中に入れんってわかったところで、とっとと家に帰ればよかったやないか」

「それも考えたのですが、入れ違いになってしまうと嫌だったので……」

「…あんな、遠野さん。うちら、海に行こうとしてたんや。観鈴が暑い暑いうるさくゆうから、せやから家まで戻ってきた。あんた、うちらが帰ってこんかったら、ずっとここにおるつもりやったんか?」

「はい」

 即答される。

「あんた……まじか?」

「なんちゃって……冗談です。もうしばらくここで待って……帰ってくる気配がなかったら、一度家に帰るつもりでした」

「ふうん……この暑いなかご苦労なこったで、ほんま。ま、とりあえず家のなかはいりや、麦茶ぐらいだしたるから」

「…ありがとうございます」

「それでは、今度はこっちに置いてください」

「ここ?」

「そうです。それで次は……」

 美凪は観鈴の部屋に入ると、二人してトランプ遊びを続けていた。二人して、といっても、やっていることは相変わらず占いなのだから、実質的には一人でやっているのと大差ない。

「おばさん、今日はいないの?」

 独り言のように観鈴が言葉を呟いた。

「神尾さんのお母さんですか? たしか台所のほうで椅子に座って、何か考え事をしていたようですけど……」

「かんがえごと? どうしたんだろ……」

「心配なら、私ちょっと見てきましょうか?」

「うん、おねがい。ええっと……」

 神尾さんのお母さんから神尾さんの記憶が六歳当時に逆行していると聞いていたから、彼女が私の名前を思い出せず言葉に詰まっているのにはすぐに気がついた。だから、私は言う。

「美凪です。遠野美凪」

 そう、私はもう『みちる』ではない。私は、『みなぎ』として生きることを許されたのだ。

 

 

 台所の椅子に座り込んだまま、晴子は大きなため息をもらす。

「なに投げ出しとんのや、うち……お弁当、無駄になったぐらいで……うちのほうが子供みたいやないか……」

 それは、誰に言うでもない言葉。自分自身を戒めるような、悲哀な言葉の羅列だった。

「うちのしとったことなんて、ままごとみたいなもんやったんかな……母親ごっこしとっただけなんかな……ようは、うちなんかに母親は向いてへん……そういうこっちゃ。それがようわかったわ……遠野さん。あんたも、そう思うやろ」

 晴子の様子を見にきた美凪の姿を見つけると、晴子は自虐的にそうつぶやいた。

「………」

 美凪は何も答えない。というより、何も答えられない、というのが正しいのかもしれない。いまここで自分がそんなことないと晴子の考えを否定したとしても、そんな見せ掛けだけの言葉は晴子の心には届かない。本当に傷つき疲れきった心には、形だけの慰めの言葉など何の意味もなさないのだ。かつて、自分自信がそうであったように……。

 結局、傷ついた心を癒すことができるのは時間だけ。心に開いた穴を修復することができるのは、時間だけ。だけど、一つだけ例外がある。兄さんのような存在だ。兄さんのような存在が晴子さんのすぐ近くにいてくれれば、少し荒療治にはなるだろうけど、心の傷を癒すことができる。でも……そんな人がどこにいる? 考えて、気づいた。

「うちは母親なんかやあらへん。母親ゆうんは、もっとすごいもんなんや。自分の腹痛めて、ごっつ痛い目して……歩けもせんうちから、言葉も喋れんうちから、ずっと面倒見ていくんや……こんなことで投げ出すような短気なうちに、真似できるわけあらへん……」

「でも……だったらどうするんですか?」

「ん?」

 私だ。私がいるじゃないか。かつて兄さんが私とみちる、お母さんとの三人のわだかまりを解いてくれたように、今度は私が兄さんのかわりとなって、神尾さんのお母さんの心の傷を癒してあげる。それはきっと、間接的に神尾さんを助けることにもつながるだろう。

「神尾さんを橘さんって人に引き渡す日まで、あと三日しかないんですよね。神尾さんのお母さんがそんな風だったら、その……なんていうか、よくないと思うんです」

「なんや、あんた知っとったんか。敬介との約束のこと。…そやな、うちがこんな弱気な態度続けとったら、なんにもならへん。とにかくなんとかするしかない。それはわかっとる。わかっとるんやで。せやけどな……」

 そこでもう一度、深いため息。

「あかんわ、うち……観鈴との約束守られへん」

「約束……ですか?」

「そや、約束や。といっても、うちが勝手に決めたことなんやけどな。この三日で、観鈴に必ずうちを母親と認めさせたる。そう誓ったんや。せやけど、こんな困難が待っとるなんてしらんかった……投げ出してしまいそうや……そもそも約束なんて、もうどうでもええような気もしてきたわ……。だって、あん時のあんたとはもう違うやん。うちを頼りにしてくれとった、あん時のあんたとはもう違うやん」

 それは、美凪に向けられた言葉ではない。ここではないどこか……いや、どこかではない。自室でトランプ遊びにふける観鈴に向けられた言葉だった。

「そういや、遠野さんとは一緒に遊んどったみたいやな。観鈴のやつ」

「一緒にというのはどうでしょう…私と一緒にいても、神尾さんはトランプ遊びに夢中で、私なんてぜんぜん目線に入っていないという様子でしたから……」

「ははは、なんや。それならうちと同じやないか。いや、同じやないか。昼間の一件で、うち観鈴に嫌われてまったみたいなんや。トランプ教えてやろ思ったんやけど、追い出されてしもうた。はは、なさけないやろ」

 そのとき、遠くで悲鳴が聞こえた。二人は話を切りやめ、慌てて声のした場所までかけていく。声は観鈴の自室から聞こえてきた。

「神尾さん、どうしたんですか?」

「どないしたん、観鈴……」

 部屋のドアを開けると、二人して観鈴のそばにそっと近寄る。

「セミ……」

「なんや?」

「とって、セミ……」

 どうやら窓が開いていて、そこからセミが中に入り込んでしまったらしい。それに驚いて、さっきの悲鳴をあげたのだろう。

「どこに逃げたんや?」

「わかんない」

 床に身を伏せて震える観鈴を尻目に、美凪と晴子は二人して部屋の中をきょろきょろと見回してみる。それらしい影はどこにも見当たらない。

「どこいったんやろな…出てくるまで、ここにおってもええか?」

「うん、いて」

「神尾さん、私は?」

「遠野さんも、いて欲しい」

 観鈴が言うと、

「了解や」

「わかりました」

 二人の声が重なる。

「うち、こう見えてもセミ取りの名人やからな。セミ捕りおばさんや」

「セミとりのおばさん」

「そうや。あんたのような怖がりには必要やろ」

「うん、安心」

「そら良かったな」

 ………。

 しばらく無言でいる。と、

 みぃーーーーーーーーーーーーん!

 いきなり耳をつんざく音。

「わっ」

「あそこです!」

「任しとき」

 美凪が指差した方向に向けて立ち上がると、手に持っていたでセミを叩く。

 ぱんっ!

「よし、捕まえた。このまま外に逃がそ」

 窓のほうまで歩いていくと、開いたすきまから外へぽいっと投げ捨てた。

みぃーーーんという鳴き声が遠ざかっていく。

「終わったで。これで安心して遊べるな」

「うん」

 ぱたぱたとトランプの札を並べ始める観鈴の姿を、晴子は横でじっと見続けていた。

「おばさん、もう用ナシになってしもた……セミ捕りのおばさんは、セミ捕ったらもうここでは用なしや。出ていかな、あかんかな……」

 ぱたぱた……。

「な、観鈴ちゃん。セミ捕りのおばさんは、どないしたらええと思う?」

 ぱたぱた……。

「あんたにひどいことしたもんな、おばさん……あんた見捨てようとしたもんな……セミ捕りのおばさんは、怖いおばさんや。せやから、いくわ。またなんかあったら呼んでや」

「あの、ちょ……ちょっと待ってください!」

「ん、なんや遠野さん?」

 立ち上がりその場を立ち去ろうとする晴子を、美凪が慌てて引き止める。このまま晴子を行かしてしまえば、また同じことの繰り返しだと思えたから。観鈴と晴子のぎくしゃくとした関係が、一歩も前に進まないとわかっていたから。

だから晴子をもう少しだけその場にいるように、声をかけて引き止めた。

 神尾さんにお母さんのことを引き止めさせるよう促すという方法もあったけれど、それは何の意味もないように思えた。そうゆうふうに神尾さんに言えば、彼女はたぶん私の言葉どおり、お母さんを引き止めにかかってくれるだろう。だけどそれは、神尾さんの意思ではない。人に言われたから、言われたとおりのことをしただけ。命令どおりに動くだけなら、ロボットにだってできる。だから、私にできることは引き止めておくことだけ、引き止めて、そして信じることしかできなかった。神尾さんが、自分からお母さんに向けて心を開いてくれることを……。

 そして……。

「…おしえて」

「ん? なにをや」

「トランプの、やりかた」

 奇跡は起きた。

 神尾さんのお母さんは神尾さんのほうへと舞い戻り、あぐらをかいて座り込むと、丁寧に神尾さんにトランプのやりかたを教えていく。

奇跡というものが実在するのなら、これがそうなのだろうか? いや、これは奇跡なんて、そんな他力本願な言葉で片付けられるできごとではない。神尾さんのお母さんは、神尾さんのことを想い、一生懸命だった。たとえその気持ちが一方通行だったとしても、挫折しかけても、それでも懸命に、神尾さんのことを想い続けてきた。だから、目の前のこれは必然。

「これは?」

「ここや」

 ぱた……。

「つぎは?」

「ちょっと待ってな。えっと……ここやな」

 ぱたぱた……。

 幸せな時間は続いていく……。

 苦難の道を乗り越えて、ようやくにたどり着いた、幸せな時間。

 トランプを握りしめながら、晴子が少しだけ、声を漏らす。

「もう、うち贅沢言わへん。明日最後の一日や」

 まっすぐに、観鈴に目を向けて、言う。

「一日中、一緒にいような。うちの望みはそれだけや。な、観鈴」

 




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