Air 第六幕 再会

 

「どういうことだい、これは…」

 灼熱のような太陽が照り付ける中、橘敬介は車椅子に乗った観鈴を見つめながら言った。

「どういうことって、あんたも診療所の先生から聞いとるやろ。観鈴は意識が戻ったばっかで体調が思わしくない。せやから、車椅子に乗せてあげとるんやないか」

「そうゆうことを聞いてるんじゃないよ、晴子。観鈴はずっと、意識不明の状態を続けていた。それなのになんで、こんな炎天下の中を連れまわしているのかってことさ」

「この子が言ったんや。海に行きたいって。せやから、診療所で車椅子を借りて、この子を海に連れていったることにした」

「な……馬鹿か君は、こんな日に病人を連れまわしたりして、もし日射病にでもかかったらどうするつもりだ!」

「それは……」

 言い返す言葉が見つからず、思わず晴子は口ごもる。観鈴の体のことを思えば、敬介の言っていることはもっともなことばかりなのだ。でも、観鈴は言ったのだ。海に行きたいと。だから、叶えてあげたかった。

「とにかく、一度診療所に連れ帰る」

 晴子や観鈴自身の気持ちなど関係ないとでも言わんばかりに、敬介は車椅子の前に座り込む。

「観鈴、ここは暑いだろ。お父さんと一緒に涼しいところに行こうな」

「……?」

「どうした、観鈴。お父さんだよ」

「しらないひと」

 観鈴がきょとんとした顔のまま黙り込んでいると、

「あんたの元パパや」

 晴子がそう口をはさむ。

「晴子。冗談でも、それは怒るぞ」

「もう昔とはあんた、顔違うからな。わからへんのや。それにこの子、記憶を失ってしまっとる」

「記憶を? どうゆうことだ」

「わからへん…霧島の先生が言うには、この子には呪いちゅうのがかけられとって、その呪いは観鈴と他の人が仲よおなると現れるらしい。せやから、観鈴は自分の記憶を無くすことで、うちを助けようとした、ちゅうことらしいわ」

 苦々しく唇をかみ締めながら、喉の奥から声を搾り出すように晴子は言った。でも晴子のそんな悲痛な思いは、敬介には届かない。

「はあ? おいおい晴子、嘘をつくならもう少しマシな嘘をついたらどうだい」

「嘘やない。ほんとのことや!」

「話にならないな。あなたがそんな狂言をいう人とは知らなかった。こんなことなら、誰か別の人に観鈴を預ければよかったよ。この子をあなたに預けた理由、覚えているかい?」

「借金がうんぬんやろ。でも結局それって、あんたの愛が足らへんかっただけやん。母親を失った観鈴があんたにどれだけ甘えたがってたか……。借金なんて大した問題やない。信頼できる人間がそばにおるかどうか、それが一番大事なことなんや。それなのに、あんたは観鈴を見捨てた」

「違う、違うんだよ晴子。あなたも知っているように、この子は大勢の人の中にいることができない。僕の住む街は人が多すぎて、そんな病気を持つこの子には合わなかった。なかなか友達もできないでいた。この静かな田舎町なら、外で遊び回れるし、友達もたくさんできてこの子のためになるんじゃないかと、そう考えた。この町なら、健やかに育ってくれると思ったんだ。だから、あなたに預けた」

 三億もの借金を返すために、敬介は昼夜を問わず働き続けた。当然観鈴にかまってやれる時間はほとんどない。敬介は自分の住む街は人が多すぎて、だから観鈴がそれを怖がって癇癪を起こすと思っていた。静かな田舎町に越していけば、癇癪もきっと治る。そう信じていた。

「だが結果はこれだ。失敗だった。確かにあなたを責めるのも見当違いだな」

「そうかいな……うちは、どこにも失敗なんてあらへんと思うけどな。この町にきて、この子は友達を持つことができた。癇癪を起こしてまって、いつまでも一緒ってわけにはいかへんかったけど、この子は確かに、友達と一緒に過ごすことができとったんや。いや、できとったんやない。今もや、今もずっと、友達と過ごすことができとるんや! あんたは、この子をその友達と引き離すゆうんか」

「…仕方ないだろ。それが、観鈴のためなんだ。晴子、君の話では、観鈴は記憶を失っているといっていたな。それなら、友達と別れたとしてもショックは少なくてすむだろう。だから、もうあなたが責任を感じることもない。観鈴は連れて帰る。霧島さんに、いい大学病院も紹介されている。あのときは意識不明の状態が続いていて、最悪衰弱死を待つしかないと言われていた。でも観鈴が目を覚ましてくれた今なら、きっとまだ間に合う。きっと、また良くなる」

 車椅子の取っ手を晴子から奪うと、敬介は車輪をくるりと回し、観鈴を晴子のほうへと向きなおらせる。

「観鈴も礼を言うんだよ。晴子さんに。長い間、ありがとうございましたって」

「………」

「どうした? ありがとう、は」

「ありがとー」

「よし、言えたな」

 踵を返し車椅子を走らせようとする敬介の肩に掴みかかると、

「嫌や……」

 とても、とても小さな声で、そうつぶやいた。

「晴子、あなたの気持ちもわかる。これだけ長い間一緒にいれば、情も移る。だがこれで二度と会えなくなる、というわけじゃない。会いにきてくれたらいい。あなたに出す茶ぐらいは、こっちも用意できる。な、晴子。それでいいだろ」

「………」

 晴子は何も答えなかった。思い出すのは、遠い記憶。観鈴を神尾の家で預かってくれと敬介が尋ねてきたあの日。観鈴の小学校の入学式。中学、高校、ずっと一緒に過ごしてきた。すれ違ってばかりだったけれど、それでも、晴子と観鈴は同じ屋根の下で、家族としてずっと一緒に暮らしてきた。

「…み……観鈴を……観鈴を取っていかんといてやっ!」

 それは、断固とした拒絶だった。観鈴と一緒に暮らしたい。すれ違いではない、本当の家族として暮らしていきたい。その想いが叫びとなって、空へと木霊する。

「観鈴とやっと、ふたりだけの時間を過ごせるようになったんや! 観鈴はずっとひとりやったんや! 誰のせいや!? うちらのせいやないかっ。この子、ひとりにし続けたん、うちらのせいやないかっ。だから、うちはずっと一緒にいといたることにしたんや! こんな状態になって、やっとひとりやなくなったのに……それでもあんた、ウチらのもめ事でこの子を振り回すんか!」

「…それは自分勝手な考えじゃないか? 晴子」

「そうや。うちは頭悪いから、世間体のいい言い回しも思いつかん。うちがこの子といたい。それだけやっ、悪いかっ」

「僕の立場はどうなる」

「知るかっ」

「ただ一つ言えるんは、あんたより、あんたらなんかより何倍も、うちのほうがこの子と一緒にいたいっ! これは絶対やっ」

「………」

「もう話すことなんかあらへん。消えてくれへんか」

「その子を渡してくれたら」

 それでもなお、敬介は食い下がる。

「これ以上あなたのそばで、病んでゆくのを放っておくわけにはいかない」

「うちが悪いんかっ! うちと一緒にいることで、悪くなっていく言うんか!」

「そうは言ってない。ただ、これ以上この場所にいても観鈴のためにならない、ということだよ」

「…おばさん、怖い」

 それまで沈黙を続けていた観鈴が、一言だけぽつりと、そうつぶやいた。

「あ……すまんな、観鈴。怒鳴ったりして、堪忍や」

「おばさん、か……」

「じょ、冗談や。今の、観鈴の冗談や。ずっとお母さん呼んでくれてたんやで。ほんまや……うち、この子のお母さんやねん……」

「あなたが思っている以上に、その子はあなたの元にいて安心していなかったように見える」

「ちゃうねん。ほんまに、ちゃうねん……この子とうちは親子やった。それだけは本当のことや。一緒に風呂入ったり、一緒に寝たりしてたんや。ちゅーとかも、してたんや」

 深いため息を漏らして、敬介は続けた。

「…僕もここまで放任していた。あなたを責めるつもりも今更ない。だけど、この子が苦しいと思うようなことだけは強いたくない」

「………」

「訊いてみるか、この子に。これ以上、あなたのそばにいたいか」

 晴子は沈黙を続けていた。記憶を失う前の観鈴なら、自分を選んでくれるに違いなかった。でも……記憶を失った今の観鈴が選ぶのは?

「観鈴、まだ晴子おばさんと一緒にいたいか?」

「おばさん……」

「そう、おばさんとだ」

「うーん……えっとね……」

「待ってや!」

 観鈴が答えを出す前に、答えを出すのを遮るように、晴子が口を挟む。

「あのな……なにがあっても、ふたりは一緒にいるって……そう約束したんや。だからな、うちらは一緒に居続けるんや……」

「それを今、訊こうとしてるんじゃないか。どうなんだい、観鈴」

「えっと、わたしはね……」

「待ってや」

 観鈴が口から吐き出しかけた言葉を、晴子の大声が再び覆いこむ。

「三日や……三日、待ってや! その時、もう一回訊いてやっ。その時、この子がもう、うちとなんかいたないって……そう言うんやったら、ええから……。もう観鈴を連れていっても、かまへんから……せやから、三日だけ待ってや。待ってぇや……頼むわ、敬介……」

 晴子の頬には、いつの間にかたくさんの髪の毛が張り付いていた。滴り落ちていく水の雫が、髪の毛を頬に張り付かせていた。

「…わかった。三日だけ待つ。その間に、こちらでできる用意はしておく。いいね」

「ああ……感謝するわ」

「あのね、わたしは……」

 観鈴は、先ほど敬介に聞かれた質問にいまだ答えようとしていた。

「観鈴、ジュース飲もっ!」

「ん?」

「ジュースや、ジュース。冷たいジュース買って飲も。ノド乾いたやろ?」

「うん、ノドかわいた。ジュース飲む」

「ほな、いこっ」

「観鈴ちゃんは、どんなジュースが飲みたいんや。好きなん言うてええで〜」

 晴子がふたたび車椅子を押していく。

 きっこきっこという車輪の音が、夏の空に吸い込まれていく。

「三日後、また来る」

 その背中に、男の声。声はもう遠くて、よくは聞こえなかった。

 晴子と敬介。二人のやりとりを、物陰からひっそりと見守る姿があった。

遠野美凪、買い物帰りにたまたま現場に居合わせて、そして二人の会話全てを聞いてしまった。手に持っていた買い物袋を、思わず地面に落としそうになる。

 三日。あとたった三日で、神尾さんはお父さんに連れてかれていってしまうかもしれない。

「そんな……やっと……帰ってきたのに。罪を償うために、神尾さんを裏切ってしまった罪を償うために、やっとここまで帰ってきたのに…」

 長い旅をしてきた。みちると出会い、兄さんに出会い、悲しいことも、楽しいことも、たくさん、たくさん経験してきたのに。

 神尾さんに会って、今まで避けてきたことを謝って、そしてもう一度、友達としてやり直そうと、そう信じてここまできたのに……。

 その全てが、消える? あと、わずか三日で……。

 

 

 人里から少しばかり離れた洋式の館。心霊スポットにでも使われそうな薄暗い館のなか、往人はソファーに座り込んだまま、不機嫌そうに足をゆらしていた。

 車のエンジンがオーバーヒートし、突然の豪雨に襲われた一行は道中で館を見つけ、ひとまずそこに避難することにしよう、ということになり、それから丸々一日が過ぎようとしていた。雨はおさまるどころかよりいっそう勢いを強め、大地に槍のような雨を降らせ続けている。

 館の入り口の扉がぎぃぃと鈍い音を立てて開き、真っ黒な傘をさした女性が姿を現す。小百合だった。傘を閉じると先端を地面に向けとんとんと叩き、傘についた水の雫を取り払う。

「小百合さん、どうだった? 車の様子は」

 往人が聞くと、小百合は力なく首を左右に振る。

「駄目ね。エンジンが焼ききれちゃってる。あれじゃどうやっても動きそうにないわ。レンタカーを用意してもらおうにも、こんな山奥じゃ携帯も圏外だし、外はごらんの通り。雨が通り過ぎるまでここでじっとしてるしかないわ」

「ちっ、空に囚われた封印を解いてこれからってときにこれかよ……観鈴が目覚めたのかどうかもわかりゃしねえし……畜生!」

 薄汚れた壁に拳を強く叩きつけると、奥の扉ががらりと開き、和樹と佳乃が

姿を現す。

「えっとね往人君。良い知らせと悪い知らせ、どっちを先に聞きたい?」

「ん、なんだいきなり。良い知らせと悪い知らせ? 携帯か何か、無線を送れるようなものでも見つけたのか」

「いや。相変わらずどこにも連絡がつかないまんまだ。完全に陸の孤島状態だよ。そのかわり、洋館の電力室を見つけた。電気関係は完全に死んでると思ってたけど、なんとか生きてる部分が残ってたみたいだ。これで真っ暗闇におびえることないし、テレビも使える。情報面に関しては完全な孤立、ってことにはならなさそうだ」

「連絡つかないって、それじゃ結局雨がやむまでここでじっとしてるしかないわけか。ま、電気が使えるだけでも儲けものか。それで、もう一つの良いほうの知らせっていうのは?」

「今のが良いほうの知らせだ」

「………」

 思わず押し黙ってしまう……。

「このうえ、どう悪くなるってんだ」

 その質問には、佳乃が答えた。

「テレビが映って、気象情報について放送されてたんだけど……。西日本一帯を連続低気圧が直撃してるんだって。特にあたしたちがいるこの辺りは低気圧の一番大きなのがぶつかっている場所で、テレビでは当分天候回復の見込みはないだろうって」

「…マジかよ。それじゃ、俺たちがやってきたことはなんだったんだ!」

 ソファーから立ち上がり、往人が吼える。

「京都まで行って、空に囚われた神奈備命の封印をといて、神奈備命の魂は観鈴のもとに向かっていって…だから、だからこれでやっと助けられる下地ができたんだろ! 翼人の、神奈備命自体にかけられた呪いを解いて、観鈴も神奈備命も助ける。そのために、やっとここまできたんじゃないのかよっ!!」

 往人の悲痛な叫びに答えるものは、誰もいなかった。その場にいる全員が、気づいてしまっていたからだ。もう、どうしようもないことを。暴風雨がこのあたり一帯を抜けきるまで、自分たちにできることは何一つない。そのことに、全員が気づいてしまっていたから……。

「くそ、無事でいてくれよ……観鈴……」

 

 

「今日はいろんなことありすぎたわ……うちも、疲れた」

 神尾の家に戻ってきた晴子は、座布団の上に腰をおろし、小さくため息をもらす。観鈴はひとりでせっせとカード遊びにいそしんでいた。

「あの後、うちが黙って答えを待っとったら……あんた、なんて答えてたんやろな。聞くんが怖いわ……」

 ぱたぱたというトランプをめくる音だけが、沈黙した空気を埋めていく。

「三日後か……それで、親子の時間取り戻すことなんかできるんかいな……」

 それは、観鈴に対して問いかけた言葉だった。けれど彼女は何も答えない。晴子の話になどまったく興味なさげに、カード遊びを繰り返すだけだった。

「せやな、できることはせなな……」

観鈴のそんな姿に、晴子は覚悟を決める。

「占いしとんのか、観鈴ちゃん。また、教えたるわ。ここや」

 ぱた。

「次はこっちや」

 ぱた……。

「並べ終わった」

「終わったな。どれ……明日はっと……普通の日やなぁ」

「うーん……」

「良かったな。可もなく不可もなく。穏やかなのが一番や。そう思うやろ」

「…楽しい日がいい」

「ははは、あんたはそうかもしれへんなぁ。でもうちからしてみれば、なんも起きへんかったら、それで満足な日や……ほな、明日は頑張って海までいこか。おばさんと一緒で良かったらな」

「うん」

「占いがはずれるぐらい楽しい日になるとええな」

「うん」

「ほな、今日は寝よな」

「うん……」

「おやすみのちゅーしたろか」

「ううん」

「そっか……」

「おやすみ、おばさん」

「ああ、おやすみ。観鈴ちゃん」




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