Air 第五幕 忘却

 

『ママ…ママ、どこ』

『ここにいてる。けどな、うち、ママとちゃうねん。せやから、そんな呼び方せんといて。晴子や。は、る、こ』

『晴子おばちゃん』

『誰がおばちゃんじゃっ』

 ぽかっ。

………。

『あれ、おかあさん? おかあさん、どこかなー』

『ここにいてる。せやけど、お母さんと違うて言うとるやろ』

『…お母さん』

 

 

 慣れるまで、ずいぶん時間がかかった。観鈴が面倒な病気を抱えていることを知って、そのせいで疎遠な関係を続けて、でもようやく、ここまでたどり着くことができて……。

「今日は外でかけよな。暑いから帽子かぶってな」

 観鈴の髪に、麦わら帽子をかぶせる。

「よし、準備ばんたん。ほら、肩につかまり」

「うん……」

「よいせっと」

二人、立ち上がる。

「行くで〜って、どこ行くか決めてへんかったなぁ。いきたいところあるか? うちはなぁ」

「海」

「海や」

 二人同時に言って、それぞれの声が重なる。

「奇遇やなぁ。うちも行きたかったんや」

「うん。すごくいい、海。ずっと行きたかったの」

「そっか。よし、いこ。ゆっくりでええからな」

 観鈴と晴子、ふたりは歩いていく。だがその足取りはひどく重い。晴子にいくら体力があっても、女性の力で人一人を肩に手をかけて連れていくのは、とても困難なことだった。観鈴の体調も日に日に悪くなっていて、足だけでなく、最近では手もだんだん動かなくなってきていて……。

 結局二人は、陽の光を浴びることさえ叶わなかった。

「大きなったわ、あんた。昔やったら片腕かついで運んだってんけどなー」

「ごめんね、わたし、足手まといで」

「あほ、そんなこと言いな。もっとおいしいもの食べて、体力つけて出かけたらええだけやないの」

「うん、そうだね……」

「明日またいこ。その代わり、今日はゆっくり休み。夏休みは長いで。まだまだ時間はある」

「…ごめん……ね……」

 ぽかっ。

「イタイ……どうして殴られるかなぁ」

「謝んな言うとるやろ、あほ」

「…うん、明日またがんばる」

 観鈴はすでに気づいていた。自分の身体の異変のことを。晴子と自分との距離が、近づきすぎてしまったことを。

 その夜。

「観鈴っ……観鈴っ!」

 晴子が必死で呼びかけるその先、苦しげに荒い息を吐き続ける。ベッドの上で、何度も何度も、うめきにも似た声を観鈴はこぼしている。

「苦しいんか、どっか痛いんか、観鈴っ!」

「お母さん……」

「うちの前で癇癪起こしたことなんて、今までなかったやんか。あんた、ほんまにどうなっとるんや?」

 力のない手を伸ばし、観鈴は晴子の右手に自分の手を重ねる。

「これ、癇癪じゃないよ。…すごく痛いの」

 その声は、ひどく弱々しく聞こえた。

「どこが痛いんや? 足か、胸か、背中か? うちがさすったる。一晩中でも」

「無理だよ」

「無理なわけあらへんっ」

「そうじゃないの。これはたぶん、あるはずのない痛みだから。わたしも触れられないから。たぶん、痛いのは翼だから」

「あほっ。こんなときに冗談言うやつおるかっ」

「にはは、ごめんなさい」

 首を寄せると、晴子はその後ろに腕を回す。

「あのね、お母さん……よく聞いて」

「うん?」

「朝起きて、もしもわたしが変わってしまっても……わたしは覚えてるから」

「なにがや……」

「お母さんの顔、お母さんの笑顔。覚えてるから。わたしの中ではずっとお母さんの笑顔。それ覚えてるから、大丈夫だよ」

「何言うてるかわからへん。うちの笑顔なんて、なんぼでも見せたる。せやから、元気になってや……観鈴。もっと母親らしいうちを見てや……。もっとあんたのそばで笑ってるうちのこと、見てほしいんや」

 そのまま、晴子は観鈴を抱きしめる。

「観鈴……? 眠ってしもたんか」

 観鈴の身体をうつぶせに寝かせると、それから一晩中、晴子は観鈴の背中をさすり続けていた。

 

 

「どうや、調子は」

 翌日。目覚めた観鈴に晴子はいつものように声をかける。でも、観鈴は返事を返してこなかった。不思議に思い、観鈴のそばに歩み寄る。

「どないしたんや、ぼーっとして。まだ眠いんか?」

 何も答えることなく、観鈴は窓の向こう、雲の行方を目で追いつづける。

「観鈴? どないしたんや。こっち向いてみ」

 晴子の言葉に気づいたのか、観鈴がこちらに向きなおる。でもそれも一瞬で、すぐにきょろきょろと何かを探しはじめる。

「なんや、どないしたんや」

「トランプ……」

「トランプは机の上にちゃんとあるで。ご飯食べてからしよな」

「いまするの、トランプ」

「行儀悪いやろ? じっとしとくんや」

「自分でとるもん」

 晴子の言葉を無視して立ち上がろうとする。だけど足に力が伝わらなくて、けほども足が動くことはなかった。

「あれ……立てない」

「立てないって、なんでいまさらそないなこと言うねん。あんたの足、動かへんねん。でもな、それでもあんたは頑張ってたやん。ずっと、これからも頑張ろうとしてたやん。せやろ、せやったやろ?」

 何かがおかしいと感じた。不安に駆られ、晴子は必死で言葉をつむいでいく。

けれど、観鈴は何も答えない。いや、それどころか困惑したような様子で、呆然とこちらを見つめている。

「まさか……忘れてしもたんか? お母さんと一緒に頑張ろうって決めたやろ」

 それでも、観鈴はなにも答えない。なにも答えようとしない。

「あんた、そないなことまで忘れてしもたんかいな。せやったら、今、あんたのお母さんて誰や」

「ママは……とおくにいっちゃった」

 それは、幼いころに観鈴が言ったのと同じ言葉だった。母親が死に、晴子の家にきてまもないころに言った言葉と、同じ言葉。

「観鈴、あんたいくつや?」

 胸騒ぎを感じた。観鈴の答えを予想することができてしまって……。

「ろくさい」

 右手でパーをつくって、左手の人差し指をその手に添える。頭の中で想像していたとおりの光景。幼いころ、観鈴は自分の歳をそうやって人に紹介していた。

「観鈴、よく聞きや。あんたのお母さんは、もうどこにもおらへんのや。せやから、うちがかわりのお母さんや」

「…ちがう」

「違わへん。思い出しや、この家でずっとふたりで暮らしてきたやろ」

 言葉の意味がわからないのか、観鈴はまた不思議そうな目を向ける。

「ずっとふたりで暮らしてきたやん。やり直そうって、そう決めたやん。頼むで、思い出してや、観鈴」

「………」

「観鈴っ!」

「うぁ……うぁーーーーーーーーんっ!」

 突然の大声にびっくりしたのか、観鈴は泣き出してしまう。

「うわっ、しもた。ほ、ほら観鈴。恐竜さんのぬいぐるみや」

「トランプは? トランプやりたい」

「あ、ああ。トランプもあるで」

 晴子からトランプを受け取ると、観鈴はそれを地面に並べはじめる。そうしてようやく、観鈴は泣きやんだようだった。

 それからしばらくのあいだ、晴子のため息と、観鈴の札をならべる音だけが聞こえ続けていた。

 トランプで遊んでいるというよりは、ばらしたり片付けたりして、ただ札にさわっているだけ。記憶と一緒に遊び方まで忘れてしまったようだった。遊び方がわからなくても、さわってさえいれば落ち着く。そんな様子だった。

「もう……あかんのやろか」

 ふたりで遊ぼうと何度も誘ってみたけれど、観鈴は一人で遊ぶと言って、トランプをばらして、片付けてを繰り返していた。晴子は根気よく言葉をかけ続けたけれど、観鈴はそのうちそっぽを向いてしまって、今では晴子の言葉に耳を傾ける様子すらない。

「…ひとりやった頃の観鈴に戻ってしもとるんやな。母親がおらんようになって、ひとりで遊ぶことにした観鈴に。いや、うちがこんな弱気やったらあかんな」

 立ち上がり、観鈴のすぐそばまで駆け寄る。相変わらず札をばらしたり整頓したりを繰り返していた。

「占い、やり方わからない」

今にも泣き出しそうな声で、観鈴は独り言をこぼす。

「占い? そんなもんうちもわからへんで、まいったな…」

 辺りを見回してみると、観鈴の机の上にトランプの本があるのに気づく。ページをめくっていくと、占いと書かれた項目がでてきた。

「そうや観鈴、うちは本見ながら教えるだけ。横で見ててやり方教えたる。それやったら、観鈴は占いもできる。それでええやろ?」

「………」

「な、お母さんが教えたる。それやったら、横にいてもええやろ」

「ママ、いない」

「はぁ……ほな、おばさんや。晴子おばさんや。そばにいて、教えたる。な」

「おばさん……」

「せや。お母さんやない。おばさんや」

「うん……」

「ほな、ここに置き」

 ぱたっと音が鳴って、トランプが床に置かれる。

「えっとな……、次、ここ置くんや」

「ここ?」

「そうや」

 晴子の言葉に従って、観鈴は一箇所一箇所トランプを並べていく。ぱたぱたと、軽やかに札が並べられていく。観鈴は無言で、自分から晴子に話かけることはなかったけれど、それでも晴子の顔は満足げに見えた。

「あんたはそうしてきたんやな。ずっと、そうやってひとりで遊んできたんやな。そんなあんたに母親とか言うて、いきなり保護者面するのもおこがましい話やったんやな」

 観鈴が幼いころの、神尾の家に連れられてきた当時に戻ってしまったとしても、昨日までの、やり直しはじめたあの時間が、すべてなくなってしまったとしても……それでも、

「ほなら、ええ。今日から取り戻したるわ。あんたがうちを母親と認めてくれる日まで、うちは頑張る。それまで、おばさんでええ」

 

 

「記憶喪失?」

「ああ、詳しいことはわからへんけど、足が動かなくなったこともうちのことも、みんな忘れてまったみたいなんや」

 自宅で暮らすことを許したとはいえ、観鈴の体調が回復したわけではないのだから、定期的に診療所に観鈴の容体を言いにくるよう聖は晴子に頼んでおいた。だがその日、晴子は聖の予想もしていなかった言葉をかけてきた。観鈴の記憶が六歳当時に逆行してしまった、というのだ。

「先生、ある日突然記憶を失うなんてこと、そんなことあるんか?」

「わたしの専門は心理学ではないからな……詳しいことはわからない。だがさっきの話を聞く限り、観鈴さんは記憶を失ったのではなく、記憶のない状態に戻ったのかもしれないな」

「どうゆう意味や?」

「人格が入れ替わった、ということです。多重人格者の多くは、辛い現実に耐えられなくなったそのとき、自分以外の別の人格を作り出し、現実から目をそむけようとします。だから」

「辛い現実って、観鈴はっ!」

「わかっています」

 興奮しかけた晴子を聖は静かに制し、言葉を続ける。

「彼女自身は、そんなことを望んではいなかったのでしょう」

「んなら、なんでっ」

「…観鈴さんがなぜ癇癪を起こすのか、その理由は知っていますよね」

「癇癪を起こす理由って、前に先生が言っとったやつのことか? 呪いっちゅうののせいで、誰かと一緒にいるとお互い倒れてまうから、せやから癇癪起こして、誰とも深く関わらないようにするってやつ」

「ええ。前にも話したとおり、お互いの心が近づけば、二人とも倒れてしまう呪い。そうならないために、彼女は癇癪を起こしお互いの距離を一定に保つようにしてきました。ですが、あなたはそれを乗り越えた。観鈴さんは、あなたの苦しむ姿を見たくはなかったのでしょう。あちらが離れてくれないのならば、自分から離れるしかない。空っぽの、寄り添ってきた人のことを何一つ知らない人格を作り出す。そうすれば、ふたりの心が近づくことはない。癇癪同様、無意識下で行ったことなのでしょうが、記憶喪失の原因は、おそらくそんなところではないのでしょうか?」

 聖の言っている言葉が信じられなかった。いや、信じられなかったわけではない。信じようとしなかった、というのが正しい。いくら互いが傷つくのをさけるためとはいえ、自分の記憶そのものを、楽しかった、これからもっともっと楽しくなっていく思い出そのものを、自分から封じこめてしまうなんて……。

「先生。それでうちは……」

「それはあなた自身が一番よくわかっているのでは? 六歳当時に観鈴さんの記憶が戻ってしまったとして、彼女を放っておくことなんてできない」

「はっ、そうやな。いつか必ず、その呪いちゅうのは解ける。そのときまで、うちが観鈴の支えになってやる、ふたりで頑張る。そう決めたもんな」

 

 

「観鈴、こんなもん借りてきたで」

 部屋のドアを開くと、晴子は両手で押して大きななにかを室内に運んできた。

 一人かけの椅子に二つ巨大な車輪がついていて、椅子の後ろに黒い取ってのようなものがついている。

「車椅子や。これで、外いけるで」

 観鈴の手を掴み連れ出そうとしたけれど、ベッドの上にトランプを広げたまま、彼女は一向にその場を動こうとしなかった。

「トランプはまた後でええやろ。午前中なら涼しいやん、外にでよ」

「歩けない……」

「大丈夫や。車椅子あるからな、おばさんが押したるから」

「おばさん……」

「おばさんと一緒はいやか」

「うーん、外あついから行かない。ここでトランプしてる」

 札をならべはじめる。

「な、うちは観鈴ちゃんとお散歩したいんや」

「どうして?」

「楽しいからや」

「ひとりでトランプしてたほうが楽しい……」

「そんなことあらへんよ。外でお日様に当たったら気持ちええし、他にも楽しいこと一杯や」

 聞いているのかいないのか、観鈴はトランプを手に持つと、ベッドの上に一枚一枚並べていく。

「な、観鈴ちゃん。ふたりで遊ぼ」

「…ジュース」

 はじめて、観鈴は自分から晴子に話しかける。

「ジュース、買ってくれる……?」

「あ、ああ。買うたる。もちろんやっ」

「だったら、いく」

 きっこきっこ、という車輪の音が鳴るたび、少しずつ景色が動いていく。少しずつ、景色が変わっていく。

「お外、風吹いてる」

「陽射し、じりじり言ってる」

「セミ、みんみん鳴いてる」

 商店街を抜け、寂れてしまった駅をながめ、町外れの神社のふもとで長い坂道を見上げて、そして堤防から海を見下ろして……。

 そのどれもが、観鈴の幼いころ、神尾の家にやってきたころからあった光景のはずなのに、当たり前に、いつでもそれはそこにあったのに。

「実現させるのに、えらい時間かかってまったな」

 堤防沿いを二人は歩く。潮風の音が耳を撫でる。

「犬や、観鈴ちゃん、犬さんが寄ってきたで」

 もこもことわたあめのように真っ白な犬が、車椅子の足元に座り込む。首輪をしていないところを見ると、野良犬なのだろうか?

 手を伸ばすと、観鈴の指をぺろぺろとなめる。

「にはは、かわいいー」

 背中を撫でる。ぴこぴこと泣き声らしき声をあげて、しっぽをふっている。

「あはは、そうしてるあんたの方が可愛いわ」

 しばらく観鈴のまわりを犬は歩きまわっていたけれど、そのうちにどこかに去っていってしまった。思い出したように、強い陽射しが晴子と観鈴とを照りかえす。

「おばさん……」

「ん、なんや?」

「ジュース」

「せやな。そろそろジュース買って、帰ろか」

「うん」

「晴子……」

 観鈴とも、晴子とも違う人の声。少し歳のいった男性の声。

 観鈴と晴子の視線の先、橘敬介は驚いたような、困惑したような声をあげて、観鈴の車椅子を見つめていた。

 




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