Air 第四幕 幸せな場所

 

 朝日が部屋の中に射し込んで、まぶしさで目を覚ます。両手を思いきり上に伸ばして息を吐き出すと、観鈴は時計に目を向ける。

 七時五十分。学校に行っていたころなら大遅刻になっていただろうけど、今は少し早く起きた、という感覚さえある。やっぱり、もうちょっと横になっていよう。寝転がろうとして、首をかたむける。

 足音が聞こえた。ゆっくりとした足取り。不思議に思い、身体を起こす。入り口が開く。晴子がおぼんを持って現れる。

「観鈴ちん、おはようや〜。今日は朝食豪華やで」

「わっ、お母さんすごい早起き」

 夜型の仕事ばかりをずっと続けていたから、晴子が起きるのはいつも昼過ぎが普通だった。それだけに、こんな時間に母親が起きているのは観鈴にとって意外なことだった。それも、朝食まで作っているなんて……。

「さっきな、朝市に行ってきたんや。新鮮なお野菜たっぷりのお味噌汁とお魚。どや、うまそうやろ」

「うん、いい匂い」

「せやろせやろ。なんていう名前の魚か知らんけどな、ええ感じで焼けてるやろ。食べてみ」

「うーん、小骨多い」

 そんな言葉をこぼしながら、観鈴は母親の手料理を口に運び、とても嬉しそうにそれを食べる。晴子はそれを、とても幸せそうに眺めていた。

 朝食を終えると、晴子は洗い物をしに台所へ向かう。観鈴は動かなくなった足をさすりながら、ベッドの上で身体を起こし、ずっと空を眺めていた。

「夢を見たの。とても不思議で、とても綺麗な夢」

 誰に言うでもなく、独り言をこぼしていく。

「この夢のこと、誰にも言わないことに決めたの。往人さんが言ってたから、二人の心が近づけば、二人とも病んでしまう、二人とも助からないって。わたしの夢は、誰かに話しちゃいけないんだよ。きっと。この夢はずっと昔、翼人って呼ばれた人たちの大切な記憶だから。だからお母さんにも言えないの。お母さんがわたしみたいになっちゃったら、困るから。往人さんみたいに、いなくなっちゃったら困るから」

 翼人にかけられた呪い。互いを思いあうことで、互いの命を蝕んでいく。翼人を知るものをこの世に残さぬようにするために、災厄をふたたび世に解き放たぬために……。

故に、翼人と知らぬまま近づいたのならば、翼人に接した者の身体を呪いが蝕むことはないのではないか?

もちろん観鈴がそこまで考えて、晴子に夢のことを話さないようにしているとは思えない。だが結果的に言えば、観鈴がやろうとしていることは、つまりそうゆうことなのだ。

「あのとき、往人さんはわざとわたしを嫌いになろうとした。往人さんはすごくいい人だったから。わたし、今なら往人さんの気持ちわかるよ。わたしもお母さんを嫌いになろうとしたから。でもそんなの無理だった。お母さんを嫌いになるなんて、そんなのやっぱり無理だった」

 入り口のドアが開き、晴子が顔をのぞかせる。

「なんや、あんた暇そうやな」

「にはは、あんまりすることないから」

「そうか。ほなトランプでもするか」

「でも、お母さん仕事」

「そんなん気にすることあらへん。あんたの相手するのが、うちのいちばん大切な仕事や」

「でも……」

「ごちゃごちゃ言わんと、はよ配り。ベッドやとやりにくいな。床でやろ」

 観鈴の身体を持ち上げて、晴子は観鈴を床に降ろす。机の上に置かれていたトランプをプラスチックのケースから取り出し、床に並べる。

「なにしよかー? 七並べかババ抜きがええかな」

「それ、二人でしても面白くないよ」

「ほな、あんたが好きなんでええよ」

「それなら、いちばん簡単なのにしよ」

 そう言って、観鈴はトランプを裏にしたまま一枚一枚床に置いていく。全て並べ終えると、二人は変わりばんこにそれをめくっていく。同じ数字、同じ絵札が揃うと、それを取り除いていく。トランプはだんだん少なくなっていく。二人は笑いあう。そしてまた、トランプを床に並べていく。何回も何回も、それを繰り返す。

 ………。

「またわたしの勝ちー」

「またうちの負けかいっ。はぁ……あんた、こういうのほんまに強いな。何度やってもかなわへん」

「うん。わたし、トランプだけは得意だから。ずっと前から、ひとりでトランプしてたから」

 晴子の顔に、少しだけ悲しそうな靄がかかる。

「そうか……。観鈴ちんはほんまにトランプが好きやなぁ」

 観鈴の頭を撫でながら言う。

「なんかね、手を動かしていると安心できるの。誰かがそばにいてくれるような気がする」

「そんなこと言わんでも、今はうちがおるやろ」

「そうだね。お母さんがいる」

 診療所の医師、聖は観鈴の足が動かなくなったことの原因を、呪いの影響だと言っていた。昨日家にやってきた遠野美凪という少女も、同じようなことを口にしていた。相手のことを特別だと、大切だと思ったとき、呪いは互いの身体を蝕んでいく、と。

「なあ観鈴。あんた、足はまだ動かせへんの?」

「うん……」

「そか。まあ、焦らんでええ。休んどればきっと治る」

「そうだといいね。手が動かなくなったら、わたし困るな。トランプできなくなるから」

「あほっ。そない景気悪い話、せんでええ」

「怒られちゃった、にはは」

 リリリリリリリリ…と、耳障りな音が鳴る。

 居間におかれた電話を取りに、晴子が席を立つ。観鈴は動くことができなくて、取り残されたようにそこに座っていた。

「お母さん仕事休んでるし、会社の人からかな」

 気になって立ちあがろうとしたけれど、どうしても足は動いてくれなかった。

 

 

「はいはい、神尾やで」

(晴子、僕だ。覚えているだろう)

 電話の音が耳障りと感じた時点で気づけばよかった。虫の知らせで、電話に出ないほうがいいと教えてくれていたのだ。

「なんや、あんたかいな。電話かけてくるなら、自分の名前ぐらい名乗るのが礼儀やで」

 声のトーンを落として言う。こんなやつに声色を使う必要もない。

(あまり元気がないようだけど、どうかしたのか? 体調崩しているとか)

「べつに、そんなことあらへんわ」

(そうか……。まあ、根を詰めて仕事しすぎないように。昔からあなたは無理ばかりしていたからね。ところで話は変わるけど、あなたが観鈴を帰す気がないってことについて、実家で詳しい話を聞かせてもらったよ)

「そうか」

(どうゆう風の吹き回しだい? 最初に預けようとしたときは、あんなに嫌がっていたのに。ひょっとして、観鈴を帰すことができない事情ができたとか)

「…んなことあらへん。あの子は元気やで、へんな勘ぐりすんな。気が向いただけや。家族ってええもんやなぁって、それに気づいただけや。もうええやんか。あの子は、こっちが好きみたいやし、話は全部そっちでつけてきたつもりや」

(いいと言った覚えはない)

「うちはちゃんと、返事もらったつもりや。もう切るで」

(まだ用事を言ってないんだけどな)

「もうこっちには用はあらへん」

(観鈴を連れ帰りに、あなたの住んでいる町まできているんだ)

 がちゃんと勢いよく電話を降ろそうとして、すんでのところでそれを止めた。

「待ってやっ。今、どこにおるんや……」

(紙パックの自動販売機が前に置かれた店だ)

「はぁ? どこのや」

(堤防がすぐそこに見える雑貨屋、看板には武田商店とある)

「あほぅ、すぐそこやんかっ。こんなときに何しにきたんやっ」

(こんなとき? そういえば、キミがこんな時間に家にいるのもおかしいな。やっぱりなにか隠しているんじゃないのか)

「…べつに、なんも隠してへん。ただ忙しいだけや。今はなんや……あの子がちょっと風邪こじらせとるから、休んでるだけや」

(風邪? 観鈴ももう高校生だろう、それなのにあなたがつきっきりってことは、そんなにひどいのか? 僕も行ったほうが……)

「あほぅ、大したことないわ。こんでええっ。あんたに出す茶なんかないわ」

(とにかく、いまから行くから。いいね)

 電話越しの声は、それきり聞こえなくなる。受話器を下ろすと、がちゃん、と無機質な音が一度だけ鳴る。

「なにしにきくさったんや、あのアホは……」

 観鈴の部屋に目を向ける。多少気がかりには感じたが、いまは電話の相手に会いに行くほうが重要だろう。それになにより、観鈴をあの男と会わせたくはなかった。

 玄関を開け、ずっと歩いていく。しばらく行くと、武田商店という看板が目に入る。その下に、一人の男が立っていた。

 橘敬介。観鈴の父親。

「はあ、おはよーさん」

 適当に腕をふって挨拶をかわす。

「やぁ、元気かい」

「ああ、元気やで。元気ぶりぶりや」

「はは、相変わらずおもしろい人だね」

「そらなぁ……あの姉貴に比べたら、うちはヘンなところ多いからな。あんたには面白いやろ」

「別に悪く言っているわけじゃない」

「馬鹿にされてるようにしか聞こえへんわ。で、いつ帰ってきたんや」

「最近はちょくちょく戻ってきてるよ」

「そうかー。忙しいんやろ? またすぐに出ていくんかいな」

「それはわからない。観鈴も意識を取り戻したとはいえ、まだ体調はよくないんだろう。それ次第だな」

「…知っとったんか」

「観鈴を診療所に連れて行ったのは僕だからね。ただ、そのことをあなたには言わないように院長さんに頼んでおいたんだ。僕がきていることを知れば、観鈴を連れて遠くの町に引っ越す。あなたならそれくらいやりかねないだろ」

「はぁ……女医さんか。あのヒト人が良すぎるで、まったく。教えてくれりゃ面どいことになる前に退散できたのに」

「まったくあなたは」

「ま、ええわ。用があるならこの場でいいや。あんたなんか家にいれとうない」

 はき捨てるように、晴子は言葉をこぼす。

「そんなところも変わってないな。そんなんじゃまだひとりだろ」

「好きでひとりでおんねん。放っといてや」

「なるほど。僕が思っていたほどあなたは現状を悲観していない、ということでいいかな」

「そやな。退屈やけど、このまんまでええわ」

「そうか。それなら……」

 そこで一度、言葉を区切る。

「あの子は連れて戻るようなことになってもいいんだね。安心したよ」

 …いつかは聞かされると思っていた言葉。でも、永遠に聞くことがないようにと、そう願い続けていた言葉。聞き間違いだと、そう思いたかった。

「…ちゃうわ。うちはこのままでええ、言うたんや。観鈴とふたりの生活がええんや」

「あなたは観鈴が意識不明の状態だったにもかかわらず、ずっと家にいなかったそうだね。そんなあなたに観鈴は任せられない」

「知らんかったんや。ほんまに、ほんまに観鈴がそんなことになっとったなんて……」

「晴子、ひとりに戻るのは嫌かい? その気があるんだったら、見合い写真でも作りなよ。家族ができればきっとその寂しさもなくなる。僕でよければ、見合いのセッティングもするよ」

 白々しい口調だ。敬介の恩着せがましい言葉遣いに、

「…なあ、うちは便利なやつか」

晴子は思わず、溜めていた不平を口から漏らす。

「どういう意味だい?」

「邪魔なうちは預けておけて、思い出したら引き取りにこれる。そんな便利な家なんか。神尾の家は」

「誤解しないでくれ。その点に関しては、感謝してる」

「感謝してて、今までほったらかしかいな」

「いろいろあったんだ」

「ぜんぶ、自分の都合やないか」

「本当に感謝してるんだよ、晴子。でもね、あの子は僕の子なんだ。僕と郁子の」

 いがみ合いのなかで生まれた子供。観鈴が生まれて、二人は駆け落ち同然に家を飛び出して、そのしわ寄せをうちにぶつけて、自分はずっと姿をくらましていて、いまさらになって、観鈴を返してくれと言い寄ってきて……。

「そもそも……」

 晴子のなかで、なにかがはじける。

「そもそも自分らが子供なんか作ったのが、最初から間違ってたんやっ! 自分で育てることもできへんくせに……」

「…そのことに関しては、返す言葉がないよ。だけど、それでも僕は観鈴の父親なんだ。あの子の面倒を見る責任が、義務がある」

「責任を理由に観鈴を引き取る気なら、そんなん捨ててまえ。愛情のない家庭に育てられたら、あの子がかわいそうやないか」

「違うっ。僕は本当に観鈴のことを……」

「ほなら、なんで今までずっと放っておいたっ! あの子が小さい頃、なんどあんたや姉貴のことを呼んでたと思ってんねん。観鈴のこと思ってたんなら、なんでっ!」

 思いの限りを、不平の限りを言葉にして敬介にぶつける。敬介はずっと黙り込んでいた。晴子がありったけの不平をぶちまけて、おおよそ言いたいことを言い切ったであろう後、敬介は、冷め切った口調で言う。

「…およそ三億」

「はぁ? なんやそれ」

「郁子が死んで、あなたに観鈴を預けていた当時僕が抱えていた借金の額さ。会社がつぶれて、莫大な借金だけが僕に残された。僕の勤めていた会社は裏金や偽装工作、色々腹黒いことをやっていて、僕はそれを知っていたのに、見てみぬふりを……黙認をしていたからね。自業自得ってところさ。文字通り、僕はこの十年泥水をすすって生きてきた。観鈴には幸せになって欲しかったから、僕のような生活をさせたくはなかった。あなたに預けるしかなかったんだ。借金を返して自分の罪を償いきったとき、僕は始めて観鈴に会うことができる。そう自分の中で誓いを立てて、そうすることで、どうにかこの十年を乗り切ることができた」

「…そんなんしらん。あんたの事情なんて関係あらへん。観鈴はうちの子、神尾の子なんや。そのことは承諾を得たやろう」

「それはあなたが勝手に決めただけだ。留守のあいだに実家に押しかけて、僕の親に無理やり承諾を得て帰った」

「無理矢理やない……」

「家の前で一週間以上も居座られて、そのままじゃあなたが倒れると思ったから、その場しのぎで親が承諾したんだ。それは僕の承諾じゃない。だから改めて話を聞くために、こうして出向いてきたんじゃないか」

「話なんかない。ほならな。今日はこれで終まいや」

 

 

 遠回りをしてきたのに……何度も道を間違えて、それでも前に進もうと必死で、ようやくここまで来ることができたのに、ここから、観鈴との時間を取り戻していくことができると、そう思っていたのに……。

「お母さん、元気ないね」

「うちかて、ブルーになることあるわ」

 部屋に戻ってきたきり、晴子はずっと黙り込んでいた。

「わたしのせい? だったらごめんね……」

「ちゃうわ、あほ。観鈴があやまることなんてこれっぽっちもあらへん」

 そう、観鈴が謝ることなんて何もない。本来なら謝るのは自分のほうだ。自分のわがままに、観鈴を巻き込んでしまっている。

「あのな観鈴、橘の家に帰りたいか?」

「ううん、ここにいるよ。ずっと」

「でもな……あっちが観鈴のほんまの家や。ほんまの家族があって、ほんまの暮らしがある。それでも、こっちを選ぶ言うんか?」

「わたしの本当の家はここ。一番、自分がいて幸せな場所。そこがわたしの家。血が繋がってるかどうかなんて関係ない。わたしが一番いたい、この場所。ここがわたしの家。そして、ずっとそばにいてくれる人が家族。そうだと思う」

「そうか……」

 観鈴自身、ここにいることが一番の幸せなのだと、そう声に出していうことができるなら……。

「頑張って、取り戻そな。…二人の時間」

 




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