Air 第三幕 ここから…
バスが停留場につくと、むわっとした廃棄とともに、クーラーの涼しげな風が車内から外へと漏れだしていく。大きな手荷物を抱えたまま、ダークグレーのシャツを着込んだ女性がバスからアスファルトの硬い地面へと降りる。真っ白なウールハットをかぶっていて顔はよく見えないが、手荷物を提げて地面に降りる様子がどうにも不恰好で、旅慣れていない印象を見ている側に与えさせる。身体も成人女性にしては小柄で、その見た目から、女性がまだ二十歳にも満たない少女であろうことは明らかだった。ウールハットの後ろからすらりと伸びた黒曜の髪が、きらりと陽を照り返す。左手でつばを掴み少しうえに持ち上げると、少女の顔を被っていた帽子の影が消え、吸い込まれそうなほどに深い黒の色をした少女の瞳が、煌びやかに光を反射する。
「帰ってきてしまいました」
バスの閉まる音がセミたちの合唱を押し潰すように響いて、やがて、赤い巨体がふたたび走り出していく。バスが遠ざかっていくと、セミたちは待っていたといわんばかりにさらに声を大きく響かせはじめる。そのあまりの声の大きさに驚いて、少女は反射的に右手で片方の耳を押さえる。地平線の向こうまで延々と、灰色の地面が続いているように思えた。
神尾さんに会って、どうしようか…。
バスの中でずっと考えていたけれど、結局何も決まらぬまま、バスを降りてしまった。ふだんなら長い道のりに嫌気がさすところだけど、考えの決まっていない今は、逆にこの長さがありがたいものに思えた。
少女、遠野美凪は生まれ故郷の町に向け足を速めていく。町が近づき、赤い色をしたトタンの屋根が幾つも見え始めても、いまだ具体的な考えは、何も思いつかずじまい。
とりあえず、一度神尾さんの家を訪ねることにしよう。あれから結構日にちも経っているし、神尾さんもそろそろ旅行から帰っているころだろう。
自宅に戻り旅行鞄を縁側に立てかけると、美凪はその足で観鈴の家に向かった。石造りの塀の上に老猫が眠っていて、ぐうぐうと気持ちよさそうに寝息をあげていた。その横を通り過ぎ、木造の一軒家の横に差し掛かると、美凪はそこで足を止める。
そこが、観鈴の家だった。
「…ふぅ……」
肺に溜まっていたもやもやとした感情の塊を空気とともに一気に吐き出して、ごくりと唾を飲みこむ。少しだけ視線を下に傾けると、神尾さんに会うことに緊張を感じているのか、手のひらに少しだけ汗がたまっていた。ズボンでそれをぬぐい、覚悟を決め呼び鈴を鳴らす。
「はいはい」
玄関の戸ががらっと音を立てて開き、女性が姿を表す。神尾さんのお母さんだ。真っ白なタオルケットを片手に持っている。
「あんた、観鈴の友達か? お見舞いにきてくれたんか。悪いなぁ」
お見舞いというのがどういう意味かよくわからなかったけど、ひとまず頷いて見せる。すると神尾さんのお母さんは縁側に視線を向けて、ばつが悪そうにぽりぽりと頬をかく。
「お母さん、どうしたの?」
テーブルクロスを首に巻いて、女の子が縁側から顔を覗かせる。私に気づくと一瞬、驚いたように瞳を大きくひらいて見せた。
「遠野さん……」
頭のなかが空っぽになった。かけるべき言葉が見つからないときは、せめて一言ごめんなさいと、自分やみちるが傷つけられるのを恐れて、神尾さんをずっと避けようとしていたことにごめんなさいと、そう謝ろうと決めていたはずなのに……それなのに、そんな言葉すら忘れてしまったように、口が動いてくれなかった。
神尾さんと目が合う。そして……。
「ただいま」
私に微笑んで、神尾さんは一言そう言ってくれた。どうしてただいまなのか、その意味はわからなかったけれど、それだけで十分だった。
『星はね、人の心を綺麗にしてくれるんだよ。汚れた心を星が綺麗にしてくれるんだよ』
幼いころに、父が私に教えてくれた言葉、不意に、それが頭のなかに浮かび上がってきた。
「おかえり……」
自分のなかにあふれていた思い。たくさんの不安や迷い。それらが、音も立てず消えていく。
私にとって、神尾さんは星なんだ。いま、それがわかった。
汚れた心を、星が綺麗にしてくれる。私の心を、綺麗にしてくれる。
「遠野さんやったっけ? せっかく来てくれたのに悪いんやけど、いまはなぁ」
晴子の右手にはハサミが握られていた。美凪が縁側に目を向けてみると、ビニールシートの上に椅子が置かれていることに気づく。ビニールにはわずかだが髪の毛が散らばっていた。ふと、美凪は観鈴の方へと振り向いてみせる。左右で不釣合いな髪の長さ。霧吹きで湿った髪の毛。なるほど、散髪の途中だったわけだ。少し考えて、
「もしそちらがよろしければ、髪を切り終わるまで待たしてもらってもよろしいでしょうか」
そう問いただしてみる。
「まあうちは構わんけど。観鈴、どないするんや?」
「うーん……話し相手になってくれるならいいよ。ちょっと恥ずかしいけど」
縁側に移動すると、観鈴は椅子に座りなおす。テーブルクロスを観鈴の肩にふわっとかけなおして、首元をタオルでしばる。服に髪の毛がつかないようにすると、
「大人しくしてるんやで」
そう言って晴子は長い髪に少しずつはさみを入れていく。はさみのこすれる音がするたび、髪の毛が少しずつビニールシートに落ちていく。
美凪は横でそれを見ていた。じっと見つめていると、観鈴の膝の上あたりに、緑色をした恐竜のぬいぐるみがあるのに気づいた。
「それは…?」
美凪が指差すと、観鈴は少し恥ずかしそうに頬を赤らませて言った。
「じっとしてるの苦手で、昔からぬいぐるみが手元にないと駄目なの。恐竜のぬいぐるみ。これを見てるといろんな話が思いつくから。すごく昔の、すごく長いお話。そして、ちょっとだけ悲しいお話。今はもうどこにもいない生き物たちの……」
………。
いつの間にか、観鈴は眠っていた。
「寝てしもうた。ま、そのほうが動かんでええけどな。しかし遠野さんに話し相手になって欲しいって言っておいて、速攻でこれかい」
あきれたような声を上げて、晴子は髪の毛にはさみを入れていく。
「あの……」
「うん、なんや?」
「…神尾さん、足をどうかしたのですか? ここに来るときにも片足を引きずっているような様子でしたし」
そのことか、とでも言いたげに晴子ははさみを止める。
「おとついくらいやったかな、観鈴の足は動かんようになった。なんでか知らんけど、急に足の指先一つ動かへんようになってまったんや。観鈴が言うには、空にいるもう一人の自分に呪いがかけられていて、そのせいで自分も動けなくなってまったそうや。まっ、突拍子もない話やし、信じろとは言わへんけどな」
どくん、と動向が激しくなるのが自分でも感じ取れた。もう一人の自分。空に囚われた……もう一人の自分。
ぱさり。
また、観鈴の髪の毛を切る音がひびき始める。
「呪い……神尾さんは呪いと、たしかにそう言ったのですか?」
「信じられんってか。まあ無理もないわ。ほんまのこと言えば、うちだって半信半疑や。それでも、現実に観鈴の足が動かへん以上、信じるしかないんや」
美凪は聞かされていた。小百合や和樹から、翼人という存在と、その呪いについて。手や足が動かなくなり、あるはずのない痛みを感じるようになっていくことを。そして全てを、なにもかもを忘れていくことも……。
「神尾さんにかけられた呪い、それはたぶん……翼人という人たちにかけられたものと同じものです」
自然に、口元から言葉が零れ落ちた。
「翼人? なんやそれ。いや……それより遠野さん、あんたなにか知っとんのか。観鈴のこの症状について。知っとるならなんでもええ、うちに教えてくれへんかっ!」
「…私もそれほど詳しくは知りません。ですがずっと昔、翼を持つ人、翼人と呼ばれる人たちがいて、その人たちに呪いがかけられていたそうです。その呪いを解き、空に囚われているという女の子を助け出す。私の母方の家系はそれを生業にしてきたと、そう聞いています」
「空に囚われた……どういう意味や、それっ」
観鈴は言っていた。空にもうひとりのわたしがいる、と。呆れるほど、言い続けていた。
「空に囚われたという言葉の意味はわかりません。ですが神尾さんにかけられた呪いは、他人と呪いを受けた人とを離ればなれにさせるためのものです」
「うちが観鈴と一緒におれば、呪いでうちが倒れる。そういうことか」
美凪がうなずくと、晴子は小さくため息を吐く。そして、空を仰ぐ。
「ええんや、うちは」
一瞬、なにを言っているのかよくわからなかった。
「翼人の呪いかなにか知らんけど、そんなもんのために観鈴とすれ違いの関係を続けるのは、そんなんもう嫌なんや」
美凪に目を向ける。
「うちと観鈴は本当の親子やない。遠野さん、あんたもそれは知っとるやろ。十年前の夏祭りの日、今でも覚えとる。周りはみんな浴衣着とったのに、あの子だけ、いつもの服で……ひよこ売ってる前に座って、じっとそれを見つめとったわ。あの子な、ヒヨコ育てたら恐竜になると思っとてん。ヒヨコの親はニワトリや、恐竜なんかにならへんのに。うちかて買うたろかと思たんや。けどな、縁日のヒヨコなんか買うても、無事に育つわけあらへんやんか。うち、あの子の手をひっぱって、家に連れてこうとした。そしたらな……」
晴子の瞳に、暗い影の気配が漂っていく。
「人に迷惑かけたらあかんって、それだけ教え込まれたような子やねん。普通やったら、あれ買うてこれ買うてってぴーぴー泣きわめく年頃やで。そんな子がな、うちのことじっと見て言うねん。これほしいなって。ごっつ控えめに、すまなそうに言うねん。観鈴はな、望まれて生まれてきた子やない。結婚もしてないふたりが、いろんないがみ合いの中で生んでしもた子なんや。駆け落ち同然で……最初からうまくいくはずなかったんや。その男と娘を残して、姉貴は死んでもうた。残された男は、自分の娘をひとに押しつけた。それが、この町でひとり気楽に暮らしてたうちや。ほんま色々あったで。苦労だらけやった。うちかてちゃらんぽらんな女やからな。まともな子育てなんてできるわけあらへん。明日にもあの男が戻ってきて、この子を連れて帰ってくれる。そう信じて、どうにか暮らしとったわ。でもな、あの子と長い時間過ごすようになって、あわてん坊でよくドジするし。でもそんなんすぐ忘れて、いつも笑とる。それ見とったら、こっちまで笑えてきて……ほんまおかしな子やった。可愛いて、そう思うようになってた」
もう一度、ため息を漏らす。
「でもな、それでもうちはあの子の親やあらへんのや。あの男が連れて帰る日がくんねん。それは明日からかもしれへん。今日かもしれへん。そうしたら、うちは嫌でもひとりの生活に戻ってまう。そんときにできるだけ、惨めにならへんよう、うちはうちの生き方を守ることしかできへんかった。ずっとうちと観鈴はすれ違いに生きてきた。そうするしかなかったんや。でもな、この十年間をほんまの親子のように過ごしてきてたら……」
そこまで言って、晴子ははっとしたように言葉をにごらせる。
「はは、なんや辛気くさい話してまったな。なんでもない、忘れたってや。あんま話とったら観鈴が起きてまうな。この子起きるとちょろちょろ動いてまうから、眠っとるうちに終わらせんと。さくさく〜っと」
ざく。
「あっ」
「わっ……えらい切ってもうた」
「ど、どうするんです……」
「うーん……これに合わせなしゃあないやろ」
ざくざくざく……。
「やば、今度は反対側が短くなってしもた」
ざくざく……じょきじょきじょき……。
「これで左右の釣りあいはとれたんちゃうかな」
「というか、全体がずいぶん短くなってますが……」
腰の辺りまで伸びていた長い髪は、ぎりぎり肩に届くか届かないかの距離まで短く切られている。
眠っていた観鈴のまぶたが揺れ動き、目を覚ます。
「ん……わたし眠っちゃってたのかな……。あ、終わった?」
「あ、ああ。終わったで。ていうか、終わってしまった、というべきか……」
「鏡見せてー」
「か、鏡か? せやな、…後で見せたるわ」
「後って、いつ?」
「半年後」
「わ、どうして……今すぐみたい」
観鈴の言葉に、晴子は思わず押し黙る。美凪が不安そうにそれを見つめる。
「…しゃあない。わかったわ。でもうちを恨みなや。切れ味の良すぎたハサミを恨みや」
鏡を手渡す。観鈴がそれを覗きこむ。
「わっ……」
幼い子供のような短い髪。
「あははー、ごめんやで」
観鈴は驚いた表情を見せた。けれど、その表情は一瞬で。
「でも、いいかもしれない。なんか小さな子供に戻った気分。お母さんの子供」
鏡を下に降ろし、嬉しそうに笑って見せた。それに釣られるようにして、晴子も口元を緩め、照れくさそうな表情に変わる。
「…せやな。ここからやり直そな」
「また今日からがんばる、わたし。ここからスタートだね」
その日の夜。美凪が家に帰り、二人は居間で星空を眺めていた。
星の光。全てを照らしつくすような、優しい光。
「…なあ。あんた、昼間髪の毛を切ってたとき寝てたやろ。ひょっとして、あんときも夢見てたんか?」
晴子が言って、観鈴がそれにうなずく。
「あんたの見てる夢ってな、どんな感じなん?」
「言えない」
考えるそぶりも見せず、観鈴はそう即答した。
「なんや、観鈴ちんのイケズ〜。本当はごっつエッチな夢見とるんやろ?」
「教えない」
「…なあ。ヒントだけでも教えてや」
いつの間にか晴子の表情は、さきほどまでのふざけた感じから、真面目なものへと変化していた。
「うちも今朝、夢見たんや。子供のころのあんたと、一日中遊ぶ夢や。いい夢すぎて、起きた後もしばらくぼーっとしとったぐらいや。でもな、あんたと同じ夢を見ることはできへんやんか。うちな、不安でたまらん。あんただけが悲しい思いをしとるやなんて、自分で許せへん」
「うーん……悲しい夢とは限らないよ。怖い夢も見たし、寂しい夢も見た。不思議な夢、気持ちいい夢、楽しい夢もあったよ」
「ほな、毎日悪夢を見とるわけやないんやな。ちょっと安心したわ」
「うん……」
「なんや、歯切れ悪いなあ。ほな、こうしよ。あんたは当たりかハズレか言うだけでええ。それやったらええやろ。夢にはあんたしか出てこぉへんの?」
「ううん」
「ほな、誰かと一緒におるん?」
「ううん。言えない。やっぱり何も言えない」
「なあ……ほんまにちょっとだけでええから、教えてや。今日見た夢でなくても、ほんまにちょびっとだけでもええから」
「うーん……」
観鈴はずっと考えていた。とても長い時間。そして、小さな声で言った。
「例えばお祭りの夢。みんなで囲んで、すごく楽しそうで」
「なんやそれ、全然悲しないやん」
「でもわたし、遠くから見てただけ」
「かぁ〜っ。あんたって子は、せっかくのお祭りなんやで、金魚すくったり踊ったり、タコ焼き食ったりせなあかんやろが」
「にはは、前にも同じようなこと言われた気がする」
「うん? うちはそんな覚えないで」
「うん。だからね、空にいるわたしの中の誰かも、そうやって励まされたんだろうなって、ちょっとだけそう思うの」
それだけ言って、観鈴は声を止める。小さく息を吸い、それを吐く。
「夏祭り、もうすぐだね」
「あ……せやな。夏祭り近いやんか。忘れてたわ」
「うん、来週の日曜。お母さんと一緒に行きたいな」
「そうや……やっといけるんやな、あんたと。よっしゃ、絶対連れてったる。なにがあっても二人で夏祭りにいく。それで……そこでなんでも欲しいもん、買うたるわ」
失った十年間。それはもう戻らない。でももう一度やり直すことができるなら、観鈴が神尾の家に連れてこられた、あの頃に戻ることができるのなら……。
もう一度、今度は本当の親子のように……。