Air 第二幕 親子

 

 武田商店の前で倒れた観鈴を晴子は背中に背負い、診療所へと連れ帰ってきた。病室のベッドに観鈴を寝かし額に手を触れてみると、観鈴の熱は嘘のように、まるで最初から何事もなかったかのように下がっていた。観鈴が倒れた原因は単なる日射病で、気が動転していたからへんな病気と勘違いしたのだろう。晴子はそう自分を納得させると、聖にずっと家を空けていた理由を説明した。

「なるほど……観鈴ちゃんが自分の元から離れるよう自ら頼んで、あなたは言われた通り家を出た。たしかに癇癪の明確な対処法が見つからない以上、それもやむなし……と言った感じですね」

「けど今思うと、馬鹿なことやったと自分でも思うわ。観鈴が二週間以上も意識不明になっとったゆうのに、うちはそんなこと、何一つ知らへんかった」

「それで観鈴ちゃん、きみは足が動かなくなったと言っていたが、前にも同じ症状があったんだな」

「…はい。往人さんが家にいたころにも動かなくなって、でも今朝は全然そんなことなかったんです。手も足も、普通に動かすことができてたのに……それが突然、思い出したようにまた動かなくなっちゃって……」

 ベッドに横になったまま観鈴は、ふたたび動かなくなった足に目を向ける。

「ちょっと失礼」

 聖は観鈴の膝の羽毛布団をはぐと、右足のつけ根に指で触れて、もう片方の手でそれを強く押さえこむ。それに対し観鈴がなんの反応も見せないでいると、今度は軽く膝を叩く。

「叩かれているという実感はあるか?」

「はい」

 観鈴が答えると、聖は神妙そうに顔を曇らす。

「ふむ……では、これは?」

「痛いですっ」

 観鈴の声を聞くと、聖はつねっていた指を離す。

「どうなんや、先生」

「…痛覚があるということは、感覚神経は麻痺していません。おそらくは脳、もしくは脊髄あたりに問題があるのかと」

「問題?」

「手足が動くのは脳から指令を受け、神経がそれを各部に伝えているからですよね。ですから何らかの要因によって、脳と神経とのあいだに隔たりが生じている。確証はありませんが、おそらくそんなところでしょう」

「夢……」

「うん?」

 つぶやきに近いような、そんな些細な声で、観鈴が声を漏らした。

「わたし、夢を見ているの。空の夢。もうひとりのわたしがこの空にいて、ひとりでなにかを背負い続けてるから、そのせいだと思う。身体が動かなくなったのも、病気のせいじゃない。もうひとりのわたしに、そうなる理由があったから。だからその影響で、わたしの身体も動かなくなった」

「なにを……観鈴、あんた……なにを言っとんのや……」

「わたしはずっと夢を見てた。空のわたし、ずっとずっと昔に生きていた、もう一人のわたし。その人の想いや願いを、わたしはその人の旅路を通して知っていった。少しずつ、理解していった。だからわたしはその人を助けたいの。その人にかけられた呪いを、解いてあげたいから」

 観鈴はずっと夢を見てきた。そして知った。翼人という一族にかけられた法の呪縛。人と接することさえ、人と関わることさえ許されない、悲しみを連鎖させていく呪い。

国崎往人は神奈備命を空より解き放った。輪廻の輪から外れていたはずの神奈の魂は、輪廻に還った。だがそれは、翼人にかけられた呪いをその身に宿したまま、神尾観鈴という器へと向かうことを意味していて……そして。

「なんでや? あんた、自分の足動かなくなっとることわかっとるやろ。空とかなんとかわけわからんことより、それより自分の身体を治すことのほうが、そのほうが大切やんか。なんでや……」

 神奈備命の魂は輪廻の輪から外れていた。とはいえ、神尾観鈴は神奈備命の輪廻転生した存在なのだから、少なからず神奈備命の影響は残っていたのだろう。たとえば、手や足が痺れたり動かなくなったりするような……。

「だって、悲しいのは嫌だよ。泣いてばっかりいるのは、辛いことだから。その人はずっと、悲しい夢を見続けているから……」

 みちるや結希は翼人、神奈備命の羽根の化身だった。だから彼女らも、少なからず神奈備命にかけられていた呪いの影響を受けていた。

「ようわからん……わからんけどな、あんたがそうしたいんやったら、うちも協力する。ほな、あんたは自分のことを頑張ったらええ。うちは観鈴を元気にすること頑張るから。そうやってふたりで頑張っていったら、きっとなにもかもうまくいくわ」

 呪いの余波でさえ、観鈴の足はしだいに動かなくなっていったのだ。ならば、呪いそのものをその身に宿してしまえば……。

 観鈴の足が動かなくなったのは、いわば必然だった。

「先生。急やけどこの子、退院させてもらえへんやろか。うち、この子のそばにいてあげたいんや」

「退院? いや、それはいくらなんでも早すぎる。今朝意識が戻ったばかりなんだぞ」

「ほな、うちを診療所に泊まらせてくれればええ!」

「いや……うちは元々入院患者を養えるような設備はないし、観鈴ちゃんのことは特例的にやっていただけだからな。急にそんなことを言われても……準備やらなにやらで……」

「食事とか着替えは全部うちが自前で用意する。先生のほうには、一切負担をかけんつもりや。たのむ、うち、観鈴のそばにいてあげたいんや」

「お母さん、いいよ」

 身体を少し斜めに傾け左手を軸にすると、観鈴はゆっくりと上体を起こす。

「わたしを家族にしようとしてくれた。わたしのことを、大事に思ってくれた。それだけで嬉しい。涙出るぐらい嬉しい。それだけで十分だから。だからね、今までどおり、お互い構わずに暮らしていこ」

「なんやて……?」

「わたしはこのまま残る。お母さんは家に帰る。ふたり別々に生きていこ。わたしは一人でがんばる。足のことも空のわたしのことも、一人で大丈夫だから」

「…なんでや? あんたおかしなこと言うてるで。なんで頑張らなあかんのにひとりなんや? ひとりより、ふたりや。ふたりで頑張っていこ」

「わたし、お母さんと一緒にいたい。でも一緒にいて、大切な人になっちゃったら……今度はお母さんを」

 観鈴は見てきた。八尾比丘尼に想われた蓮鹿が倒れるのを、神奈備命に想われた柳也が倒れるのを。結希に想われた湖葉が倒れるのを……。

「わたしのせいで、お母さんを苦しめたくないから、だから……」

「うちはどうなってもええ。あんたと家族でいられたら、それでええんや」

「いやだ……お母さんまでなくしちゃうのもいやだっ」

「もしな、うちが苦しむようなことになったら、うちは嬉しいで。そのときうちは、あんたの一番近くにおる人になれた、いうことやろ? そうなってみたいわ。せやから一緒に頑張ろ、な」

「………」

 観鈴は答えなかった。答えるべき言葉がなかった。その場限りの、この場を取り繕うだけの嘘なんてつきたくはなかったから、だから、観鈴は何も答えることができなかった。

「一緒に頑張らせてや」

 もう一度、晴子が言う。ようやくに観鈴が口を開く。

「…ダメだよ。お母さんはもうわたしになんて構ったらダメ。お母さんは自分のことがんばるの。わたしも自分のこと、がんばるから」

 結局、それまでだった。観鈴は病室に残り、晴子は玄関先のソファーに身体をもたれ掛けさせながら、頭上に広がる蛍光灯の灯りを目で追っていた。外から聞こえてくる子供たちの笑い声。なぜだかその声が耳に届くたび、たまらない想いがこみ上げてきた。どこにぶつけるべきかわからない、怒りとも寂しさとも、哀愁ともとれる感情の塊。そんな感情が身体の内側から沸きあがってきて、晴子は声を失ったまま、ぼんやりと頭上を仰ぎ続けていた……。

 

 

 診療所、病室。

「そっとしておいて欲しい」

 聖にそれだけ告げると、窓のずっと向こう、さわさわとした風の吹きぬける真っ青な大空を、なにかを捜し求めるように観鈴は目で追っていた。巨大な入道雲が、空全体を被っている。

「ねぇ、往人さん。あのとき……わたしがもう駄目だって思ったあのとき、往人さん帰ってきてくれたんだよね。帰ってきて、人形芸を見せてくれたんだよね。あれは、夢じゃなかったんだよね。わたしには詳しいことはわからないけれど、往人さんが頑張ってくれたから、わたしはもう一度、起き上がることができたんだよね」

 ここではないどこか、ここにはいない誰かに向けて、観鈴は言葉を紡いでいく。目覚めた当時あれは夢だと思っていた。でも、やっぱりあれは本当のことだったような……観鈴には、そう思えてならなかった。

「ねぇ、今度はどうしたらいいと思う? わたし、ひとりでがんばろうって決めたのに……わたしはお母さんと一緒にいたいよ。でもそうしたら、今度はお母さんまでなくしちゃうのかなって……」

 靄がかかる。観鈴の顔に、深い靄がかかる。

「本当は、もうひとりでジュース飲みたくないよ。お母さんと一緒に、ふたりで飲みたいよ。トランプも、もうひとりでしたくないよ。お母さんと一緒にしたいよ。ずっと小さいときからそうしたかったように、ふたりで生きたいよ。でもダメだよね。我慢して、お母さんのこと好きにならないようにしないと、ダメだよね」

 不意に、声が震える。

「…でもあんなふうに言われたら、わたしダメだよ。一緒にいたいよ」

 病室のドア越しに、聖は立ち尽くしていた。盗み聞きするつもりはなかったのだが、廊下を歩いていたときにたまたま観鈴の声が聞こえてきて、それでつい聞き耳を立ててしまった。診察室に戻ると、晴子が浮かない顔をして、聖に視線を送ってくる。

「なあ先生。うちは観鈴のそばにいてやりたい。できるなら、観鈴とふたり神尾の家で暮らしていきたい。あの子の足が動かへんことはわかっとる。だからうちがあの子の足になる。それは、うちの単なるわがままなのかもしれへん。それでも、うちは観鈴と一緒にいたいんや」

 聖は直感した。二人の想いは同じだ。お互いに、ともに暮らすことを求めている。本心では、互いがそれを求め合っている。だからこそ、言うべきだと思った。

「神尾さんの症状、正直あれは現代医学の常識を超えています。このまま病院に残ったとしても、おそらく体調が回復することはないでしょう。観鈴ちゃんは、彼女は、本心ではあなたと一緒にいたいと、そう願っています。けれど、彼女はそうすることを恐れている。晴子さん、わたしの言うことすべてを信じろとは言いません。ですが、どうか心の片隅にとどめておいてほしい」

 そう前置きして、聖はゆっくりと話し始めた。

「彼女が起こす癇癪、あれは一種の防衛本能です。呪いがお互いに降りかからないように、幼いころから彼女が無意識に行ってきた防衛本能」

「呪い……そういや、観鈴もそんなことゆっとったな、なんや、その呪いって」

「わたしも知人から聞いただけなので詳しい話はわからないのですが、観鈴さんはなにか複雑な要因で、呪いをその身にかけられているそうです。相手のことを特別な人と、とても大切な人と思ったそのとき、お互いの仲を引き裂くために、呪いが姿をあらわす。そして、互いの命を蝕んでいく」

「なんやよ……それ」

「詳しいことはわたしにも分かりません。ですが、あなたの想いが強ければ強いほど呪いはより強固なものに……」

「ふざけるなやっ! そんなら、何もできんってことかっ。あの子が心細い思いをしていても、苦しんでいても、見てみぬふりをしろ言うんか! うちはそんなん嫌や。そんな話信じん」

 そう言って、晴子は立ち上がり診療所の奥へと向かっていく。

「どちらへ?」

「そろそろ昼やろ。雑炊でも作って食べさせてやるんや。言ったやろ、うちは観鈴を元気にするために頑張るって」

 

 

 土鍋の蓋をあけると、もわっと湯気があがった。

「熱いからな。気ぃつけてたべや」

観鈴の身体を起こしてあげると、晴子は椀に雑炊を入れて、さじと一緒にそれを観鈴の前へと差し出す。さじを受け取ってひとすくいすると、観鈴はそれを口に運ぶ。

「どや、おいしいやろ?」

 口を数回もごもごと動かす。

「…おいしくない」

 そう言って、椀を置いた。

「お母さんのご飯、いつもおいしくない。だから、もう作ってくれなくていいよ」

「なんでや? おいしくなくても、子供は親のご飯を食べて育つもんやで」

 観鈴の瞳から水が流れる。頬を伝い、布団をぬらす。

「泣いてるやないか。ほら、涙拭き」

 丸く透明な小さな水の粒のたまった観鈴の目じりを、晴子は指先でなでる。

「泣いてたらご飯おいしくないやろ? ちゃうか。うちのご飯がまずいから泣いてるんか……はは、堪忍な」

 晴子が乾いた笑い声をあげたその瞬間、観鈴の瞳からいくつも涙が零れ落ちていく。

「…ごめんなさい。ほんとはおいしいの」

 とどまることを知らず、涙は零れ落ちていく。

「おいしいのに、おいしくないって言わなくちゃいけないの。わたし、お母さんのこと大好きだから、嫌いにならなくちゃいけないの」

 観鈴のその口ぶりで、聖の言っていたことはやはり真実なのだと、そう感じた。互いの仲を引き裂く、命を蝕んでいく呪い、か。

「おかしなこと言う子やなぁ。大好きなものは大好きでええやん。うち、嬉しいで。頑張ってきた甲斐あるわ」

 たとえ互いが苦しむだけの、そんな道しか残されていないとしても。

「な、二人で頑張っていこ。あんたがうちを必要としてくれるんやったら、それ以上に幸せなことなんてあらへん。あんたに嫌われたら、うち死んでるんと一緒や。観鈴、うちを生かしてや。それが短いもんでも構わん。うちの力であんたを幸せにさせてや。それで、うちの人生は輝いとったと思わせてや」

 観鈴はうつむいていた。けれど、その目に悲しみの気配はなかった。

「ほら、冷めんうちに食べよ」

 椀を取り、晴子はもう一度それを観鈴の口元に運ぶ。

「…おいしい」

 そしてまた、観鈴は瞳から涙をこぼす。

「なんや、観鈴ちゃんは泣き虫やなぁ」

「お母さん……」

「なんや?」

「うあぁーーーーーーーんっ…!」

 泣き出して、ただがむしゃらに、観鈴は晴子に抱きついていた。

「わたし、一緒にいたい。お母さんと二人で生きていきたい」

「あほやな。なんで謝まんねん。それが親子やんか」

「でも、苦しくなったら言って」

「うちは苦しくなんてならへん。無神経で、ごうつくばりやからな。空のあんたのことも、あんた自身のことも、みんなうちが助けてやる。そうしたら、ふたりで元気でいられる。ずっと一緒に暮らしていけるで。ほら、もう泣きやみ。それで、うちのご飯食べてや」

 泣きながら、でも今度は嬉しそうに、観鈴はご飯を食べ続けた。晴子はそれを、ずっと横で見守っていた。

 そしてその日の夕方、二人は診療所をあとにした。子供として、親として生きるために。家族になるために……。

 




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