この空の向こうには、翼を持った少女がいる

それは、ずっと昔から

そして、今、この時も

同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている…

Air 第一幕 目覚め

 

 まぶしい…。

暖かな光に頬を撫でられているような感覚。ずっと、長いあいだ感じたことのなかった、懐かしい感覚。

 真っ暗な監獄みたいな場所に、何十年も何百年も、わたしはずっと閉じ込められていた。もちろんそんなに長いあいだ生きられるはずがないのだから、それは単なる思い込み、夢でしかないのだろうけど、夢とは思えないほどに、わたしの見るそれは、現実味にあふれていた。

 今朝。鉛のように重くなっていた身体は嘘のように軽くなっていて、そしてもう夢は見なかった。まぶたが軽い。耳元で女の人の声が聞こえる。聞き覚えのある声。そうだ……この声はたしか……。

 ゆっくりと瞳をひらく。カーテン越しに。朝日が室内に射しこんでくる。

「神尾さんっ!」

 首をかたむけると、診療所の院長さん、霧島聖さんがわたしを驚いたような目で見ていた。

「聖さん……ここは?」

 首をきょろきょろと左右に動かして、自分の周りをじっと見回す。床下から天井まで、全て清潔そうな白に統一された部屋。カーテン越しに射しこむ朝の強い陽射しが、すごくまぶしかった。聖さんの座っているほうとは反対側、わたしの真横にとても大きな機械が置かれている。緑色の点線が左から右に、かくかくと大きな三角形を上下に作りながら流れている。

 そうか……あの日眠っちゃって、そのまま起きなかったんだ。でも、誰が診療所まで連れてきてくれたんだろう?

 そこまで考えて、

「聖さん、わたしをここに連れてきたのって、ひょっとして往人さん! そうだよね? 往人さんだよね。よかった。戻ってきてくれたんだ」

「…いや、国崎君じゃない。私と……いや、私がここまで運んできて、それからずっと看病を続けている」

「えっ……」

 一瞬、頭の中が空っぽになる。

「そうか……そうだよね。往人さん、ここにはもう帰ってこないって、そう言ってたものね」

 あのとき、もう駄目だって思ったあのとき、往人さんがすぐそばにいてくれた気がしたのに、あれは、夢だったのかな?

「………」

 聖さんは一言も言葉を放つことなく、膝のうえに置いた腕を苦々そうに握っていた。

 

 

 朝日だというのに、射しこむ陽射しは蒸し暑さを感じさせる。灼熱と化した太陽の矢が、自分の身体をぐさりと貫いているような……。

 何滴もの生暖かい汗の粒が、つーっと頬をつたい、膝元に置いた腕へと落ちていく。聖はただ、それをじっと耐え続けていた。

 医療というものは、医者と患者と患者の保護者、三者の信頼関係によって成り立つものだと、聖はそう考えている。他人に命を預けるのだ。誰だって、信用できない人に命を預けたくはないだろう。

 だからこそ私には、橘さんとの約束を守る義務がある。

『観鈴がもし意識を取り戻すようなことがあったとしても、僕のことは伏せておいてくれ。僕にはまだ、観鈴の父親を名乗る資格はない』

 十年近く晴子さんに娘のことを預けっぱなしにしていたのだから、という意味なのだろう。その気持ちはわかる。だが観鈴ちゃんのことを思えば、すぐにでも橘さん、父親のことを伝えてあげるべきではないだろうか?

 はっとして、頬を叩く。私情を捨てろ。医者はあくまでも患者を助けるだけだ。他所の家庭の事情に土足で足を踏み入れることなど、あってはならない。

 患者、観鈴ちゃんに目を向けてみると、その瞳は落胆としていた。輝きを失った真っ黒な瞳が、天井の景色だけを鏡のように反射している。

 心中に、激しい後悔の念が漂い始めていく。国崎君が連れてきてくれたと、たとえそれが嘘だとしても、それだけは言ってあげるべきだった。観鈴ちゃんの心を癒すという意味でも、たとえそれが嘘だとしても、そう言ってあげるべきだった……。膝元に置いていた手がぶるぶると震えて、胸の内から行き場のない想いがもうもうと溢れだしているような、そんな気がした。

「十日……?」

 観鈴ちゃんのくぐもった声が聞こえて、一瞬その言葉の意味がわからなくて、視線の先を目で追ってみる。そこにあったのは、海とスイカの描かれたカレンダー。九日までは×印がつけてある。

「そうか……ずっと眠ってたんだ。よかったのに。別に起こしてくれなくても、助けてくれなくても」

「ふざけるなっ!」

 椅子から立ち上がり、思わず聖は吼えていた。

 観鈴の立場はたしかに辛いものがあると思う。十分同情に値するものだと、そう思う。だが、その言葉だけは許すことができなかった。今までの、たくさんの人々の頑張りを無駄にするような、その言葉だけは。

「きみのことをどれだけの人が心配していたと思っている! 助けてくれなくてもよかった? 死にたかったとでも、そうとでも言うつもりかっ」

「だって……」

 観鈴の瞳に、涙が滲む。

「だってみんなわたしの前からいなくなって、晴子さんも往人さんも、みんなわたしの前から姿を消していって……わたし、また一人ぼっちになって」

「一人じゃない。私がいる。私も、佳乃も、遠野さんだってみんなきみのことを思っている。だから、一人じゃない」

 ベッドから顔を覗かせていた観鈴の右手に、聖は自分の右手を重ねる。が、

 ぱんっ。

重ねた指は、観鈴自信によって強く拒絶される。

「聖さん……気持ちは嬉しいんです。でも、お願いです。わたしのことは放っておいてください。往人さんがいなくなって、ものすごく悲しかった。だけど、ちょっとだけ安心もしたんです」

「安心?」

「だって、これでもう誰かに裏切られることはない。傷つけられることも、傷つけることもないから」

「そ――」

 聖は慰めの言葉をかけようとして、すぐにそれを取り止めた。かける意味がないからだ。慰めたとして、「そんなことはない」と、ありきたりな言葉を伝えたとして、それが何になる? 観鈴の言っていることは極論だ。しかし、間違っているわけでもない。癇癪が起きるせいで人と一緒にいることさえ困難になり、自分が癇癪を起こすことを相手が知ってしまった場合、相手がいつ自分の前からいなくなってしまうか、観鈴はそればかりを考え続け、苦悩し続けなければならない。

 一人きりで生きる。ある意味では、それも一つの手ではないのか?

 時計が鳴って、十時を指し示す。神尾さんのことは心配だが、診療所の運営のほうをおろそかにするわけにもいかないだろう。そろそろ表に顔を出さないまずいか……。

「身体、まだ疲れているんだろう。昼頃になったら戻ってくるから、それまでここでじっとしていてくれ」

 そう言い残して腰掛けていた椅子から立ち上がると、聖は病室のドアを開け、真っ白な長い廊下を歩いていく。廊下を抜けて待合室を通りすぎ、診療所の玄関先の電気を点灯させる。ぱぱぱっ、と部屋の中全体が明るくなると、聖は遠くに置いてあった椅子を自分のすぐそばまでたぐり寄せて、どっしりとそれに座りなおす。病室から玄関先に移動してきただけなのに、妙に身体が疲れているように感じる。連日の激務のせいで、身体が悲鳴をあげているのだろうか?

「さて……」

 診療所の運営といっても、日射病の応急手当だったり老人の話し相手だったり、田舎町の医者なんて暇なものだ。雲の行方をおうような、そんなぼんやりとした毎日を送るはずだったのに……。

 カルテをぱらぱらとめくる。観鈴ちゃんが診療所に運び込まれてから、朝と夕方、連日こうして容態の変化を観察していってみているが、どのページも、ほとんど代わりばえしない心電図が描かれ続けている。病名欄は、どこも原因不明という文字で埋め尽くされている。癇癪は精神的な病だから、病気的な症状がでるわけではない。それなのに、なぜ二週間近くも意識不明の状態が続いていたのか……。レントゲン撮影などによる脳の様子は正常だった。なのになぜ、眠り続けていたのか。

 いや……違う。眠っていたことよりも、もっと重要なことがある。なぜいま、彼女は目覚めることができたのか、だ。定期健診の結果でいえば、昨日までと今日で特別違う様子はない。ではなぜ、観鈴ちゃんの意識が回復したのか……。

 考えては見たものの、原因なんて皆目検討もつかなかった。

翼人の呪い。前に小百合さんが言っていた言葉を頭に思い返してみる。仮に呪いというものが存在したとして、観鈴ちゃんが意識不明になっていたのは、それが原因だったとしよう。だとしたら、その呪いが解かれた、もしくは弱まったから、意識が回復し、目覚めることができた。

仮定としてはいささか無理があるようにも感じるが、国崎君の法術の例もある。可能性の一つとして、考える余地はあるか……。

 人が来る気配もないし、少し観鈴ちゃんの様子でもうかがってみようと思い、聖はカルテを机の引き出しに戻すと、椅子から立ち上がり病室のほうへと足を向ける。白く長い廊下を歩いていき、神尾観鈴と書かれた病室の前で立ちどまり、扉を開ける。部屋のなかの光景に、聖は思わず自分の目を疑った。

 真っ白なシーツが一枚、ベッドのうえに無造作に置かれていて、枕が床に転がっている。慌てて部屋中を目で追うが、観鈴の姿は影も形も見当たらなかった。

 窓は開いていて、アイボリー色のカーテンが風に揺られてなびいていた。窓から外をのぞくと、雑草がなにかに押しつぶされたように、ところどころ真横に折れ曲がっている。それで気づいた。

「どうしてっ」

 悲鳴のような声を一度だけ漏らし、聖ははじき出されたように診療所を飛び出していった。まだ朝の陽射しのまぶしい商店街。白衣の女性が一人、光の中へと消えていく。

 

 

 陽が目に痛い。わたしはどれだけ光を浴びていなかったのだろう。どこまでも道が伸びて、その地面に降り注ぐ陽射し。わたしの肌を焼くような蒸し暑ささえ、いまはどこか懐かしく思えて……。

 商店街を抜け出た観鈴は、久方ぶりの学校を眺め、子供たちが水かけ遊びをする砂浜、堤防を見下ろし、ゆっくりと海辺を歩いていく。

 潮の香りが妙に懐かしく感じる。武田商店と書かれた看板を見つけ、その手前の自動販売機で足を止める。

「あっ、どろり濃厚のピーチ味売り切れてる」

 財布を取りだしながら、自動販売機の赤い文字に戸惑った表情をこぼす。

「んー、どうしよう。喉渇いてるし、飲まないのもなぁ……。こっちは普通の味だったし……わっ、新発売見っけ。すごい色してる。でも飲むの」

 覚悟を決め、ボタンを押し込む。

 ぽち。

「あれ?」

 自分の手より先に、後ろから別の手が伸びていた。

「喉渇いとるのあんただけやないんやから、とっとと買いや」

「お母さんっ」

 驚いて、思わず大声になる。

「それで良かったんか」

「う、うん……」

「なんやそれ、けったいなジュースやな。うちも買うわ。一緒に飲も」

「うん……」

 意識を失う数日前、観鈴は晴子に出ていってくれるように頼んだ。そして、晴子は本当に家をでた。それからずっと、電話で会話することすらなかった。

その人がいま、目の前にいる。がしゃんと音がなって、紙パックのジュースが

自動販売機の下から飛び出してくる。

 しばらくふたりは黙っていた。飲み物を飲む音だけが、風の音に混じってあたりに響きわたる。

「どないしたんや?」

「ううん……なんにも」

「そうか。それにしても、のど渇いててもまずい飲み物ってあるんやな。なんかすごい発見した気分やわ」

 別々の道を歩むと、一人一人として、互いに関わらず生きていくと、そう決めたはずなのに……。

「な、観鈴。いつもここで一人で飲んでたんか?」

「うん」

「そうか。一人にして、堪忍やで」

「ううん……」

 元々自分が言い出したことだったから、悲しいなんて思うことはなかった。むしろ一人でいることで、それを気楽に感じていた。

「これからは一緒や。どこにもいかへんからな」

「…えっ?」

 晴子がいった言葉の意味を、観鈴にはすぐに理解することができなかった。なにを言っているのだろう、この人は。そんなことを考えながら、観鈴は晴子のことをじっと見上げる。

「うちな、この十数日ずっと観鈴のために頑張ってきてたんや。観鈴をずっと神尾の家に置いとけるようにな」

 そこで晴子は言葉を区切り、小さく息を吐く。

「あんたは、うちの子やあらへん。いつか橘の家に連れて行かれる。せやから、一緒に住んどっても、あんたに構ったることができへんかった。癇癪のことよりなにより、あんたのこと好きになってしもたら……別れるんがツライやろ。毎日、もうすぐ迎えにくるんちゃうかって思っとった。いつ迎えにきても引き渡せるように、気持ち落ち着けとった。でもな……結局意味なかったわ。うち、あんたのこと好きや。ずっと一緒に暮らしたい思ってしもたんや。そうなったら、毎日が不安やった。向こうはいつあんたをかっさらってゆくかわからへん。あんたの誕生日また祝えへんのかって……プレゼント買って、なのに渡すことができなくて……はは、今年はたしか、霧島さんとこの診療所にプラカード投げ捨てたんやったな。毎年そんなことを繰り返して、それが悔しくて、悲しくて、それで決心したんや。あんたをうちの子にする」

 その瞳には、強い意志が宿っていた。

「そう決めたらいてもたってもいられんようになって、こっちから話をつけにいったったんや。大丈夫。手は出してへん。代わりに橘の家の前で、十日も土下座し続けたったわ。嫌がらせみたいなもんやろ? うちを家にいれんとこしたからな、それでようやく家ん中通してもらったわ。法的には、うちにはどうしようもあらへん。あんたをうちの子供にしたい言うても、向こうが拒否すればそれでしまいや。あんたは連れてかれる。うちには情に訴えるしか方法がなかったんや。観鈴、あんたの癇癪のことはわかっとる。でもな、うちはそれでもかまわへん。これからは、うちと一緒に遊ぼな」

「お母さん……」

「なんや」

「どうして、帰ってきちゃったの……わたし、もう誰にも迷惑かけないで生きるって決めたのに」

 だから……聖さんにも何も言わずに、診療所を抜け出してきたのに。

「あほやな……なんでそないなこと決めんねん。ずっと一人にしてきたからか? それやったら、うちはどれだけ謝っても許してもらわれへんかもしれん。けど、うちはあんたと生きたい。あかんか? うち、わがまま言うとるだけか? あんたはもう、うちとなんか暮らしたないか?」

「な、観鈴……どないなん」

「…わたしは」

 観鈴の足は震えていた。

「どないしたん、観鈴」

 ぽとり。その手から飲み物の容器が落ちて、アスファルトに液体が四散する。液体は一瞬で蒸発して、空気中に湯気があがっていく。そしてそのまま、観鈴の身体が崩れ落ちる。

「観鈴っ」

 晴子は慌てて観鈴の胸に手を回す。熱い……。身体がひどい高熱を発しているように思えた。日射病ではない。風邪とも違う気がした。

 得体の知れないなにかが、じわりじわりと観鈴の体を蝕んでいる。そんな風に思えた。

「神尾さん!」

 診療所の医者が、ようやくに病室から抜け出た患者を見つけた。