Next Summer 第四幕 白穂
風。風が吹いている。
金色の海。呼び覚ます記憶。
羽根は伝える。やわらかな、女性の声色。
「わたしの残すこれを見ている人がいるのならば、どうかこれを、八雲にお伝えください」
女性はそう前置きをすると、ゆっくりと言葉を伝えていく。
その年の秋は、それは美しかったのを覚えています。野良仕事が終わると、わたしたちはきまってに出ました。
夕陽に芒の穂がゆらめき、金色の海のようでした。
夫は腕に、八雲を抱いていました。わたしたち夫婦がはじめて授かった子でした。八雲には生まれつき、右の手首に醜い痣がありました。「この子は長く生きられないだろう」村人たちは口々にそう言いましたが、わたしたちは気にも留めませんでした。むずかる八雲を夫からそっと預かり、母から聞いた子守唄を、わたしは唄ってきかせます。そうすると、八雲は泣きやむのです。なのに、この日は違いました。八雲はさかんに手をのばし、何かをつかもうとするのです。
羽根でした。真っ白な羽根が、夕焼けの中をゆらりと落ちてきました。わたしは羽根をつかまえ、八雲に手渡してあげました。
そのとき、羽根が輝きました。八雲は笑いました。わたしも夫も笑いました。
きっとこの羽根は、神さまがくださったお守りなのでしょう。わたしは羽根に願いました。この子がすこやかに、やさしく育ってくれるようにと。ほかには願いなどありませんでした。わたしは幸せでした。夫と子供がそばにいてくれる。それだけで幸せでした。
白穂は知らぬことであった。自分の夫が、翼人に遣えてきた者たちの末裔、法術を司るものだということを。そして八雲の醜い痣、それに篭められた、深く悲しい、翼人ののことも。
季節は早足で巡り、秋。
戦が始まりました。異国の軍勢が船をつらね、に攻め入りました。敵は数千、数万という大軍でした。わが方の騎馬武者は、数千ほどだったと聞いております。
戦にさえ、なりませんでした。
浜辺のほうで、のような音がとどろきます。そのたびに馬がいななき、武者たちはなす術もなく討ち死にしていきました。戦おうにも、矢の一本さえ射かけられないありさまでした。村の男たちは一人残らず駆り出されていきました。わたしの夫も、連れていかれました。
「必ず戻ってくるから」
そう言って、夫は家を出ていきました。
ちぎれるくらいに袖を振って、わたしは夫を見送りました。八雲はなにもわからないのか、ただきゃっきゃとはしゃいでおりました。
それきり、夫は戻ってきませんでした。
敵の兵たちは、それは酷い仕打ちをしたと聞いております。刃向かった者はすべて、みな殺しにされたと聞いております。をまつる八幡さまさえ、敵の手にかかり、焼け落ちました。
もはやこれまでと、みなが覚悟しておりました。その夜のことです。
が吹きました。その季節にはまれなほどの、それはすさまじい風でした。
夜が明けた時には、なにもかもが変わっていました。湊を埋めつくしていた異国の軍船は、一隻残らず海に沈みました。戦は終わり、村人たちは口々に言いました。風の神さまが降り立って、敵を打ち滅ぼしてくれたのだ、この国の近海に住む人魚様たちが、我々に力を貸してくれたのだ、と。なにが起きたのか、なぜそれほどの大風が吹いたのか、わたしにはついに知る由もありませんでした。単なる自然現象であったのか、それとも本当に、風の神様や人魚様が力を貸してくれたのか……でも正直な話、わたしにはことの真相などどうでもいい話でした。とにもかくにも、戦は終わりを告げたのです。異国の船は残らず海に沈み、出兵していった多くの兵たちも皆、それぞれの村へと帰っていきました。それは、わたしの夫とて例外ではありませんでした。
だからわたしはただ、夫の帰りを待ちわびていました。あの人が帰ってきたら、着物をつくろってあげよう。あの人の好物をつくって、ねぎらってあげよう。あの人はきっと、抱きよせてくれるから。
唇に紅をさして、うなじを剃刀でととのえて……。
かなわぬ夢であることはわかっていました。それでもわたしは、待ち続けました。
ある日、馬に乗ったお役人が村を訪れました。輝く羽根を拾ったものはいないか、そう聞きまわりました。羽根は穢れたものであるから、触れた者は名乗り出よ、そう命じました。
八雲は羽根で遊んでいました。とても楽しそうに、遊んでいました。わたしは八雲を抱きかかえ、羽根をふところに隠しました。夜のうちに村を離れ、荷船を乗りつぎ、住みなれた土地を後にしました。乳飲み子を抱いての旅は、楽ではありませんでした。幾日も幾日も、山深い道を歩きました。わたしたちを受け入れてくれる土地が、きっとどこかにある。そう信じて、旅を続けました。
そうして、村にたどりつきました。おだやかな村でした。
村人たちは漁をして、細々と暮らしを立てていました。村はずれの丘の上には、古い社。わたしたちは、そこに身を寄せることになりました。
よそ者のわたしたちに、宮司さまはとてもよくしてくれました。ここでなら、新しい暮らしをはじめることができる。八雲とふたりで、幸せに暮らすことができる。それなのに……。
知っている気がした。当時一歳にも満たないはずの俺がこのころのことを覚えているはずがないのに、不思議と、当時の情景をいまははっきりと思いだすことが出来る。俺の、国崎往人の細胞が知っているとでも言うのだろうか……。
「…目を覚ましましたわ」
柔らかな声がした。蝋燭の炎が、枕元で揺れていた。
額にそっと添えられる、温かい指先。
「宮司さま、この子の具合は……」
今度は別の指が触れる。老いて節くれ立った指。
「峠は越えたな。じきに熱も下がろう」
男の声が答えた。
「しかし……村の者たちは、あなたがた親子が疫病を持ち込んだと考えておる」
「そんな……」
誰かが見下ろしている。心配そうな、悲しそうな顔。
元気だと伝えたかった。それなのに、身体を動かすことさえできない。
「あなた方をここに招き入れたのは、過ちだった……。この社は巫女神をまつっている。巫女神は、この土地に災いをなす者に徴を与える。ちょうど、この子のように」
老いた指が右の手首を持ち上げた。ちっぽけな手首。その内側に、どす黒い染みのような痣。
「この子は疫神などではありませんっ! この子の痣は、この地に訪れる前からついておりました。単なる偶然です」
「わかっておる。しかしながら、村の者たちはそうは思わないだろう。この子の痣のことを知れば、『神に差し出せ』と詰め寄るだろう……」
「この子を……この子をにしろというのですか!」
「この土地では、そうやって災いを鎮めてきたのじゃ」
重苦しい沈黙。男の声が、諭すように言った。
「あなたはまだ若い。この先、子をなす機会など、いくらでもある」
「前にお聞かせしたとおりです。この子はわたしのいのちです。あの人が遺してくれた、たったひとつの宝です」
「あきらめなさい。そうしなければ、もろともに殺されてしまう。あなただけではない、私の身も危うくなるだろう」
「………」
静かな瞳。こちらを見つめている。袖が動く気配がする。
ほっそりとした手首。喉元に絡みついてくる、柔らかな指……。
「ならばいっそ、わたくしの手で……」
細い指に、力がこもる。爪の先が震えているのが伝わってくる。
息ができなくなる。目が見えなくなる。痛みはない。
怖いとは思わなかった。悔しいとも思わなかった。ただ、悲しかった。たまらなく悲しかった。この人の笑う顔は、もう見られないんだ。この人の唄う声は、もう聞けないんだ。そう思ったとき。ふっと、指から力が抜けた。
「できませんっ。わたしには、できません……」
暗がりの中で、何かが光ったのが見えた。涙の粒。
「わが子を殺す母が、どこにおりましょう。たとえ、わが子が疫神だとしても、たとえ、わが子が世を滅ぼすとしても……わが子を殺す母が、どこにおりましょうか。どこに、おりましょうか……」
枕元に木桶があった。粗末な化粧の道具と共に、剃刀が入っていた。
震える指が、その柄をつかむ。
「わたくしが、身代わりになります。どうか、この子だけは……この子だけは、お助けください」
「早まるでない……!」
男が駆け寄ったが、間に合わなかった。剃刀の刃が、肌の上を走る。幾重にも傷を重ね、そこにあったはずの痣を覆い隠すかのように、手首が血で染まる。
痩せた身体が崩れ落ちる。
「どうか、どうか……この子だけは」
血だまりに手首が沈む。まぶたが閉じる。涙だけが流れ続け、失われていく。大切な人が、遠くに消えていく。何の力もなく、なす術もなく見ていた。
風が吹き、羽根が震える。
夢ではない夢。記憶ではない記憶。
金色の海の奥底に眠る、唯一無二の真実。
思い出した……。俺は母親、白穂の死を受けいれようとしなかった。だから、願った。手に羽根を握りしめたまま、もう一度、母に会いたいと。
あの時、俺は創りだしていた。白穂、母を模った存在を。
膨らんだ土の上に、十字架が立てられていた。
一人の老人が水差しにあやめを入れ、それを十字架の前に置く。
真っ白な花を咲かすあやめの花。思わずため息をついてしまうほどに、とても美しい花。物言わぬ骸に捧げられた、散りゆくことをさだめられた花。
老人のすこし後ろに、人の気配があった。
「どうしてお墓を?」
「人が死んだんじゃ、当たり前であろう」
「…ううん。昔のあなたならそんなこと絶対しなかった。庄治、変わったね。裏葉と会ったあの日から、どんどん変わっていっている気がする」
「おかしいか?」
「少しね。同じ人のはずなのに、考え方がどんどん変わっていく。おかしいって言うより、ちょっと不思議だなって」
「人間じゃからな」
そこで言葉を止めると、たっぷり一呼吸分の間を置いて庄治は言う。
「紗衣、それに比べおぬしは何も変わらんな。考え方も、身なりも」
「人間じゃないから、とでも言いたそうだね」
「人より高位の存在、ぬしに言わせれば翼人とはそういうものなのであろう」
「翼人が高位というより、知恵の果実を食した罪によって人間が堕落した、というのが正解じゃないかな」
「ぬしが不老不死の存在であることが、翼人と人間が異なる存在という何よりの証拠か」
「まあね。人間はいずれ死ぬ。それは全ての人間が、アダムとエバに与えられた罪のツケを抱えたままこの世に生まれてくるから。とはいえ翼人にも八尾比丘尼のように、人間と交わり罪を犯したものもいるのだから、人間だけが愚かとは言えないけどね」
罪を犯したもの。そして、その子孫たちには死という概念がついてまわる。長い月日が流れ、始祖をのぞく全ての翼人たちにも死の呪縛は浸透していった。
「紗衣、一つだけ聞いてよいか?」
「ん、なに?」
「なぜ白穂を見殺しにするような真似をした」
「なぜって……村の人たちは白穂や八雲が疫病を運んできたと思ってるでしょ。あの人たちを納得させる方法なんてないよ。助けられない命なら、せめて彼女の望む死を……そうゆう慈悲もあるでしょ」
「紗衣、ぬしの力なら彼らをここではない、どこか別の地に移住させることもできたであろう」
「できたかもしれない。でも、それはできない」
「なぜっ」
「庄治、あなただって知っているはずでしょ。翼人は、本来人と関わりを持つことを許されない。人の善行も人の悪行も、全てをただ見守るだけ。わたしもかつては過ちを犯していた。争いはいい人と悪い人が戦っているものだと思っていた。だから、いい人に力を貸した。そうすることが、正しいことだと信じて疑わなかった」
紗衣はそこで一度言葉を区切り、小さくため息をこぼす。
「でもそれは間違いだった。翼人の存在を知った人々は、翼人を争いの道具として見ていくようになっていった。争いを終わらせるために力を貸す。それが新たな争いの火種となる。だから……」
「翼人の歴史を閉じる、か」
「うん。囚われた、神奈備命を連れ出して、わたしは地上を去る。それが一番だと思うから。そのためなら、わたしはいくらでも罪を犯す。あの子、八雲もそのために……」
「八雲か。あの子の腕の痣、あれはなんなのじゃ?」
「それは……庄治が言ったとおりだよ。神が災いをもたらすものに与えた印。ただ巫女神ではなく、星の神が、だけど」
「星神……? なぜその星神は、あの赤子に醜い痣を?」
「それは決まってるよ。あの子が災いを招くものだから。高田裏葉という女性の力を色濃く受け継いだ、強い法術の力を秘めた存在だから。それは、翼人が再びこの世に解き放たれる可能性を秘めている、ということ。翼人が再びこの世に解き放たれれば、人々はまた翼人を争いの道具にしようとするでしょう?」
「…人は、そこまで愚かではない。同じ過ちを何度も繰り返すほど愚かな存在などでは、断じてない。紗衣おぬしにもわかっておるはずじゃ。人は日々成長を続けておる。じゃから、以前と同じ過ちを繰り返すことなどないと、そうわかっておるはずじゃ」
「あはははははははははははははははははは」
庄治の必死の訴えは、紗衣の乾いた笑いにかき消される。
「それは庄治が人間だからだよ。過ちを犯したものと同じ、人間だから。だから人は同じ過ちを繰り返すことなんてないと、そう信じたいだけなんでしょ? ようするに、願望なんだよ。庄治のそれは」
「………」
「断言するよ。人は同じ過ちを繰り返す。だから、翼人の封印が解ければ、彼らは再び翼人を争いの道具にしようとする。そうすれば、たくさんの人が死ぬ。戦いに出てきた兵士も、何も知らず村で暮らしていた農民も、いっさい区別することなく、虐殺を繰り返していく。また血塗られた光景が、歴史に刻まれていくようになる。そうなってしまえば、全ては手遅れ。そしてこの子、八雲はそれを引き起こす可能性を秘めている。だとしたら、この子の存在自体が災い。災厄をもたらす者。だけど、わたしなら八雲を守ることができる。災いをもたらすものではなく、翼人の歴史を閉じるための、人と翼人、両方を救う英雄にすることができる」
「…紗衣、おぬし……なにを考えておる?」
「ふふふ、さあね。少なくとも、悪いことじゃないよ。世界の秩序を守るためには、八雲の力が必要不可欠。ただそれだけのこと」
「………」
二人の会話を、白穂は少し離れた場所でずっと聞き入っていた。その腕には八雲。胸に抱えたまま、じっと息を殺す。
紗衣がやろうとしていることは、正しいことなのかもしれない。間違っては、いないのかもしれない。けれどそれは八雲を利用しようとしていることに変わりはない。だから……。
その晩、社から八雲と白穂の姿が消えた。