Next Summer 第三幕 真意

 

 高野山金剛峰寺。真言宗の根本道場であり、空海の三大零跡の一寺として知られている。

高野山を中心とした各宗派を含めて、百ヶ寺以上が存在する寺々の中核を為し、真言密教の地でもある高野山は、山全体が不思議な感覚を持ち、外界と遮断された、修行に最適な地となっている。

「よかったのか? 京都に来る時は、人目につくとまずいってずっと翼を使わずに来たのに、高野山へは飛んできたが……」

「ま、よくはないんだけどね。でも和樹君たちがすぐ近くまで迫ってきている以上、そんなに時間もかけられないからやむなしってところかな」

「邪魔が入らないうちにってことか」

「そゆこと」

 高野の森林の奥地。深い森の中に大きく開けた、広場のような場所があった。頭上には葉が幾重にも折り重なり、空から降りそそぐ陽光でさえ、緑に遮断され地面には届かない。まるで天から見放されたかのように、そこだけが、朽ちかけた深緑に包まれている。

 そこは結界の只中。何十何百もの呪歌により心身を鎖に縛られた神奈備命の魂は、囚われの身のまま、空を彷徨っていく。それは……いまも。

「輪廻の輪から外れたはずの神奈備命が観鈴をとしたのは、あいつに自分と同じものを見たからか? 幼いころ親と離ればなれになり、孤独な日々を過ごす。そんな境遇を、自分に重ねた」

「さて……確かなところは、わたしにもわからないから……」

 無言のまま往人は人形を取りだすと、それを紗衣に手渡す。紗衣は頷いて周囲をいちべつすると、広場の中央に歩んでいき、自分のそばに来るよう往人に手招きする。

 陽の光がとどかないせいか、足元はぬかるみになっていた。一歩足を踏み出すたび、ぐちょりと気分の悪くなる音を立てて泥を跳ねる。おまけにひどくすべりやすくなっているせいで、自然と一歩一歩の足取りが慎重になっていく。ようやく広場の中央に移動すると、泥の中に一点、小さく露出した岩を見つける。

「わたしがここに人形を置いたら、人形に法術をこめていって。出し惜しみせずに、力の全てを注ぎこむ勢いでね」

「人形を動かそうとするイメージでいいのか? 法術をこめるってのは」

「うん。いつも通りでいいよ。わたしが人形の力を解き放つから、往人はそれに押しつぶされないよう耐えながら、今度は全てを空に放出していって」

「それだけでいいのか? 翼人の呪いを解くってわりには、ずいぶん簡単な方法だな。てっきり怪しげな儀式や呪文でも唱えると思っていたんだが」

「呪歌を必要とするのは陰陽術。法術はもともと思い描くことが重要だから、変なことをする必要はないよ」

「そうか。なら……さっさと始めよう。あまり時間はないんだろ?」

 人形に手をかざし、往人は強く力をそそいでいく。頭の中で人形が自由に動いて、走って、飛びあがる姿を想像していく。そして、念をこめる。

血液のように身体の隅々に、人形の足先から頭のてっぺんまで、全てに血が通っていく。

 母親、湖葉に教えこまれた人形繰り。幼いころから何千何万と繰り返してきた。目をつぶっていてもできる。それほどまでに、身体に染み付いている。

「人形の力を解放するよ。準備はいい?」

「ああ、いつでも」

 往人は何も知ることはない。知ろうともしない。それゆえ、紗衣は思いどおり事が運んでいくことに、ただただ笑みを浮かべるばかりだった。

 

 

 同日、京都より遠く離れた場所。海辺の町。

 霧島診療所のベッドには、いまも一人の少女が横たわっている。神尾観鈴、病人であるにもかかわらず一人きり実家で暮らしていたところを、橘敬介という男性に保護され診療所へと移された少女。

いや、暮らしていたというと嘘になるかもしれない。実際には、彼女は何日もの間、ずっと眠り続けていたのだから。

 診療所に運びこまれてからも、彼女が目を覚ますことはなかった。そして、今も目覚める気配すら見せることはない。すやすやと安眠している様なときでも、ときおり思い出したように引き付けを起こし、ひどく咳きこむ。

 肉体的には至って健康そのものなのに、なぜそのような症状があらわれるのか、聖には推測すらたてることができなかった。

 悪夢にうなされているのか、それとも精神的な何かがあるのか……。

 いずれにせよ、危険な状態であることに変わりはない。なにしろ長いあいだずっと眠り続けているということは、栄養分が何一つ摂取されていないということになる。ブドウ糖を点滴しているとはいえ、それだって気休め程度にしかならない。日増しに小さくなっていく心電図の幅が、それを切に物語っていた。

「非常にまずい状態であることに変わりはありません。正直な話、この診療所の設備では神尾さんの衰弱を抑えることは不可能でしょう。知人の大学病院を紹介しますので、よろしければそちらに……」

 聖は淡々と、観鈴の現在の容態を説明していく。医者という仕事のこうゆう所が、聖はどうにも苦手で、あまり好きではなかった。患者が自分にとってどれだけ親しい存在であろうと、医者は決して感情論に走ってはならない。どこまでもあくまでも、氷のような冷静さを保ち続けなければならない。大学でそう教え込まれた。医師免許を取ろうとしていた当時は、そのことになんの疑問も感じることはなかった。そんなことは当たり前だと、根拠もなくそう思っていた。けれど、実際に医師になってみて、始めて気づく。

なんと辛い仕事なのだろう……医者という職業は……。

「大学病院に移れば、観鈴は助かるのですか!?」

 観鈴をここに連れてきた男、橘は気が気でない様子で、動転したまま聖の胸倉につかみかかる。

「…早いか遅いか、程度の問題です。いずれにしろ、このままなら衰弱死は免れないでしょう」

「そんな……あなたは医者なのでしょう! それが、簡単にさじを投げるって言うんですか」

「医者は万能じゃありません。現実を見据え救える命を救う。ただそれだけです……それに」

「それに……?」

 そう訊ねようとしたとたん、内ポケットでベルが鳴りはじめる。橘は慌ててそれを取り出すと、ベル、つまり携帯を取り出してそれを耳に押し当てる。

「なんだ! いま立てこんでいるんだ。用事なら後にし……なんだおふくろか。えっ? 分かった。車飛ばしてすぐにそっちへ行く」

 電話を終えると、すぐに橘はソファーに置いておいた上着に手を伸ばす。

「急ぎの用事でもできたのか?」

「ああ、すまない霧島さん。なるべく早く戻ってくるつもりだが…」

「いや、気にしなくていい。帰ってくるまでしっかり観鈴ちゃんのことは見ているよ」

「すまない」

 軽く会釈すると、橘は駆けるようにその場を後にする。残ったのは、無力な医者が一人。

「医者が魔法や奇跡を信じるとは、世も末だな…」

 聖はあの時口走ろうとしていた言葉を思い出し、一人苦笑する。

 橘の声が携帯音にかき消されなければ、あの時自分はとんでもないことを口にしていただろう。

 翼人の呪いが神尾さんにはかけられている。だから、その呪いが解ければ彼女は助かるだろう。

「医者の、いい大人の言うセリフではないな」

 いつからこんな世迷い言を考えるようになったのだろう。ふとそんなふうに思ってみたものの、よくよく考えてみてみれば、佳乃にバンダナを巻いてあげたときにも魔法なんて言っていたのだから、案外私は昔からこんなことばかり考えていたのかもしれない。

自分の力ではどうすることもできない時、魔法が起きてなんでも解決してくれる。そんな都合のいいことを、心の隅に常に持ち続けてきた。

「まったく……都合のいい話だ」

 不意に、観鈴の眠っているベッドの隣、心電図に目を向ける。とたん、目を疑った。

 緑色の線が上下に激しく動いたと思ったら、今度は数十秒ものあいだ微動だにすることもなく、中心を直線に緑が走り抜けていく。そしてまた、思い出したように激しく上下に動きはじめる。

「なんだこれは……」

 健康体の人間でさえ、こんな奇怪な心電図を見せることなどない。それが……なぜ衰弱し弱りきっているはずの神尾さんの心電図が、こんな異常な動きをみせているのだろう……。

 

 

「なんだこれは……」

 往人は一人、暗い闇のなかを漂っていた。手を伸ばしても、触れるものは何もない。かろうじて感覚が残っているおかげで、自分の手足の所在だけはわかる。

ただ、目には何も映らない。一点の光すら届かない洞窟の深い奥地に紛れこんだように、薄暗い黒煙だけがどこまでも続いていく。

 上下左右どこを見回しても変わりばえしない景色。いや、よくよく目を凝らしてみると、東西南北の四隅に篝火らしき光が見える。近寄ってみると、それは篝火ではなかった。護摩の炎。

 四隅からあがる炎の波が、遥か頭上で一つに交わり、そして消える。

「石室を、かたどっているのか……」

 裏葉が霊寄せを行ったときと同じ。だとすれば、この真っ暗な空間そのものが、翼人を囚える結界ということなのだろう。

 瞳を閉じ、精神をゆっくりと統一させていく。裏葉の行った霊寄せ、あれは自らの魂を寄りしろとし、他者の魂を引き寄せる術。往人がいま行おうとしているのは、その間逆。自らの魂を他者の意識のなかへと入りこませる術。

 真っ暗な闇に色がつき始める。透明な水の入ったコップに絵の具が混じるように、黒色の世界に幾つもの色が重なり合い、炎が音もなく消えていく。

 気がつくと、乾いた畦道が目の前に続いていて、夏空の下、そこに投げ出されていた。

 青々とした林の間を、なだらかな峠道が続く。女が峠からわずかに外れた木の根元に腰を下ろしている。それが神奈備命だと気づくのに、そう長い時間はかからなかった。

 げっそりとやせ細った、青白い頬。病魔に冒されているわけではないようだが、その姿からは、翼人の気品さなど微塵も感じることはない。

 女がこちらに向きなおる。その眼に、生気はない。

「お初にお目にかかります、神奈備命様。わたくしは……」

「よいっ。どうせ死ぬものの名など、覚えてもしょうのないこと」

 腐臭がした。腐りかけた肉の臭い。いくつもの死の気配が、ゆっくりと世界を埋め尽くしていくような……。

 幾百幾千もの月日を、女はただ一人過ごしてきた。繰り返される死を、ただ一人見続けてきた。ビデオテープを再生するように、周りの全てが消えていく景色を、何度も何度も……。

「ご安心ください、わたしは死ぬつもりはありません。この夢からあなたを連れ去る、わたしはそのために此処を訪れました」

 雰囲気作り、とでも言うのだろうか? 往人は思いつく精一杯で、尊敬語を並べていく。

「夢から連れ去る……? おぬし……もしや紗衣の」

「ご存知ならば話は早い。夢は終わりました。神奈備命様にかけられた呪いは、わたしが解きます」

「…断る、余はここで死ぬ。汚れ、荒みきったこの身体が朽ちる日を待ち続ける。ここで、滅びが訪れるのをずっと……」

「その頼みを聞くことはできません」

「なぜじゃ? 紗衣の命で余を連れ出しにきたのじゃろう。紗衣の命を叶えるつもりならば、余がここにとどまろうと何の問題もあるまい?」

「どうゆう……? 紗衣の命はあなたを呪いから解き放つことです。ここにとどまっていては、何の解決にもなりません」

「分からぬ奴じゃな。紗衣は余の呪いを解いた後、余を滅するつもりではないか!」

「なっ」

 往人が驚愕の声をあげたのと、往人の意識が現実へと引き戻されたのはほぼ同時だった。

 気がつくと森の中。蝉のざわめきにまじり、紗衣は両手を空に掲げていた。

「失敗か。仕方ない、もう一度行くよ」

「ちょっと待て」

「うん?」

「神奈備命を滅するというのは、どういうことだ?」

 夢のなか神奈が言い放った言葉。彼女が嘘をついているようには思えなかった。だからこそ、わきあがった疑念が消えないでいる。

「異端者を消し、世界の秩序を整える。それが紗衣という少女の役目」

 言葉は茂みの奥から聞こえた。緑の梢が大きく揺れうごき、幾つかの人影が姿を現す。小百合と和樹と佳乃。

「最初から神奈備命を助けだすつもりなどなかった。人の手に囚われた翼人の魂、それを自らの手で浄化する。それが、あなたの真の目的。そのために、蓮鹿や往人といった人たちを利用してきた。そうゆうことでしょ?」

 小百合はそう言葉を続ける。庄治という老人に聞かされた、翼人紗衣の本当の目的。翼人の始祖である彼女は、自分たちの一族に人と交わった者がいることを知った。そして、そのものが子を宿したことも。

「ふふっ、前半は正解。後半は間違いかな」

 穏やかに、顔色一つ変えることもなく、紗衣は微笑を浮かべたまま、小百合たちの方へと向きなおる。

「確かに蓮鹿や往人を利用していたことは事実。でも、当事者たちに了承をとったうえでのことなんだから、あなた達には関係ないことじゃない? それに利用っていうよりは、目的の同じ者同士が協力し合っていたわけだし」

「助けるなんて全部でまかせじゃないか。それのどこが同じ目的なんだよっ」

 と、和樹。

「ま、騙されるほうが悪いってことで」

「おまえっ」

 飛びかかろうとした和樹を見据えると、紗衣は自分の背丈ほどもある大きな両翼を広げ、それをほんのわずか羽ばたかせる。

 壁が生まれる。空気の壁。

突然に生まれた風の塊が、紗衣と和樹との間に生えていた雑草を切り裂くようにえぐりとり、無数の土と草花が頭上へと垂直に舞い上がる。

「邪魔しないでくれる? いまは君たちにかまっている暇はないの」

「…っち、おいっ往人! おまえは、神尾観鈴って人を助けるためにここまできたんだろ。神奈備命の魂を消滅させようなんてやつが、本当に神尾観鈴を助けると思ってるのか!」

「心外だなぁ。よってたかってわたしを悪人呼ばわり。助けるって言葉に偽りはないのに」

「どこがだよっ! 魂を消滅させるって、ようするに囚われた人を外に連れ出して殺すようなもんだろ。それのどこが助けることになる!!」

「どうして?」

「なにっ?」

「たとえば神尾観鈴。母親や友達に見放されて、信じていた男にも見放された。そんな子がもう一度現世に戻ってくることが、本当に幸せだといえるの?」

「俺は……観鈴を見放してなんかいない!」

 紗衣の言葉に真っ先に反応を見せたのは往人だった。早口に、紗衣に向けて反論をぶつける。

「見放したよ。そののち過ちに感じて戻ってきただけ」

「………」

 否定は出来なかった。紗衣の言っていること、それは、間違ってはいないの

だから。

「神奈備命にかけられた呪いだってそう。魂を一箇所につなぎとめ、輪廻の鎖

からも外れ、自ら命を絶つことすらできないまま、幾百、幾千もの長い年月を、

永遠とも呼べるほどの長い年月を、苦しみと悲しみの螺旋に紡がれ、彼女は生

きながらえてきた。そして……彼女はいまだ、苦しみ続けている。往人、あな

たは神奈備命の心に触れることができた。だから、わかったでしょ? 彼女の

望みは死ぬことだって」

「だとしても……」

「だとしてもなに? エゴを他人に押しつけるのはいい加減止めたら? 国崎

往人、きみは結局、観鈴ちゃんのことなんて何一つ考えていない。ただ自分の

幸せが欲しいだけなんでしょ」

「それは……」

「それの何が悪いっていうんですか!」

 紗衣のそれに声を張り上げたのは、佳乃だった。

「たしかに自分の幸せだけを願うなんてエゴかもしれません。けど、自分ひと

りの幸せすら得ることができない人に、他人の本当の幸せなんてものがわかる

んですか!?」

「だから?」

「えっ……」

「だからなに? 幸せになろうと願って、それでも叶わなかった人々。そんな

人たちはいくらでもいるよ。そうゆう人が他の人の幸せを真剣に考えてあげる

ことって、そんなに悪いことなの? どのみち神奈備命の呪いを解いたとして

も、彼女に肉体はない。輪廻の流れにそって、彼女の生まれ変わり、すなわち

観鈴ちゃんの元へと魂は向かう。つまりは、小さな器に海の水をそそぐことに

なる。呪いは解かれたのだから、神奈備命の魂が再び囚われることはない。で

も海の水は、注がれた器もろとも、確実に崩れ落ちるでしょうね」

「どうあっても……観鈴を助ける方法はないと言いたいのか」

「せめて苦しまずに。わたしはこれこそが、彼女への助けだと思うけど?」

「可能性はあるだろ。海の水を注がれたとしても、器がそれをうけきるかも

しれない」

「…無理だと思う。無駄に苦しませるだけになるかもしれない。第一、観鈴

ちゃん自身が、生きることを望んでいないかもしれない」

「黙れよ……俺は決めたんだ。ずっと一緒にいる、二人で幸せになるって…。

だから、だから、だから!!」

 叫び、往人は人形を紗衣から奪いとる。

「何をする気っ? 駄目よ、特別な手順を踏まずに強引に封印を解けば、神奈

備命の魂はそのまま観鈴ちゃんのところへと向かう。彼女たちを無駄に苦しま

せるだけになる。やめなさいっ!」

「俺はっ!」

「往人、駄目っ!」

 閃光。

その場にいる誰もが目をつぶり、光はさらに力を強めていく。

 そして……光がはじけた。

 




作者さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル投稿小説感想板
に下さると嬉しいです。