Summer 終幕 法術

 

 例えば、最初から枚数が欠けているジグゾーパズル。自分ひとりの力でも七、八割方は埋めることができるのだけれど、残りの二割のピースがどうしても見つからない。心のなかにある引き出しを残らずすべてあけはなったとしても、最後に残るわずかのピースはどうしても見つけることができない。

自分ではない他の誰か。その人が持つパズルの欠片をあわせなければ、自分の心が埋まることは、満たされることはない。

八尾比丘尼という女は俺に足りない部分、パズルの欠片を持っていた。けれど比丘尼は死に、俺のパズルが完成することは、永遠になくなった。

 全身を鈍重な痛みの気配がおおって、頭のてっぺんから足のつま先まで強く軋む。目覚めている間中ずっとその痛みに襲われている。眠りにつこうとしても、内側から食い破ってくるような、すさまじい頭痛がそれを許してくれない。

 薄暗い洞穴のなかで、蓮鹿は指先ひとつ動かすことができず、ごつごつした固そうな岩と土で作られた天井を眺めていた。ときおり洞穴の奥のほうから、ぴちょん、ぴちょんという水雫の垂れていく音が耳に届いて、それが空っぽの頭に奇妙なほど反響を繰りかえす。

「…えっと、おみず」

 紗衣と名乗る幼い翼人の少女が寝ずの看病を続けて、今日で何日目だろう。薄暗い洞穴の中に日光はきざしほども姿をみせず、蓮鹿の持っていた時間や月日という概念は、音もたてず静かに崩壊をはじめていった。

「なあ、神奈は最後の翼人だったはずなんだろう。比丘尼に隠し子がいたわけでもない。それなのに、なぜおまえは存在する?」

「よくじん……ってなに?」

「いや、わからないならいい」

 紗衣は不思議そうに首をかたむけると、冷水のはいった桶に手をいれ、「冷たいっ」とふきんを両手で懸命にしぼる。少ししてそれが額に乗せられる。

ひんやりとした湿り気が、疲労した身体に心地よかった。

 蓮鹿が倒れたのは紗衣を野犬の群れから救った、ほんの二日三日あとのことだったろうか。自分の三倍はあるだろう巨体をずるずると引きずって洞穴へと連れこむと、紗衣は蓮鹿の世話を不眠不休で行いつづけた。

不思議なことに、紗衣の全身にあったはずの切り傷やひっかき傷は半日も経たずうちに消えうせ、肌は幼い子ども本来の白さを取りもどしていった。おそらく、翼人の持つ自然治癒能力の高さゆえの現象なのだろう。

 紗衣は森中に実っていた果物や木の実を集めては、自分と蓮鹿の口に変わりばんこに押しこんでいった。口内に入れられる果物はどれもしょっぱく、旬の季節はとうに過ぎていた。けれどその舌がしびれるような感覚は、自分がまだ生きているということを実感させてくれた。

 指先ひとつすら動かすことはできない。痛みは褪せることなく、全身を蝕んでいく。それでも、死にたいと考えるようなことは一度もなかった。できることなら、もう一度自由に動く身体を手に入れて……。

(自由を手に入れ、それであなたはどうするの?)

 頭に直接響きわたるような、不思議な声が聞こえた。鈍痛な痛みが暴れまわる身体に、それは安らぎにも似た、奇妙な安堵を覚えさせる。

 自由に手に入れ願うこと。そんなことは考えるまでもなかった。復讐……八尾比丘尼を殺し、神奈を空へと囚えた者たち。高野や朝廷、そして柳也。

あいつを信じた俺を、あいつは最悪の形で裏切った。裏葉さえ、その手で殺めようとした……。

(復讐のための生涯。死ぬことを放棄したその先に待つのは、愚鈍な道だけ。それでも、あなたは生きたいと願う?)

 ぴとん、ぴとん、ぴとん。

 耳鳴りのように水雫の音が響いて、胸から首筋にかけてを、ざわりと波打つような感覚が駆けのぼっていく。死神のせせら笑いが、脳裏を反響する。

ほうっておけば俺の生命は今日で終わる。ここで俺が死ねば、歴史から翼人は廃れる。翼人の生きた証すら残ることはない。朝廷が、すべての事実を闇に葬る。

「俺には成し遂げることがある」

 紗衣はちらりと蓮鹿に目を向ける。

(覚悟はきまったみたいだね)

 脳に直接聞こえてきていたような声。それは紗衣という少女の差し出した、長い永い旅への招待状だった。

 

 

 空が泣いていた。夕焼けが一面をおおう真っ赤に腫れた大空は、溢れるほどの涙を流しつづける。雷鳴を轟かせ、雲いっぱいにたまったたくさんの涙。雲からこぼれおち、涙は地上に降りそそぐ。

 真っ白な絹の衣着に赤い袴。襟首や肩から袴と同じ赤色が姿を覗かせている。血の滲むほどの鍛錬をつんだ八十八人だけが袖を通すことができる、朝廷陰陽師の法衣。柳也がこの世を去り三年。裏葉は、朝廷に仕えることとなった。

 都で奇怪な殺人事件が起こりはじめたのは、一ヶ月ほど前からだ。朝廷に関わるものたちばかりを、老若男女問わず殺害していく。おそらく平家に恨みを持つものの仕業なのだろうが、このご時世、平家を快く思わぬものを探すほうが難しく、犯人の足取りを掴むことは、雲を掴むも同然だった。

 裏葉のもとに文書が届けられたのは朝方。殺人犯より渡された文書を手に、裏葉は都のはずれへと足を運んでいた。

「何年ぶりだろうな……昔から法術に関しては類まれなる才を誇っていたが、まさかわずか数年で、陰陽術まで我が者にするとは」

「法術、封術、陰陽術、もとをたどれば全ての起源は同じ。それらの間にそれほど大きな違いはございません。現に高野の法師方も、法術を用いていたではありませんか」

「…自分の祖先が人々に授けた秘術が、自分を囚えるために使われた。皮肉な話だな。どうにも」

 吹き荒れる雨風の向こう。を濡らし鞘に片手を添え、蓮鹿は静かに言葉をつむいでいく。

「法術により神奈さまは空へと囚えられました。ですからわたくしは、法術を学んだのです。いえ、法術だけではありません。陰陽、封術、妖術と俗称される力のすべてを理解すれば、神奈さまをお救いするすべもきっとみつかります。兄様とて、本心では神奈さまのことを思い続けていたのでありましょう? いまさらわたくしたちが争って、なんの意味がありましょうか」

「…たしかに、いまさら俺とおまえが争ったとしてなにを得るわけでもない。神奈は永劫呪縛に苦しみつづける。まして、比丘尼が生きかえるわけでもない」

「そうでございますとも。兄様もわたくしと共に、神奈さまを救うす――」

 太刀を抜きさり、裏葉の首元に刃が押しあてる。冷たい金属の先端から、ゆらりと血なまぐさい臭いが漂いはじめる。

「わたくし? 違うだろ『わたくしの子や孫』だろ。とんでもない話だな。赤子のころより翼人を助けることだけを生業とし、その生涯を終える。おまえにとって、子とは道具か?」

「違います! 親御にとって、子は宝も同じ。それをっ」

「それを道具扱いしているのは裏葉、おまえだろ」

「人は自分の幸せをつかむために生きるもの。神奈さまを助け出すことはあくまでわたくし個人の想いです。子に強要するつもりはございません。まして、子に頼りきるつもりも……。そのために、法術を練りこみこれを作りあげたのですから」

 取りだしたのは、絹と綿を繕った小さな人形。

「わたくしの法の力はいずれ尽きるでしょう。ですが……神奈さまを助けだすための力が必要だというのなら、わたくしがその力になりましょう。衰えてしまうまえに、この人形に『力』を封じこめる。わたくしや柳也さまには叶えることのできなかった願い。いつか誰かが神奈さまを、わたくしたちの叶えられなかった願いを解き放つ、その日まで……」

「神奈を空より解き放つ。それは……柳也の願いか?」

 裏葉がうなずくと、蓮鹿は太刀を構えたまま、じっと押し黙っていた。一言の言葉すら述べることはなく、ただ、裏葉の瞳の奥の輝きを目で追い続ける。

やがて、声が生まれる。

「比丘尼から受け継いだ、神奈の呪い。その呪いが柳也の命を奪ったというのならば、神奈にとって柳也は……」

 すべての事実を闇へと屠るためにかけられた翼人の呪い。それは、翼人に信頼されるものにふりかかる。

「…比丘尼さまの呪いをその身にかけられた兄様なら、神奈さまのお気持ちにお気づきでありましょう」

「………」

首元に押しあてていた太刀を鞘におさめると、踵をかえし、裏葉に背を向け言い放つ。

「おまえの考え方が間違っているとは思わん。おまえの言うとおり、柳也のことは俺の思い過ごしなのかもしれない。だが子孫に自分たちの願いを託すという考え、それだけは、俺には共感することができない。俺は俺なりの方法で神奈を救う。裏葉、俺の最後の頼み……聞いてくれないか」

「最後の頼み……?」

「俺に禁忌をかけろ」

「……!?」

 法の禁忌。翼人を不老不死と信じ、自らを不死の肉体へと生まれ変わらせようとした者がいた。だが結果は失敗。輪廻の車輪からも外れ、二度と魂が下界に降りてくることはなかった。人が神を名乗ろうとすることがいかに愚かな振る舞いかを、その男が証明したのだった。

「不老不死などまやかしでしかありません。兄様とて……」

「いいから、黙ってかけろ」

「できませぬっ!」

「………」

一言の声すら漏らすことはなく、蓮鹿は無言のまま布袴の胸元を広げる。黒い染みのようなものが、肌一面に広がっている。

「翼人の呪いだ。受けながし続けていた、しっぺ返しがおこったらしい。法術という力は、痛みを受け流し、ごまかすことができるらしいが……もうそれも限界が近い。俺自身が持つ法術の力はいずれ消滅し、欠片もその力を引き出すことはできなくなるだろう。俺には時間がないんだ……たのむ……」

 降りしきる雨水の音が、沈黙を飲みこんでいく。雑草が水をはじく音さえ聞こえてきそうだった。

「目を閉じて、全身の力を抜いてください」

 裏葉の言葉にしたがい、蓮鹿は両瞼を閉じる。突然に訪れた薄闇の向こうに、かすかな光を感じる。呪詛らしき言葉が耳に届く。

「願いを」

「願い?」

「不死となってなにを望むのか、なんのために、人であることを放棄するのか」

「…心のなかで描けばいいのか?」

「言葉にしても、心のなかで願っても、どちらでもかまいません」

「そうか」

 瞳の奥、思い描かれる姿。虚空のなかを彷徨いつづける、銀色の両翼。

 願いは、ただ一つ。空に囚われたそれを、助け出したかった。助け出す、手助けをしたかった。おそらく、自分の力で翼人を助け出すことは不可能だろう。だからこそ、力になりたかった。翼人を助けたいと真に願う者の、力に。

 そのときが訪れるまで、何十年、何百年という月日が流れようと、俺は……。

瞳を開くと、もう痛みはどこかに消えてしまっていた。

「これで終わりか?」

「はい。願いを叶えるまでは、兄様が死ぬことはないはずです。逆を言ってしまえば、願いが叶えば死ぬ、というわけでもありますが…」

 法の禁忌を行えば魂が囚われ、輪廻転生すら二度と起きることはない。それが俗説的に広まった風習である。かつて禁忌を行った男性が、真実をしまい隠すために言いふらした嘘言。

「十分だ。これで終わらせることができる」

「なにを……なさるおつもりですか」

「平家をつぶす」

「なっ……」

 驚愕した。この国を牛耳る強大な氏族を討ちとる。つまり、蓮鹿は国崩しを成そうというのだ。

「国崩しなどお一人の力でできるはずがありません。それに、神奈さまが復讐などお望みになると思いますか?」

「神奈が望む望まないは関係ない。これは俺なりの罪滅ぼしなのだからな。たしかに、俺一人の力で平家をつぶすなど到底無理な話だろう。だがいつかこの国を変えようとするものは必ず現れる。百年でも二百年でも俺は待ちつづけ、その者が現れた後その者に手を貸し、全てを滅する。そして神奈を空より解き放つ」

「………」

「朝廷に仕えつづけるならば、おまえであろうと斬る。一応忠告はしておいてやる。次に逢うとき、おまえを斬らなくてもいいことを祈っているぞ。じゃあな、達者で暮らせ」

 それが、裏葉と蓮鹿の交わした最後の会話であった。

 二百年の後、彼の言葉どおり平家は源によって滅ぼされることなる。直接蓮鹿が源ともに戦ったかは定かではないが、すべてを滅するという彼の願いは、結果的に叶えられたのであった。

………。

 ……。

 …。

「けれど、蓮鹿は気づいていた。法術により囚えられた神奈を救いだすには、彼女にかけられた以上の法術をぶつけることにより、互いの力をゼロ、つまり相殺させるしかないと。法力僧数百人分の力。そんなものがどこにあるというの? 蓮鹿は考え、そして思いだした。『人形に力を封じこめた』裏葉がそう言っていたことを。裏葉は類まれなる才能の持ち主。その裏葉が力を失う前に、自らの法力すべてを人形へと封じこめる。裏葉の才を受け継いだ子孫たちも同じく、すべての法力を人形に封じこめていく。数百年の後、数十人の法力を飲みこんだ人形には、法力僧たちと並ぶほどの『力』がこめられているのでは? 蓮鹿はそう仮説を立てたの。ただ、もし人形にそれほど強大な法力がこめられていたとしても、そのときには自分の法術の力は尽きていて、使いこなすことはできないから、それじゃ、なんの意味もなかった。だから、自分の意思を継ぐものが必要だったの。裏葉の力を色濃く受け継ぐような、類まれなる才能を持つものが……」

「それが……俺か」

 高田から国崎と名を変えた女性の才能を受け継ぐ、一人の青年。

「ほんと言うとね、蓮鹿は往人にずっと謝りたかったんだって。子孫に意思を託す裏葉のことを咎めたのに、結局は自分も同じことをしているから、そのことをずっと……」

「………」

「蓮鹿は柳也を恨んでたんじゃない。比丘尼や神奈を助けることができなかった原因を柳也に擦りつけることで、自分に圧しかかる重圧から逃れようと必死だった。たぶん、それだけなんだと思う」

「罪をなすりつけられた柳也にしてみれば、それもずいぶん勝手な理屈だな。まあ、意思を継ぐとかそうゆう大層な話は興味ないが、とりあえず観鈴に注がれた海の水が、神奈備命ってことだろ。正直おれは翼人のことはどうでもいい。しかし神奈備命を呪縛から解放することが、観鈴を救うことにつながるというのなら……蓮鹿の願い、俺が叶える」

「観鈴ちゃんは神奈備命の生まれかわり。言うなれば、単なる被害者だからね。わたしも往人にできる限り協力するから、よろしくお願いね」

「…紗衣ひとつだけ聞いていいか」

「うん? なに」

「神奈備命は本当に最後の翼人だったのか」

「当たりまえじゃん。正真正銘、翼人の血を受け継ぐ最後の一人だよ」

「血を……受け継ぐか。なあ、それならおまえは……」

「わたしは翼人だけど、誰の血もついではいないの。わたしにはおかあさんがいない……だから、わたしは探している」

「母親をか?」

 問いただすと、紗衣は静かに声を絞り出していく。

「いつだったか、湖葉が言っていたよね。人は自分の幸せを見つけるために生きているって。だから探しているの。幸せの欠片。きっとどこかにある。そう信じているから……」

 

 

 

 

今より遥か昔、『夏』より語られはじめた記憶は、『夏』へと引き継がれ、

そして尚、終わることなく続いていく。

Next season [Next] Summer




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