Summer 第十五幕 祈り

 

 高野から離れ、都に戻ってきたのはいつ頃だっただろう……。

花山法王が浸透させようとした、翼人を神とする宗教は少しずつ規模を縮小させていき、二年の後には完全消滅してしまった。翼人の存在自体が、朝廷の手により曖昧なものに変えられていった。おそらく世代が代わり、今の子供が成人を迎えるころには、誰ひとり翼人を知るものはいなくなるだろう。神話として残ることもなく、最初から存在しなかったものとして、誰の記憶からも消えていく……。

 焼け落ちた社。躯を片付ける者はなく、運良く全焼をまぬがれた者たちも、吹き荒れる雨風とカラスたちのせいで、白骨へと姿を変えていく。土に養分として吸収され、春風が運んできた木の芽が社を覆う。長い月日をかけて、翼人の生きた証は残らず大地へとかえっていく。

 社殿に足を運んだのはなぜだろう? 

消えゆく運命を辿る翼人の存在を、眼に焼き付けて起きたかったからだろうか。それとも……。

全身を覆う鈍痛な呪いが、弱りきった蓮鹿の体を容赦なく蝕んでいく。全焼を逃れた樹木の太い枝が、大きな音を立てて地面に落ちて、山鳥たちのさえずりが途絶える。

「…あう……あ……」

 声が聞こえた。今にも消えてしまいそうなほど微かに。それに続いて、野犬たちの高らかな叫び。威嚇のための声ではない。仲間を集めるための遠吠えだ。立ち上がると、野犬の声のするほうへと足を向ける。ずるずると片足を引きずるような歩行。全身が妙に気だるい。法術で呪いはずっと受け流し続けてきたはずなのに……それに限界がきたのだろうか……。

 野犬たちは楕円をつくるように等間隔にならび、吼えを続けていた。茂みの奥から瞳を血走らせ、飢えた仲間たちが次々と姿を現していく。

 中心に人間の子どもがいた。怪我を負っているのか身体をうずくまらせ、擦れるような悲鳴を漏らしている。太刀をかまえ、楕円へ向け走る。野犬が蓮鹿に気づき、周囲に警戒をうながす。

「どけっ」

 近くで睨みをきかせていた一匹を斬り捨てると、ばうっと吼え声とともに周囲の二匹が飛びかかってくる。

 一匹を構えた刀で突き殺す。飛びかかってきた二匹目が太刀を持たない左腕めがけ、ぎらりと牙を輝かす。

…ぐしゅっ

肉に牙の食いこむ独特の音がして、野犬が高らかにうなり声を響かせる。

「あああぁぁあぁああ、邪魔だっ!」

 腕ごと付近の大木に叩きつけ、真上へ振りあげる。野犬の頭が固い幹にぶつかり、毛を削りとられながら樹木の幹をすべっていく。食いこませていた牙の力がゆるみ、野犬の身体は空中に投げ飛ばされる。太刀を握りなおし空に浮いたそれ目掛けて突き刺す。太刀は野犬の頭蓋を貫通し、黒い飛沫が四方へ広がる。

刃を伝って、まだ生暖かい獣の血が腕に流れてくる。

 本能で生命の危機を感じとったのだろう。子どもを襲おうとしていた野犬の群れは、茂みの向こうに消えてしまっていた。子どもは周囲を見まわして、自分が助けられたことに気づく。

「…あり……が……とう……ござ……」

 言葉より先に、意識のほうが途絶えたらしい。蓮鹿に向けて手を差し出そうとして、血塗れの衣のまま地面にうつ伏せに倒れこむ。

なぜこんな場所に子どもが一人きりでいる……。

刃をふるい血のりを跳ねのける。子どもの衣と一緒に血まみれの頭巾を脱がしてやると、黒光りする髪がたっぷりと陽の光を吸いはじめる。野道の泥や砂に揉まれて、それでもなお髪は色鮮やか。どうやら少女らしい子どもを抱えあげようとして、傷だらけのその背に違和感を覚えた。いや…違和感というより、それはただただ驚愕でしかなかったかもしれない。

掴もうとした腕の先、幼い少女の背から、一対の銀翼がかすかに顔をのぞかせていた。

 

 

 契りをかわして、あれから二ヶ月。裏葉は子を授かっていた。俺はただ、心から喜んだ。

「…あまり根をお詰めにならずに」

 裏葉の言葉に、俺はふと筆を置いた。灯心のまわりを、羽虫がさかんに舞っていた。おだやかな生活。なんのかわりばえもない毎日。水瓶で顔を洗い、髪を整え一日が始まる。裏葉が作った膳を食べ、裏葉が繕った衣に袖を通す。

墨をすり、書をしたため、一日が終わる。

時はゆっくりとながれていく。

「今年の秋は穏やかですわね」

「そうだな」

「これなら稲もよく実りましょうね」

「カカシは大変だろうけどな」

 どうということはない世間話。人の暮らし、大切な人の温もり。裏葉がそっと肩を寄せてくる。俺たちの営みを、月だけが見ている……。

 そうして季節は巡っていき、冬。

「寒くはございませんか?」

 衣にくるまった俺に寄り添いながら、裏葉が訪ねる。

「ああ」

 今朝は火鉢も役に立たない。氷水につけたように、古傷が悲鳴をあげて軋む。

「おまえこそ温かくしていろ。身体を冷やすと、お腹の子に悪いだろ。僧坊の手伝いもほどほどにしておけよ。それでなくても、おまえは働きすぎるんだからな」

「うふふっ」

「…なぜ笑うんだよ?」

「嬉しいからでございます」

 やせ細った俺の手と、自分の手を重ねあわせる。温かさが伝わってくる。裏葉のてのひらは、ざらざらに荒れていた。

「…綿入れを借りてきますので」

 立ち上がった裏葉が、岩戸を開けたとたんに声をあげた。

「あらあらまあまあ……」

「雪、か……」

 陽光を反射させ、白い粉のような雪がゆらゆらと降りてきては、風の合間を縫うように舞っている。

「道理で冷えるはずですわね」

「こんな土地でも降るんだな……もう少し戸を開けてくれるか、よく見えるように」

「はい」

 次々と振り降りるのは、純白の結晶。それはまるで、空に清められた焔のかけらのようで、冴え冴えとした寒気のなか、俺たちはいつまでも見つめていた。

「暖かくなってきましたわね」

 雪解けの季節を迎えたある日、針仕事の手を休めずに裏葉が言う。

 岩戸の隙間から、やさしげな光が漏れてくる。かすかなの香りに、不意に心がはやる。

「今朝はつくしをどっさりと採ってきました」

「そうか……」

「まるで山じゅうが笑っているようですわ」

 俺の枕元には、汚れた布が重ねられている。夜ごとに吐血する俺の口元をぬぐったものだ。芽吹きを待ちかねた子どものように、裏葉は春のことを話す。他のものは、目に入らないとでも言うように。

「…ほら、できた」

 裏葉が繕っていたのは、綿の入った小さな絹人形だった。

「不細工だな」

 俺が言うと裏葉は意味ありげに微笑み、人形を床に置く。そっと念をこめると、絹と綿でできた人形がひとりでに立ち上がり、ひょこひょこと動きだす。俺が手を伸ばそうとするより早く、ころりと転んでただの人形に戻った。

「大したもんだな」

「やや子が生まれたら、これであやしましょう」

 言いながら、そろそろ膨らみが目立ってきた腹に手を置く。

「そりゃいいな」

 俺は答え、絶え間ない鈍痛との戦いに戻った。

 目の前で雲水が血に染まった。受身も取らずに畦道に転がって、それきり目を覚ますことはなかった。駆け寄った俺に雲水は、

『わたしを殺した者が、どうか極楽浄土に行けますように』

 か細い声でつぶやくようにそう言った。

「その童はどうする?」

「ほっておけ、刀の錆にするほどもない」

 山賊の会話が蝉の声と共に耳に届く。俺は生かされた。生き延びたのではない。俺の生死の決定権はあちら側にあり、たまたま俺を殺す気がおきなかった。ただそれだけだ。

 雲水は死んだのはなぜか? そんなことは決まっていた。弱いからだ。

雲水を見つめ、そして知った。弱者に示される道は、死しかないことを。

 死ぬのは怖かった。だから、強くなろうと決めた。幾百の戦に出向き、幾百の敵を殺した。戦地の掟は単純だった。弱いやつから死ぬ。

死にたくない一心で、俺は人を殺し続けた。

「大志? おれがか」

 上役から承った地位。だが、地位になど興味はなかった。強い者が生き残り、弱い者は死ぬ。俺にとってそれだけが世界の掟。偉かろうがなかろうが、結局生き残るのは、強者だけなのだ。

神奈備命の警護の任を受けた際も、正直俺は乗り気ではなかった。社殿で暮らす神の遣い。弱者をどうして守る必要があるのか、全く理解できなかった。それなのに俺は裏葉とともに神奈を連れだし、長い間旅を続けた。

『なにを怪しむことがある? 雲水どのの祈りが通じたからこそ、山賊は柳也どのを殺さなかったのではないか』

あの言葉を聞いて、間違っていたのは自分の考えなのだと気づいた。世界はもっと複雑で、本当に強いものがなにかなど、俺のような一兵にわかるはずもない。けれど、自分の行いが無意味とは思わなかった。長い月日をかけ得た知識、剣術、力。その全てをかけて守りたい存在に出会った。自らの命を投げ捨てでも、生かそうと思った。

俺が道を見誤ったことに意味があるとすれば、おそらく、それは……。

「…お目覚めになりましたか」

 目の前に裏葉がいた。

「おはよう」

 挨拶を返すと、裏葉は驚いたようだった。

「今日は具合がよろしいのですか?」

 裏葉の目元が赤い。徹夜で看病をしていたらしい。俺が前に目を閉じたのは、いつだっだろう? 仰向けになったまま、動こうとしない首をめぐらした。半開きになった戸口。陽射しが真っ白に滲んでいる。

夏はもう、すぐそこまで来ていた。

「…ひさしぶりに、空でも見たくなった」

「それはたいそう風雅なお考えでございますね」

 旅にでも出かけるように、裏葉が目を輝かせる。

「ご用意いたしますので、しばしお待ちを……」

 言いながら、そっと袖で目元を押さえたのがわかった。たぶん裏葉も悟っていた。俺が空を見上げるのは、今日で最後なのだと。

 襟首をつかみ、裏葉は洞穴の外にじりじりと俺を動かしていく。骨と皮だけになった病体は、今はきっと木乃伊のように軽いのだろう。とはいえ、そろそろ臨月を迎える裏葉にはつらい仕事のはずだ。

 日向に入ると、身体全体が光に包まれる。戸口から少し離れた木立の下に、二人でもたれかかるように座った。

「柳也さま、ほら……あんなに高くを、鳥が舞っておりますわ」

 青々と光る中天を真っ直ぐに指で示す。俺にはよく見えない。俺の目にはもう、空は眩しすぎる。裏葉がぴったりと寄り添って、俺の横顔を見る。幸せそうに笑っている。

「…あら。ふふっ」

「どうした?」

 かすかに首をうごかして訊いた。

「やや子が、わたくしのお腹を蹴っておりますわ」

 膨らんだ腹に耳を寄せてみた。ゆるく結んだ帯の向こうから、扉を叩くような音がする。もうすぐ現れる生命の兆しに、俺は聞き入っていた。

「俺たちの子、なんだよな……」

「わたくしたちの子、でございます。無事に生まれるとよいのですが」

「案ずることはないさ、きっと丈夫に育つ」

「大きくなったら一緒に夏祭りに行って、都や市にも連れていきましょう。もしも女の子なら、お手玉を教えましょう。もちろん男の子でも教えますけれど」

「お手玉……か。せめて、神奈よりは上手くできるようにしないとな」

 契りを結んで以来、俺から神奈の名を口にするのはそれが初めてだった。

 裏葉はなにを言うでもなく、和やかな笑みのまま、ただ空を仰いだ。

「夏はもうすぐそこでございますね」

 その言い方が今も初々しくて、思わず俺は笑ってしまう。

 ゆっくりと過ぎる時。おだやかな陽射しと、心地よく吹きとおる風。俺たちが暮らした洞穴、岩戸の奥には俺が編纂した『翼人伝』がある。生まれてくる子どもたちが神奈の魂を捜すなら、かならず力になるはずだ。そして裏葉は、子に法術を教える。裏葉の血を受け継ぐものなら、きっと達人になれる。俺たちが見つけられなかった道さえ、辿れるかもしれない。

鼓動が高鳴るのを感じた。この丘の向こうには、なにがあるんだろう?

子供のころ旅空の下で感じたあの気持ちが、入道雲のように沸きあがってくる。時を越えてさえ、俺は旅を続けることができる。かけがえのない翼に、ふたたび巡り会うための旅を。

これ以上望むものはない。思い残すことは、もうなにもない。

「ひとつだけ、聞いてくれないか?」

「はい」

 小首をかしげるようにして、裏葉が俺のことを見た。その顔を俺は見つめ返す。この刻に宿る光と風のすべてを、心に焼きつけるために。

「忘れてもいいんだ。子を産んで育てて、慎ましい幸せを求めても、おまえだけの幸せを……追いかけても、神奈はきっと、許してくれる。神奈には俺が謝っておくから。そのときは……俺の書は、焼き捨ててくれ」

 時間はなかった。だから、心の内のすべてを伝える。

「すべてを忘れて……幸せになってもいいんだ。神奈のことも、俺のことも忘れて、幸せになってもいいんだ」

 裏葉はだまって俺の言葉を聞いていた。にっこりと笑い、そしてこう答えた。

「いやでございます」

 もう力の入らない俺の手を、裏葉が強く握り返す。

「わたくしはひとりではございません。神奈さまと柳也さまが、これからもおそばで導いてくれます。産まれてくる子もおります。わたくしは幸せでございます。これからも末永く、幸せに暮らしとうございます」

 指先から伝わってくるもの。溢れるほどの想い。俺は己に問う。

俺は頑張れただろうか? 幸せに暮らせただろうか? 

その答えは、はじめからここにあった。

「そうか……それでこそ……俺の……連れ添いだ……」

 もう一度空を見上げる。高く晴れ渡った空。光に満ちた空。それなのに、大雨の粒がぽとぽとと頬に降ってくる。

「りゅうやさま……」

 温かい夏の雨。

「りゅうやさま……りゅうやさま……」

 誰かの涙のような雨……。

「…あり……がとう……うら……は……」

「りゅうや……さま……」

 空を見ていた。吹き抜ける風を感じた。舞い降りてきた真っ白な羽根を、俺はつかまえようとした……。

 羽根が光り、姿を変える。懐かしい姿。俺が最後に逢いたいと、そう心に想い描いた少女。

羽根をつかまえる。輝きは色あせることなく、俺のなかで光を放ちはじめる。入道雲のなかに入りこんだように、目の前が白一色に染まる。

 そこにあったのは、母君と幸せそうにお手玉をつづける神奈の姿。

真っ白な雲の中で、記憶が白銀に輝いていた。




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