Summer 第十四幕 夢を継ぐもの

 

「お見せしたいものがあります」

 知徳法師に案内され、本堂の裏手の荒れた道を登っていった。盲目の老人とは思えない身のこなしで急坂を登っていく法師を、俺は裏葉の助けを借りて追いかけていった。

樹齢の高い杉が幾百と立ちならび、とがった梢で天を突いている。いつの間にか蝉の声が絶え、山鳥のさえずりに変わっていった。

「こちらです」

 山道がなだらかになった先に、その場所はあった。巨大な岩をうがった洞穴。苔むした石の中央に埋めこまれた、頑丈な樫材の扉。それはもう長い間、開いたことがないように見えた。

 裏葉はかけよると、扉にそっとてのひらを押し当てる。

「懐かしい……八尾比丘尼さまが暮らしていた場所ですね」

 俺は裏葉のように比丘尼や翼人のことを詳しくは知らない。けれど、心のどこかで俺も感じていた。ここは空に近い、と。

「比丘尼さまだけではありませぬ。かつて洞穴には、何人もの翼あるものたちが暮らしていたと伝えられております。それはもう、何百年も昔から……古には、人に幾多の知恵を授けたといわれます。そのひとつこそが、我らの法術の起源とされております」

 法術……神奈を囚えた術法の名前。久しく聞かなかったその言葉は、禍々しい意味を秘めているように聞こえた。

「おそらく神奈備命様は、今の世に残る最後の翼人でありました」

「なっ……そんなはずはない。現に都の四方には、数多く翼人の社殿が建てられていたではありませんか」

「翼人の力はご存知ですな。たった一人の翼人のまえに、何千という兵がなすすべもなく倒されていった。そのような強大な力を持った者たちを、幾人も朝廷が従えていると聞いて、叛旗をもくろむものがはたして現れるでしょうか?」

 絶句した。ただそれだけのために社殿が建てられ、そして、数多の真実を知る人々は殺されていった。法師が言いたいのはつまり、そうゆうことなのだ。

「朝廷の手勢が高野に攻めいったのは、八尾比丘尼どのを葬るためだけではありますまい。翼人という信仰そのものを、葬るつもりだったのでしょう」

「なぜ……そんなことを」

「国を治める者にとっては、神に届く翼などあってはならぬもの。いままでは地域諸国への抑圧という意味もあり、翼人を奉り崇めてきたのでしょうが、翼人の真実が公になってしまった今となっては、翼人は国を形成する上で障害にしかなりえませぬ。これよりさき、あらゆる文書には筆が加えられるでしょう。空は海と、鳥は魚と、炎は水と書き換えられ……」

 最後の翼人は既にこの世にいない。だからこそ朝廷は、翼人が伝説として残ることを恐れているのだ。翼人に関わったすべての人、すべての事物は巧妙に隠されるだろう。書物は焼かれ、書き換えられ、俺たちは最初からいなかったことになるだろう。そしていつしか、この世から消えてなくなっていく。

 翼人という存在そのものが。

「決してそのようにはなりません」

 わなわなと拳に力をこめながら、震えるような声で裏葉は言った。

「こうしていると、神奈さまのお声が聞こえます。神奈さまは今も泣いておられます」

「…やはりそなたにも聞こえますか」

 法師の言葉を聞くやいなや、裏葉は額を地に貼りつけ、凛とした口調で言った。

「知徳さま、どうかわたくしに『力』をお教えください」

 

 

 そして、俺たちはこの寺で暮らすことになった。

 あてがわれた僧坊を断り、裏葉とふたりで洞穴に住むことにした。この場所は神奈に近い気がしたし、岩戸の奥は不思議と心が落ち着いた。

 裏葉の『力』、すなわち『法術』の修行は昼夜を問わず続けられた。一口に法術といってもその種類はさまざまで、人の心を読む。幻を見せる。触れることなく物を動かす。手をかざすだけで病を癒す。見聞きしたはずのことを忘れさせる。果ては、死者の魂を呼ぶことまでできるという。

 僧たちにいわせると、裏葉は百年に一度の逸材らしい。そんなお人に満足に法術を教えることすらできず、神奈備命を探すためとはいえ、幼身一つで朝廷のある都へ旅立つのを、ただ見送ることしかできなかったことに、とても歯がゆい思いをした。と、声を漏らしていた。

 ふたたび故郷に舞い戻り法術を習いはじめた裏葉は、知徳法師がさずける秘

技の数々を、砂が水を吸うような速さで覚えていった。それでも裏葉はおごることがなかった。男ものの水干を着こなし、僧坊の力仕事もよく手伝った。そんな裏葉を、寺の僧たちは親しみをこめて『御母堂さま』と呼ぶようになった。

 俺は毎日を洞穴で過ごしていた。身体を動かすことさえ、いまは苦痛だった。それが高野で負った傷のせいだとしても、後悔はない。ただ、無為に過ごすことは死よりもつらく、苦しかった。

 行脚僧たちに頼み、翼人に関する文書や伝承をできるかぎり集めてもらった。すべての文に目を通し、俺なりにまとめあげることにした。緩慢に俺たちを消していくものへの、それが精一杯の抵抗だった。

 ふたたび、夏が巡る。

 石室の中央に、護摩が焚かれている。炎のまわりには、俺と裏葉しかいない。

「…では、はじめます」

 裏葉が詠唱をはじめると、独特の高い声が岩壁に響いていく。の術。己の魂を寄りましにして、他者の魂を引き寄せる術。裏葉の二年間の修行は、すべてこの術の会得のためだった。

「…あっ……く……」

 裏葉の額を、玉の汗が濡らす。裏葉は今、虚空にただよう霊魂のかけらを一心に受けている。少しでも気を抜けば、魂を乗っ取られる危険すらある。

「…うっ……あああ……」

 うめき声が大きくなる。

「…いやっ」

「裏葉?」

「いゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!」

 魂そのものを引きちぎられるような絶叫。護摩壇の炎がかき消える。

「裏葉っ! 裏葉、しっかりしろ!」

 暗闇のなか、手探りで抱き起こす。滝のように流せる汗を指先に感じる。吐息とともに、裏葉が身じろぎした。

「…裏葉?」

「…柳也さまが・・・…柳也さまが……」

 裏葉は、そのまま気を失った。

 数刻の後、

「目が覚めたか?」

 裏葉の目蓋が開いた。暗がりの中でさえ、顔が蒼白なのがわかる。てぬぐいで額の汗を拭ってやると、

「柳也、さま……」

 安心したように俺の名を呼ぶ。ゆっくりと上体を起こす。俺になにかを伝えようとするが、言葉にならない。

「なにを見た?」

「………」

「神奈に逢えたか?」

「…はい」

「神奈はどこにいたんだ?」

「神奈さまは……」

 言葉をきり、視線を上向ける。

「神奈さまは、まだ空におられます」

「空……に?」

「神奈さまは、いまも悲しんでおられます」

 吐き出すように言うと、唇を固く噛みしめた。神奈の魂を虚空に捕らえたものの正体を、裏葉は『観て』きたはずだ。裏葉にすればそれは、思い出すことさえ苦しいことなのかもしれない。それでもあえて、俺はこう問わずにはいられなかった。

「それを、俺に見せることができるか?」

「できません」

 いつもと変わらない口調。だが、たやすく嘘と見破ることができた。

「できないんじゃなくて、俺には見せたくないんだな」

「………」

「見せてくれないか? どんなことがあっても、もう俺は逃げたくない」

「ですが……」

「たのむ」

 ただじっと、裏葉の目を見つめる。

「わかりました」

 そっと溜息を吐く。裏葉の瞳から感情が退いていき、意思だけが宿った。

「お気持ちを、おしずめください」

 言われたとおり、心を平静に保つ。裏葉が呪文を口ずさみはじめると、ゆらりっと洞穴の暗闇が、水の上を波紋が走るように音もなく溶けていく。裏葉が想い描いたままの影像が、心に映しだされる。心を綿毛で撫でられるような、不思議な感覚に包まれていく……。

 気がつくと、夏空の下にいた。

 青々とした林の間をなだらかに続く峠道。見あげればどこまでも飛んでゆけそうな空。道端に男が転がっている。背に受けた太刀の一撃が致命傷になったらしい。だれかが泣きわめいていた。二度とは目覚めない屍に取りすがり、髪を振り乱して。

 泣いているのは神奈だった。矢を受けてぼろぼろになった翼が、陽炎のようにゆらめいていた。

「…余の命であるぞっ。起きよ……起きよっ! なぜ……動かぬ……なぜ、目を開けぬっ……ゆるさぬぞ……余を残してゆくなど……ゆるさぬ、ぞ……なぜ……なぜにみな、余だけを残して……」

 屍を揺り動かす。蒼白な顔が、がくりとこちらを向いた。それは、俺の顔。

「…柳也どのっ、柳也どの……」

 神奈は呼びかける。

「…りゅうやどのっ……りゅうや……どのお……」

 狂ったように、なんどでも、なんどでも、なんどでも。

 …違うっ! 神奈、俺は無事だ! 

俺はここにいる。ここにいるんだ!

 俺の叫びは、蝉の声にかき消されて届かない。

「うっ……うあっ……うあああっ……あっ……」

 神奈は泣きじゃくっている。ひとりぼっちで、ただ泣きじゃくっている。

「神奈っ!」

 洞穴の中で、己の叫びがわんわんと響いていた。俺を見つめる裏葉の両眼に、さまざまな想い、そして色濃い後悔がおおっていた。

「神奈は……これを見続けているのか?」

「はい」

「だから、神奈は泣き続けているのか?」

「はいっ……」

 かすかな嗚咽がまじり、言葉がかすれる。

「あの夜、神奈さまに向けられた呪法は比類なく強力なものでした。神奈さまのお心を砕いてしまうほどに……」

 三人でたどった旅路の思い出。俺が聞かせた、いちばん悲しい日の思い出。やさしくて強かった、母君の思い出。すべてを抱えて神奈は飛び立ち……そして力尽きたのだ。

「見えたのは、これだけなのか?」

「はい。翼人の心の深さは、人とはまったく異なります。わたくしの術では、ほんのうわべを垣間見るのが精一杯でございました。ただ……呪いはいまも、神奈さまをせめさいなんでおります。母君さまにかけられた呪いもまた、時を得た強固なものでございました。それは翼人に心を寄せる者を弱らせ、やがては死に至らしめます」

 なぜ八尾比丘尼にそのような呪いがかけられていたのか、今ならその理由もはっきりとわかる。翼人を知るもの。翼人を信頼し、愛し愛されたものが生きていれば、その者たちは翼人を歴史から消されぬよう、必死に書を書きおこすだろう。たとえば、俺のように……。

「母君さまとの別れの折、呪いもまた神奈さまに引き継がれました。柳也さまはお生命を奪われましょう。神奈さまの、想いの深さゆえに……」

「そうか」

 俺はただ頷いた。きっかけは、高野でのあの夜なのだろう。あれ以来、得体の知れないなにかが俺の生命を蝕んでいくのを感じていた。それが神奈と関わりがあることも、うすうす感づいていた。

「俺は、いつ死ぬんだ?」

「今より一年は保つまいと……」

「死ぬのは、俺だけか?」

 その問いに、裏葉はかすかに顎を動かした。

「柳也さまは、神奈さまの想いを常に受けとめておられます。わたくし自身は法術で受け流しもできますが、柳也さまは……」

「そうか……よかった」

「よくなどございませんっ」

 衣の膝を、両手でぎりりと絞る。

「なにゆえ柳也さまが死なねばならないのですかっ。なにゆえ神奈さまが苦しまねばならないのですかっ。なにゆえわたくしだけが……生き残らなければ……ならないのですか……」

 押し殺した慟哭が、裏葉の喉から漏れる。だが俺は、あきらめるわけにはいかない。

「どうしたら、神奈を救える?」

「………」

「答えてくれ。どんなささいなことでもいい」

「神奈さまをお救いするすべはございません」

「ないのか? ひとつもないのか?」

「神奈さまを空に捕らえている封術は、いつか朽ちる日もきます。神奈さまの魂は地上に戻り、輪廻を繰り返すことになりましょう。しかしながら、呪いは消えることはございません」

「なぜだ?」

「翼人は夢を継ぐものでございます」

 法師から得た知識と伝承をつき合わせ、わかってきたことがある。翼人は夢を継ぐ。おそらく夢とは、記憶のことを指す。つまり翼人はなんらかの手段によって、子孫に記憶を引き継がせてきたのだ。蓄えられた記憶は膨大で、そのなかには人知を越えた知識や経験も含まれるだろう。そしてそれこそが、翼人が人に智を授けたとされる理由。同時に、翼人が不老不死と誤解されてきた理由でもある。

 あの夜、母君が矢に倒れたあと。神奈は母君から、翼人という種族の歴史のすべてを渡されていたはずだ。そしてそれには母君の記憶、母君にかけられた呪いも含まれていた……。

「覚えておいででしょうか、以前知徳さまがお話になったことを。先ほどの魂寄せの折、この裏葉にもはっきりとわかりました。神奈さまは最後の翼人、神奈さまのお心を受け継げる者は、もはやこの世にはおりません」

「しかし、神奈はいつか地上に降りてくる。人として輪廻転生すれば、呪いもそこで終わるはずだ」

「翼人と人は、異なる者でございます。神奈さまの魂を人が宿すことは、小さな器に海の水を移すようなもの。注ぎ終わるより早く、器は割れてしまいます。神奈さまの魂は、癒される間さえなく輪廻に戻りましょう。それに……この先神奈さまが地上に降りられることがあるとしても、早くともそれは千年ものちのことでございます」

 それきり、裏葉は口をつぐんだ。神奈は今も空にいる。それなのに、俺に翼はない。俺に時間は残されていない。未来永劫、神奈は苦しみつづける。終わらない夏のなかで、神奈は大切な者を失い続けるのだ。

 天井を仰ぐと、千年の時の重みが音もなくのしかかるのを感じた。神奈を救うこともできず、行く手にはただ死だけが待っている……。

「ひとつだけ、手だてがございましたわ」

 声色の奥に、揺るぎない確信。絶望に沈みかけた俺は、裏葉のその言葉に身を乗りだしてたずねた。

「なにか……手があるというのか?」

「はい」

「どうすればいい?」

「簡単なことでございます。子をお作りくださいませ」

「…は?」

 聞きまちがえたのかと思った。けれど裏葉は言葉を改めることもなく、ひょうひょうと続ける。

「子をお残しになれば、柳也さまのご意思も残せましょう? その子が孫に、孫が曾孫にと伝えれば、ご意思はいつまでも朽ちることはありません。そうすればいつの日にか、神奈さまをお救いすることもできましょう」

 名案とばかりに、両手をぱんっと合わせる。俺はただただ呆れ返っていた。

「子どもと言っても、どうするんだ? 孤児を捜すとしても、そう簡単じゃないぞ」

「あらあら、そんなこと。自前でこしらえればよろしいのですわ」

「…おまえ、それがどういう意味かわかっていっているのか?」

「わたくしも女童ではございません。閨の作法は心得ております」

「そういうことじゃなくてだな……」

「ほかに術がございますか? 残された時は、あまりにも短うございます。この上お生命を無駄にされては、神奈さまがお可哀想でございます」

俺の目を正面から見据え、裏葉は切々と言葉をつむぐ。これまで幾度となく助けられてきた、無私の心。しかし、今回ばかりはそう簡単にすがるわけにはいかない。考えあぐねる俺に、裏葉がぽつりと言った。

「わたくしとて、誰とでも寝屋をともにする気はありません。柳也さまとだからこそ。それに、もう一つ理由がございます」

「…なんだ?」

「柳也さまがお亡くなりになれば、わたくしはひとり残されます。あとを追うことは、柳也さまは決してお赦しにならないでしょう」

「あたりまえだ」

 俺が死んだとしても、裏葉には生きてほしい。たとえ俺の独善だとしても、それだけは譲る気はなかった。

「柳也さまが耐えろとお命じになれば、いかようにも耐えてみせましょう。ただ……どうかお考えになってください。神奈さまも柳也さまもお側になく、この身ひとつで余生が果てるのを待つ。あまりにも、酷な仕打ちでございます」

 自分の言葉から身を隠すように、そっと目を伏せる。

「せめて忘れ形見を、わたくしにお授けくださいませ……」

 俺の胸に顔を埋める。水干の衿元から、たきしめた香の匂いがした。裏葉と知り合ってもう二年。美しいと思うことはあっても、可愛いと思ったことはなかったかもしれない。

「おまえは本当に、卑怯なやつだよな」

 裏葉の頭をそっと撫でてやる。手入れをする暇もなかったのだろう、その髪に以前ほどの艶はない。

「己に正直なだけでございます」

 上目づかいに俺を見て、いつもの澄まし顔をつくる。断ることなど、できそうになかった。

「裏葉……」

「はい」

「俺の子を、産んでくれるか?」

「仰せのままに」

「ただし、ひとつだけ条件がある。俺は残りの時のすべてを、おまえのために使う。それでいいな?」

 裏葉は頷き、そして笑った。それはここ数年来で見せた、一番の笑顔だった。

 




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