Summer 第十三幕 無垢なる魂
高野が燃えていた。
立ち並ぶ伽藍も尖塔も、ごうごうと炎を吹き上げていた。攻め入った軍勢が火を放ったのだろう。それでも、呪詛が止むことはなかった。
自らの死を賭してさえ、僧たちはを続けている。翼人の災厄から、人の世を守るために。
なにが間違っていてなにが正しいのか。そんなこと、俺にわかるはずがなかった。護るべき少女を失った。俺に理解できたことは、ただそれだけだった。
山中に立ち尽くしているうちに、朝が訪れた。木漏れ日の向こう、あたりまえのように夏空が広がっている。
神奈を奪い去った空。その青さに耐えられず、俺は地面に両膝をついた。蝉が高く鳴きはじめて、拳を土に叩きつけた。
山賊に襲われたとき、俺は命を落とすはずだった。この霊山で、俺は命を落とすはずだった。なのに俺はいまだ、ここにいる。
昨夜のうちに金剛峰寺は陥落した。廃材の焦げる匂いにのって、どこからか刀で切り結ぶ音が聞こえてくる。残兵同士の小競り合いは、今もどこかで続いているようだった。
立ちあがり、太刀を鞘から抜く。敵中に斬りこみ、神奈の臣下として果てる。神奈をあんな目に遭わせた奴らを、できるだけ多く道連れにする。
いや……本当は理由など何だっていい。ただ、俺を滅ぼしてくれる者を探していた。
「…柳也さま」
ずっと無言だった裏葉が、不意に俺の名を呼んだ。何もかも見透かした音声が、今はたまらなく重荷に感じる。
「おまえとはここで別れる。俺や神奈のことは忘れろ、達者で暮らせ」
裏葉は何も答えなかった。衣の袖を鳥のように広げ、俺の行く手をふさいだ。
「邪魔立てするなら、斬る」
「お斬りくださいませ」
俺は太刀の切っ先を返し、裏葉の喉元に突きつけた。社殿でやった脅しとは違う。どかないのなら、本当に突き殺す。
だが、裏葉は考えてもいなかった手段に出た。突きつけられた刃を両手でおおい、研ぎすました刀身を、布でも絞るように握りこむ。俺が少しでも身動きすれば、裏葉の指はすとんと落ちる。
「どうぞお斬りくださいませ」
「脅しではないぞ」
「わたくしも脅しではございません」
「悪鬼と変じた柳也さまを見て、なぜ神奈さまがお喜びになりましょうか」
「神奈はもういない」
「柳也さまはここにおられます。神奈さまの願いどおり、柳也さまはたしかに生きておられます」
たしかに俺は生きている。だが神奈を失った今となっては、その事実は身を裂くような後悔しか残しはしない。
「俺はこれ以上、生き恥を晒したくないんだ……」
「…なら、いまここで死ね」
突如、震えるような寒気に襲われた。背中に鋭利に尖った何かが触れる。じわりじわりと汗が背から吹き出している。傷口に汗が染みる。俺の真後ろで、なにかが息を潜めている。
裏葉がゆっくりと刀身から指をはなす。太刀を構えなおし、くるりと向きなおす。紅い男が立っていた。樹木の緑をうつしとったような色をしていたはずの狩衣は、どの部分を見ても紅一色に染まっている。まるで、他の全ての色を食いつぶしたかのように見えた。
「俺はおまえを信じた。おまえなら、比丘尼や神奈を助けだせる。そう信じていた」
「…すまない。俺の力ではどうすることも」
ピシュッ
右の眼に熱いものを覚えた。鮮血が飛び、大地が滴る赤で色を変えていく。
「兄様っ、なにを!」
裏葉の言葉で、俺は右目を失ったことに気づいた。
「おまえは神奈を囮につかったのだろう」
「なっ!?」
俺より先に、裏葉が驚愕の声をあげた。
「自分が生き延びるために、比丘尼や神奈を殺し、そしていま裏葉さえその手にかけようとしている」
「違いますっ。柳也さまはそのようなこと!」
「裏葉、比丘尼や神奈が殺され、狂乱しかけているのはわかる。だがな、そいつはおまえの喉元に切っ先を突き刺そうとしていた。それが何を意味するかは、赤子でもわかることだろ。俺はこいつを殺す。それですべてが終わる」
「まだなにも終わってなどおりません」
「終わったんだよ。比丘尼も神奈ももういない。なにもかも、もう終わりだ」
「お声が聞こえます」
蝉の声と葉擦れの向こうに、裏葉は一心に耳を澄ます。
「神奈さまのお声が聞こえます。神奈さまはお泣きになっています。かすかにですが、わたくしには聞こえます」
耳に入ってくる言葉の奇妙さに、正気を失ったのかと思った。残った左の眼で裏葉を見あげる。その瞳には、たしかに光が宿っていた。あの夜に散った最後の羽根の輝きが、裏葉の中にあった。
「…あきらめが悪いんだな」
太刀を地面に突き刺すと、震える両足でゆっくりと身体を立ち上がらせ、全身に力をこめなおす。
「あらあら、柳也さま。元より女とはあきらめが悪いものでございます」
裏葉の軽口に、ふくみ笑いをこぼしそうになる。
「…俺も、あがいてみるか」
「動くなっ」
刃が向けられる。だが、不思議とそれに恐怖を感じることはなかった。
「悪いな蓮鹿。もう少しだけ、生き恥を晒してみることにする」
「だまれっ!」
何百という血を吸ってきた、鋭い刃が空気を切り裂いて振りおりてくる。
頭一つ分身体を右にずらし、それをかわす。太刀を強く握り、振りあげる。
血が飛び散る。右目のわずかに上、目じりを裂き、刃は額へと走り抜ける。ぽたぽたと赤い雫が大地に流れはじめる。
「まだ、死ねない。神奈に生かされたこの命、無駄に散らすわけにはいかない」
刀を鞘に収める。顔の右半分を押さえながら、蓮鹿は片膝をつく。見た目以上に傷は深いはず……半刻程度は視界がさえぎられるだろうが、ここは戦地とは離れているのだから、見つかって殺されるようなことはないだろう。
「じゃあな。たっしゃで暮らせ」
それきり柳也が蓮鹿に遭うことは、二度となかった。
裏葉と柳也が去り、血だまりが広がっていた。
高野がさらに勢いを増して燃えはじめて、僧兵が絶命する。僧兵が倒れ、その前には生暖かい太刀を片手に、一人の男が立ちつくしていた。額から右目にかけて深い傷を負った男。彼の足どりはふらついていて、傍目に見ても瀕死の身であることは明らかだった。
それなのに、吾妻の傭兵でも、高野の僧兵でも、彼を殺すことはできなかった。精神の一部が欠落してしまったのか、それとも、もう心そのものが残っていないのか。彼の振りおろす刃には、一筋の迷いすら存在しない。
全てに裏切られ、全てを失って、真なる悪鬼がいま、高野の山で産声をあげる。
半年が過ぎ、柳也たちは都にいた。
柳也の受けた刀傷は一向に治らず、裏葉の肩を借りての逃避行をして、やっとのことでそこまでたどり着いた。
『翼のある悪鬼が高野に降りたち、雷で伽藍を焼きはらった。朝廷の軍勢が悪鬼を退治しようとしたが、まったく歯が立たなかった
。名のある陰陽師が数多の術を用い、悪鬼を空に追い返した。だが悪鬼は術を破り、高野に集まった人々全てを皆殺しにした。それからまもなくして、翼のある悪鬼は朝廷の精鋭たちによって始末された』そんな噂が、人々の間に浸透していった。
行商人の夫婦と身分をいつわり、あの夜になにが起こっていたのかを探った。
噂を集めるのはもっぱら裏葉の役目だった。兄は翼人の討伐隊の一員で、位もかなり高い。自分が蓮鹿の妹と知るものは多いから、それを利用して色々と探ってみる。そんなふうにして、裏葉ははじめて自分の素性を語っていった。
長い時間をかけて、俺たちは裏の事情を知った。
朝廷陰陽師の一派と藤家が手をむすび、権力を意のままにしようと謀った。そのためには、花山法王の信奉する翼人の存在が邪魔だった。だが汚れ役に雇った東国の傭兵団が、翼人の力ほしさに裏切った…。
兄から聞いていたものと幾つか話がくい違っていたらしく、その話は裏葉にも多くの驚きを覚えさせた。
ただ、俺にはもうどうでもいいことだった。神奈の行方は知れず、疲労だけがつのっていった。
そして一年後、俺たちはふたたび旅に出ていた。西にある島国。そこには高野山や朝廷陰陽寮に匹敵する強大な術を有する一団がある。神奈は法術により封じ込められた。法術で翼人を封じることができるのなら、逆に解くこともまた可能ではないか?
裏葉のその言葉をきっかけに、俺たちは都を離れた。
俺は身体の自由がきかず、杖をつくようになっていた。不自由な身体での道行は、裏葉にばかり負担をかけさせた。船をつかい島国に向かったときが、もっとも辛かった。雲の切れ間から射しこむ光を見ていることしかできない。
時折耳に届くさざなみの音色が、頭の中で反響を繰りかえしていた……。
裏葉は弱音ひとつ吐かなかった。何もできない自分の不甲斐なさが、たまらなく辛かった。
海沿いのけわしい道を進んでいるときだった。俺たちは、雲水らしいひとりの僧に呼びとめられた。
「神奈備命のご随身、柳也どのとお見受けしますが」
柳也と呼ばれるのも、神奈の名を聞くのも、本当にひさしぶりだった。
「そちらの名は?」
警戒を解かずに問うと、僧は声をひそめて言った。
「さる方がお待ちでございます」
「さる方とは?」
僧はなにも答えず、ただ付いてくるようにとうながした。案内されたのは、深い山中にある朽ちた山寺。ぼろぼろの山門をくぐるとき、裏葉がしきりに辺りをきにしているのがわかった。
「…何も変わっていないのですね。いまだ結界を張りつづけているようで」
意味がわからず首をかしげると、
「こちらは隠し寺でありますれば、招かれざる客には参道そのものが見えません。されど、さすがは裏葉様でありますね。一瞬で結界の有無を見破るとは」
「招かれざる客、ですか。寺ひとつ外界と隔離したとして、なにが変わるわけでもないでしょうに……」
旅装のまま、本堂に通された。何もない広間の中央に、小柄な老人が石仏のように座っていた。その人物がこの山寺の主であることは、闇のように黒い墨染めの法衣が物語っていた。
「お連れいたしました」
「稜栄どの、ご苦労であった」
一礼し、道案内の僧は本道を出ていった。
そして老僧は、ゆっくりと俺たちに向きなおった。思わず息を飲んだ。何かでえぐられたかのように、老僧のにはまったく眼光がなかった。
「柳也どの、長旅で疲れているとはお思いですが、しばしこの老体に耳を傾けてくださいませ」
この広間そのものが話をしているような、不思議に通る音声だった。なぜ俺にだけそのように前置きしておいたのかは、老僧の次の言葉で理解できた。
「拙僧はと申します。そこにいる娘、高田裏葉の祖父になりますな」
「なっ!」
思わず身を乗りだしそうになって、知徳法師の咳ばらいで正座を組みなおす。
「それにしても、御身ひとつで高野の結界を看破するとは……」
「ご存知なのですか?」
「神奈備命の一件については、あらかた聞き及んでおります」
「…では、神奈さまはいまどちらにっ?」
にじり寄った裏葉に、法師はゆっくりと首を振った。
「もはやこの世にはおりますまい……」
それは、あたりまえの事実だった。なのにそのあたりまえな事実さえ、受け入れようとしない自分がいた。裏葉もただ無言のまま、法師の話を聞いていた。
「…ところで、八尾比丘尼どのには会われましたか」
問われて、蓮鹿や高野の僧たちが、神奈の母君のことをそう呼んでいたことを思い出した。山を降りる途中で矢を受け、八尾比丘尼は最後にこういった。
『本当に大きくなりましたね。わらわはあの人のことも、あなたのことも、心から愛していた』
その意味を問いかけると、裏葉は自分と比丘尼との経緯を説明していった。
古来より、この島では翼人は守り神として奉られてきた。人が翼人に、翼人が人に力を貸しあたえてきた。
そんなある日、八尾比丘尼と島の青年が恋に落ちた。たちまち二人の間に子どもが生まれ、神奈と名づけられた。子どもの少ない島国で育った裏葉にとって、神奈は歳のはなれた妹のようなものだったのだろう。神奈の幼かったころを語る裏葉の表情は明るく、当時の幸福さを物語っていた。
だが、幸福は長くは続かなかった。朝廷が翼人の存在を何処からか聞きつけ、何千という兵を島に送りこんだ。比丘尼を先頭に島のものも懸命に戦いつづけたが、ついに敵兵に幼い神奈が捕らえられた。比丘尼は神奈の命を守るため、朝廷の言いなりになることを決意した。
八尾比丘尼は数多の戦に参戦し、何千何万という躯を作りあげていった。
だが各地の内乱もおさまり、朝廷が実質的な国の支配を終えてしまうと、朝廷は掌を返したように、八尾比丘尼の力を恐れるようになっていった。
八尾比丘尼を封じておくための方法、比丘尼が絶望し、自ら結果内に押し止まるような方法。たとえば、娘が死んだと比丘尼に言いきかせる……。
裏葉は真実を知り、神奈と比丘尼の双方を助けだすすべはないかと考えを重ねた。そして、女官として翼人の臣下につく方法を思いついた。神奈が生きているとすれば、翼人の臣下となり各地を回ることで、いつか神奈という翼人につき従うことができると、そう信じて……。
朝廷は翼人との繋がりの強かった高田を、特別な家柄として扱っていた。そうすることで、高田をはじめ島民の謀反を抑え込もうとしたのだろう。ずいぶんな処遇と思えるが、裏葉にとってこれは都合の良いことであった。特別扱いされることで、女官として動く際に物事を有利に運んでいき、そしてついに、神奈のいる社の位置を突き止め、そして……。
「高野に幽閉された比丘尼どのを、あそこの僧たちは不老不死と信じておりました」
知徳法師が言って、俺は理由を問いかけた。
「あまたの薬学、算術、陰陽術の知識。それらは高野の僧たちの常識を遥かに逸脱しておったのでしょう。この者は不老不死だ、不老不死だと騒ぎたてたと聞きます。比丘尼どのがなぜそのような知識を持っていたのかは不明ですが、僧たちは不老不死ならば何をしてもいいとでも思っていたのでしょう。それとも、比丘尼どのを人として見ていなかったのか……あれほどの呪いを身にうけ、比丘尼どのはさぞ無念でしたでしょうな」
「呪い……でございますか」
「さよう。本来、翼人とは無垢な魂を持つもの。それがいつからか、戦の道具として人に囲われてきたのです。不本意に為したこととはいえ、殺めた亡霊はすべて比丘尼どのに群がります。人の身であればたやすく朽ちる呪いも、翼人にはただ蓄えられるばかりとなりましょう」
母君の言葉が思い出された。
『この身はすでに穢れています』
いくら亡霊にその身を蝕まわれたとしても、なまじ翼人などという強い生物として生まれてきたがために、安楽をもたらすための死すら訪れることはない。
「…翼人とは、なんなのでしょう?」
知らず、そんな問いが口をついていた。
「たしかなところは、拙僧にもわかりませぬが……翼人は夢を継ぐと伝えられております。それゆえに、無垢なものだと」
法師の答えは謎かけのようで、俺にはよくわからなかった。無垢な魂を持つもの。そして、夢を継ぐもの……。
「あまたの薬学、算術、陰陽術の知識。おそらく翼人は、何らかの方法によって記憶を受け継いできたのだと思います」
「記憶を?」
「さよう。親から子へ、子から孫へ、その身に宿したあまたの知識全てを伝えていく。ゆえに、翼人を不老不死などと勘違いするものが現れるようになったのでしょう」
知徳法師の言葉を頭のなかで繰り返しながら、柳也は沸きあがってきた一つの疑問を口にする。
「伝えるのは、知識だけですか?」
「いや……おぬしの想像どおりじゃよ」
神奈を捕えた呪歌。あれは亡霊の呻き声のようにも聞こえた。殺めた亡霊たちの、人の身であれば容易く朽ちる呪い。その呪いは、八尾比丘尼から神奈へと受け継がれていた。
思考をめぐらせていると、知徳法師は一冊の文書を懐から取りだし、言った。
「この島には古くから伝わる童謡があります。『鳥の詩』という名の短い童謡。羽根のある少女の物語であります。いつか比丘尼どのは言っておりました。これは始祖の記録。わらわたちの、始祖の記憶だと」