Summer 第十二幕 最後の命

 

 月光が森に満ちている。

神奈が母君の亡骸と、最期の別れをしている。刺さったままの矢を引き抜き、着物の袖で血のついた口元をぬぐう。神奈は三つのお手玉を母君の胸元に置いた。手向けがそれだけでいいことは、清らかな死に顔が物語っていた。

「柳也どの」

 腰を上げ向きなおると、音声を整え、俺に言う。

 母君が神奈に伝えたかったもの。やさしさと強さと、翼を持つ者の誇り。

たとえ目の前でなにが起きようと目を逸らすことなく、毅然とした態度で生きろという、強さと誇り。

「守護の労、まことに大儀であった。つかの間であったが、余は……余は……」

 言葉はもう、用をなさなかった。

 神奈が泣いていた。俺に取りすがり、泣きじゃくっていた。狩衣の胸元に、温かい涙が染みこむのを感じていた。

 右手で神奈の頭に触れる。絹のようにしなやかな黒髪を、そっと撫でつける。そのまま抱きとめた。きゃしゃな身体をわななかせて、神奈はただ泣き続ける。こんな小さな身体のどこにあったのかと不思議に思うくらい、果てることなく、ひたすらに眼から涙が流れていく。俺の衣をつかんだ指に、ぎゅっと力がこもる。

 神奈の母君よ、どうかいまだけは許してやってほしい。強さも誇りもかなぐり捨てて、赤子のように泣きじゃくる愛娘のことを……。

 ざわりと風が動いた。山を揺るがすように、また鬨の声があがった。野太い木霊が幾重にも重なる。

 死地の気配に、背中の傷がじりじりと疼く。己の不甲斐なさを鞭打つように。

「まだ、守護の命を終えてはいない」

 そう、まだ終わってはいない。ここから神奈を救い出す。この少女を、あたりまえの幸せに導く。…まだ、終わってはいない。

 どこをどう逃げたのか、まったく覚えていない。篝火と具足の鳴る音に、何度も行く手を阻まれた。そのたび方向を変え、山中を闇雲に逃げまどった。

 いくら走り続けても、蓮鹿と出会うようなことはなかった。裏葉の表情が硬い。気配に敏感な裏葉がなにも感じ取れない以上、蓮鹿と合流しようという考えは捨て、ここから逃げきることに全てをかけたほうがいいだろう。

いや、それ以前に蓮鹿が生きているかすら定かではない。それに、仮に向こうが生きていたとしても……。

 だれからともなく、その場に座りこんだ。神奈ですらもう気づいているのだろう。すでに逃げ場など、どこにもないことを。

「柳也さま、こちらを」

 差し出された竹筒を、俺は断った。

「俺はいいから、神奈にやってくれ……」

 三人の中で、いちばん息があがっているのは俺だった。背中の傷口が開きかかっている。守護役のはずが足手まといになっているのは、耐え難かった。

「余の命であるぞ、飲め」

 ぶっきらぼうな音声で、俺に竹筒を突き出してきた。受け取って振ると、力なくたぷんと鳴った。ほかに竹筒はあるかと訊ねると、裏葉は力なく首を左右にふった。

「わかった。三人で飲もう」

 ほんの少しの水を、いつくしむように回し飲む。気がつくと、三人でぴったりと肩を寄せていた。その場所は木々が開けていて、見晴らしがよかった。

 向こうの山腹に、金剛峰寺の郡があった。月光を浴び浄土のように煙っている。

「このように三人で身を寄せあっておりますと、まるで……」

「…仲のいい家族みたいだな」

 言ったとたんに、裏葉が俺のことを見返してきた。

「…なんだよ、その顔は? 『息苦しいほど身を寄せ合うのがまことの家族』って言ったのはおまえだろ」

「まことに、そうでございますね……」

 呑気に話をしながらも、俺は周囲に気を配っていた。しんと落ち着いた夜気に、松脂と煙の匂いが混じっている。ここに軍勢がなだれ込むまで、そう時間はなかった。

 そのときだった。

「ふたりとも、願いはあるか?」

 まったく出し抜けに、神奈が問いかける。

「願いか、そうだなぁ……」

考える振りをしながらも、俺の願いは決まっていた。俺の命に代えても、この包囲を脱すること。せめて神奈だけでも、生かして逃がすこと。

「わたくしにはございます。神奈さまと柳也さまと、いつまでも暮らしとうございます」

 こんなときにまで能天気なやつだ。そう言おうとして口を開いた。なのに、出てきたのは全く別の言葉だった。

「それもいいかもしれないな」

「どこか静かな土地に、小さな庵をかまえましょう」

「食い扶持ぐらいなら、俺がどうにかできるしな。畑を耕すか、狩りをするか」

「海の近くなら、をすることもできましょうね」

「海、か…どうせなら、西のほうの温かい海がいいな」

「海とは、どのようなものだ?」

「なんだ知らないのか」

「途方もない水たまりと聞いておるが、この目で見たことはないぞ」

「水たまりは水たまりでも、全部塩水だぞ」

「…また余をたばかっておるであろ」

「まことでございます」

「それにな、海は空と同じぐらい広い」

「なんと……」

「鯛もアワビも食べ放題でございます」

「まことかっ」

「ま、それは獲れればの話しだけどな」

 一瞬の間さえ惜しみながら、幸せな会話が続く。その隙をうかがうように、四方から足音が近づいてくるのを感じていた。朝廷の軍勢か、高野の僧兵か、それとも吾妻侍か。いずれにせよ、敵に相違ない。

 裏葉に目で合図を送る。

 俺が倒されても、今度こそ絶対に振り返るな。神奈を連れて、逃げられる所まで逃げろ。

「海辺の村にも、夏祭りはありましょうね」

「ああ、どこにだってあるさ」

「今度は三人で踊りましょう」

「そうだな……見ているだけなんて、つまらないからな」

 三人で踊る。実現できれば、どんなにすばらしいことだろう。太刀にそっと手をかける。裏葉も右手でふところの小刀を探る。

 煌々と月が照りばえる夏の晩。たくさんの人々と、にぎやかな祭囃子。天に昇っていく、炎と笑い声。神奈が一生懸命に踊るが、その姿はあまりにぎこちなくて、見かねた裏葉が手ほどきをはじめる。俺はただ笑いながら、楽の音に身をゆだねる。

「これは、夢であるな」

 神奈の声で我にかえると、俺たちから身体を離し、神奈はすくっと立ち上がっていた。

「余の夢だ……」

 大きく広げた両袖で、そっと宙を掻き抱く。この場でかわした全ての言葉を、自分の中に閉じ込めるかのように。

「夢は、つらい夢ばかりではない」

「神奈?」

「楽しかったぞ」

 様子がおかしい。そう気づいたときには、すでに神奈は覚悟を決めていた。

「決してここから動くでない」

「動くなって、おい?」

 俺が立ちあがると同時に、神奈がするりと近寄ってきた。

「柳也どのと一緒におると、羽を忘れられた」

 衣を脱ぎ捨て地面に落とす。裸身が微風をまとい、唇と唇がふれた。神奈の温かさが、震えと共に伝わってきた。

「余の最後の命である。末永く、幸せに、暮らすのだぞ……」

 光と共に翼が広がって、神奈を中心に風が渦を巻いた。

天の御使い。その名にふさわしい輝き。人知を超えたものとして君臨するかのような、あでやかな翼。透明な膜が周囲に生まれたのがわかった。

母君のときと同じ。ただ、周囲を覆う風の威力が桁違いだ。膜の内側にいるというのに、吹き荒れる風はすさまじく、目を開けているのさえ辛い。

 舞い、荒れ狂い、周囲を圧する。木々も大地も、耐えきれずに悲鳴をあげている。地上を離れ、ふわりと神奈が舞いあがる。

「………!!」

 俺は神奈の名を力いっぱいに叫んだつもりだった。腹のそこから、出せるだけの全てをふり絞って。だが、自分の耳にすらそれは届かない。風に音がかき消され、呆然と見ているしかなかった。

 山を揺るがすすさまじい突風に軍勢が逃げまどう。そのうえを、神奈はゆっくりと飛ぶ。愚かな人間たちに、翼の威光を見せつけるかのように。

 とつじょ神奈がバランスを崩す。頭から垂直に、地面に向けて落ちていく。

「くそっ」

 駆け出そうとした俺の前に、裏葉が立ちはだかった。

「柳也さま、追ってはなりません」

「なっ……わかっているのか、あいつは俺と同じことをしている。自分の身を囮にして、俺たちを逃がすつもりだ。死ぬつもりなんだぞっ」

 鼓膜が割れるほどすさまじい音があたりを襲ったのは、そのときだった。

真空波。濃縮された風の塊が渦を巻いて、木々を、地面をえぐりとっていく。大地が二つに裂けていき、山全体から断末魔があがる。雑兵たちが容赦なく中空に巻き上げられ、雨が注ぐ。根元さえぐらつき、枯葉のように宙へと飛ばされそうな樹木へ向けて、真紅の雨が降り注ぐ。

やがて、音が止んだ。

「神奈さまは、心から願っておいでです。柳也さまに生きながらえてほしいと」

「俺は……神奈の随身だ」

「もはや違います。神奈さまにとって、柳也さまは……」

 裏葉が瞳を空に向ける。白銀の宝玉が転がっていた。神奈の銀翼が、宝玉の光を浴びて輝く。金剛……この世でもっとも美しい宝石。月の光にさらされた神奈の翼は、まさしく金剛の輝きをはなっていた。

 ゆるゆると、神奈は昇っていく。

 向かいの山陵から、呪詛のうねりが響いてきた。何百もの僧侶が声を合わせ、調伏の呪文をとなえている。解き放たれてしまった悪鬼を、ふたたび封じこめるために。

 風が衰え、翼の輝きが苦しげにまたたく。巣立ったばかりの小鳥のように。それでも、神奈は飛び続ける。

 地に這いつくばっていた兵たちが、弓矢を手に体制を整える。

「…いまだ、射抜けよ!」

「おのれ、妖物めっ」

兵役たちが雄たけびのように声を張りあげる。何百、何千という矢の雨が、空からではなく、地上から降りそそぐ。まるで、天地が逆転してしまったような光景だ……。

光と共に羽根が散り、神奈の身体がぐらりと傾いた。

「やったか?」

「いや、まだだ。だがきゃつは手負いぞ。早よう射て、射てっ」

「神奈っ!」

 我を忘れ、俺は叫んでいた。

「もっと高く飛べっ! もっと高くっ!」

 神奈は昇る。かなわぬ願いを、天に届けるために。

 追いすがる鎖のように、呪詛の声も高まっていく。

 そして、光がはじけた。

 羽根が飛び散って、それきり神奈は動かなくなった。何もない虚空で凍りついたように。翼の光が衰えていく。やがて、何も見えなくなった。

 

 

 風が強い。瞳は重く、目を開くことができない。俺の腕ほどもある小岩が頭部に当たったまでは覚えている。出血で目の前が真っ赤になって、ふらついているうちにぬかるみか何かに足を取られた。

 竹筒から水を取り出すと腕にためて、目の中に入った血をごみと一緒に洗い流していく。幸い目尻は切れていないらしく、次から次に血があふれてくるような、最悪の状況だけは回避できたようだ。

 慎重に瞳を開くと、黒い雨が空に向け飛びかっていた。空に目を向けると、銀翼が風をきるように、月を目指しどんどん高みへと昇っている。

 それが神奈備命だと気づくのに、一秒もかからなかった。

「あいつ、なにを考えている。血迷ったことをさせないよう、裏葉やあの柳也という男を共に逃がしたというのに……」

 具足の駆ける音が耳に届いて、太刀に手を伸ばす。

 蓮鹿の存在に気づいたのか走音は止み、兵の一人がこちらを指さす。狩衣姿の手だれが三人。いずれも、朝廷の兵たちだ。

「蓮鹿っ、なんだあの妖物は! 悪鬼は一匹のみのはずであろ。さては貴様、我々をたばかったな!」

 弓に長槍、長刀。この混乱で偶然集まった者たちなのだろう。彼らの武器はどれもばらばらであった。

「だから俺は最初から反対だったんだ。こいつは高田の、法術とかいう妙術を使う一族の者だ。陰陽術とも封術とも異なる力。第一、こいつは八尾比丘尼の……うぐっ」

 長刀を男の胸に突き刺す。鈍い感触が腕にかえってくる。太刀を引き抜くと、今度は肩から心臓に向けて一気に振りおろす。骨を絶つ懐かしい感触。音もなく長槍が地面にころげる。

「乱心したか、この裏切り者が!」

 躯を踏みつけると、背を低くし長刀の一撃をかわす。顎の下に潜りこみ、そのまま刀を振りあげる。

「…邪魔だ」

 べっとりと暖かい飛沫が顔に降りかかる。一瞬で二人を惨殺した男の眼には、一筋の光すら映っていないように思えた。

「ひっ」

 弓を片手に提げた男が身じろぐ。こんな至近距離で弓など撃とうとしても、当たるわけがない。蓮鹿を目で捉えたまま、左手で太刀に触れようとした。だが太刀があるはずの場所に存在するものは何もなく、伸ばした指はすかすかと宙をかするだけ。さきほどの突風で吹き飛ばされたらしい。一応鞘だけは残っているが、そんなものがあっても時間稼ぎにすらならない。

「ひあっ……」

 弓を投げ捨てると男は踵を返し、森の奥へと走りだす。

 化け物だ。翼人だけではない。翼人に関わるもの全てが、もはや人間ではない。人身と交わることで、翼人が悪鬼に生まれ変わるのだとすれば、翼人と交わった人身もまた、同じく悪鬼に変異していたとしても、おかしくは……。

 腹に熱いものを覚えた。手を触れると、胸の辺りから矢の先端が飛びだしている。続けて、今度は肩。

 血が吹きでる。生暖かいそれが、身体にふりかかる。

 なのになぜだろう。寒くてかなわない。身体は動かなくなるし、歯がかみ合わなくなるほどに、寒さが増していく。寒い、寒い、寒い、さむ……。

 男の意識は途絶え、世界が真っ赤に染まる。その背に、ひらひらと一枚の羽根が舞い降りる。紅にその身を染めた、銀色の羽根。

 足音が遠ざかっていき、男はそれきり二度と動くことはなかった。

 




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