Summer 第十一幕 届かぬ願い

 

 山道を下るにつれて森はさらに深みを増していき、枝を透して振る月光が衰えていった。と、母君が木の根に足をとられた。ふらふらとよろけ、その場に膝をつく。

「ははうえっ」

「近づいてはなりません」

 一人で立ち上がり、また進もうとする。

 唇をぐっと噛みしめ、神奈もその背中に続こうとする。

「おそれながら、申し上げます」

 裏葉が母君の前にかがみ、歩みをさえぎった。

「神奈さまと、お手をつないでいただきたく存じます」

「できないと申したはずです」

「よんどころない事情がおありなのは、ご承知いたしております。しかしながら……」

「そなたには子がいますか?」

「いえ……」

「それなら、わらわの心持ちはわかりますまい」

 話は終わりだというように、片袖で顔を覆い隠す。だが裏葉は引き下がることなく、なお毅然とした態度で続けた。

「わたくしには、母御の気持ちはわかりません。しかしながら、神奈さまのお気持ちはよくわかります。旅の間じゅう、神奈さまはずっと……」

「静かに」

 めずらしく我を忘れている裏葉を、俺はさえぎった。なにかが頭上を横切っていく気配がしたからだ。

 ひゅるるるるるるる……。 

 鋭い笛の音が、夜空に響きわたった。

「鳥か?」

 夜空に首をめぐらし、神奈が訊いた。

「いや……だな」

 蓮鹿が答えると、笛の音はさらに数を増していく。

 ひゅるるるるるるるるる……。 

  ひゅるるるるるるるるるる……。

 一の矢に呼応するように、次々と放たれる。昔、嫌というほど聞かされた音色。

 うおおおおおおおお……

 地響きのようなうねりが、夜気をびりびりと揺り動かした。それは、何千という軍勢があげるの声だった。合戦が始まろうとしている・・・…。

「高野に攻め入ろうとしているのか?」

「結界がやぶれたのなら、おそらく」

 立ち上がった裏葉が、いつもの声色で言った。ごくりと喉が鳴る。俺の思惑を超えたところで、巨大ななにかがうごめくのを感じた。

「急ごう」

 進みだそうとしたとき、茂みから白頭巾の男が二人姿を現した。

 母君の体調は思わしくない……逃がすのは難しいだろう。となれば、手早くこの僧兵たちを倒すしかない。背中の痛みはまだ残っているが、こらえきれないほどではない。鞘に片手を添える。と同時に、視界を狩衣の袖にさえぎられる。

「無駄死にする気か? ここは俺が足止めしといてやるから、おまえたちはさっさと別の道を使って逃げろ」

 自らの鞘から長刀を抜きだすと、蓮鹿は反対側の林側を指さした。

「兄様……」

「いいか。俺が時間をかせいでいる間に、神奈と比丘尼をここから連れだせ」

 二人の僧兵が各々に武器を構える。

「走れっ」

 踵を返し、蓮鹿が指さした方へと駆け出す。後ろで金属同士が激しく打ち合う音がして、足を前へと踏み出すたび、次第に音は小さくなっていく。

 蓮鹿が示した道は、下草が深くひどく歩きづらかった。心なしか、さっきより足が早まっている。

 …そうじゃない。俺が遅れているんだ。

「柳也さま、顔色がすぐれないようですが……」

 裏葉が耳打ちしてきたが、答える余裕もない。一歩歩くごとに、身体がみしみしと軋む。気がつくと、太刀の鞘に左手を添えていた。

 まったく出し抜けに、目の前がひらけた。森のなかのそこだけが、ちょっとした空き地になっている。行く手の斜面に沿って、大小の石が積まれていた。かなり古い石垣。月は煌々と照り輝いていて、舞台の上に引き出されたかのようだった。身を隠せるようなものはなにもない。

 ぴんっ。

 森のどこかで、楽器めいた弦の音が鳴った。

 ぎりぎりぎりぎり……。

 次いで、弓を引き絞る音。冷たい汗が一瞬で背中に噴き出す。

「散れっ! 身を低くしろっ……」

 叫びざま抜刀し、三人の前に出る。

 神奈を無理矢理引き倒すようにしながら、裏葉がその場に伏せた。

 ひゅん、ひゅん、ひゅん、ひゅん……。

 無数の矢が降り注いだ。至近に飛んできた一本を払い落とすので精一杯。俺が矢を切り捨てた瞬間、真後ろでくぐもった悲鳴を聞いた。

 不安を抱え振り返ると、母君の胸元に、二本の矢が深々と突き刺さっていた。

「…殺っとり!」

「なにを、先の矢は我ぞ!」

 高らかな声が、自らの手柄を奪い合う。

刹那、音が消えた。

虫の声一片、葉擦れの音すらない。どうしてこんなことが起きたのかは理解できなかった。だが、なにが起きているのかは瞬時に理解できた。

透明な膜をへだてたその向こう。鋭く吹きぬいていく風は野獣となり、狂ったように雄叫びを掻きあげ、無数の牙と爪が全てを引き裂いていく。

伏せていた雑兵たちは、木の葉と共に空中に吹きあげられ、ある者は切り刻まれ、ある者は地面に叩きつけられ……。

巨大な樹木が野獣に食いちぎられ、地面は爪にずぼりとえぐられていく。土も石も関係なしに、ぐちゃぐちゃに砕かれて、突風とかした雄叫びがそれらを空へと巻き上げる。はぎ取られた武具と肉片と血が、木片や小岩にまじってぐるぐると渦巻いている。

中心には母君がいた。怒りを力と変え、荒れ狂わせるかのように。

「見るなっ」

 目を見張っていた神奈を、裏葉が必死に袖で被った。

 これが恐怖の正体なのか……。

翼人を戦に利用する。昔から細々と聞いたことがある噂。だが現実に翼人の力を目の当たりにして、それは違うと確信した。

これは戦などではない。これは……虐殺だ。

心のどこかで、『逃げろ』と警鐘を鳴らし続けている。生き残るために研いできた勘が、絶え間なく叫んでいる。

『これは人ではない』と。

 やがて音が戻った。血の匂いが風に乗り、やんわりと漂ってくる。十数人はいただろう射手の半分が即死していた。残っていた兵たちも、すでに戦意を失っていた。

「ひっ……」

「ばっ、化け物だあ」

 弓や箙を放りだし、森の奥に逃げ失せた。母君はただ静かに立ちつくしていた。衣の袖を夜風に遊ばせ、遠い満月を見つめていた。やがてその身が揺らぎ、ゆっくりと土に倒れた。

「…ははうえっ!」

「抜くなっ」

 矢に手を伸ばそうとした神奈を、俺は制止した。

「なにを申すかっ」

「血が……吹き出るだけだ」

 一本は右の肩。もう一本は心臓に。何の鳥とも知れない、雑羽の矢羽。戦場ではこれが幾千本も飛び交い、名もない雑兵たちが虫けらのように死んでいく。

「くそおっ。こんな、こんな粗末な矢で……」

「そなたが……悔いることは、ありません。もとよりわらわは、この山で朽ちる運命だったのです……」

 俺は悟った。

母上は自ら矢に身体をさらしたのだ、と。そうなることを、最初から望んでいたかのように。

 

 

 狂ったように駆け巡った風が止み、周囲に静けさが戻ってきた。

「助かった……のか」

突発的に付近で一番大きかった樹木の根に身体を伏せたおかげで、切り傷ていどですんだらしい。立ち上がり樹木に目を向けると、太い幹がずたずたに引き裂かれていて、さきほどの突風のすさまじさを物語っている。

蓮鹿は懐から血止めを取りだすとそれを傷ついた全身に塗りこんで、風が吹きはじめた際、とっさに地面に突き刺しておいた長刀を抜きなおす。僧兵がいたらしき場所に目を向けると、黒い染みのような飛沫がそこに飛び散っていた。赤く染まった頭巾と、ごろんと無造作に転がる太い右腕。

片腕以外はどこかに飛んでいってしまったらしく、引きちぎれた部分からは、今も生暖かい液体がどくどくと噴き出している。

「力を解放したのは神奈か比丘尼か……まあ、いずれにせよ……」

 足元に転がっていた弓を拾いあげる。幸い、弦は切れていない。木に引っかかっていた箙を肩にかけると、まっすぐに森に弓を向ける。

 複数の足袋の音が聞こえる。そう数は多くない。おそらく十人単位に部隊をばらし、山中すべてを摸索するつもりなのだろう。

 弓を放つ。

 ぴっ、と風を切り裂いて、ずぶりと肉に食い込む音。

「俺ができる限り敵を引きつける。だから、生きろ……」

 

 

「ははうえ……」

 神奈は叫び続けた。だが、にごった咳と共に唇から血がしたたって、返事は返ってこない。

「触れては……なりません」

「…いやだっ! いやだいやだいやだっ!」

 激しく首を振り、そして神奈は母君の首をしっかりと抱き起こした。

「ははうえっ、ははうえっ!」

 頬と頬とが触れ合う。血の気のない唇から、温かな息が漏れた。それは哀切とも歓喜とも取れた。

「…ひさしく忘れていました。人肌がこのように温いとは……」

 左手が弱々しく動き、娘の頬に触れた。

「これが、因果であるのなら……」

 痩せこけた指が、神奈の髪をぎこちなくなでる。

「神奈……よくお聞きなさい。わらわと共に朽ちるはずだった、いにしえの詞。今こそあなたに授けましょう」

 母君の体が風をまとい、瞳と瞳とが向き合う。詠唱がはじまった。

「…ちから……かぜ……われらの……いまこそ……ものが……うけつぐ……ほし……とえ、ゆうきゅうの……なにふさわしき……もの……よ……はねに……たましいに……すべを」

 だんだんと早くなり、やがて意味は聞き取れなくなった。失われた言語は幾重にも束ね、淡い光に託してわたす。森羅万象、全てを伝えきるかのように。

 やがて、母君の詞は終わった。

「母をゆるしてくださいね。これこそがわらわたちの務めなのです」

 月光の中でまたたいた瞳が、途方に暮れているように見えた。

「さあ神奈。今度はあなたの番ですよ。あなたはどのように、旅をして来たのですか?」

 ただ穏やかで澄みきった笑顔。脈打つ心臓をえぐる鏃を、気にもとめていないかのように。

「話して……よいのか?」

 おそるおそるたずねた神奈に、にっこりと頷く。今の母君は、消えかかる灯火だ。我が子のために、全てを燃やしつくそうとしている……。

 神奈は喋りはじめた。最初はおずおずと、そして少しずつ滑らかに。社殿での暮らし。出発の夜。夏山の旅路、市場のにぎわい。

母君にもう言葉は少ない。短く相づちを打ち、時に微笑むのが精一杯だった。

 声を弾ませ、神奈は語り続ける。そのかたわらでは、裏葉が身じろぎもせずに母子の対話を見つめている。そうだ……俺たちは旅を続けてきた。

 この日、この時のために。

 旅路の果てに手にしたもの、求めていたが、あまりにもちっぽけな刻だったとしても……。

「神奈さま、お母君はそろそろお疲れのご様子。お母君にお見せしたいものがあるのではございませんか」

「急かすでない。あれはとっておきなのだ」

 裏葉は気づいていた。母君の生命の灯火、それが今、尽きようとしていることに。母君も裏葉のそんな心情を読みとっていたのだろう。

「わらわも、早く見たいものです」

 神奈に優しく微笑んでみせる。

「…母上がそう申すならば」

 ふところを探り、神奈は丸い布袋を取りだす。

「母君はこのようなものを存じておるか」

「いしなとりの玉……ですね。わらわは上手くできませんでしたが」

「おお、ならば喜ぶがいいぞ。母上に逢えたおりには、ぜひにもこれを披露しようと鍛練を重ねてきたのだ」

母上の背にそっと手を回し、石垣にもたれかけさせた。それから、母君に見やすいようにと森を背にして座りなおす。かたむいて射す月光が、神奈を明るく照らしている。

 最初のお手玉が宙を舞う。

 ひとつ、ふたつ。だが三つ目は神奈の手を逸れて、ぽとりと地面に落ちた。

「まことにできるのだぞっ」

 お手玉を拾いあげ、もう一度構えなおす。

 俺は思い出していた。神奈がはじめてお手玉に触った日のことを。

『…余にもできるか?』

『そりゃ、やってみなきゃわからないだろ』

『すこしばかり習えば、必ずお上手になりますとも』

『では、いますぐ余に教えるがよい』

 また、お手玉が指を逸れる。すぐに拾い上げ、宙に還そうとする……。

『ひとりではつまらぬ』

『おもちゃならそこにいくらでもあるだろ』

『飽きたぞ』

『お手玉だけは飽きないみたいだな』

 二つの玉が空中でぶつかり、神奈の頭に振ってきた。母君は、にこにこと眺めていた。愛らしく育った我が子を、まぶしそうに目を細めて。

『…もっと、上手になりたいぞ』

『毎日続ければ、きっと達人になるさ』

『…余のお手玉、また見てくれるか?』

『ああ、俺でよければいつでも見てやるよ』

 なんどやっても、お手玉はうまく飛ぼうとしなかった。

「なぜ舞わぬっ! 母上の面前だぞ、なぜ舞わぬかっ!」

 拾い集めたお手玉たちに口を寄せ、必死で言い聞かせる。

「ずっと修練したのだぞ。この日のためにずっと鍛えておったのだ。なのに、なぜ舞わんのだっ」

 歯を食いしばりながら、ひたすらにお手玉を続ける。構えも呼吸も気にする様子はない。取り憑かれたように、同じ動作と失敗を繰り返す。おそらく、神奈ももう感づいているはずだ。母君とともに過ごすときが、あとわずかで終わることに。だからこそ、がむしゃらにお手玉をつづけている。

 裏葉がぷるぷると身を震わせている。助け寄りたくなる自分を、必死で抑えている。俺たちにはなにもしてやれない。神奈がひとりでやりとげるしかない。

 神奈はぎこちなくお手玉を放る。あんなに震える手で、上手にできるはずがない。あんなに潤んだ瞳で、手元が見えるはずがない。だから俺は、お手玉に願うしかなかった。一度だけでもいい。神奈のために、舞ってやってくれと。

 幾度目かの挑戦か分からなくなった頃。母君の唇が動いた。

「上手ですね。本当に……よく頑張りました」

 うすれゆく言葉と共に、力なく目蓋が降りる……。

「はは……うえ?」

 娘の呼びかけに、もう一度瞳が開いた。苦しげな息を整え、本当に、本当に幸せそうにささやく。

「お続けなさい。わらわはずっと見ていますよ」

「わかった」

 安心したようにうなずいて、またお手玉にもどる。そんな神奈の姿を、母君は夢見るように眺めている。もう痛みさえ、感じていないのかもしれない。指先だけをそっと動かし、俺と裏葉を側に寄せた。

「裏葉……本当に、大きくなりましたね。わらわのことを薄情だと思うかもしれません。でも、これだけは伝えておきたかった。わらわはあの人のことも、あなたのことも、心から愛していたと……」

「はいっ……」

 ただ一心に、裏葉は頭を下げた。母君と裏葉の関係が気になりはしたが、むろんそんなことを問いただす時間など残ってはいない。

「柳也どの。弔いは……無用です。我が身には決してふれず、ここに捨て置きなさい……」

 これほどのお方が、こんな野辺で朽ち果てていいはずがない。俺は答えることができなった。翼を持つ一族の誇り高き末裔。その最後を、俺は看取ろうとしていた。

「これでもう、思い残すことは……ありません」

 月明かりの元で、魂が白く透き通っていくのがわかる。

「ただ……分かち合いたかった。この子と翼を重ね……夏空を……心のままに」

 瞳が閉じられた。お手玉が三つ、とさっと地面に落ちた。

「はは……うえ?」

 見開かれた瞳が驚愕に変わる。それでも神奈はお手玉に手を伸ばす。それ以上見ていられず、俺は神奈に駆け寄った。

「神奈、もういい。もういいんだ……」

「離せっ、離さんか! 母上は嘘を申さぬっ! 母上は、余が上手だと申したのだぞ。余ができなければ、母上が嘘つきになるであろうが」

 俺の手を振りほどき、お手玉を拾おうとする。

「母上が見ておるのだぞっ! ずっとずっと、見ておるのだぞ……お手玉が上手にできれば、もう一度目を開けてくれる」

 …ぴしゃん!

 裏葉の平手が神奈の頬を打った。

「母上の旅路は終わった。ここには……もういないんだ」

 神奈が母君の顔を覗きこむ。血の気のなくなった頬に、淡い月光がしんしんと積もっていく。それはもう、土や草と同じ色を宿しはじめていた。

「もう、目を開けぬのか? もう、笑うてはくれぬのか? 余が命じても、母上はもう起きぬのか?」

「その命は誰にも果たせない。たとえお前が願ったとしても、叶えることはできない。届かない願いも、あるんだ……」

 




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