Summer 第十幕 月夜の再会

 

 山道は険しかった。両側から伸びた草が足元に絡んで、棘だらけのツルや突きだした枝が、腰や膝をなんどもなんどもつつく。草ばかりに注意していると足元の小石や、地面を突き破ってのびたコブだらけの樹の根を見落とす危険がある。地面は水はけが悪いのか、ずぶずぶと足袋が泥やぬかるみに引っかかる。

そう遠くにあったわけでもないのに、蓮鹿が指さした山のふもとについた頃には、日は空からとっくに姿を消していた。

 雲がある様子もないのに、月は現れなかった。それでいて森の中はほぼ明るく、おかげで山道からそれる危険がなかったのは救いだった。

神奈の足は早かった。昼間から一度も休むそぶりすら見せず、無心に足を前に出し続けていた。傷を負った俺のほうが、遅れがちになる始末。

 そして、俺たちは山頂に着いた。木々の中央に、なにか小山のようなものがあった。こけむした岩が、人の背丈の倍ほどまで高々と積まれている。かなり古いもののようだ。一瞬石塚を頭に思い浮かべたが、それにしては大きすぎる。それこそ、中に部屋があってもおかしくない。

「柳也さま、こちらを」

 ひときわ大きな木が、石塚の脇にある森に立っていた。幹の中央に、顔ほどの大きさの丸いものが結わえつけてある。覗きこむと、斜下に眉の傾いた男が写っていた。ようするに自分のことだ。

「この鏡……なんだと思う?」

「しかとは分かりませんが、いずれ呪法のたぐいでしょう」

「こちらからは入れるぞっ」

 石塚の側方から、神奈の声がした。

「待てっ」

 すんでのところで襟首を捕まえる。神奈が飛びこもうとしたのは、人ひとりがどうにか通れるほどの穴だった。氷室のような冷気が、黒々とした闇から流れだしてくる。

「まず俺が様子を――」

「ならぬ」

 言いかけたとたんに、きびしい声が飛んだ。

「柳也どの一人で行くことは、断じて許さぬ。その背中のような傷、もし柳也どのがふたたびそのような傷を負ったらどうするのじゃ……いや、傷だけならまだしも、もしも……もしも死んでしまうようなことがあれば」

 気持ちは嬉しいが、危険をたしかめるのが俺の役目だ。なぜなら……ここに囚われているのは『悪鬼』かもしれないのだ。

「ここまで来たのですから、仲良く皆で参りましょう」

 裏葉までが呑気なことを言いだす。…おまえは俺になにかあったときに、神奈を逃がす役目だろうに。

 だが、裏葉も神奈も退くつもりはないようだ。

「…わかったよ。ただし、先頭は俺だぞ」

「よい。おぬしにゆずろうぞ」

「悪いが、俺は外で待たせてもらう」

 昼間からほとんどまともに口を開くことのなかった蓮鹿が、突然にそう口をはさむ。

「結界を越えて丸一日が過ぎようとしている。僧兵どもがいくら鈍足でも、いい加減準備もできるころだろう。やつらは俺たちの目的を知っている。この石塚に間違いなくまっすぐにやってくるだろう。ならば、外に見張りの一人ぐらい残しておいたほうがいい。そう思わないか」

 腰の鞘に片手を添えると、周囲の警戒を強くしはじめる。俺がいまさらなにを言おうと、聞く耳を持つ気はないらしい。全く、どいつもこいつも……。

「ああ申しておられます。わたくしたちも参りましょう」

 裏葉の言葉でようやく洞穴に足を踏みいれる。

薄暗い場所とは考えていたが、いざ入ってみると予想を遥かに超えていた。墨を流したように、あたりは何も見えない。足元を一歩一歩たしかめながら、慎重に進む。頬をなでる風から、行く手が空洞になっているのがわかる。

だが、いくら歩いても突き当たる気配はなかった。この穴がこんなに深いはずはない。これもまた、呪法のひとつなのか?

「…止まりなさい」

 どこからか声が響いた。

「近づいてはなりません」

 凛とした女の声。

「わらわを戦に駆り立てるのなら、生きてはここを出られぬと知りなさい」

 言葉の意味はわからない。だが、持って生まれた威厳と気品は隠しようがない。俺は居住まいを正し、闇に向かって呼びかけた。

「私は神奈備命が随身、柳也と申す者です」

「同じく、裏葉と申します」

 薄闇の向こうにいるのが神奈の母君だからだろうか……それとも、『悪鬼』と呼ばれる者だからだろうか。裏葉の声は、緊張と敬いが入り混じっているように思えた。

「かん……な?」

「ははうえ……なのか?」

 神奈の言葉を聞いたとたん、女の声に疑念と警戒が戻る。

「娘子を連れているのですか。今度はどのように、わらわをたぶらかすつもりです。よく聞きなさい。わらわに娘などおりません。わらわの娘はとうに……」

「神奈さま、お召し物を」

 いつもと同じ冷静な声色。続いて、しゅるしゅると衣擦れの音がした。

 なにをしているのか悟るのに、少々時間がかかった。だがそれに気づくと、俺は片膝を地面につき、その場にかしこまった。

 光が満ちる。洞穴全体が真っ白に滲んでいる。石を敷きつめた床で、自分の影が揺らいでいるのが見えた。明るさに目が慣れてから、俺はおそるおそる顔を起こした。そこには……翼。

 神奈が衣をするりと落とした。ためらうことなく、裸身をさらす。きゅっと引き締めた口元、ほっそりとしたその背中。背から左右に広がる、一対の白翼。

それは肩を軽く飛びこえ、その内に力強さを秘めたまま、すらりと石床に先端をかすらせている。

『唐天竺では鳳翼と呼びならわし、異名を風司、古き名で空真理ともいう。肌はびろうど瞳はめのう、涙は金剛石。やんごとなきその姿は、まさしくあまつびと』

 なにかの書で目を通した、翼人に関する言葉。なんて陳腐な言葉だったのだろう。これは言葉で言い表すことができるほど、安っぽい存在ではない。

 神々しいばかりの輝きの中央に、神奈の身はささえられている。翼は大きく、片翼だけで神奈と同じくらいあるだろうか…。

 圧倒的すぎる存在。彼女以外の全てが霞んでしまいそうな…。

 美しい。そうとしか言いようがなかった。

 翼の放つ光に照らされ、洞窟は明るくなる。最奥に、ものものしい二重の鉄格子があった。その向こうに、貴人が囚われていた。

 神奈のことを食い入るように見つめている。色のない粗末な衣に、痩せた体を包んでいる。憂いに沈んだ瞳、ひどくやつれた頬、雅を失った髪……だが間違えようがない。神奈の母君。裸のままくるりと振り向き、神奈は母君に自分の翼をさらした。

「余の背羽だ。羽ばたくことも、飛ぶこともできぬが、もしもこれと同じものをもっておられるのなら……」

 だが、答えは返ってこない。神奈の側にかしこまっていた裏葉が、俺の視線に気づいた。

「さあ、神奈さま」

 宝物をしまうように、そそくさと衣を着せる。とたん、辺りに闇が戻った。

「因果なものですね。ふたたび我が子と逢う日が来ようとは。『神などなし』と名づけた我が子と……神奈、立派になりましたね」

「はは……うえ」

 鉄格子越しでは、触れ合うこともできない。神奈が伸ばした手は、ひんやりと冷たい金属の棒にはばまれ、母君に触れることさえできない。母君をここから出すのが先決だ、そう考えたとき。

「柳也と申した者」

「はい、ここに」

「神奈をつれて、すぐに山を降りなさい」

「なぜだっ」

 そう口を挟んだのは、俺ではなかった。

「余が飛べぬからか……余の背羽が上手に羽ばたかぬからか?」

 必死で問いかえす神奈を、俺はそっと手で制した。

とにかく話はあとだ。どんな事情があるかは知らないが、俺だってもうあとには退けない。

「神奈、母君と一緒にいたいか?」

「…たいぞ」

「なりません!」

 口を開きかけた神奈の身が、鋭い声にびくっとのけぞる。思いもよらない母君の拒絶に、気圧されてしまっている。

「もう一度聞く。母君と、一緒にいたいか?」

 ここまでの俺たちの道のり、そして俺たちの願い。すべてをこめて尋ねたつもりだった。神奈は、はっきりと答えた。

「一緒にいたいぞ」

 満足できる答えだった。闇の先に向きなおり、母君を眼にとらえる。

「お聞きのとおりです。おそれながら、わたくしどもは神奈さまの随身。神奈さまのご意向に従わぬわけにはゆきません」

「…わらわをどうするつもりですか」

 その問いには裏葉が答えた。

「お母君にはここより出ていただきます。そののち、神奈さまと末永く幸せに暮らしていただきます」

 闇の向こうの気配が、絶句したのがわかった。

「柳也どの」

「はい」

「おぬしは利口者ではありませんね」

 言葉とはうらはらに、音声がやわらいでいた。

「神奈さまにも同じように叱られます」

「裏葉どの」

「はい」

「神奈のお守りはさぞ大儀だったでしょう」

「おそれいりましてございます」

「童子だったあの娘が、こんなに大きくなって……」

 母君の言葉に違和感を覚えた。神奈を見てその言葉を言うのならわかる。けれど、母君はいま確かに、裏葉を見ながらそう口にした。

「柳也さま、お早くっ」

 裏葉に急かされて、手探りで闇を進み鉄格子に触れる。曲げることも、切ることもできそうにない。格子こと外すのも無理そうだ。壁の石積みはもろく、丸太で支えているだけ。無理に外そうとすれば、天井ごと崩れる仕掛けになっている。やすりで削るしかないが、それでは何刻かかるかわからない。

 裏葉が鉄格子に近づき、天井から床までを、首を大きく一周させ見回す。壁という壁をすみずみまで手で触れると、ぱらぱらと床に砂の粒が転がっていく。やがて何かを見つけたのか、胸元から書状ほどの大きさの小さな紙の束を取り出し、それと壁とを交互に見いる。

「柳也さま、石塚を出た森に鏡があったのを覚えておりますか」

「…ああ」

「それを水に戻してきてくださいませんか」

 裏葉たちを置いて、俺は一人石塚を出た。外に出ると、蓮鹿がぎろりと俺に視線を向けてきた。

「比丘尼はどうした」

「まだ鉄格子の中だ。裏葉が鏡を水に戻してくれと言っていたが、どうゆう意味だと思う?」

「鏡を水に戻せば月も戻る。そうゆうことだ」

 言っている意味がわからない。だが水というくらいだから、やはり水なのだろう。この薄暗い森のなかで水……泉か? 大木にかけられた丸鏡の前に立つ。月もないのに、鏡の表面はきらきらと輝いている。つかもうとして、黄土色をした額縁に手を触れる。同時に指先が鏡に触れた。雫が落ちたように、波紋が広がる。驚愕し、あわてて指を引っこめる。

「これは……まさか」

 振り返ると、蓮鹿は正解だ、という顔をしている。

 するりと太刀を抜いた瞬間、焼けつくような感覚を背中に覚える。全身にぶるりと震えがめぐって、膝から下の力がすとんと抜け落ちる。たまらず、その場に片膝をついた。傷口が着物にこすれたらしい。太刀の鞘を杖代わりに立ち上がろうとすると、蓮鹿が自分の前に仁王で立ちふさがっているのがわかった。

「その傷で女子供を連れ、無事逃げきれると思っているのか?」

 顎を高くあげ上を見上げると、死にかけた小鹿でも見るように、俺を見下している。

「不殺の誓い。考えは立派かもしれん。だが、本当にそんなことをするのは馬鹿だけだ。命を奪いあう、紙一重が生死をわける死闘において、相手のことを気づかうなどと余計なことを考えれば、そこに刹那の隙が生まれる。時間にすれば一秒にも満たない小さな隙だ。しかし、その隙が今のおまえを生み出した」

 腹のそこから、ごわごわとした黒い塊が沸きあがってくる。

「俺は神奈の随身で、不殺は神奈の命だ。随身が主の命を守るのは当然だろうがっ!」

「その結果、おまえは死に主も殺されるとしてもか?」

 怒りに震えていた自分の手足から、一瞬力がすとんっとどこかに消えたように思えた。死ぬ? 守らなければと、そう思っていた存在。神奈が、死ぬ? 

「わかるか? おまえのやっていることは主のためでもなんでもない。単なる自己満足だ。それも、自分だけでなく主の生命すら危険にさらす最低のな」

「…どいていろ」

 両膝に力をこめると、ゆっくりと身体を立ち上がらせる。背中をじくじくとした痛みが走っているが、腕を振るのに支障はない。こころ持ち刀身を下げ、腕の力を抜く。息を吐き、そして止める。

「自己満足だとなんだと言われようと、俺は神奈のも生命も守る。敵を気づかっても無傷で勝つ。…それくらい俺が力をつければ問題はなくなる。つまり、そういうことだろっ」

 鏡の中心に、刃を突きたてた。

青銅のはずの鏡がぐにゃりと曲がった。そして水になり、地面に降り注いだ。

木々の枝から銀色の光が射し込んで、中天で満月がこうこうと輝きわたる。

 森は別の場所のようになった。いや、おそらくは今までが別の場所だったのだろう。太刀をおさめ、背後を振り向く。

 石塚から今様と若苗の衣が出てくる。それにつづいて、純白の衣に身を包んだ女性。神奈と裏葉と、そして母君。

「参りま……」

 素足のまま歩き出そうとして、母君は突然に声を失った。その瞳が、蓮鹿を捉えていることに気づいた。

「十三、いや……四年ぶりか。比丘尼」

「あなたも……来ていたのですか」

「偶然だ。別におまえを探していたわけではない。それよりも時間がない、急ぐぞ」

 蓮鹿を先頭に、五人は歩きだす。けれど、母君の足取りはあまりにも危うい。囚われて以来、おそらく野外を歩いたことはないのだろう。

「お手を……」

「近づいてはなりません」

 走り寄った裏葉に、毅然とした声で告げた。

「この身はすでに穢れています」

「なっ……」

 思わず声をあげた神奈にまで、きびしい視線を向ける。

「神奈、あなたもです。わらわに触れてはなりません」

「比丘尼……」

 蓮鹿が苦々しく両手を握りしめているのに気づいた。その先は、誰も一言すら口にすることなかった。

 そして、俺たちは山道を後にした。駆け降りるというわけにはいかなかった。泥に身を侵しているような、じくじくとした鈍痛が背を這いまわる。俺の傷は、にわかに痛みだしていた。加えて、母君の具合も思わしくない。

 俺や裏葉が助けを申し出ても、決して手を借りようとはしない。

神奈はなにも喋らなかった。社殿で一人だったときより、ずっと心細そうだった。だがこの地を脱すれば、母君の警戒心も薄らぐだろう。母子の語らいは、それからでも遅くはない。俺はそう考えていた。

 僧兵が、そして何百という武者装束の兵役どもがこの山をずらりと囲み、今まさにここへ攻め入ろうとしていることになど、何一つ気づくこともなく…。




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