Summer 第九幕 不殺の誓い

 

 羽音が聞こえた。輝く翼を広げた鳥。

 俺を残し、ふわりと舞いあがる。

 決してたどりつけない所。はるかな高み。

 俺は後を追おうとして……そして夢だと気づいた。

 ゆっくりと目を開くと、深い森の中。さやさやとなる梢。たなびくに、陽光がけむっている。辺りは静まりかえり、清浄な空気の芯に、かすかに水の匂い。ここは……極楽浄土、というやつだろうか?

「お目覚めでございますか」

 裏葉の声で現実に引き戻された。やわらかな草の上に、体を横にして寝かされていることに気づく。同時に、じくじくとした痛みが背中を這いまわっていた。

 そうか、僧兵に斬られたんだった。

「しかし裏葉、お前たちも僧兵に追われていたはずだろう?」

「ええ、ですがとある方に助けていただいて。柳也さまのことも、その方がここまで運んでくださいました」

 軽くあたりを見まわす。なぜだろう……気を失う前にずっと感じていた、僧兵と争っていたときにさえ、肌身をおおっていたべっとりと粘着質な感覚はどこかに消えうせ、静寂した、安らかな空気が周囲を優しく包みこんでいる。

 裏葉からわずかにはなれた木の根元。鞘にいれた長刀を自分の肩にたてかけ、じっと腰をおろしている見知らぬ気配に気づいた。

「…安心しろ。血の痕は消しておいた。追っ手に血をたどられる心配はない。まあ、結界を越えている以上やつらも簡単には近づけないだろうが」

 向こうも俺が意識を取り戻したことに気づいたらしい。血の痕という言葉を聞き、昨夜の斬り合いが断片として頭に戻ってきた。

『ぬしは神奈備命を追え。結界を越えられたら終いぞ』

 僧兵さえ、ここには入れないということか。

「自己紹介がまだだったな。俺の名は蓮鹿。そこにいる裏葉の実兄だ。まあ、そいつ流に言えばとある方、だがな」

 実兄……なるほど、始めてあったはずなのにどこか見慣れているように思えたのはそれが理由か。丸みを帯びた瞳やなだらかな曲線を描く眉。少し下に伸びた顎の形、それら一つ一つが、たしかに互いによく似ている。

「助けてくれたことは素直に感謝しておくが、なぜ裏葉の兄が金剛峰寺にいる? この付近で暮らしているというわけでもないのだろう。それに僧兵でさえ超えられぬはずの結界を越えたと言っていたな。どうやってだ?」

「結界を越えたのは俺の力ではない。それに……」

「柳也さま、目が覚めたばかりでそう問答をするのも大変でしょう。ひとまず、あちらの泉で喉を潤すなどしてきてはいかがでしょう」

 裏葉に言われて、自分の喉がひどく飢えていることに気づいた。たしかに、水分の補給をしたほうがよさそうだ。ただ……、

「それもいいが、神奈はどこだ?」

「一足速く、泉に水を汲みにいっておられます」

「そうか」

 護衛役である以上、神奈の居所はつねに把握しておかなければならない。蓮鹿という男が本当に裏葉の兄かどうかは知れないが、ともかく裏葉自身ああして平然としている以上、あの男が敵でないことは相違ないだろう。慎重に体を起こし、あらためて自分のなりを見てみた。狩衣は脱がされ、上体に真っ白な布が幾重にも巻かれている。

 地面を探ると、右側に俺の太刀があった。鞘ごと杖にして立ち上がる。裏葉が手を貸そうとしたが、手を振って断った。その間も、蓮鹿という男はじっと周囲を警戒していた。の一鳴きさえ見逃すことなく、ぴりぴりとした気を放ちつづける。

 指、手首、腕、腰、どこも普通に動かせる。背骨のに刃は受けていない。傷口さえ開かなければ、どうにか歩けそうだ。

「泉で傷口を清めたほうがよろしいかと」

「手伝ってくれるか? 手取り足取りって感じで」

「ご自分でどうぞ」

 つれない返事が返ってきた。

 木々に隠された鏡のように、水面が空を映す。そんな泉のほとりに、神奈は立っていた。

「元気そうだな」

 俺の姿に気づくと駆け寄ろうとして、ためらったのがわかった。

「もう歩いてよいのか?」

「傷口を洗いに来ただけだ」

 神奈とは少しはなれた場所で足を止めると、袴のまま泉に歩み入る。水は痛いほどに冷たく、膝までの深さがあった。凍み入るような感触が、起き抜けの頭をひきしめてくれる。

「裏葉のところにもどれ、傷口を洗ってる間は太刀が使えない。あの蓮鹿という男のそばなら安全だ」

「蓮鹿、か。正直な話、余はあの者が恐ろしい。裏葉と二人僧兵から逃げていた際、あの者は木陰の隅より突然にあらわれ、僧兵を斬り倒した。余と裏葉は導かれるようにあの者とともに森中を走りまわり、気がつくとここに流れついていた。あの者は裏葉の兄と申していたし、裏葉を見る限りそれが嘘とは思えぬ。だが、それ以外の素性の全てをあの男は語らぬ。だから、その得体の知れなさが恐ろしい」

「裏葉はなんと?」

 俺の問いに、神奈は首を左右に振る。

「なにも教えてはくれぬ。自分の兄ということ以外、何一つ」

「…そうか」

「傷口は、やはり傷むのか」

「多少はな。だが大したことはない」

 傷口に水をつけたり、触れたりしなければ、の話しだが。

「社殿を抜け出たあの日、余は柳也どのに『誰もあやめるな』と命じた。柳也どのに、人殺しなどということをしてほしくなかった。覚えておるか……」

 うなずくと、神奈はたっぷり一呼吸分の間をはさんで続きを口にした。

「余の命を護った代償が、その背中の傷というわけか」

「………」

 何も言えなかった。「おまえが悪いわけじゃない」などと偽善をならべたとしても、傷を負っていることは事実であり、傷をおった原因が神奈のを護ろうとしたからというのも、紛れもない事実なのだ。返す言葉が見つからず、細かな針で刺すような冷え冷えとした水の流れが、足首から膝にかけてすぅーっと駆けていく感覚をじっと耐えながら、神奈から視線をはずす。

「蓮鹿というあの男は、傷を負わなかった。僧兵の命と引き換えに……」

 うつむき加減につぶやくような声が聞こえ、ふっとその言葉が途切れる。

「柳也どの。余は柳也どのに『誰も殺めるな』と命じたが、今思えばあれは余の……」

「それ以上は言うな」

『不殺の誓いは、余の過ちであった』

 その言葉だけは言わせたくなかった。『人を殺してもかまわない』なんて、この少女にだけは絶対に言わせたくなかった。たとえそのために、俺がどれだけの傷を重ねることになっても。たとえこの身がどうなろうと、護りたいと思った。汚れを知らぬ幼い心、穢れのない無垢なる心を。

「柳也どの、一つだけ聞いてよいか」

「なんだ?」

「社殿から余を連れだし、母に会わしてくれようとずっと旅に付き合ってくれた。そのことは、真に感謝しておる。だが、なぜお主は余のために……」

「そうだな……しいていうなら」

 旅の終わりも近い。そろそろ本当のことを教えてやろう。不思議と、そんな気持ちが湧き上がってきた。

「おまえが、俺だからだ」

「申しておる意味がわからぬぞ」

 神奈は不思議そうに首をかしげる。

「俺は親の顔を知らない」

「…なにゆえに?」

「たぶん、捨てられたんだろうな。道端で泣いていたところを、雲水に拾われたんだ」

 言葉にしてみると、それはひどく色褪せて感じられた。神奈はしばらく無言だったが、やがてそっと訊いてきた。

「雲水とはなんだ?」

「旅の坊主のことさ。って言えば聞こえはいいが、物乞いみたいなもんだ。二人きりで色々な土地を旅した。育ての親、と言えるほどの存在ではない。ただ厳しい人だった、としか覚えていない。どうして俺を助けてくれたのかもわからない。経を唱えるとき以外、無駄口はいっさい開かなかった。さえ最後まで教えてもらえなかった。俺が五つかそこらの夏、峠道で山賊に襲われて、雲水は一太刀で殺された」

 神奈が目を見開いたのがわかった。激しい風が吹き渡り、泉の水面を乱していく。

「その雲水は、斬られたあとも祈っていたよ。『自分を殺す者が極楽浄土に行けますように』ってさ。それでいて自分は、血まみれになって死んだ。『刀の錆にするほどもない』って、俺は殺されなかったけどな……そして俺は、また道端に捨てられた。殺される価値さえない、ちっぽけな子どもだった。それからずっと、俺は一人だった。つまりそうゆうことさ、母親と離ればなれにされて、一人きりで暮らしているお前の姿を見ていたら、なんていうか……重なるんだよ、俺の姿におまえが。おまえの心に共感しちまって、だから……かな。おまえを手伝ってやろうと思ったのは」

 一人のつらさや厳しさ。それは、誰よりも俺自身が一番わかっていたと思う。生き抜くためならなんでもやった。太刀を盗み戦に加わり、人も殺した。敵を斬る。それだけを繰り返していただけなのに、気づけばどこぞの武家の計らいか、大志の位を授かるまでに至った。だが上役の誰かが俺のことを気に入らなかったらしく、俺は戦地から遠くはなれた社殿へと飛ばされた。そして、そこで翼人とともに始末される手はずだった。

「その山賊は、さぞ悔やんだであろうな」

「へっ?」

「立派な高僧を殺めてしまったのだから、悔やむのが当然であろ?」

 一瞬神奈がなにを言っているのかわからなかったが、すぐにそれが雲水を殺めた山賊たちであることに気づいた。

「立派な高僧だったかは、かなり怪しいけどな」

「なにを怪しむことがある? 雲水どのの祈りが通じたからこそ、山賊は柳也どのを殺さなかったのではないか」

「いや……」

 説明しようとして、思わずたじろいだ。神奈の瞳は吸い込まれそうなほどに深く、つむぎだす言葉に、一片の疑いも持ってはいない。思いもかけない感情が、闇の奥を照らすのを感じた。

 そうだ。あの時俺は、たしかに救われていたのかもしれない。

 結界を抜けた先、生まれたての無垢な空気が漂う場所。見上げた空は、あの時と同じ色のまま、きらきらと光り輝いているように見えた。

 雲水が殺され一人残された、あの日と同じ色のまま……。

 

 

太陽は真南を過ぎている。昼下がりの森に、以前ほどの熱気は感じられない。

吹き抜ける風も、秋の気配をたしかに含んでいる。

 つくつくぼうしが鳴いている。自分の居場所を、空に伝えるように。

「夏も終わりでございますね」

「そうだな……」

 裏葉は木の根元に腰を落ち着けていた蓮鹿に視線をおくる。

「それで、どうゆう風の吹き回しでしょうか。なぜ、兄様がここにおられるのです?」

「この霊山には悪鬼が封じられている。朝廷が翼人を残らず消そうとしているのだから、ここに俺たちが来るのはなんら不思議ではないだろう。むしろお前たちがここにいることのほうが疑問だな」

「わたくしたちは、神奈さまをお母上様に会わせようと……」

「くどいな、神奈はあの日死んだ。だからこそ、あいつが悪鬼と呼ばれここに封じられたのではないか」

「悪鬼などと……比丘尼さまはそのようなお方では……。それに神奈さまが生きておられることは、先ほどご自分でお確かめになったではありませんか。いまさらなにを思い悩む必要があるのです。神奈さまだとわかっていたからこそ、お護りになられたのではないのですかっ!」

「単なる気まぐれだ。僧兵どもには俺の部下が世話になったから、怨恨の念も強いが」

 昨夜柳也が見たという戦。それはつまり、先発隊として派遣された蓮鹿たちが、霊山の僧兵と戦っていたところを偶然見合わせたのだろう。

 結界が張られている以上、今までどおりの火責めでは効果はない。そのため

陰陽術に精通している兵を集め、一足先に結界を解くために山中へと乗りこむ、という手はずになっていたわけだ。

 柳也たちが見つけた結界の途切れ。それはつまり、蓮鹿たちが通ったあとだったのだろう。

「結界をお解きになられたのならば、早々に本陣にお戻りにならればよかったではありませんか」

「役目は果たしたとはいえ、貴重な陰陽士どもを皆殺しにされた。今更本陣に戻ったところで、処罰を受けさせられるだけだ。親の七光りの俺を嫌っている輩は多いからな。これ幸いに、役職から立ち退けと言うに決まっている」

「相変わらず、虚偽をつくのがお得意なのですね」

「なにが言いたい……」

「この地に囚われているのは八尾比丘尼さま。兄様は、翼人を根絶やしにしようとする朝廷にお仕えになられてきました。されど朝廷側が比丘尼さまを殺めようとしているのを知って、だから……お戻りになられることなく、わたくしたちに……」

「裏葉、おまえがなにを思おうと勝手だが、しょせんそれは憶測だ。いまさら比丘尼をどうこうしようという気はないが、かといっておまえたちに協力するつもりもない。それだけは覚えておけ」

 突如、がさっと大きく葉が動く音がした。

 続けて小枝がぽきりと悲鳴を上げて折れ、さらし代わりに白い布を何重にも巻いた男が顔をのぞかせる。

「兄妹で和気藹々って雰囲気じゃないな……なにかあったのか?」

柳也は裏葉と蓮鹿のあいだに張り詰めていた、ぴりぴりとした異質な空気に感づくと、腰に下げた太刀に右手を添える。

「主の歩幅に合わせて歩かぬか、この無礼者が」

 その腕を神奈の細腕が掴み、すかさず文句をうながす。

「おまえに合わせてたら日が暮れちまうだろ」

「なにをっ、余に向かって愚鈍などと申すとは無礼千万!」

「あたっ、わかったわかった。俺が悪かった、悪かったからいい加減止めろ」

 ふうっ、と肺の奥のほうから沸きあがってくるような、深い深いため息が聞こえて、裏葉は声を漏らした張本人のほうに向きなおる。

「悪いが遊んでいる時間はあまりない」

そう言って指さした視線の先、梢を通して、なだらかな山稜が霞んでいる。

「結界を越えられた以上、おそらく僧兵どもは何かしらの手段を用いて結界を一時的に解こうとするだろう。もしくは俺たちが結界を破った場所から、そっくりそのまま入ってくるとかな。どちらにしろ、時間をかければかけるほど僧兵どもを無駄に集まらせることになる。もたもたせず先を急ぐのが、今のところもっとも懸命な判断だろう」

「たしかに……近くになにが潜んでいるやもしれません」

 裏葉の目にいまだ残る疑いの念。兄を信じたくはあるが……神奈を護ることを念頭におくとなると、蓮鹿の言葉を完全に信用するのは危険だと、身体の一部が警告を鳴らしつづけている。

 そう、敵は僧兵だけではないのだ。先ほど話していた陰陽士が皆殺しにされて云々という話の真意がどうあれ、蓮鹿がこの霊山にきている以上、神奈の暮らしていた社殿を焼きはらった者たちがすぐそこに迫ってきていることだけは、紛れもない事実なのだから…。

 




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