Summer 第八幕 霊山突入

 

 月光が降りそそいでいた。名もない森の隅々まで、淡い光が満ちていた。蒸し暑い社殿の夜。神奈がつぶやいた言葉。

『逢いたい……』

 すべてはあの夜からはじまった。あれからちょうど一月。

 霊峰高野山。金剛峰寺のふところに、俺たちはいた。

「寺などどこにもないではないか。どこまで行っても見たような森ばかりだ」

 金剛峰寺とは、高野山にある幾百もの寺院をまとめて指す名。高野山そのものも、同じように金剛峰寺と呼びならわす。

「だまって歩け。もう高野の領内に入っているはずだ」

 警護の者がいても、なんら不思議なことはない。

「さっきから同じところを回っている気がするぞ」

「気のせいだ、だまって歩け」

 むぅっ、と神奈がほおを膨らませ不服そうに足を速める。苛立ちを隠せないでいるのは、さっきから同じような会話をなんども繰り返しているからだ。別に神奈が悪いというわけではない。俺自身、何かがおかしいとは思いはじめていた。

 山中で道に迷うのは、周りの景色に頼りすぎるためだ。ここまで俺たちは、月を頼りに歩いてきた。方角を間違えるはずはない。

だが、何かが微妙におかしい。

夏の夜にはめずらしく、月は冴え渡っている。満月にはほんの少し満たない月。しんがりを歩いていた裏葉が、不意に立ちどまった。

「柳也さま、これを」

 見ると、太い杉の幹に麻縄が巻かれていた。そこから等間隔に、白い紙が垂らされている。

「か」

「結界が張られているようですね」

「なるほど……めんどうだな。どうする?」

「しばしお待ちを」

 裏葉は身じろぎもせずに、行く手の闇を見つめている。息さえも止めているようだった。やがてするりと袖を持ち上げ、一方を指さした。

「こちらでございます」

「わかるのか?」

「何とはなしにございますが」

 うっすらと微笑む。

 その様子に、思わず神奈と二人顔を見合わせた。裏葉の行動には今も謎が多い。しかし、信じられると思った。裏葉の導きで月光の森を進んでいく。途中、いくつかの注連縄を見つけた。月はあるときは左に見え、あるときは右に見えた。俺の感覚に従えば、同じ場所を堂々巡りしているようにしか思えない。

 そのとき、不意に月が雲に隠れ、森の様子が変わる。人が入ったことのない、原生林のようだった。ねじくれた木々の枝が行く手をふさいでいる。湿り気を帯びた靄が、綿屑のようにたなびいている。

 さっきまで歩いていた森とは、まったくおもむきが違う。

「薄気味が悪いぞ」

 神奈の声が嫌にゆがんで響く。頭の奥に、ひどい圧迫感がある。自分がまっすぐに立っているのか、それさえわからない。

「結界の只中に入ったのでございましょう。柳也さまはたぶん、一時的な酸欠のような状態になっているのでございます。ものの数分もすれば、すぐに意識もはっきりするでしょう」

「結界の只中……」

 腰を低くし、息を吸って吐いてを繰りかえす。何十回目かを行ったところで、ようやくに意識がはっきりとしてきた。

「柳也さま、これを……」

 裏葉が差しだしてきたのは、真っ二つに裂けた注連縄。偶然、この部分だけ結界が途切れていて、そのおかげで中に入りこむことができたらしい。

「小太刀か何かで切られているな……」

 つぶやいた時、ひとすじの匂いが鼻先をかすめていった。鈍った頭がぴんと警報を発する。この匂いだけは間違えようがない。何かが焼ける匂い。錆びた鉄と松明、汗で濡れた革と麻、そして、血の匂い。

「止まれ、音をたてるな」

「いきなりどうしたのだ?」

「この先で戦をしている……」

 霞の向こうから、甲高い音が聞こえる。

きん……かっ……。

刀と刀が切り結ぶ音。

「近い……いや、遠いのか?」

 音までの距離がまったくわからない。まだ意識が完全ではないのか、それともこれも結界とやらの影響なのか、ともかく、こんなことは初めてだった。

 裏葉と神奈が左右から俺に身をよせてきた。この二人に不安を悟られてはいけない。どうするべきか……。

 瞬間、目前の闇がどろりと落ちた。

空間そのものが引き裂かれたような、強烈な違和感が襲った。つぶりかけた眼を無理やりにこじ開ける。人影が見えた。ぬらりと光る刃物の切っ先も。

「走れっ!」

 裏葉と神奈の背を押すように、霧の中に送り出す。

「裏葉、神奈を護れっ」

「はいっ」

 裏葉がふところから短刀を引き抜いたのが見えた。同時に、俺も抜刀する。

現れた人影は……三つ。どれも身の丈六尺近い大男だ。

 灰色の僧衣に、黒鞘の長太刀。すっぽりと被った頭巾から、鋭い眼だけがのぞいている。

「高野の武者法師か……」

 金剛峰寺全山を守護する、僧形の荒くれ者たち。獰猛で名高く、山岳で戦うのに慣れている。おまけに、死んでさえ仏の加護があると信じている。できればまともに斬り結びたくない相手だ。

 武装は薙刀が二人、太刀が一人。

「田舎侍風情が、どうやってここに入りこんだのだ」

 薙刀をたずさえた一人が、頭巾ごしの野太い声で言った。

「浮かれて夜道を歩いていたら、野狐に化かされたらしい。いや、どちらかというと野狸かな」

「なにをっ……」

 いきり立った僧兵が、ずいっと歩みを進めた。

 刀を中段に構えると、掌のなかで太刀を返し、刀背を上向ける。不殺の誓いというやつだ。乱戦になれば怪しいが、やれるところまでは峰打ちでしのぐ。

 相手を見据えたまま、呼吸を落ち着ける。全身の力を抜くと、微風になびく絹のように、己をゆるやかに保つ。

 ふっと、気が乱れた。

「どうりやぁあぁあぁあぁ〜〜」

 薙刀の僧兵が打ちかかってきた。刃は後ろにたずさえたままだが、一振りで俺に斬りつけられるのには相違ない。森の中では薙刀を振り回すわけにはいかない。太刀では防ぎにくいを確実に狙ってくる。

 地面を蹴り、斜め前に飛んだ。俺の足があった場所を、三日月形の刃が空しく刈りとる。そのまま一気に間合いをつめる。長柄物と戦うなら、勝法はひとつ。相手の懐に入ってしまえば、穂先にある刃は無力だ。

 不意をつかれた僧兵の眼が、驚愕で歪む。刀の峰でその胴を薙ぎ払った。

 …ざすっ。

「ぐふぅ……」

 巨体ががっくりと膝をつき、地面に崩れ落ちた。

 残った僧兵たちの間に、ざわりと風が起こる。

「存外腕が立つぞ」

「な田舎侍がっ」

「こやつ、吾妻者ではないぞ」

 身なりを食い入るように見つめ、言った。

「うぬは何奴ぞ? 名を名乗れ」

 あいにくだがこっちは育ちが悪い。何も褒美が出ないのでは、名を教えてもつまらない。

「名乗るほどのものじゃない」

「何だと?」

「参るっ」

 相手が鼻じろんだ一瞬の隙に、次の行動を起こした。狙いは敵の前衛、二人目の薙刀使い。

「…でえいっ!」

 一閃目の突きを横に跳ね飛びかわし、そのまま回り込むように死角を狙う。敵もついてこようとするが、立木が邪魔して薙刀をまわせない。だが、今度の敵はもっと利口だった。俺が間合いに入った瞬間、ためらうことなく薙刀を捨てた。そのまま腰の太刀を探る。抜く手も早い。対抗するには、速さで奴を上回るしかない。

 刀を振るうことなく、勢いにまかせ、敵に肩口からぶつかっていく。

次の瞬間、

「ううっ……」

 太刀の柄が、僧兵のみぞおちにめり込んでいた。苦痛の表情を浮かべ、敵が地面にうずくまる。

残りは一人……太刀を大げさに振りかぶったまま、おろおろと辺りを見回している。一呼吸のうちに仲間がやられたのが、まだ信じられないらしい。

「うっ……うああああぁっ」

やぶれかぶれの足取りで、真正面から斬りかかってきた。刀で受ける必要もない。相手の太刀を体ごと受け流し、すれちがいざま、首筋を峰で打ちつける。

「…せいっ」

 最後の僧兵は、悲鳴をあげる間もなく昏倒した。

 ぶんっ。

 いつもの癖で太刀をふるい、ついてもいない血のりを払い落とした。そして、太刀を鞘におさめた。

「ふう……」

 溜めていた息を吐き出す。

 三人の僧兵たちは、毛皮を取られた熊のように地面にうずくまっている。しばらくまともには動けないだろう。

「こりゃ、できすぎだな」

 僧兵たちを一瞥し、その場を離れる。神奈たちが向かったはずの闇を駆ける。足下の草が泥のようにまとわりつき、ひどく走りにくい。

 裏葉は『ここは結界の只中だ』と言った。

 空間そのものを封じこめる呪術があると聞く。法師や陰陽師があやつる力だ。霧はぶ厚くたちこめ、行く手が見通せない。どこに向かって走っているのかすら、まったくわからない。熱にうなされた時に見る悪夢のようだった。

 まったくだしぬけに、背後に人の気配を感じた。太刀を抜きざま、体ごと振り向く。靄が切れ、視界に森が戻った。

 神奈と裏葉の後ろ姿が寄り添うように立っていて、二人の僧兵が、その行く手をふさいでいた。

「そこな女、高野は女人禁制ぞ」

 無骨な手が伸び、神奈の袖をつかもうとする。

「余に触れるでない、無礼者っ!」

 澄みわたった声が一瞬その場を圧して、僧兵がぎくりと腕をとめた。

「手荒をするでない」

 もう一人の僧兵が威厳のある声で仲間を制し、目前の少女の顔を凝視する。

「そっ、そなたはまさか……」

「神奈さま、お早くっ!」

 短刀を目前でかまえたまま、裏葉が神奈を背でかばう。ためらっている暇はない。

「神奈備命が随身柳也、参るっ!」

 太刀を上段に振りかぶり大声で叫んだ。敵の注意をこちらに引きつけ、そのまま地を蹴り、敵中に飛びこむ。二人の僧兵がてんでに剣を抜いた。柄尻に独特の装飾がほどこされた、直刃の剣。

「せあっ!」

 気合と共に、一撃目を放つ。

 …きんっ。

 と刃金が交わり、青白い火花が散った。

「ふんっ」

 もう一人の僧兵が、袈裟駆けに斬りつけてきた。大きく上体を逸らしてかわす。すかさず、最初の僧兵が間合いに入ってくる。

「くっ……」

 ふたたび、青白く火花が飛び散る。

 では向こうに分がある。鎬を滑らし、刀身を引き剥がす。

「でえいっ」

 間髪いれずに、真横からの突きが迫る。後ろに跳ね退き、これをかわした。

「…できるな、ぬし」

 頭巾の下からうなり声が聞こえた。俺も呼吸を整え、太刀を握りなおす。

 手強い……額を汗が伝うのがわかった。背後にはまだ神奈たちの気配。

「うしろを見るな、走れっ」

 僧兵たちに相対したまま叫ぶと、ためらった足音が動き、遠ざかっていく。

「ぬしは神奈備命を追え。結界を越えられたら終いぞ」

 年長らしい僧兵が、もう一人に伝えた。

「させるかぁっ!」

 去りかけた僧兵に、斜め後ろから斬りかかる。

「邪魔立てするなっ」

 振り向きざまの突きを、太刀で受け払った。

「なにをしておる、早く行けっ」

 年長の僧兵が叫び、もう一方の僧兵が森の奥へと消える。まずいな……急いで追うべきだが……。さっきの僧兵たちとは、明らかに格がちがう。先に消えた僧兵を追うような動作を見せれば、それこそ一瞬で斬り倒されるのは目に見えている。

 俺の長太刀と、相手の直刃剣。それぞれの切っ先を二尺ほど離し、静かに正対する。油断なくかまえたまま、僧兵は低くつぶやくように言った。

「うぬらはなにをたくらんでおる。八尾比丘尼には会わせまいぞ」

 …やおびくに?

 思う間もなく、間合いを詰めてきた。体躯に似合わない、氷を滑るような踏みこみ。小細工が通用するような相手ではない。ただ、速いほうが勝つ。

「ぬんっ」

「せあっ」

 次の瞬間。心臓を狙った直刃剣は、左袖を突き通していた。対する俺の長太刀は、敵のわき腹を捕らえていた。剣技に優劣はなかった。最初から急所を狙わなかった分こちらの方が早かった。それだけのことだ。

「ごふっ……ごふっごふっ……」

 苦痛の表情を浮かべながら、直刃剣を杖のように地面に突き刺して、にごった咳をなんどもこぼす。

「しばらく動くな。肋骨の下とはいえ、臓腑をまともに打ちつけた。息をするのもつらいはずだ」

「ふんっ。情けをかけたつもりか、甘いな……闇を見るぞ」

「何だと?」

 訊ねかけたとき。

 …ずきん。

 鋭い頭痛に襲われた。頭の奥の一番深いところ。汚泥のように、何かが浮かびあがってくる。これは……そうだ。今と同じ光景を、俺は見たことがある。

 真っ青に晴れた空。蝉の声だけが響く山道。童のころの俺。踏みにじられた祈り。血だまりの中に転がる、老僧の屍。泣きじゃくる俺。血塗られた刃。殺されるはずだった……殺せるのに、殺さなかった。そして、一人になった俺……。

 突然の殺気が、俺を現実に引き戻した。

 地面に突き刺していた直刃剣を僧兵が引き抜き、そのまま打ちかかってくる。

「くらえっ」

 だが、僧兵の足元はまだおぼつかない。一撃目をなんなく受け流し、返す刀で敵の眉間を狙った。

瞬間、

自分が真剣を降ったことに気づいた。そのまま太刀を降り抜けば、僧兵は即死する。

『余を主とするかぎり、一切の殺生を禁ずる』

「くっ……」

 両腕をねじ曲げるようにして、無理に太刀筋を変えた。馬鹿げた行動。一瞬の気の迷い、それが命取りになることは、誰より自身が知りぬいていたはずなのに……。

 太刀の刃は僧兵の肩口をなで、そのまま空を斬った。ひきかえに、俺の体制は大きく崩れた。自分から敵に背中をさらすことになった。

「ふんっ」

 絹と肉が裂ける、嫌な音がした。

 灼けるような衝撃が、背を斜めに走り抜けた。それで相手との間合いがわかった。振り向きざまに太刀を振るう。

「…せりゃあぁぁあっ!」

 渾身の気合とともに、僧兵の肩口に刀背を叩きこんだ。

「ぐおあっ……」

 僧兵は白目のまま、その場に昏倒した。だが、殺してはいないはずだ。不殺の誓い。俺と神奈が交わした、破ることのできない誓い。

 背中が焼けるように熱い……立っていられなくなった。何かが倒れこむ音が、すぐ耳元で聞こえた。頬のすぐよこに、地面が続いている。

 ダメだ……まだ僧兵は一人残っている。神奈たちを追わなければ。

じくじくとした痛みを感じながら、遠のいていく意識を必死でその場に止めようとして……。

 やがて頭のなかが真っ白になって、何も考えられなくなっていった。

 




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