Summer 第七幕 小休止

 

「少し、休もうか」

 紗衣はそう呟くように言って、窓際に重心をかたむける。水平線の向こうに、眼をつぶりたくなるような明るい何かが顔を覗かせて、それが朝日だと気づいた。いつの間にか、夜が明けていたらしい。

最初に話しはじめたのが何時だったかは覚えていないが、外の景色が真っ暗だったことを考えれば、少なくとも四,五時間はずっと喋りつづけていたことになる。

「さすがに疲れたよ」

 そんなわずかの言葉にさえ、どこか重たいような印象を受けるのは、彼女の疲労が限界に近いからだろうか?

 窓に寄りかかるように紗衣は身体を倒そうとしたが、朝露が服についたのか、慌てて袖についた水を指ではらい、水滴を座席シートにはたき落とす。往人の膝に両手でどっかりと乗っかると、それからまもなくすーすーと小動物のような、かすかな寝息があたりに響きはじめる。

 俺も……少し寝るか。

 カバンから桃色まじりのシーツを取りだすと、それを紗衣と自分とにふわりと投げかける。とたん周囲に羽毛の柔らかな香りがただよいはじめて、それが懐かしいなにかを彷彿させる。

 思い出すのは、あの町で観鈴と共に過ごした記憶。それはほんの数日前の出来事のはずなのに、いまはもう限りなく遠い、時の彼方にあるようで……。

 時の彼方……そういえば、すすきの海で粗末な着物を着た女性を、いつからか夢に見るようになった。母さんの記憶を見た、その翌日からだろうか?

夢が記憶により形成されるものだとしたら……俺の見るこの夢は、生まれてまもない赤子の脳裏に焼きついていた母親の記憶が、いまごろになって浮かびあがってきたということだろうか?

大人になって、子どものころに遊んでいたおもちゃがひょっこりダンボールから顔をのぞかせるように……。

だとしたら、

「てんにたとえばほしのかず」

「やまではきのかず、かやのかず」

 今まで意識したことはなかったが、ときおり脳裏をかする詩のような言葉の序列。これはひょっとしたら、幼いころの俺が母から聞かされた言葉……?

 いや、関係ないか。母親がどうこうなんて考える歳でもないし、第一、俺にとって母さんという言葉は湖葉という女性のことを指す。本当かどうかなんてどうでもいい。俺はあの人を母さんと認めた。だから、それでいい……それだけで……。

 

 

「みちる」

「んに?」

「…ちょっと呼んでみただけ」

「むぅぅ」

 みちるは少し怒ったような表情をみせたが、すぐににぱっと笑いなおすと、美凪のとなりに掛けなおし、ふぅとシャボン玉を吹きはじめる。飛ばしたシャボン玉が空へと舞い上がる。どこまでも、どこまでも高みを目指して昇っていく。

 美凪が父の住む家に、妹に会いにきて数日が経過した。

父さんと今の奥さんとの間に生まれた一人娘、それがみちる。でも彼女はあくまでも彼女であり、私の知るみちるではない。みちるはこんなに上手にシャボン玉を飛ばすことなんてできなかったし、ロングスカートなんて絶対にはこうとしなかった。

 頭ではそれがわかっているはずなのに……。

「おねえちゃん、どうしたの? なんだか元気ないみたいだけど」

「あ……うん。ごめんね、みちる。なんでもないの」

「ひょっとして、今朝来てたあのおばちゃんのこと気にしてるの?」

「ほんとになんでもないって」

 今朝きたというのは、私のお母さんのことだ。

『生業を背負う気があるのなら、自分と一緒に京都へ行ってほしい』

 見慣れた赤い車にのって、母さんは車体の窓越しに短くそれだけつげた。私があの町を出たきっかけは、みちるに頼まれた約束事を叶えるためだった。

翼を持つ少女を捜しだし、楽しい思い出、幸せな思い出をわけてあげる。そうして、囚われた少女を助けだす。

けれど、みちるはいま此処にいる。この子と私の間には、思い出もなにもない。この子は私の知るみちるではない。それはわかっている。それでも、みちるは此処にいる……私にここにいてほしいと、そう手を握りしめてくれている。

 返答に困りみちると母さんとを目で行き来して、それを何度か繰り返す。

互いの息づかいさえ聞こえてきそうなほどに、あたりは静寂した空気を保ち続けていた。雲の切れ間からときおり姿を見え隠れさせる陽光が、白のブラウス越しにじりじりと背中を熱していく。

「お昼すぎにもう一度だけ来るわ。それまでに答えを、あなたが本当にやりたいと思うほうを選びなさい。強制はしないから」

 母が車のエンジンをかけなおすと、激しい機械音があたりに響きはじめる。張り詰めていた静寂とした空気がうすれ、影も残さず消えていく。

父と母が一緒にいる姿をもう一度見たくて、私はお父さんに会っていってほしいと、そう頼んでみたけど、「私はあの人と一緒にいるのが嫌になったから別れた。いまさら会ったとして、なにが変わるわけでもない。それに再婚相手の自宅に私が押しかけたら、いまのあの人の奥さんが無駄な火花を散らしてくるのは目に見えている。厄介ごとなんて、少ないに越したことはないでしょ」

そんなふうに言って、すぐにアクセルを踏みこんでどこかに消えてしまった。そして、約束のお昼すぎはもうすぐそこまで迫ってきていた。それなのに、私はいまだ答えを出すことができずにいて……。

「おねえちゃん。夏休みの間だけでも、みちると一緒にいてくれないかな? そう約束してくれないかな」

「約束?」

「うん」

「約束か、そうね……」

 みちるの柔らかな髪にふれ、くしゃっと指でなぞるように手を動かす。

 そして私は、ようやくに答えに辿りつく。

 

 

 の穏やかな風が首筋をゆっくりとなで、全身を包みこむように駆け抜けていく。アスファルトから空気中にじわりじわり浮かびあがってくる熱を浴びる和樹や佳乃にとっては、そんな些細なものでさえ、とても心地良いものに思えた。

「それで、なんであたしたちこんな場所を歩いてるんだろうね」

 二人が歩いているのは国道。東よりに真っ白なガードレールが備え付けられ、その先に海が続く長い長い一本道。どう考えても人が歩くような場所ではない。

「バイクがいきなりぶっ壊れちまったんだ。仕方ないだろ」

「ちゃんと整備しとかないからだよ」

「悪かったな」

 原因はエンジン付近のパーツの劣化のようだったが、和樹に専門的な知識はないし、あったとしてもバイクが直るわけでもない。結局は、こうして歩き続けるほかに方法はなかった。

最寄りの町まで六キロほど。炎天下のなかバイクを引きずりながら歩く距離としては、十分すぎるほどの距離。頬をつたい地面へと落ちる汗は、熱せられたアスファルトのせいか、延々と気化を繰り返している。

「はぁ。こんなんで、ほんとに京都まで行けるのかなぁ」

「一応金はあるんだ。町でバイクの部品さえ交換できれば、すぐにいけるはずだ」

「町に着くのか先か、あたし達が干からびたミイラになるのが先かって話だよね」

 佳乃の言葉を半端に聞きながし、前へと踏み出そうとする。だが足どりは重く、一歩前へ踏みだすたび、確実に体力が蝕まれていくのがわかる。

数歩進んで、ダークグレーのバイクの車体を引きずるようにして歩いていた和樹は脚を止め、簡単に周囲を見まわしてみる。

町中と違い、ここには涼しさが感じられそうな木陰すら存在しない。万が一熱中症にかかりでもしたら、それこそ命に関わる問題になりかねない。

「まずいな……」

 幸いまだ佳乃も軽口を言うだけの元気はあるようだし、和樹自身も体力には余裕がある。だがこのままバイクを引きずって一時間弱……。俺はともかく、佳乃の体力が持つはずがない。

 くそっ、めんどうごとばかりだ。携帯はバッテリー切れ。バイクは故障。歩くにしても……いくらなんでも遠すぎる。

 急に頭のなかを感情の塊がかけめぐりはじめて、それがぐるんっと何度も転げまわる。その奇異な感覚が和樹に妙ないらつきを覚えさせて、感情のはけ口が見つからず、和樹はガードレールになんども拳を叩きつける。

 佳乃はそれを止めようと慌てて駆けよろうとしたが、返ってきた返事は「うるさい」という無機質な言葉だけだった。

「ねぇ和樹君。荒れてるのは、あたしのせい? それとも……お父さんのこと?」

 その言葉が耳に入った瞬間、和樹は殴りつけていた手を緩める。

「お父さんが亡くなったことは、本当に残念なことだと思うけど……」

「死んだんじゃない! あいつは、最初から俺や母さんのことを謀ってただけだ。禁忌だかなんだか知らないが……あいつはずっと俺たちを騙しつづけていた。それだけだ!」

 父親、漸次のことは朝早くに小百合から聞かされていた。法の禁忌を犯したこと、蓮鹿も自分と同じく禁忌を犯したこと。ともに消滅したことも、全てを。

「あいつは……親父はよ……俺がガキのとき、風邪で死にかけたときも、甘いシロップだとか言って、変な臭いのする不味い薬飲ませて……騙してばかりだった」

 懸命に目をひらこうとしているのに、だんだん何も見えなくなってくる。揺れる膜がかかって視界がぼやけて、怒りのまま見続けていたはずの佳乃の顔が、ぐにゃぐにゃと変形していく。

「あいつはいつもそうだ。自分だけは何もかも知っているくせして……そのくせ人には何も告げようとはしない。翼を持つ者のことだってそうだ。本当はもっと多くのことを知っていたはずなのに……親父がそれを俺に話してくれることは、ほとんどなかった。何もかも自分ひとりで抱えこもうとして……そしてその結果がこれだ。俺は……」

 そのあたりが限界だった。息がうまく吸えなくて、無理に息を吸いこもうとすると咳きこんだ。凍えているかのように歯の根があわなかった。

 佳乃の手に、背中を撫でられているのがわかった。こいつは俺の事情なんて知らない。単なる同情からきている、気休めの行動だ。頭ではそう考えようとしているのに、呼吸をうまくすることができなくて、女みたいに情けないすすり泣きが口から漏れる。これが自分の声かと思った。なんとかこらえようとして、身体に力を入れようとするたび、全身はぶるっと大きく震えてみせて、それを許してはくれない。

「俺は……親父のことを……」

 白南風がふたたび背中を撫でて、ゆっくりと、の空気は熱を帯びていく。

 けれど、暖まりかけた空気はとつぜんに訪れた赤い車体にかき回され、空に四散していく。

「そこの路上で抱きあってるお二人さん。外は暑いわよ。よかったら乗ってかない?」

 冷やかしに正気に戻ったのか、二人はあわてて手をはなし、たがいに離れ、距離をとる。

「それで、なんで母さんがこんな場所にいるんだよ」

 後部の座席を折りたたみ、そこにバイクごと和樹は身体をしまいこむ。

「それはこっちの台詞。あなたたちこそ一足先に京都に向かったって聞いてたのに、どうしてこんな場所にいるのよ」

「こっちもこっちで色々あったんだよ。バイクが壊れたせいで身動きとれなくなってて……そうそう、母さんも京都に行くんだろ、ついでに俺たちも連れていってくれよ」

「あっ、えっと……お願いします」

 助手席のドアを開いて乗りこみかけていた佳乃が、深々とおじぎする。

「そういや、美凪の姿が見つからないな。あいつはどうしたんだ? 母さんたしか、美凪を迎えにいったんだろ」

車内に乗りこんで、和樹は車に三人しか乗っていないことに気づいた。

「ああ、あの子はこないわ」

「こない? どうして」

「約束があるんだって。私や和樹や、みちるに言われたことよりも、もっと大事な約束。どうしても会いに行かないといけない子がいるからって、あの子は町に戻ったわ」

「…それはひょっとして……観鈴ちゃんのこと、ですか?」

 言葉になんどかつかえながら、佳乃はゆっくりと言葉を口にする。小百合が問いにうなずくと、その顔が、苦々しい表情にかわる。

「なら、あたしも帰るべきです……」

「どうして?」

「だって、観鈴ちゃんを裏切ったって意味ではあたしも同罪だから……」

「あなたは自分の問題を解決するために、京都に行くんじゃなかったの?」

「でも……」

「人におせっかいを焼くまえに、自分のことを解決するべきだと私は思うけど」

「そんな言い方はないだろ母さん。佳乃だって、なにもわがままで言ってるわけじゃないんだからよ」

「わがままよ。人にはやるべきことの順序がある。優先順位、とでも言うのかしら。佳乃ちゃんには観鈴って子のことより先に、やるべきことがあるはずよ。そうでなければ、和樹が京都に行くこと自体が無意味になるじゃない」

「母さんっ!」

「ううん……和樹君いいよ」

 思わず掴みかかろうとしていた和樹を制しさせると、佳乃は穏やかな眼差しで小百合を見つめた。

「まず自分のことを何とかする。そして、観鈴ちゃんに会いに行く。それならいいでしょ、小百合さん」

「ま、そうゆうことね」

 そう結論を出すと、彼らは走っていく。全ての始まりの地、京都を目指し。

 そして、

 

 

「よし、これで京都までノンストップ」

「それはいいけど……貨物列車に乗り込むって、無茶にもほどがあるだろ」

「いちいち車やバスを乗りついで行くのは面倒でしょ。それに、ってふわふわしてて暖かいんだよ。これなら夜冷えこんでも、凍える心配なさそうだし。ちょうどいいかなって」

「まあ……いいか」

 そして紗衣の真意に未だ気づかぬまま、往人もまた、京都を目指す。

「それじゃ、そろそろ昔話の続きでも聞かせてくれ」

「うん、そうだね〜。って、どこまで話したんだっけ」

「霊山高野山、金剛峰寺に行くってあたりだな」

 舞台はふたたび、平安へと舞い戻る。

 

   


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