Summer 第四幕 悪鬼

 

 雨が止み、長い夜が明けた。

 鳥の声が森に戻ってきて、高い枝の間から朝の光が射しこむ。高台から辺りをうかがうと、青々とした山並みが四方に広がって、たっぷりと水をふくんだ木々の幹が、清々しい香りを匂わせている。斜面を下り二人の元に戻った。

「安心していいぞ。追っ手の姿はない」

「首尾よくことが運んだようですね」

 安心して気がゆるんだのか、二人ともその場にへたりこんでしまう。

「よし、ここらで休むか」

 見通しのよい木陰を見つけると、皆を木の根に呼んだ。どこか遠くの幹で、熊蝉が鳴きはじめる。

「暑くなりそうだな。神奈、日が昇りきったらまた歩きだす。少しは寝とけよ」

 話しかけたが返事はなかった。

「…くー」

 樹木に身体をたてかけて、すでに寝こけている。

「言うまでもなかったか」

 竹筒をかたむけ、あふれ出る水で喉を潤わせながら、安堵の声を漏らす。

「…神奈さまのこんな安らかな寝顔、はじめて拝見いたしましたわ」

「よく寝たかったら、体を動かすのがいちばんさ。とっ、そうそう」

 少し離れた大木の根元、両腕を紐で縛られたまま座りこけていた兵に近寄ると、口元にかけられていた猿ぐつわを外す。

「おまえも少しは飲んでおけ。この暑さだ、十分に水分を取らなければ熱気にやられる」

「逆賊が我に情けをかけようと言うのか!」

「文句があるなら、そこで寝こけている奴にでも言ってくれ。俺はあいつの命に従っているだけだ」

「…あの娘、貴族の出か?」

 神奈の着物は、真っ白な衣の上に淡紅のという上質ないでたち。兵がそう思うのも無理はない。

「貴族が賊まがいのことをするとは、世も末よ」

「神奈さまは逆賊などではありません! 翼人、神のつかいです!」

「は、戯言を。翼人がこのような場所にいるはずがないだろう。第一、神奈備命は悪鬼の子、鬼の血を継ぐものぞ」

「神奈さまは悪鬼の子などではありませぬ!」

「ふん、そんなことわかるものか! 事実、南の社にこの者の母が囚われていたではないか」

「待て、悪鬼とは噂話ではなかったのか」

「噂? なにを言うか、我はこの眼で確かに見たのだぞ。あれは、間違いなく悪鬼であった。幾千、幾万が死んだ、殺された。あの女に……」

 ががががっ。

 突如、すさまじいほどの轟音を立て地鳴りが襲う。

 大地が強くゆれ、めじろたちのさえずりが途絶える。かわりに聞こえてきたのは、強くはばたく鳥たちの羽根音。

「崇りだ!」

 声を張り上げたのは兵だった。身体を震わせ悲鳴まじりの叫びを上げ、林へと走り出す。

「悪鬼の崇り……やめろ、死にたくない!!」

 昨夜の雨の影響か、地面はいまだぬかるみを覚え、駆けるたび具足は泥を跳ね上げる。

「おい、そっちは!」

 柳也が言うより先に、兵の姿が忽然と消える。裏葉と二人慌て林へと近づくと、

「がけ崩れか…」

 林はすっぽりとなくなっていた。昨日の雨で土砂が流れたのだろう。鳴りひびいた地鳴りは、おそらくすぐ近くでこれと同じことが起きたから……。

「柳也さま、あの方は……」

「ダメだ。ここに滑り落ちたのなら、助からないだろう」

 土砂に飲み込まれては、生き残る確率など皆無に等しい。濁流のなかに落ちるようなものなのだ。

「何事だ?」

 今更になって神奈が目を覚ます。いや、飛び起きたものの状況がよく分かっていなかった、というところか。

「む、あの兵がおらぬがどうしたのじゃ?」

「あ、ああ……解放した。自分の過ちを認め、おまえに感謝していたよ」

「そうか、行ってしまったか。ちと寂しいの」

「それより、昼中を過ぎたらまた歩く。寝ておけよ」

「ふぅ、また歩くのか……余はもう疲れたというに」

 樹木に身体を戻すと、そのまま目を閉じる。疲労がまだ残っているのだろう、すぐにすーっと寝息が聞こえ始める。

「柳也さま……宜しいのですか」

「知らぬが仏さ」

 裏葉がけげんそうな様子で自分のことを見ているのに気づいた。目の前で人が死んだというのに、どうしてこの方は平然としていられるのか……。裏葉の瞳が、そう語っていた。

「慣れているからな」

 視線に気づくと、一言そうつぶやく。

「戦で、ですか……」

 問いかけに、俺は何も答えなかった。ただ少しだけ苦笑いを見せて、瞳をそらす。しばしの間沈黙が続き、辺り一面に蝉の合唱が響きわたる。

「これから、どちらに向かうおつもりですか?」

 静寂とした空気を破ったのは、裏葉のほうだった。

「とりあえず南に向かおうと思う。以前社殿で噂を聞いたことがある。ここより南の社に翼人の母子がいたらしい。この話の子供が神奈だとすると……」

「社殿の噂は私も耳にしております。南の社に囚われた悪鬼……まさか、柳也さまはそのような戯言を信じておられるのですか」

「信じてはいない。だが、さっきの兵は南の社に神奈の母君が囚われていたと断言していた。今もそこにいるかはわからないが、今のところ手がかりはそれだけだ」

「わたくしは、神奈さまの母君が悪鬼などとは……」

「ああ、俺も信じてはいない。それより、おまえも少しは寝ておけ。俺のことはかまわないから」

「わたくしは沢筋で休む機会がありましたから」

「そうだったな……では、見張りはまかせる。一刻たったら起こしてくれ」

 太刀をかたわらに置き、木の根を枕に仰向けになった。

「はい、承知いたしました」

 たのもしげな声を聞いて、ゆっくりと目を閉じる。

 

 

 それから数日の間、山中を進んだ。

 追っての気配はまったくない。神奈は沢に落ちて溺れ死んだと思ってくれていればいいが、さすがにそこまで楽観はできない。亡骸が見つからない以上、執拗に探し続けるはずだ。

検問のことを考えると街道を行くわけにはいかず、しかたなく、盛夏の山路を歩き続けた。風はそよとも吹かず、真上にある太陽は地表をこがす。木々の色にみずみずしさを与える陽光も、今は憎らしいかぎり。

 神奈も最初のうちは熱気にやられ倒れこむことがあったが、暑さになれたのか、なんとか俺の足についてこれるようになっていった。

 緑にかこまれ風通しのよい社殿では、裏葉や神奈の着る厚手の衣はちょうど良かったのだろうが、山中で着るには少々辛そうだった。額を流れる汗が、それを物語っている。

この山の付近で暮らす者の着物なら涼しげだろうと思い、村を見つけると付近の川辺へと向かい、カゴに入れてあったものを拝借した。ならば言うことがなかったが、残念ながら生地は。まあ、農民の着衣ならばこの辺りが妥当なところだろう。

 追っ手の気配が消えたおかげで、少しは時間に余裕が生まれてきた。

 その時間を利用して、社殿から持ち出した書物を少しずつ読み解いていく。とはいえ、翼人に関した資料のたぐいを集めろと命じられたとき、密かに抜くことができたのはわずかに数冊。おそらく、これ以外の書物はすべて焼かれてしまったのだろう。そう考えると、神奈の母君の手がかりになりそうなものは、このわずか数冊の本だけということになる。なんとか読み解いておきたいものだが……。

 手にとったのは古ぼけた巻物。中は難解で、おいそれと読めるものではない。

「…翼伐記」

表紙に書いてあった文字を読み上げると、表現のしにくい感情が広がった。平易な部分を拾い読みしていくと、どうやら、過去にも神奈のように幽閉された翼人がいたと書かれているらしかった。数頁飛ばすと、別の記述が目に飛び込んできた。

『羽根の者、を招く。、天雲の向伏す極みまで果つ』

 翼人が災難を引き起こす神で、地上を消し去るという意味らしい。遥か昔にそのような事実があったことが、こまかな字で書かれていた。

「ふむ……」

 まあ、おいおい読み解いていくしかない。冊子を閉じ、大きく伸びをする。

「どうだ、上達したか?」

 聞かれて、神奈はびくっと振り向いた。

「こっ、このぐらいたやすいこと」

 その手には丸く塗った三つの布の玉。拝借してきた衣の間にはさまっていたものだ。神奈はお手玉を知らなかったらしく、裏葉が手本を見せると口をあんぐりと開けてその様子に見入っていた。

 神奈が自分でもできるかとたずね、裏葉にやりかたを教わり始めたのが前のこと。そして昼下がり、練習の成果を披露してくれるよう頼んだ。

お手玉を右手にそろえ、ものすごい形相で黙り込む。どうやら精神を統一しているらしい。

「えいっ……」

 裂帛の気合とともに、一つ目が宙を舞う。

 ぶんっ。

 お手玉は俺の頭を超え、足元にぽとりと落ちる。拾い上げ神奈に手渡す。

「ちと手元が狂っただけだ。次はきちんとするからよく見ておれ」

「はいはい」

 適当に返事を返す。

「それっ……」

 ぶんぶんっ。

「すごいな、今度は二つともか」

「力任せではいけません。ちょうど目の高さほどまで……」

「わかっておる」

 俺が拾い集めると、神奈はそれを黙って受け取る。

「やあっ……」

 ぶんぶんぶんっ。

 三つのお手玉は、はるか向こうの木の幹に次々と当たって落ちた。もはや感想を言う気力もない。神奈は自分で立ち上がり、無言のままお手玉をとってきた。

「習うて間もないのだ。このぐらいできればよの」

「自分で言うな」

 すでに『初心者だから』などといういい訳ですまされる域ではない。

「なんというか……」

「あきれるほどにお下手でございます」

 教えている間に疲れ果てたのだろう。血も涙もない音声で裏葉が言う。

「やかましいっ! おぬしらは下がれ、気が散るっ」

 言いながら、またもお手玉をかまえる。

「裏葉、行くぞ。とにかく飽きるまでひとりでやらせるのがいいだろ。俺はちょっと出かけてくる」

「どちらに?」

「村の近くの川にが仕掛けてあった。運がよければ何か捕れるかもしれない」

「その簗はどなたのものなのでしょう?」

「魚はだれのものでもないさ」

「…たしかに、そうでございますね。それでは、わたくしは神奈さまの表着をつくろうことにいたします」

 言って、裏葉は社殿を抜け出す際に着ていた神奈の衣を広げる。

「もうぼろぼろだろ。ここで捨てていってもいいんだが」

「…なっなっ、なんという不敬を!」

「ああ、すまん。好きにしていいから」

 

 

 獲物を持って戻ったときには、もう日が暮れかけていた。林間は別世界のようで、年月をへた木々の肌で、刻々と光が褪せていく。

山鳥も蝉も、今は鳴りをひそめている。やけに静かだった。己の身が何時にあるのか、わからないような心地がした。やがて……。

「うがぁっ。なぜできぬのだっ……」

「幽玄もなにもあったものじゃないな」

「お帰りなさいませ」

 裏葉は困り果てた様子で、神奈を眺めていた。

「ずっとやってたのか?」

「ええ…お止めしても、お聞きくださらないのです。社殿では童遊びなど、される機会がありませんでしたので」

 その瞳には、母御のようなやさしさが滲んでいるように見えた。

「ほらっ」

 わらひもをえらに通した川魚を裏葉に渡す。全部で八尾。

「ヤマメでございますね。まあまあ、どれも丸々と肥えて……」

「塩をたっぷり振って、焼いてやってくれ」

「よろしいのでございますか?」

 塩は身体に必要なものだが、旅先では手に入れにくい。また、追っ手のことを考えて、これまで焚き火を許したことはなかった。

「これ以上ばててもらっても困る。それに、塩気のない川魚ほど味気ないものはないからな。焚火は炎を小さくして、松のたぐいを焚きつけないようにしてくれ」

「承知いたしました」

 裏葉は嬉々として火をおこしにかかった。社を出てからずっと、食事にあつものが出せないのを気にしていたらしい。

「神奈、食事はどうするんだ?」

「勝手に食うておれっ! 余は忙しい!」

「…気のすむまでさせるか」

「ですが、めしあがっていただかなければお身体にさわります」

「匂いがたてばすぐに飛んでくるさ」

 火打石を打ちあわすと、薪に火が移る。その間に裏葉は小刀をたくみに使って魚を下ごしらえし、枯れ枝から串を切り出す。それをヤマメに通し、炎の周りに刺す。魚の脂が焚火にじゅうじゅうと落ち、香ばしい匂いがただよう。

 案の定、神奈がのこのことやって来た。

「お手玉はもうおわりか?」

「暗くて手元がよう見えぬ。続きは明日にする」

「そうですか、と」

 

 

 社殿を脱出して十日。あいかわらず、街道をさけて山中を進んでいた。暑さは増すばかり。まとまった雨もなく、飲み水を確保するのも一苦労。日中に休息をとり、涼しくなってから月の入りまで行動するようにした。

 それでも旅が順調だったのは、神奈と裏葉が野宿に慣れてきたことが大きい。ときおり夜晩にむくりと起き上がり何処へと姿をくらます裏葉のことが、気がかりと言えば気がかりだったが、一刻もせずうちに戻ってくるのだから、心配事、といえるほどのことでもなかった。

 午後の休憩中、俺は社殿から持ち出した地図を広げていた。

 書き込んであるのは主要な街道と河川、それに寺社荘園ぐらい。土地勘のない場所では、地形を読むのもむずかしい。

「裏葉、神奈。ちょっと来てくれ」

 お手玉を練習していた二人を呼び寄せる。

「なんじゃ、余は忙しい身ゆえ手短に頼むぞ」

「このまま進むと、川につきあたる。この辺りの渓谷はかなり深く、泳いでわたるのは困難だ。そこで川上に迂回するか、街道にでるか……」

「ならば、街道を進むのがよろしいかと」

「そうは言うが、川を越えれば国衙が近い。街道は人目が多いはずだ」

「なればこそでございます」

 意味ありげに裏葉が微笑む。

「人々が集まるところなれば、うわさもはなやかでしょう」

「…それもそうだな」

 旅の目的は、逃げることから探すことに変わっていた。問題は神奈の母君の居所。頼りはただ、『ここより南の社』という言葉だけなのだ。女子供の徒歩とはいえ、もう十日も南に進んでいる。この辺りで情報を集める必要があった。

「決まりだ。街道に降りるぞ」

「…だからお前が言うなっての」

 そうして、三人は街道へと進路をとることとした。




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