Summer 第三幕 逃亡
社殿があった山から別の山稜に移ったのは、ことを起こして一刻ほどのちだろうか。柳也は先頭をとり、濡れた下草を掻きわけていく。
少しでも通りやすいよう草を左右に開き、ひたすらに斜面を登る。
社殿を容易に抜け出すことができたのは、夜番の者が物病にあっていたことが大きな要因であろう。そのおかげで柳也は夜間のうち、板掘に加工を加えておくことができた。
幾つかの羽目板は、力を加えれば簡単に取り外せるように細工しておいた。逃亡の下準備はかなり前からしておいたが、覚悟が決まらず、結局行動を起こしたのは異動の前日となってしまった。
『職務熱心なことよの』
神奈の皮肉っぽいつぶやきが、妙に印象に残っていた。
それから半刻ほど歩いただろうか。やがて斜面から尾根筋に出た。
濡れた木々の間に、道らしきものがぼうっと浮かびあがっている。猟師やきこりたちが残した踏み跡だろうか? いずれにしろ、少しは楽になるだろう。
息を殺し、三人はひたむきに足を走らす。不意に後ろを振り返ると、神奈がじわじわと遅れだしていた。水をふくんだ装束が重いのだろう。うっとおしそうに全身をひきずっている。
「すこし休むか?」
「…どうということはない。はように進まぬか」
言葉とはうらはらに、疲労の色が濃い。体力的には、すでに限界に達しているのだろう。あとどれくらい走ればいいのだろうか?
答えを求め頭上に視線を向ける。木々が枝をからませる向こうから、雨は絶え間なく降り続いている。深い山中ということもあってか、辺りの闇はねっとりと濃い。意識していなければ、闇に心を持っていかれそうなほどに……。
がさっ。
木々の葉を通して降る雨音の向こうに、異質な音がかすかに混じる。
「頭を低くして、物音を立てるな」
「追っ手でしょうか?」
「わからん……だが静かにしていろ。できるなら、気配も消しておけ」
裏葉にそう言い聞かせると、ただじっと身をひそめる。濡れた林間に雨音だけがふくらんでいき……やがてそれは訪れた。
五、六人分ほどの足音が、道のない斜面を整然と下ってくる。革と木板が擦れあうさりさりという音から、具足をまとっているとわかる。足音はすこし離れたところを通り過ぎ、気づかれることはなかった。
「…動いていいぞ」
「ふう。厄介なことよの」
軽口を言う神奈の舌の端に、かすかな震えが覗いていた。
「山を下っていきましたね。警邏の方々は、こんな遠くまで見回りに来るのですか?」
溜めていた息を吐き出しながら、裏葉が言う。
「いや……社の者たちではない。こんな山中で乱れず行軍できるような奴らは、俺の部下にはいない。俺の目が確かなら、さっきの兵たちは相当に場数を踏んでいる。前触れなく出くわしていたら、やっかいなことになっていたかもな」
「どういうことでございましょう?」
「俺が案じていたより、一晩早く事が起こったらしい。いずれにしろ、急ぐに越したことはない。行くぞ」
歩みはじめようとしたが、神奈は立ち止まったままだった。
「柳也どの、あれは」
木々の幹を通して見える遠景に、一心に視線をそそいでいる。
神奈が指さしたその先。黒々とした山肌の中、炭火のように赤い光が見えた。
「あのあたりには、社殿以外建物はない」
神奈は、ただだまって光を見つめていた。
「もうこのような遠くまで来たのですね」
光はだんだん強くなり、今はまるで野焼きのように赤々と照りばえている。
やがて、裏葉も違和感に気づいた。
「篝火を焚いているのでしょうか?」
「篝火だけではあそこまで明るくならない。燃えているんだ、社殿が」
「たわけたことを申すでない!」
神奈がそう叫んだが、眼前の光景が真実を物語っていた。社殿全体に火が回ったのか、吹きあげる炎と煙が、山肌の一角を赤黒く染め上げていた。
「それでは、社の者どもは……」
神奈はつぶやくように言って、そして同時に気づいた。
先ほど山を下りていった兵士たちは、社殿から逃げる者を待ち伏せるための隊なのだろう。社殿に火を放つような者たちだ、事情を知る者を皆殺しにするということも十二分にありえる。社殿の者たちは、元々使い捨てにされる手はずだったということだ。
瞳から炎を振り払い、ゆっくりと神奈は話しはじめる。
「ときおり、帝から文が送られてきていた。翼人のことを快く思わない太政菅どもに邪魔され、満足に警護の者も送ることができない。今は自分の力で彼らを屈服させているが、それもいつまで持つかは分からない。そう書かれていた」
「社殿に向かった兵たちは太政菅の私兵、政権交代の御膳立てとして翼人を始末しようとした。突飛な考えだが、あり得ない話ではないな……」
天皇が翼人を奉り、それを守護神としているのならば、それは確かな脅威となるだろう。だが相手は翼人、大っぴらに事を運べば、逆風で自分たちが吹き飛ばされてしまう。故に、私兵を利用して秘密裏に事を行う。
たしかに筋は通っている。となれば、俺の上役もほぼ全てが太政菅からの回し者だったのだろう。そうでなければ、文書を焼却するよう命じる理由がない。
翼人の脅威は、それ自体の力だけではない。彼らは国の宝であり、危害を加えることは、何事にも比べがたい大罪となりえる。だが例えば、翼人が悪鬼となりはてた、そう噂だてしておけばどうだろうか……。
悪鬼の子もまた悪鬼。そう唱えていれば、神殺しの大義名分が自然に生まれいでる。
社殿に見入っていた神奈に急ぐよう呼びかけると、歩みを早める。山中を一刻ほど歩いたころ、行く手から雨とは違う水音が響いてきた。
「か…」
雨のせいでかなり増水していて、向こう岸には渡れそうになかった。かと言って、引き返している時間はない。
「どういたします?」
「沢にそって進むしかないな。行くぞ」
裏葉の問いに答え、慎重に登りはじめる。沢沿いでは濡れた岩が邪魔をし、軽々とはいかない。まず神奈が遅れだし、続いて裏葉も遅れだす。
「がんばれ、ここを超えれば楽になる」
呼びかけても、返事はかえってこない。神奈も裏葉も、ただ黙々と足を動かしている。このまま沢沿いを進めば、いずれ神奈たちの体力が続かなくなる。
いずれ追いつかれる。
「柳也さま。今、灯りが見えました」
半身をねじるようにして、裏葉は背後を指差す。木々の幹を通して、松明の火がちろちろと見え隠れしている。
「あちらにも」
「向こうにも見えるぞ」
逆の斜面を指差した神奈の先に、星が光っていた。いや、星ではない。真っ黒な斜面のそこかしこに松明の光が散りばめられ、そのように見えるだけだ。
「三十…いや、四十人はいるな」
松明をかかげて大勢で迫ってくるのは、こちらが反撃するとは思っていない証拠。つけいる隙があるとすればそこだ。
「神奈、おまえよほど人気があるんだな」
「そんな人気など、おぬしにくれてやるわ」
苦しい息を整えながら、さも迷惑そうに言う。
「なるほど、それがいいかもしれないな」
「どういう意味か?」
それには答えず、柳也は神奈に正面から向きなおる。
「俺の言葉どおりにすれば、必ず生き残る。たぶんな」
「そのようなことは、もっと頼もしげに言わぬか」
「根が正直なんだ。勘弁してくれ」
「それで、どうすればよろしいのでしょう?」
「なにがあってもここを動くな」
全く予想していなかった答えに、神奈と裏葉は絶句する。こんな状況でじっと動かずにいるとしたら、その恐ろしさは想像を遥かに上回る。逃げ回っている方が、はるかに気が楽なのだ。
「できるだけ音を立てずにできればなおいい」
「柳也さまはどうなさるのですか?」
問われて、裏葉に向きなおる。
「神奈の表着の替えはあるよな?」
「はい。言いつけられましたとおり、一枚だけ持参しました」
「悪いが出してくれ」
急な渓谷を駆け降りる。
刻は一刻を争う。
俺の動きが早ければ早いほど、神奈と裏葉を危険から遠ざけることができる。濡れた岩や木の根に気をつけながら、ひたすら下流を目指す。やがて湿った風が燈油と松脂の焼ける臭いを運んできて、前方に松明の明かりが煌々と見えた。川面をはさんで両岸の斜面を、十名ほどが登ってくる。木立に身を隠しながら、集団の先頭をうかがう。むずかしいのはここからだ。相手に近すぎない場所から、こちらの姿をちらりと見せなければならない。
神奈の表着を開き、頭を隠すように被る。土を踏みしめる足音が近づき、深く息を吸った。次の瞬間、木々の隙間に身を躍らせる。
先頭を歩いていた兵士が、ぎくりと立ちどまった。松明を高くかかげ、けげんそうに俺の方を見る。しっかりと自分の姿を確認させると、踵を返し、梢の間に逃げ込む。
「いたぞ、女だ!」
興奮した怒鳴り声が鳴り響き、ヒュィ〜〜〜っと、かん高い呼び子の音が、森中に響きわたる。
木々を縫って斜面を疾走していくと、重い足音が背後から迫ってくる。
最初は沢から離れる。追っ手をできるだけ大勢引き寄せるために。
「くそっ、存外足が速いぞ」
「見失うな、急げ!」
狩場で鹿でも追うように、大声で指示を伝えあっている。
「…兵は手練れでも、指揮がなってないな」
全力で逃げ回りながら、そうほくそ笑む。
暗闇でぬかるんだ足場だ。具足をつけた兵士では、兎一匹捕まえられないだろう。俺なら全員の松明を消させ、闇にまぎれて包囲を張り直す。まあ所詮は私兵、集団での訓練などそれほど受けてはいないのだろう。
目前に急な崖が現れる。衣をかついだまま、足場をえらんで駆け登る。
ヒュィ〜〜〜。
また呼び子が響き、
ヒュィ〜〜〜。
どこか遠くで、別の呼び子が答えた。
神奈と裏葉が見つかったのか? ちらりとそう考えたが、今はたしかめる術がない。
「女がいたぞ、こっちだ!」
容赦なく音が飛び、別の追っ手を呼び寄せる。
大半はこちらに来たか……ならば、そろそろだな。方向をひるがえし、元来た斜面を転がるように下る。追っての灯す松明が時折肩越しに見えて、ほどなく沢に着く。神奈と裏葉が待つ場所からはかなり下ったところ。上流では雨が強いのか、水音は勢いを増していた。
表着を地面に放ると、手近にあった抱えるほどもある岩を持ち上げ、それを水面めがけて放り投げた。
…じゃば!
濁流の真ん中に水柱が立ちあがった。
「女が沢に落ちたぞ!」
間髪を入れずにそう叫ぶと、直上の崖からすぐに反応があった。
「沢に落ちたらしい」
「この真下から聞こえたぞ」
続いて、藪をかきわける音。
「悪いな、裏葉」
神奈の表着を両手で広いあげると、
びりびりびり……。
絹の布地を袖から乱暴に引き裂く。帯のように細くなった布切れを沢に近い木の枝にひっかけ、残りの布は水面に流す。
全ての細工を終え沢沿いの崖をよじ登り、岩陰に隠れ聞き耳を立てる。
「見ろ、衣の切れ端だ」
「みなを集めよ、はようせい」
ヒュィ〜〜〜ヒュィ〜〜〜ヒュィ〜〜〜。
呼び子がひときわ大きく鳴り響く。
「者共、ここだ!」
「…下流だ、ここより下流をくまなく探せ」
漏れ聞こえてくる指示に、柳也はおもわずほくそ笑んだ。
今夜の雨で沢は増水している。表着はまぎれもない神奈備命のもの。偽装とわかるまでに、うまくいけば数日は稼げるかもしれない。
「ここまでは上手くいった、が……」
呼吸を整えながらひとりつぶやくと、腰を上げ、そっとその場を離れる。慎重に気配を探りながら、ゆっくりと歩みを進める。数人の兵士が具足を鳴らし、坂を駆け下ってくるのを見つけ、下草に身を隠しそれをやり過ごす。
少し遅れて、兵が一人走ってくる。単独で松明も持っていない。思ったとおり、統制がとれていない。木の後ろに身を置きしずかに抜刀し、そのまま息を潜める。
俺の元まであと十歩……。
あと五歩。
敵が近辺に潜んでいる場合、いかなる理由があったとしても、兵を単独にしてはならない。なぜならば、
脇を通りぬけようとした刹那、兵士の喉笛に刃をぴたりと押し当てた。
「……!」
「大声を出すな」
答えのかわりに、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
「太刀を捨てろ」
「………」
「太刀を捨てろ」
音声を変えず重ねて言うと、兵士の手から黒柄の太刀が離れ、地面にどさっと落ちた。
「俺の問いに正直に答えろ。そうすれば、命だけは助けてやる」
兵士がかすかにうなずいた。
「なぜ神奈備命を追う?」
「知らぬ。そう命じられたからだ」
「神奈備命をどうするつもりだった?」
「どうもせぬ。ただ捕らえよ、と」
「だれの命で動いている? 太政菅か」
「知らぬ」
言葉に動揺の色は見られなかった。本当に知らないのか、それとも訓練されているのか。
「隠すとためにならない」
柄に力をこめ、刃を肌に密着させる。雨と泥で汚れた兵士の頬が、ぴくぴくと引きつった。
「まっ、まことのことだ。われらは何も知らぬ。ただ棟梁は、逆賊を討つためだと申しておった」
「どこから来た?」
「吾妻から」
「東国か……」
都よりはるか東に下ると、屈強な野武士をたばねた傭兵団が存在する。秘密裏に事を運ぶのには慣れた連中だ。私兵ではなく傭兵か……。
傭兵の雇い主が太政菅なのか、それとも別の誰かなのか……いずれにしろ、雑兵がこれ以上の事情を知らされているとは思えない。
「わかった」
喉元から刃を離すと、そのまま刀を上段に振りかぶる。兵士は一瞬呆気にとられるが、すぐに自分がどうなるのか悟った。
「悪く思うなよ。動かなければ、楽にあの世に行ける」
「ひっ……」
腰が抜けたのか、べっとり地面に座り込む。
「たっ、助け……」
その首筋を狙いすまし、刀を振り下ろした。
「やめよっ」
鋭い声がひらめいて、柳也はすんでのところで太刀筋を変えた。目当てを失った切っ先が地面に突き刺さり、それを見た兵士が脱兎のように駆けだした。伸びた手の先には、雨にあてられ鈍い光を放つ太刀。
「くっ……」
とっさに刃を返し、兵士の側頭を薙ぎはらう。
ごっ、と鈍い音がして、兵士が地面に転がった。しばらくは起き上がれないはずだ。太刀をかまえ直し、身体ごと背後へ振り返る。
「なぜここにいる?」
太刀を鞘におさめながら問う。
「斬ったのか?」
「峰うちだ。そんなことより裏葉、なぜあの場所を動いた?」
そこに立っていたのは、裏葉と神奈。
「もうしわけございません……」
「余が命じたのだ。裏葉に咎はない」
すぐ近くの地面に落ちていた兵士の太刀を、斜面の下に蹴り飛ばす。腹の中が、怒りと不甲斐なさで煮えくりかえっていた。
山中を闇雲に歩くこの二人をもしも追っ手が見つけていたなら、すべては終わっていたはずだ。
「おぬしはこの者を殺めるつもりだったのか?」
昏倒している兵士を見やると、神奈はそうたずねる。
「そうしなければ、こっちの生命が危うくなる」
「恥を知れ、この痴れ者がっ!」
夜目に怒気がわかるほどに、神奈の態度が一変した。何を怒っているのかわからなかった。神奈に俺のような従士がいることを知られた以上、生かして帰すわけにはいかない。当然の話ではないのか?
「おぬしは先ほど、この者に『命だけは助けてやる』と申したであろ? おぬしは平気で嘘をつくのか? 平気で誓いを破るのか?」
「それは時と場合による」
「余との誓いも、時と場合によっては破ると申すか? おぬしは平気で……」
神奈の小さな唇が、わなわなと震えはじめた。
「人を、殺めるのか?」
雨に濡れたまま、神奈は無言で柳也のことを見ていた。
「余はおぬしに命ずる。余を主とするかぎり、今後一切の殺生を許さぬ」
馬鹿げたことを……そう思いはしたが、主の命ならば破るわけにもいかない。
「…承知つかまつりました」
泥に肩膝をつき太刀を鞘ごと面前に置くと、深々と頭を下げる。この先一人も殺さずにか……そうそうことがうまく運ぶとは思えないが……。
「うう……」
兵士がかすかにうめき声をあげる。ようやく昏倒から覚めたようだった。紐で兵士の手足をかたく縛り、口に猿ぐつわをかませる。捕虜としてしばらく連れていき、適当なところで解放することにしよう。
「これで文句ないな?」
「よい。大儀である」
「柳也さま、忘れ物でございます」
いつの間に拾いに行っていたのか、裏葉の手には兵士の太刀が握られていた。
それを柳也に手渡すと身をかがめ、縛られた兵士の耳元でこう伝えた。
「わたくしどもはゆえあって、先を急がねばなりません。あなたさまのお立場は推察いたしますが、どうかしばらくの間わたくしどもにご一緒していただければ、幸いと存じます」
一応は応対の姿勢をとっているが、もとより兵に選択権など存在しなかった。