Summer 第二幕 夢語り
不寝番を終え詰め所に戻る途中、誰もが寝静まっているはずの本殿に、新たな灯がともされる。
不審に思い近づいてみると、起き出してきたのは神奈だった。
小さな燭台をかたわらに置き、に腰掛ける。
神奈は月を見上げているようだった。冷たい月光に照りはえた頬が、白磁のように見える。
「どうかしたか?」
「柳也どのか……」
「まだ夜明けには間がある。身体にさわるから、早く寝ろ」
「そなた、今日はひとりなのか?」
忠告を聞こうともせず、逆に質問を返してくる。
「夜番の者が物病で、床から起きない。おかげで寝ずの番だ」
「そうか。大儀である」
そのまま、神奈はだまってしまう。はかなげな表情は、何かを思い出そうとしているようにも見えた。
「…柳也どのは、夢を見るか」
「夢? そうだな……ときおり、昔のことを見るくらいだが。それがどうした」
「余も、夢を見るのじゃ。ちょうどこのような暗闇に、幼き日の余がすわっている。何も見えぬ。この身があるのかさえ分からぬ。恐ろしくて、さびしくて、それでも泣くわけにはいかぬ。助けてくれとわめくこともかなわぬ。そのような日々。だがひとつだけ、温かい光を見るときがある。おぼろげに浮かぶ、人の姿だ。近づくと、光は消えてしまう。余は追いかけようとする。いつも、そこで目が覚める。一度ではない、幾度も同じ夢を見る」
話の内容とは裏腹に、神奈は笑顔だった。
笑顔には、凶相を払う力があるとされている。だとすれば神奈の笑みは、にすぎないのだろう。
永劫の闇をともす、暖かな光。求めても求めても、決して得られるはずのないもの。それは……。
「柳也どのには、だれかわかるか?」
「神奈の母君だろう」
風が吹きわたり、燭台の炎をゆらす。黒々とした神奈の髪が、闇を払うようにふくらんだ。
「余は、母の顔など覚えておらぬぞ」
「夢ってのは、どこで見た景色を思い出してるんだ。だから、覚えていなくても見ることはある。神奈も母君から生まれたんだろ? いつ離れたのかは知らないが、お前は忘れてないんだ」
そう言って、わずかに思考をめぐらす。
夢の中。神奈の伸ばした手が母君に届かなかったのは、彼女が悪鬼になりはてたからなのか、それとも、あるいは……。
「我が身が覚えておるのか。ならば、悪い夢というわけでもないの」
神奈は笑い、自分の胸元にそっと手のひらをあてる。
また、風が吹く。
折り込まれた事実のように沈黙がすぎていき、不意に神奈が言った。
「逢いたい……そう想うのは、我が身には過分なことか」
誰に聞かせるでもないつぶやき。俺は返す言葉が浮かばず、ただ見つめていることしかできなかった。
翌朝。
上役が思ってもいないことを伝えたのは、出仕の打ち合わせの時だった。
「神奈備命は五殻豊穣の願を唱えるべく、北の社にところを移すことにあいなった。出立は土用の入り、大暑と定める。みな、次の命が下るまで万端につとめよ」
「質疑がある」
柳也が言うと、上役は申してみよとうながす。
「われらも神奈備命につき従い、あらたな社へおもむくのか?」
「いや、荘園の世話もせねばならん。われらはすべて残り、開墾の指示に従ずることになる」
それを聞き、周囲の者たちが安堵の息を漏らす。
俺のような無頼者をのぞけば、ほとんどが百姓の出。もとより、翼人の警護を納得している者などいない。一言二言意義を唱えてみたが、守護役でただひとり毛並みのちがう俺を応援するものはいなかった。
通達が済み、一日の仕事がはじまろうとしている。それにもかかわらず、俺は神奈の元へと走っていった。
「神奈、聞いたか?」
「騒々しいの。何用じゃ?」
「おまえが北の社に移ると、通達があった」
そのことか、と神奈はため息をもらす。
「知っておるわ。この時期になると毎年そういったことがあるからの、柳也どのともここでお別れだ」
「俺や裏葉と離ればなれになってもいいのか?」
「仕方ないであろ。先でも変わり者はおる」
「俺と裏葉はいない」
その言葉で、神奈の態度が急変する。
「うぬぼれるでないっ! それほど余が弱く見えるかっ! おぬしがおらずとも、余は生きてゆける」
「強がるな。寂しかったんじゃないのか?」
「ちがう!」
「なら、なぜ俺に胸の内を明かした? さびしいから、母君に逢いたいんじゃないのか?」
「そうは申しておらぬ。望んでも逢えぬものは、いことと申しておるのだ」
「なぜ逢えないと決めつめる。お前の母君は死んだのか?」
「死んでなどおらぬ! そのようなはずがない!」
一瞬で、神奈の顔色が変わった。頬を真っ赤にし、駄々っ子のように首を振る。夢の中で見た、淡く温かい光。それさえもが、幻だとしたら……。
「母上はかならず……かならず、どこかで余のことを」
そこから先は、言葉が続かなかった。崩れそうになった威厳を袖でおおい隠す。
「去れっ。顔も見とうない」
黙礼して、座敷を離れる。消えることのない怒気。自分が何に怒っているのかすら、よくわからない。
夜番の交代前に裏葉を訪ねてみると、薄暗く散らかった部屋の中で、忙しくばたばたと立ち働いていた。裏葉がしているのは旅支度。黒塗りの背負いつづらに、たたんだ着物をぎゅうぎゅうと詰め込んでいる。
話しかけたとたん、びくりと肩を震わせこちらへ振り向く。声の主が俺だとわかると、裏葉はすっと緊張をといた。
「ただいま取りこみ中でございます。ご用件はのちほど」
にべもなく言う。
「どこかに行くのか?」
「ええ、そうでございますとも。なぜ、神奈さまとお別れせねばならないのですか。お仕えして、まだ半年も過ぎてはおりませぬというのに。これからと思っておりましたのに、この仕打ちは理不尽にすぎます。やっと、巡りあえたというのに……」
「おまえ、まさかついていく気か? 出立まで時間がないとはいえ、今日明日にでるわけではないぞ」
「ですから、その前にお連れするのではありませんか」
「逃げる気か? 女の足で逃げ切れるほど守りは甘くない。捕まればどうなるかくらい、幼子でもわかるぞ」
「これでも足は達者ですので、ご心配は無用でございます」
「本気か……ならば止めはしない。だが数日待て。今は神奈が北の社に移ることが決まったばかりで、社殿全体がざわめいている。事を起こす日どりは、俺が後日伝える」
「なにか考えがおありなのですか?」
「ああ。だがその準備には多くの時間がかかる。だから勝手なまねだけはするな。それと、もう一つ」
そこで一度、言葉を区切る。
「…なぜそれほどまでに神奈のことを案ずる?」
「同じことを、わたくしも柳也さまに訊きとうございます」
にっこりと問いかえされ、思わず言葉を失う。
「なぜだろうな……強いていうなら」
「強いていうなら?」
裏葉が言葉を繰りかえす。
「あいつほど、からかいがいのある奴はいない」
「で、ございますよね」
声をそろえ、二人して笑う。
出立が土用の大暑と決まって数日。神奈に会う機会はなかなか訪れなかった。適当な理由をつくり座敷に日参するが、そのたびに女官にとめられた。
「にあらせられましては、本日は御気分がすぐれないとのこと」
返ってくる言葉はいつも同じ。まだヘソを曲げているのか……それとも病にでもかかったのか。おそらくは前者であろうが……。
守護の任が終わるというしらせは、社殿全体の緊張を取りはらっていった。社中の者たちはみな、憑き物が落ちたように笑い、冗談をかわしあう。
神奈が社殿を去る三日前。
上役が辺りをはばかるように声をひそめ、言った。
「一両日中に、この社殿および神奈備命に関する文書、のたぐいをすべて集めよ」
「つまり、神奈備命さまが出立される前に、と?」
「よけいな詮索は無用」
なおも食い下がろうとすると、上役はにべもなく言い捨てた。
手薄すぎる警護。士気が落ちるままにまかせ、訓練さえしなかった上役。神奈が去るのと時をあわせ集められる、文書のたぐい。
神奈の異動を知った日から感じていたきざしが、俺の中で確かな確信に代わっていった。
これには何か裏がある、と。
大夏の前日。その日の仕事を終え、私室にこもる。
明日、神奈はこの社殿を去る。随身ももない、さびしい出立。向かう先がどこなのか、知るはずもない。をまくように、湿り気を浴びた風が入ってくる。夜半からは雨になるな。そう思った。
枕元に置いている長太刀を持ち上げ、すらりと刀身をさらす。銀色をした刃が、薄闇を吸うのがわかる。
異動が決まった日の夜裏葉を引きとめたのは、女だけでは確実に捕らえられると思ったからだ。異動と死罪。どちらがマシかなど、比べるまでもない。あの場を誤魔化し、社殿に留まらせるための口実。裏葉に言った言葉など、その程度の意味しか持たない。むろん逃げ出す算段など、何一つ考えてはいない。
いや、考えてなどいなかった。
邪念が忍び寄ってくる。
馬鹿げたことをしているぞ、頭の中でそうささやく声がある。
なぜ自ら重荷を背負おうとする? お前はひとりで生きてきたのだ。これからもひとりで生きよ、と。
両眼を閉じ、刃を鞘におさめる。
かちん。
切羽が澄んだ音を立て、心は決まった。
神奈と裏葉の部屋が、それほど遠くない距離にあるのは幸いだった。異動の前日とはいえ、警邏がないわけではない。歩く距離が短ければ、それだけ見つかる確立が減るというもの。
足音を殺したまま裏葉の寝間へと入る。がらんとした部屋の中央に、家具がたたんであった。しかし、人影はない。裏葉はどこにいるのだろう?
目を凝らし、だれもいない部屋を慎重に見渡す。
「お待ちしておりました」
「うおぁっ」
暗がりの中に溶け込むように、裏葉がほほえんでいた。貴人のそばにる女官は、普段は邪魔にならないことを求められる。とはいえ、これほどまでに気配を消せるものなのか?
「俺が来るのがわかってたみたいだな」
「ことを起こすなら、もう今宵しかございません」
なるほど、俺の考えなどお見通し、ということらしい。
「もう一度だけ聞くが、本当にいいんだな? つらい旅になるぞ」
「覚悟の上でございま――」
言い終わるより先に、裏葉の首筋に寒気を押し当てる。
「見つかれば、こうなる」
鞘から滑りでた刀身。幾度となく人血をぬぐった刃。
「わかるか? たやすく人は死ぬぞ」
裏葉はおだやかな顔、澄んだ瞳のままで、何事もなかったかのように言葉を続ける。
「覚悟の上でございます。この身が朽ち果てようとも、わたくしは神奈さまにおつかえすると誓いました。神奈さまの御為なら、この命ささげようとも惜しくはございません」
裏葉の覚悟が口先だけのものではないことは、それではっきりした。
表に出ると、雨が降っていた。まとわりつく湿気に、額からじくじくと汗が吹き出ていく。軒先で雨をさけながら、遠くにけむっている山際に目を向ける。目指す先は、その山を越えたさらに先にある。
ざあああああ…。
不意に、足音が早くなる。
「…そろそろ刻限か」
「はい、行きましょう」
裏葉が言って、二人闇と雨にまぎれ、神奈の寝室へと足を運ぶ。
神奈の寝所に入れる者は、裏葉を含めた数人の女官のみ。昼間ならごまかしようもあるが、夜ではそうもいかない。発覚すれば、この場で首が飛ぶ。という意味ではなく、ほんものの俺の生首が。
足音をころし、慎重に歩みを進める。誰にも見つかることなく、神奈の御座に入ることができた。夜風が入りやすいように、はおろしていない。かわりに屏風を立てており、外からは見えないようになっていた。
寝所に歩みを進めると、明かりが漏れていることに気づく。燭台に灯がともっていた。きっと、遅くまで寝つけずにいたのだろう。
枕元にかがみこみ、耳元でささやいてみる。
「おい、神奈。起きろ」
夜具の下の身体がごそごそと動き、面倒くさそうに寝返りを打とうとする。こつん、と俺のひじに頭がぶつかり、瞳が薄くひらく。
ゆっくりと首をめぐらし、神奈は部屋を見渡す。いつもと変わらない場所。ただ一つ変わるのは、自分の目前にあるもの。
「くっ、曲者!」
「俺だ俺だ。大声を出すな」
あわてて口をふさぐ。
「そうあばれるな。ちょっと話があるんだ」
「むーっ! むむむっ! むむむぐうむうむ……」
思いつくかぎりの罵詈雑言を並べているらしい。それだけはわかる。
「柳也さま、手ぬるいですわ」
そう言って裏葉は意味ありげに微笑むと、紅の小さな木槌を懐から取り出す。
ごいんっ。
神奈の頭から鈍い音が鳴り、そのまましばらく動かなくなる。
「…痛いぞ。なにをするか」
ようやく正気を取り戻したようだ。
「神奈さまにあらせられましては、今朝もご機嫌うるわしゅう」
「これがうるわしい気分に見えるかっ!?」
頭をさすりながら言う。
「それで、おぬしら二人そろって何用じゃ」
「神奈、母君に逢いたくはないか」
「どういうことじゃ?」
「俺はこの社に奉公する者だ。社殿の法をひるがえすことはできない。だが俺は役目がら、神奈備命の直命には絶対にさからえないことになっている。だから、お前が『母君に逢わせろ』と言えば、俺はそのために命をかける。神奈、主としての命を俺に与えるか?」
その場に座り、返事を待つ。
ときおり燭台の炎がゆれ、灯芯がちりちりと鳴った。
「…では、余はそなたに命ずる。母上の元まで余を案内せよ」
それで、すべてが決まった。
腰にくくりつけた長太刀を床に置く。膝をつき、拳を肩幅にそろえ、床につける。
「正八位衛門大志柳也。神奈備命が命、違えぬことを誓約致し候」
手薄な警護、降りしきる雨。
これらの幸運は、俺たちの追い風になってくれるだろうか? そして今回の異動に隠された真実。それが、俺の予想と異なってくれているといいのだが…。