翼人:神の使いの俗称。
唐天竺ではと呼びならわし、異名を、古き名でともいう。
肌はびろうど瞳はめのう、涙は金剛石。
やんごとなきその姿は、まさしくあまつびと。
翼人:世を混沌へと導く、破滅への遣い。
Summer 第一幕 翼人
「様、危ないのうございます」
「ええーい、離せ、離さんか! このうつけものが」
屋敷の屋根に手をかけながら、少女が叫ぶ。
「誰かっ! 神奈様がぁ!!」
「こら! お主、世を裏切る気か!!」
「裏切ってなどおりません。お降りになってくださいと申しているだけです」
「それが裏切りだと言――!」
言葉を終えるより先に、神奈と呼ばれた少女は足を滑らせ、地面へと落ちていく。
「きゃっ」
その光景に、裏葉は思わず目を閉じる。
ばさっ。
何か大きなものが広がる音。それに続いて、
…どす。
神奈が墜落し、勢いよくなにかにぶつかる音。
「…痛てててっ」
「おぬし、なぜそんなところにおるのだ?」
正歴5年(994)立夏
「まさか……見ておったのか?」
「見えるのは空だけだ。口を開く暇があるなら、早くどいてくれ」
あわてて立ち上がると、神奈ははずれかけていた袴の帯を結びなおす。取れかけたを垂らし髪に付けなおそうとすると、
「なぜ巫女装束なんて着ている?」
男が言う。
「社殿に暮らしておるのじゃ、当然であろう」
「社殿? すると、ここが」
男は一人で勝手に、何かに納得しているようだった。
刈安色のに、鉄錆の長太刀。神奈は男の姿から、それが新しい警護の者だとすぐに気づく。
「お主、名は?」
「正八位衛門大志、。急だったからな、名しかつけていない」
「どこから来たのだ?」
「ここの前はの辺りにいた。家柄をきいているのなら、俺にもわからん」
「そうか。覚えておこう」
社交的に言葉をかえす。
「人の上に降ってきといて、侘びのひとつもないのか」
「なぜ余が詫びねばならぬのだ?」
「随分と世間知らずだな。だいたい名をたずねておいて、自分は名乗らないつもりか?」
「知らぬのか、余の名を」
「知らん。今あったばかりだ」
「そうか。存外知られておらぬものよの」
自分の仕える相手のことも知らずにくるとは……。
「神奈だ」
「神奈? それは奇遇だな。俺が守護の命を受けた翼人の御名が、まさにその神奈という」
「ほう、余と同じ名前か」
気づいていないらしい。面白い……少しだけ、話にのってやるとしよう。
「ああ、だが相手は翼人だ。さぞ優雅で、美しい姿をしているのだろう。お前のようにちんくしゃでもなければ、骨ばってもいない」
「誰がちんくしゃか!」
「ところで神奈、お前、この中は詳しいのか?」
「無論であろ。この世のどこに、自分の住まう屋敷が分からぬものがいるか」
「では、案内してくれ」
「なにゆえ、余が案内せねばならぬ」
「巫女装束など着衣しているということは、それなりの地位なのだろう。社殿の事情に詳しそうだ」
「…案内してやる、ついてくるがよい」
社殿の主である翼人に向けてそれなりの地位、か。
どうせこやつも余が誰かを知れば態度を急変させるのだ。ならばそれまで相手をするというのも、また一興。そう思い、神奈は柳也と名乗る男を案内することとした。
中庭を望む廊下をならんで歩く。
貴人の住まいにふさわしい、端正に手入れされた庭。何がそんなに物珍しいのか、柳也はあちこちに目を向けている。どうにもみっともなく、神奈はため息を何度かもらす。
「ついたぞ。ここで適当に指示をあおいでおけ」
「そうか、世話になったな」
言うと、柳也はすばやく部屋へと入っていく。
翌日、昼下がり。屋敷の奥にあるこぢんまりとした座敷。
「あの者はどこにおる?」
床に置かれたやわらかそうな生地の夏衣を手でつかみながら、神奈は女官、裏葉に声をかける。
「はい?」
「しれものが、衛門というあの曲者だ」
「ああ、昨夜付で任につかれた方ですね。あの方なら、たしか正門の見張りにつかれているはずです」
「正門の? あやつは大志であろう」
大志といえば、社殿の警護を指揮する立場。立番などと、若侍のようなことをする必要などないはずだ。
「護手が二十もいないですからね。社殿中、どこも人手不足なのでしょう」
「くだらぬ」
どうせ侵入者も来訪者もおらぬというのに……。
あたりは青々とした夏の山。ときおり吹く風も、汗ばむ肌に心地よい。
「すぐに衛門殿をここへ呼んでまいれ」
「はあ……?」
不思議そうに首をかしげながらも、裏葉は座敷を後にする。
「どれ」
裏葉から手渡された書状を開く。わずかに、墨の匂いがした。
正八位衛門大志、柳也。の警護を許可す。
「ふん、厄介ばらいに許可も何もないであろうに」
本当のことを言えば、翼人に警護などほとんど必要ない。
彼らが力を発揮すれば村は倒壊し、大地にすら爪跡を残す。
帝の真の狙いは、警護ではなく監視であろう。故に、この社には見張りのためのもない。襲ってくるような外敵もいないのだから、当然のことだ。
むしろ、内から外に出るのを警戒した配置となっている。社殿は敷地全体を杉の板堀にかこまれており、正門はもちろん、裏木戸にいたるまで寝ずの番がつく。
「くだらぬ、余が逃げ出すとでも思っておるのだろう」
「昨夜のあれは、外に逃げ出そうとしたのではないのか?」
「ただ社殿の外の景色を見たかっただけじゃ。装束だけはこのようにもっともらしいが、実際は牢獄と変わらぬ。庭を歩くことさえ、好き勝手にはできぬ。おまけに、新しくやってきた警護の者にはちんくしゃ呼ばわりされるしまつ」
「翼人がこんな童だとは思っていなかったからな」
「ほお、曲者の分際で、余を童呼ばわりするとは笑止千万!」
「まあまあ、神奈様」
ようやくに、裏葉と柳也が姿を現す。
「一応紹介しておこう。お主を連れてきたこの者は、ここで唯一、余にまことから使える者だ」
「裏葉と申します。そのようにお呼びください」
「ああ、よろしく。それで、天下の翼人様が俺になんのようだ?」
「まず、座るがよい」
言うと、柳也はどっかりとその場にあぐらをかく。着物の裾をあわせながら、裏葉もとなりに座る。
「仕える者のことも知らず警護をするのも奇特だと思っての。特別にはからい、呼び寄せてやったのだ。ありがたく思え」
「用がないなら帰るぞ」
「待て待て、待たぬか。主も余に聞きたいことが多々あるであろう、何でも申してみ」
柳也は神妙な顔立ちでしばし考え込む。やがて、
「…羽はどこにいったんだ? 切り落としたのか」
「めったなことを言うな。しまい隠しておる。普段は人のなりと同じだ」
「ふぅん……まあいいか。それより、その言葉使いはどうにかならないのか?」
「言葉使い? 余の言葉のどこがおかしい」
「まず、その『余』ってのがおかしい。公家と武家の物言いが混じっているのも珍妙だが、それは男が自分を指すときに言う言葉だろ。まずはそれをなおせ」
「では、余は余のことをなんて呼べばいいのだ?」
「『まろ』か『わらわ』だろうな」
「それはできぬ相談というもの。余は余であって、まろでもわらわでもない」
「理屈になってないぞ」
「理屈などいらぬ」
「本当に、変わらぬままでおられますね」
二人の会話の様子を物珍しそうに眺めていた裏葉は、ぽろっとそんな事を口にする。
「変わらぬ? 何がだ」
「衛門様がでございます。神奈さまのご身分を知ったあとも、態度も口調も、何も変わりませぬ」
「そういえば……」
話をしている間中、神奈は自分の羽根のことを忘れ、素の自分でいられたことに気づいた。こんなことを感じたのは、幾日ぶりであろう。
「変わった男よの」
「相手の位でいちいち態度を変えるのは性に合わん。それを変わり者と言うなら、否定もしない。それじゃ俺は戻るぞ、そろそろ警護の時間も終わる。代わりの者が来たとき、警護の者がいなかったら問題だろ」
「そちはなかなか面白い。また、来るがよいぞ」
「そう簡単にここに来られるようでは、俺の仕事ぶりが疑われる」
立ち上がり、座敷を後にしようとする。
「そうそう、『衛門様』はやめてくれ。堅苦しいのは苦手なんだ。柳也でいい」
そういい残し、立ち去っていった。
それから数日。
柳也は退屈な任務を続けていた。立番、書状作り。慣れるにしたがって、社中の雰囲気もつかめるようになっていった。ただ、一つ気になることがあった。
守護職全体の士気が、あまりにも低い。立番はおざなり、も粗末なもの。女官たちも同じだ。神奈の身の回りの世話さえ、定めどおりなされているか怪しい。社殿につとめる者たちが、真面目に職務を果たす気がないことは明らかだった。
守護すべき者への無関心は、俺にとっては好都合だった。俺は日に一度、神奈の座敷を訪ねるようになっていた。
「神奈、おまえ本当に翼人か?」
「来て早々に、そのいいぐさはなんだ」
「皆の様子を見ていると、どうにも解せないことがある」
翼人は天からつかわされた存在、とされている。飢餓・疫病にのぞんでは、霊力をもって加持祈祷をなす。言ってみれば、神々と直談判できる存在だ。巫女装束を身につけていても、普通の巫女とは位が天と地ほどちがうはずだ。
「話に聞いていたのと、ずいぶん処遇がちがうと思ってな」
「そのことか……余にもわからぬ。昔からそうであったからな」
小さくため息を漏らす。
「それに、余は神の使いなどではない」
「たしかにそうだ。にもにも羽根はある」
「おまえのたとえはいちいち気にさわる」
「神奈様、失礼します」
裾をすべらせて畳にあがると、裏葉はささげ持っていた高坏をそっと置く。こんもりと持ってあったのは、真っ白な雪の欠片。
「その氷はどこにあった?」
「さきほど酒殿の前を通りましたら、その奥になにやら恐ろしげな冷気をはなつ小屋がありまして、入ってみましたらあら不思議、夏の盛りだというのにこのような氷が。これは守護方にご報告せねばなるまいと思い、こうして持参いたしました」
「裏葉、お前まさか氷室から勝手に持ち出したのか? 重罪になるぞ」
「これはもともと神奈さまのためにたくわえられたもの。それに今更戻しましても、氷室につく前に溶けてしまいます」
困ったように裏葉は言葉を漏らす。もちろん、すべて計算の上の行動であろうが。
居住まいをととのえ、神奈に正対すると、裏葉はまず自分が雪片を口にふくみ、それから高坏を神奈の前に置く。
「さあ神奈さま、どうぞ」
「うむ、大儀であった」
裏葉に氷室から雪を持ってこさせたのは、神奈の指示であった。彼女曰く、「このような暑い日にひらかんで、なにが氷室か」だそうだ。
氷を指でつまみあげ、そのまま口に運ぶ。薄桃色をした唇が、しゃくっと鳴った。
「つべたいのお、柳也どのもためすがよい。特に許してつかわす」
神奈備様への供物を口にするなど、到底許されることではない。だがそれを説明するのも馬鹿馬鹿しく、したところで神奈が納得するとも思えなかった。
「ありがたき幸せ」
おとなしく頭を下げると、雪片をつまみ、指がかじかむ感触を楽しむ。外は蒸し暑く、の向こうを吹く風は、どこかまがまがしい気配をはらんでいる。雪片を口に運ぶたび感じるしみるような冷たさは、俺の不安をほんの一時だけ忘れさせた。
「こうして三人で同じ氷をいただいておりますと、まるで……」
「寒空にたくわえもなく、軒下の雪で飢えをしのぐ死にかけた家族のようだな」
「たいそう楽しげなたとえでございますね」
「真顔で返すな、真顔で」
二人の言い合いを、神奈が一人傍観しているのに気づく。
「どうした、氷の食いすぎで腹でも冷やしたか?」
「家族、とはどのようなものだ?」
答えたのは、裏葉が先だった。
「そうでございますね。しいて申しますなら……このようなものでございましょうか」
神奈の背中ごしに、ぴったりと身をよせる。
「こらっ、この暑いのにはりつくでない」
「息苦しいほど身を寄せ合うのがまことの家族でございますわ」
「知ったことか、はよう離れんかっ!」
寂しそうに肩を落とし、裏葉は一人座敷を出ていこうとする。
「まてまて、そこまで離れずともよい」
ぴとっ。
「だから、はりつくでないと言うておろうが」
寂しそうに肩を落とし、裏葉は一人座敷を……。
「まてまてまてっ、いちいち去ろうとするでない。もどれ、ちこう寄れ」
ぴとぴとっ。
「…なぜ、おまえまで余にひっつく?」
「いや、何となくなりゆきで」
「二人とも余から離れよっ」
寂しそうに肩を落とし、二人は……。
「そなたたちは、余をからかっておるのか……?」
それから半刻。高坏の氷はとうに水となり、ゆらゆらと波紋をたてていた。
「神奈はいつからこんな暮らしをしている?」
「柳也さまがご着任されてからは、このような明るい暮らしぶりに」
「そうじゃない。社殿に住まうようになったのは、いつからだ?」
「覚えておらぬ。物心ついた時には、もう閉じこめられておった」
神奈の瞳がさっと曇る。触れられたくないことだったのだろう。柳也はそれ以上の詮索をあきらめ、あぐらをかき直した。
妙な噂を知ったのは、その日の夕刻。
日没近く、裏戸番の引き継ぎをしたときの出来事だ。
山中の夜は早い。向こうの山に日が落ちれば、暗闇が社殿をおおうまで四半刻もない。松明に種火を移していると、衛士の不安げな様子に気づく。
「何をそうおどおどしている? これから非直という時に、心配事もあるまい」
「衛門様は、ご存じないので?」
ひかえめな口調に、非難の匂いを感じる。
守護職の態度は二種類あった。
あからさまに任を軽んじる者と、なにかを恐れるように息を殺し、奉公明けを待つ者。この衛士は後者だった。
他言しないとうながしてやると、辺りをはばかるようにして、喋りはじめる。
「みな、気が気ではありません。神奈備様はその……人ではありません。みだりにふれれば、神罰が下るのではないかと」
「神罰が?」
「はい。かつてここより南の社に、翼人の母子が囚われていたと聞いております。神奈備様は、その翼人の子だと言われております」
南の社より、子どものみをこちらの社へ移した。なるほど、十分に考えられることではあるが……。
「翼人のことを知らぬわけではあるまい、何をそこまで不安がる必要がある」
衛士は何事か考えたあと、さらに声を落として言った。
「母親は人心とまじわり、悪鬼となりはてた、と」
「悪鬼? 待て、それはどういうことだ?」
「分かりませぬ。わたしには、何も……」
身体を縮ませると、衛士はぶるぶると身を震わせへと走り去る。
「翼人は天からつかわされた存在、神の使徒のはずだろ。悪鬼となりはてた翼人の子どもだと……どうゆうことだ。…神奈は、ただの翼人ではないのか?」