Blow 終幕 想いを継ぐ
聖から佳乃のことを聞かされたその日の夜、和樹は一人、待合室で少し硬い感触のするソファーに腰をおろしていた。とても静かだった。窓を閉め切り、クーラーもつけていない。空気の底を漂うような、不思議な冷たさがあった。耳を澄ませば、遠くから虫の鳴き声が聞こえてくる。声の主は鈴虫だろうか?
まだ夏の半ばだというのに、気が早いものだ。
薄闇のなかでぼんやりとしていると、突如待合室全体がぱっと明るくなり、うたた寝しかけていた頭を叩き起こされる。部屋の隅に目を向けると、長身の女性が蛍光灯のスイッチに手を触れていた。
「和樹君、どうした電気もつけないで」
「聖さん。起きてたのか……いや、ちょっと考えごとをしていて」
「考えごと? ひょっとして……佳乃のことか?」
「それもあるけど、ちょっと違うかな……」
明るくなった部屋のなか。聖は和樹のとなり、ソファーに腰を落ち着ける。和樹は聖をじっと見つめ、そしてやがて、疑問を口にする。
「俺が昨日佳乃のあの姿を見たのは、偶然ではないような気がするんです」
「…どうゆう意味だ?」
「俺がバス停に向かったのは、往人がまだ町にいるのなら、そこにいればそのうち出会えると思っていたからなんです。そして、そこに往人と紗衣は居合わせた。さらに、たまたまそこに佳乃が通りかかった。偶然というには、あまりに出来すぎていると思いませんか? 俺には昨日の出来事が、意図的に仕組まれていたことのように思えてならないんです」
「意図的に? 誰が……何のために?」
そう問いただされても、和樹はただ、首を横に振ることしかできなかった。
わかることなど何もない。でも、なぜだか心がすっきりしない。彼の心中に立ち込めているのは、もやもやと湧き上がってくる漠然とした不安。心の中をゆっくりと、しかし確実に不安の渦が埋め尽くしていく。
いつの間にか、鈴虫たちのじぃーという声は聞こえなくなっていた。待合室全体を静寂とした空気が包み込み、窓から射し込む夜風が、じんわりと冷気を部屋中に広げていく。背筋に冷たい風が触れて、和樹は一瞬、ぶるっと身をこわばらせる。
「昨日のあれが仕組まれたことだとしたら、ひょっとしたら俺たちが京都に向かうことさえも、誰かに仕組まれた、予想されたことなのかもしれないって、そう思えて……」
「………」
「すいません。変なこと言っちゃって……やっぱり、忘れてください。たぶん俺、疲れてるんです。だからおかしなことばっか言って……先に寝てます」
ソファーから立ち上がり待合室から寝室へと向かおうとした和樹の背中を、
「和樹君」
聖が呼び止める。
「うん?」
「あ、いや……すまない、なんでもない」
不思議そうに首をかしげると、和樹はそのまま寝室の方へと姿をくらませる。それからまもなくして、表側からぽつぽつと雨水の音が響き始める。窓から外の様子を伺ってみたが、乳白色の霧がぼんやりとまわりを覆っているせいで、ほとんど外の様子はわからなかった。ただ雨音がそれほど聞こえないことを考えると、雨の強さは微弱で、たいしたことはないのだろう。そんな光景をじっと見つめながら、待合室に一人残された聖は、深いため息をもらす。
「言うべきだったろうか……」
呟いてはみたものの、
「いや……やはり、これでよかったのだろう」
すぐさま自分の言葉を否定する。
聖は神尾家に電話が通じないことから、観鈴たちはどこかに旅行に行っているとばかり思っていた。しかし、和樹は往人に出会ったと言っていた。つまり、観鈴も往人も旅行になど行っていなかった、ということになる。ならば観鈴がまだ自宅にいる可能性は、十分にある。
往人は観鈴の家で世話になっていた。このことを和樹が知れば、当然彼は神尾家に行こうとするだろう。そこでもし彼が往人の行き先の手がかりを掴むようなことがあれば、彼は京都に行くことを思いとどまり、最悪行くことを拒否するかもしれない。それだけは避けたかった。
突き詰めて言ってしまえば、聖が助けようとしているのは観鈴ではなく、あくまでも佳乃なのだ。妹を助けるために観鈴を犠牲に、という訳ではないが、あえて優先順位を作るとすれば……。
その想いが、聖の言葉をにごらせた。だがそうは言っても、観鈴のことを完全に放りっぱなしにしておくこともできなくて……。だから、
「一応、かけておくか」
駄目元で神尾の家に電話をかけたが、結果は予想通り。電話はいつまでもコール音を繰り返すだけ。今までと何も変わらなかった。
「ダメか……なら」
白衣の内ポケットから小さな紙のメモを取り出すと、それに書かれた番号をゆっくりと電話に打ち込んでいく。何度目かのコール音の後、
(はい、橘です)
「霧島聖ですが、どうもお久しぶりです。実は私の知人が国崎往人さんに会ったらしく、ひょっとしたら観鈴ちゃんはまだ家にいるかもしれないと思い、こうしてお電話をさせてもらいました」
(家に? しかし僕が家に寄った時は鍵がかかっていて、中に入れなかったのですが……)
「たまたま外出していた時に行ったのでは?」
(ふぅん……そうかもしれませんね。ところで、たしか国崎というのは観鈴の家に居候していた人ですよね。その人から晴子のこと、何か聞いていませんか?)
「いえ、国崎君のことを聞いたのも偶然のようなものだったので……晴子さんのことは全然」
(そう……ですか……)
「お役に立てなくて申し訳ない」
(いや、霧島さんが謝ることはないですよ。とりあえず、僕は観鈴の家にもう一度行ってみます。それでは、また)
受話器の向こうから聞こえていた男の声が聞こえなくなると、聖は溜まっていた疲労感をため息と共に一気に吐き出す。妙に身体が疲れていて、手も足も不思議なくらいに重く、感覚が鈍くなっているように感じる。精神を削るというのは、こうゆうことのことを言うのだろうか?
橘敬介という男性が診療所に顔を覗かせるようになったのは、二日ほど前からだ。彼の話によれば元々観鈴は彼、つまり敬介の娘で、ちょっとした都合があって晴子に預けていたらしい。
会社が落ち着き、夏の休暇を利用して観鈴に会いにきたのはいいが、家には鍵がかかっていて晴子も行方知れず。彼自身、どうしたものかと迷走している感じだった。
「いや、迷走しているのは私も同じか」
見上げると深黒の入道雲の切れ間から、うっすらと月の姿が見え隠れ。不意に、先ほどの和樹君の言葉が脳裏を横切る。
彼は言っていた。全てが仕組まれたことなのかもしれない、と。
仮に全てが誰かの意思、想いによって成されていることだとしたら、その人は私たちに、何をさせようとしているのだろう……?
風。風が吹き渡る。
黄金色の空、天から舞い降りる。あれは、幸せのかけら。
真っ白に輝く。くるくると踊る。
だから、手を伸ばした。渡そうとした。いちばん、大切なひとに。
望んだもの、ちっぽけな幸せ。どこにでもある幸せ。
だから……。
バスが急カーブに差し掛かると、壁際にもたれかかっていた往人の身体が強く揺らされて、どんっ、とガラス窓に肩をぶつける。
その振動で、往人の膝元で眠っていた紗衣はうっすらと目を開き、まだ眠気の残るのまま往人の隣に座りなおすと、
「調子はどう?」
身を寄せて、往人の身体を気遣う。
「…悪くはない」
そう往人は答えて、緑色の背もたれに押し付けるようにして身体を傾ける。
夢を見ていたような気がしたが、内容はほとんど思い出せなかった。
「傷は? もう痛んだりしない?」
「ああ、見かけは派手だが、傷そのものはたいしたことない。ただ……」
「ただ……?」
右手の裾をまくる。真っ黒な螺旋状の痣が、その下から姿を現す。疫神の印という痣。母さんはそのことを否定していたが、結局、その真意は未だ謎のまま……。
首筋には、指の形をした黒っぽい痣と、赤黒く変色した幾つかの爪痕が残っていた。二つの痣は、とてもよく似ていた。
「俺はこの痣は生まれついてのものだと、そう思っていた。まあ、俺が本当に疫神かどうかは分からないけどな」
少しだけ苦笑いを見せると、往人は言葉を続ける。
「だがこの痣が疫神の証だというのなら、なぜ佳乃に絞められた跡が、その証に類似していると思う?」
あのとき佳乃が倒れて、往人は和樹に後のことを任すと、それから少ししてやってきたバスに紗衣とともに乗りこみ、そのまま町を出た。
佳乃のことが気がかりではあったが、紗衣に急かされ、結果彼は今の今までバスの座席で眠りについていた。疲れがたまっていたのだろう。他人の心配をすることより、身体の疲労感を取り除くことを、自分の身体は選んだ。そんな感じだった。
「あのときの佳乃は、まるで何かに憑かれているようだった。ひょっとして、お前は何か知っているんじゃないのか? 俺とそいつとの間にある、何かを。
そしてお前はそれを知られるのを恐れて、だから俺と佳乃を離そうとした。違うか?」
もう一度、首の傷跡をなぞる。実際に俺を傷つけたのは、佳乃の指ではない。得体の知れない佳乃の『力』が、俺の首に内側から傷跡をつけた。なんとなく、そんな気がした。
「そうだとして、もしあたしが何も言わなかったなら、往人はあそこに残って、佳乃の心配でもしていたの?」
「そりゃ、当たり前だろ」
「本当にそう? あたしが何も言わなかったとしても、せいぜい困惑していた時間が延びる程度じゃない?」
「………」
否定はできなかった。けれど、紗衣の言葉を認めたくもなかった。それを認めてしまうということは、自分が紗衣という少女の手のひらの上で踊る、単なる道化に成り下がってしまうように思えて、それを認めるのが怖くて……そんなこと、認めたくなくて……。
「どうなの?」
「知るか!」
膝元に座ったまま、まっすぐ瞳を覗き込んできた紗衣を手で払いのけると、身体を軽くひねらせ反対側へと向きなおる。
自分の心の内側さえ見透かされているような、奇妙な感覚。それが、どうしようもないような苛立ちを覚えさせる。
「あなたも蓮鹿も、翼人を助けることだけを生きがいにして、全ての事柄を捨ててきた。よく似てるんだよ、あなたたち二人は。輪廻転生。きっと、あなたは、蓮鹿の生まれ変わりなんだろうね」
「生まれ変わり? 何言ってんだ、あいつはまだ生きているじゃ――」
「死んでるよ。ずっと昔に」
「?」
紗衣の言う、言葉の意味が理解できなかった。
「ちょっと待てよ、だったらお前と一緒にいた、あれは誰なんだ?」
「あれも蓮鹿。正しくは法の禁忌により生み出された彼の幻ってところかな」
「禁忌?」
「そう、自らの目的を果たすため不死人に成り下がる、法の禁忌。蓮鹿は禁忌を犯し、永い、とても永い月日を生きながらえてきた」
『禁忌』と『幻』。
いつかの母の言葉が脳裏に浮かぶ。
『二人の心が近づけば、二人とも病んでしまう。二人とも助からない』
母さんは結希という女性が倒れても、彼女のそばに居続けた。なのになぜ母さんは俺に会うまで、いや、一年間も俺と共に旅を続けることができたのか。
「まさか……俺の会った母さんは……」
「そうゆうこと」
幼い少女の、どこにでもありふれた笑顔。なのにどうしてだろう……彼女からは、色が感じられない。表情や感情によって醸し出される、生物特有の色が存在していない。そんな在り方に、確かな違和感を覚えた。
「彼女はあなたに法術の使い方を教えようという想いから、禁忌を犯した。蓮鹿は自分の想いを継ぐものを求めて、禁忌を犯した。想いが遂げられればどうなるか、湖葉と一緒に過ごしてきた往人なら、分かるよね」
想いを遂げる。母さんは、俺に法術の使い方を教えてくれた。始めて法術の力を使いこなし、人形を動かせたあの日、母さんの表情はとても寂しげだった。あのときの俺は、きっと自分の人形を動かす腕がまだ下手だから、母さんは寂しげな表情をしているのだろうと、そう思っていた。
だけど、母さんが禁忌を犯していたとしたら……。空の少女を捜すための足がかりになるための力を俺に授けるために、母さんが禁忌を犯していたとしたら、あのときの寂しげな表情は、俺が法術という力を会得したから、だから俺との別れが近いと、それがわかっていたからこそこぼれでた、苦渋の表情だったのかもしれない……。
「…俺はあいつを、蓮鹿を継ぐものだと?」
「そう。蓮鹿は自分の代わりになる人を捜し求めていた。自分の代わりに、空の少女を救ってくれる人を。そして往人、私たちは、あなたを見つけた。それはつまり、蓮鹿の想いは遂げられた、ということ。だからあの人は空に還った。湖葉と同じように」
「………」
バスは揺れ、車内に押し寄せるのは沈黙。闇のなかに、深い霧がこみ上げているように思えた。
「なあ、どうしてお前や蓮鹿は、翼人のことを……」
問いかけると、紗衣は自分の手のひらをそっと見つめ、
「…そうだね。そろそろ往人にも伝えるべきだね。ずっと昔、この国で起きた出来事。歴史から抹消された人々のことを」
吹き寄せるのは、懐かしい『風』。
語られるのは、最初の記憶。
始まりは、今より遥か昔。
それは、とても暑い『夏』の物語。
Next season
Summer
あとがき
blowは舞台があっちこっち飛び回り読みづらい、という印象を受けたかと思います。さて、主要人物のほとんどが京都を目指して旅立つわけですがその前にちょっと小休止。次回Summerは再び過去に話が飛びます。
翼人伝承に関するほぼ全ての謎がこの章に詰まっていると言っても過言ではない大事な物語。紅茶など片手にごゆるりとご鑑賞ください。