Blow 第三幕 悲哀な魔法
「う、ううん……」
「気がついたか」
佳乃が目を覚ましたのは、翌日の正午。
昇りきった太陽が、ブラインド越しに暑い陽射しを放っていた。
「ここ……診察室だよね。あたし昨日、こんな場所で寝てたっけ?」
「ああ。私と話しているうち、診察台で眠っていたぞ。起こすのもかわいそうだったから、そのまま寝かしておいたんだ」
「ん、そっか。ところで……」
聖の横で腰掛けていた和樹に目を向ける。
「なんだよ、俺がここにいちゃいけないのか」
「ううん。そんなことないけど」
佳乃の頬が、わずかに赤く染まっていた。
「あ、そうだ。学校のウサギ君たち見てこないと」
言うが早いか、佳乃は部屋にばたばたと走っていく。おそらく、制服を取りにいったのだろう。
診察室に静けさが戻る。
「さて、そろそろ話しておかないといけないかな……」
そう前置きして、聖はゆっくりと語り始めた。
「初めてじゃないんだ。佳乃が、あんなふうになってしまったのは」
聖のこぼした言葉に、ため息が混じる。
「この間、神社に和樹君が佳乃を迎えに来たときも、同じようなことが起きた。去年の冬にも、春にも、彼女はたびたび、私の前に姿を現してきた」
「あなたは誰にも言うことなく、一人であれと接してきていたんですか? 言葉巧みに、佳乃に嘘をついて、誤魔化して、ずっと一人だけで」
「ああ。実際、佳乃があんな風になると人に言ったとして、誰が信じる?」
「でしょうね。現実に佳乃のあの姿を見た俺でも、あれは単なる夢なのだと、そう自分に思い込ませようとしている部分があって……結局、あれは誰なんですか?」
問いかけに、聖は首を左右にふった。
廊下の向こうで、ばたばたと走る音が聞こえる。佳乃が着替えを終えて学校に出かけるところだった。やがて、その音が消えた頃……。
「すまない。何も分からないんだ。私はあのとき、ただ見ていることしかできなかったから」
心に映し出されるのは、遠い日の記憶。
昔、仲のいい姉妹がいた。いつも二人一緒だった。口うるさいけど物知りでやさしい、自慢の姉。泣き虫だけど素直で可愛い、大切な妹。
二人とも夏が好きだった。二人とも、お祭りを楽しみにしていた。
でも、その年の夏はいつもと違った。普段行きなれていた、生まれ育った町のお祭りにではなく、生まれ育った町からずっと離れた、京都のとある町のお祭りの会場に出かけた。違ったのは場所だけではない。いつもお祭りに連れてきてくれていた母親が、今はどこにもいなかった。
人の波をかきわけ、たくさんの屋台を見て回る。ただそれだけのことなのに、姉はすっかり疲れきっていた。自然に、口元からため息がこぼれる。
お祭りになんて、来るんじゃなかった。がらんとした部屋のなかに、二人きりでいるのが嫌だった。母親と歩いた楽しい思い出が、外で待っている気がした。ここは生まれ育った町とは違うけど、同じお祭りの会場なら、母親の思い出がよみがえってくると思っていた。そう信じていた。
だから泊まっていたホテルをこっそりと抜け出して、妹と二人で高台の神社まで歩いてきた。にぎやかな祭囃子に、たくさんの屋台。時折すれ違う、楽しそうな家族連れ。それらを見るたびに、姉は唇を噛みしめる。妹の手を握り、うつむいたまま歩く。お祭りの会場にこれば、母さんとの思い出が蘇るかもしれない。そう思い、ホテルを飛び出した。そして、その思いは的中した。
次々と蘇っていく、母親との思い出。妹と三人でりんご飴を食べたこと、金魚すくいをしたこと、ヨーヨー釣りをしたこと……数え切れないくらいたくさんの思い出が、あとからあとから溢れ出てくる。
それが、母親はもうどこにもいないという事実を改めて自身に認識させようとしているようで、それがやるせなくて、辛かった……。
そもそも私が京都に来たのは、母さんの葬式のためだ。父さんと私と、まだ幼い佳乃の三人で、真っ黒な衣服をまとい、葬式の会場に出向いた。
棺に眠る母さんの姿は、とても儚く、とても脆いものに思えた。けれど、私は母さんのそんな姿を見ても、泣くことはなかった。悲しくなかったわけではない。私が泣いてしまえば、隣で泣き続ける佳乃を支えてあげる人が、誰もいなくなってしまうから……だから唇をかみ締めて、瞳が熱く潤むのを、ただじっと耐え続けた。それが、姉としての責任だったから。
「見て見てっ。風船っ!」
妹の声で、現実に戻される。見ると、妹の瞳の先には、屋台に結ばれた色とりどりの風船たち。
「浮かんでるう〜」
ほっぺたに手を当てて、うっとりと言う。
「そりゃあ風船だからな」
「ねえねえ、あれ買ったら、空飛べる?」
「飛べない」
「うぬぬぅ。なんで?」
「風船ひとつで人間一人が浮き上がるなら、あの夜店は今頃空を飛んでいる」
びしっと指摘した頭のいい姉。
「ふえ〜。お姉ちゃんあったまいい〜。でもそれって、いっぱい風船あれば飛べるかもだよね?」
「………」
墓穴を掘った姉。
「…飛べるかもしれない。でも、一つだけしか買えない」
スカートのポケットから取り出したのは、彼女の全財産。百円玉が四枚。いちばん小さな風船、ちょうどひとつ分だった。
「へへ〜。佳乃もおこづかい持ってるもんっ。はいっ」
十円玉二枚。
「………」
「ねーねー、風船いくつ買えるの?」
「ひとつ」
「だって、佳乃もお金だしたんだよ〜」
「それでもひとつ」
「…うぬぅ。むずかしい〜」
幼い眉を寄せ、世の中の不条理についてしばし考える妹。だが、すぐに次の手を思いつく。
「そうだっ。風船がひとつでも、いっぱい膨らませればいいんだよ。そうすれば、もっと重いものだって持ち上げられるよ」
…どこか間違っているような気もしたが、この妹にわからせるだけの自信が姉にはない。
「…わかった。でも本当にひとつだけだぞ」
それで妹の気が済むのなら、買ってあげようと思った。お金を払い、淡いピンク色の風船を受け取る。
「ほら」
「うわわぁ。ありがと、お姉ちゃんっ!」
こぼれ落ちそうに笑いながら、妹は小さな手を伸ばす。すれ違った誰かの肩が当たり、姉の身体がほんの少しだけ揺れた。渡そうとした糸が、指の合間をすり抜けた。
「あっ……」
叫んだときには、もう手遅れだった。風船は浮きあがり、ゆっくりと夜空に消えていった。姉がどんなに手を伸ばしても、もう届かなかった。
佳乃は泣きじゃくり、姉はそれをなだめながら泊まっていたホテルに帰った。「『お父さんにお小遣いを前借りして、それでたくさん風船を買おう』、そう言い聞かせて」
だけど、父はどこにもいなかった。そういえば、葬式の後始末で帰りは深夜になるか、最悪今日は帰れないかもしれない、そう言っていたことを思い出す。
「ひとつ、聞いていいですか?」
「なんだ?」
語らいを続ける聖に、和樹は疑問を投げかける。
「どうして佳乃は、空を飛びたいなんて考えたんです?」
「母親に会いたかったからだろう」
「母親に?」
意味がわからず問いかえすと、聖さんの瞳が、かすかに揺らいだように見えた。
「あの頃、佳乃は信じていたんだ。お母さんは空にいて、自分のことを見ていてくれる、と……そういうふうに、私が教えたからだ。父も私も言えなかったんだ。『お母さんはもうどこいない』なんて、あの子には言えなかったんだよ」
満天の星。蚊取り線香と西瓜の匂い。花火の燃えかすが、道路に散らばっている。それを踏みしめていく、足音が二つ。路地を抜け、蛍の舞う田んぼを過ぎ、長い階段を登っていく。手を繋いで、最後の石段を登りきると……。
「お姉ちゃん、まだやってるよ」
神社の山道に続く、土の細道。の光が連なり、二人の行く手を示していた。鳥居の向こうは、ぼうっと輝いている。数時間前に見た夜店の賑わいは、今も続いているようだった。
「…よかった。間に合った」
立ちどまり、苦しい息を整える。鳥居の方を食い入るように見つめながら、妹が心配そうに言った。
「売れ残り、あるかな?」
「ある。絶対ある。風船なんて、きっと誰も買わない」
「みんな、風船きらいなの?」
「きらいじゃなくて、他に買いたいものがあるんだよ」
「でも、佳乃は風船大好きだよぉ。風船があったら、たこ焼きもりんご飴もいらないよ」
「…お腹減ってるのか?」
「ううんっ」
元気に首をふったとたん、きゅううと腹がなる。ホテルの夕食は豪華なものだったけど、父も母もいない幼い子ども二人きりの夕食は、どちらも箸が進まなかった。冷えたご飯を箸でつつきながら、妹は言った。
「お祭りが終わったら、風船はきっと空に放すんだよ。頼めばきっと、ひとつぐらいもらえるよ」
幼い妹の、他愛のない言葉。姉の指先には、まだ糸の感触が残っていた。風船屋のおじさんは優しそうだった。正直にわけを話せば、本当にくれるかもしれない……。
土の道を走り、二人は鳥居をくぐった。
風船なんてどこにもなかった。浴衣を着た家族連れもいなかった。賑やかに並んでいた夜店は、ほとんどがもう骨組みだけになっていて、疲れた顔の大人たちが、無言で荷造りをしている。そして、別の町に向かう。楽しかった夏の終わり。胸を締めつける光景。
梢をざわざわと鳴らし、夜風が吹き抜けていった。隣にいる妹が、ぎゅっと手を握ってきた。すがりつく指先が、『ここにはいたくない』と伝える。それなのに……。
『帰ろう』
その一言が、どうしても言い出せなかった。
我に返ったとき、祭りの片づけは終わっていた。二人の他には誰もいない神社。元に戻っただけのはずなのに、別の場所のようだった。妹のことを見ると、薄闇にさらしたほっぺたに、涙の跡が残っていた。
「お腹、空いただろ」
答えは返ってこない。
「帰ったら、何か食べよう。お姉ちゃんにできる料理なら、なんでも作ってやるぞ」
それでも、答えは返ってこない。妹は何かを見つめていた。こぢんまりとした神社の奥殿。わずかな戸の隙間から、淡い光が漏れている。炎や電灯とは違う、夏の夜気そのものが滲んでいるかのような、不思議な輝き。
「お姉ちゃん……」
二人、顔を見合わせる。どちらからともなく、恐る恐る近づいていく。
本殿の横を通り過ぎるとき、達筆な文字で八坂、と書かれていることに気づく。おそらく、この神社の名前なのだろう。神社の管理人に出会わないように祈りながら、小走りで奥殿へと向かう。
鍵を閉め忘れていたのか、重たいはずの扉は、音もなく静かに開いた。手をつないだまま、奥殿の中へ。とても広い空間が見渡す限りに続いていて、その大きさに圧巻した。
何百年も昔から、身じろぎさえしたことのない、臭い闇の匂いがした。
がらんとした空間の突き当たりに、祭壇があった。装飾品の一つも備えられていない、質素な作り。その一番上の棚で、何かがぼおっと光っていた。
「うわぁ……」
佳乃の声が、それを見つけた。なんとなく、それは祀られているように思えた。横たわっていたのは、一枚の羽根。輝く鳥の羽根。白とも銀色ともつかない、柔らかそうな光に包まれている。
「魔法の、羽根だぁ……」
佳乃の言った言葉を、馬鹿馬鹿しく思うようなことはなかった。なぜなら一目見たその時から、私もまた同じことを考えていたからだ。
絹のようになめらかな羽毛は、二人を誘うように震えている。これさえあれば、どんなことだって、どんな夢だって、叶うかもしれない。だけど、なぜかは分からないけれど、嫌な予感が脳裏をちらつく。心のどこかで、それに触れてはいけないと、警告しているようにも思えた。
「んしょ……あれっ? もうちょっとなのに〜」
ふと見ると、佳乃は背伸びしながら羽根に手を伸ばしていた。
「佳乃、やめ……!」
「やった、とれた〜」
止めようとしたけれど、もう遅かった。幼い指が、羽根を拾い上げた。瞬間、生命を持たないはずの羽根が、ざわりと波打った。空にいた頃の記憶、羽根に帰るまえの記憶を取り戻したかのように。凶暴なほどの光が辺りに満ち、目がくらみ何も見えなくなる。
そして……。
「…どうなったんです?」
「何も起こらなかった」
ただぽつりと、聖は言った。
「神社の管理人、庄治と言ったかな? その人に懐中電灯で照らされて、早く帰れと怒鳴られただけだ。羽根を元の場所に戻して、二人で親戚のおばさんの家に戻った。その日は、何事もなく終わったんだ」
その言葉が、後に起きることを暗示していた。
「翌日この町に戻ってきて、それから佳乃の様子がおかしくなった。自分でも分からないうちに外に出歩いたり、意味がわからない独り言をつぶやくようになっていった」
あのとき虚ろな視線で、俺を、往人を、佳乃は見ていた。
「そんなことが、何度か続いた」
言葉を切り、聖は和樹のことを正面から見る。医師としての冷徹な瞳と、妹を想うやさしげな眼差し。そのどちらもが、深い愁いを帯びていた。
「深夜に起きて隣を見たら、佳乃がいなかった。当時の佳乃は、一人ではトイレもいけないような子だったからな。あわてて探したよ。佳乃は診察室にいた」
そこで一度、言葉を区切る。それは、聖自身思い出したくない出来事。
「父が片づけ忘れたメスを、自分の手首に押し当てていた」
ブラインド越しに注ぐ陽射しの暖かさが、その眩しさが、妙に辛かった。
「処置が早かったから、大事には至らなかった。ただ、刃は血管にまで達していたらしく、傷はいつまでも残りつづけた」
佳乃の右手首に巻かれた、華奢な手首には不釣合いなぐらい、よく目立つ大きなアクセサリー。佳乃はそれを、聖からもらったといっていた。
「そうすると、あのバンダナは……」
「私が思いついた、佳乃を救うための手段だ。無意識に手首を切ろうとしても、バンダナを見れば正気に戻ることができる。子供心にそう考えた」
「…聖さん、ひょっとしてあなたが医者を目指したきっかけって」
「ああ、あの子のためだ。勉強して医者になれば、いつか佳乃の病気を治せる。そう思ってな」
聖は手を伸ばし、机から一冊の本を取る。専門用語で書かれた書名、何回も読み返されたせいだろう、表紙がぼろぼろになっている。
「二重人格というのを知っているだろう?」
「名前だけならありますけど……」
「子供の頃に抑圧された体験があると、それを別の人格にして、辛い記憶から逃れようとすることがある。それが、二重人格の正体だ」
「それで生まれたのが、彼女?」
「そう思っていた。だがある日、君のお母さんから翼を持つものの話を聞かしてもらった。この空に今も囚われているという、悲しみを帯びた存在」
「まさか、佳乃がそうだと!?」
「いや、そこまで単純な答えだとは、私にも思えない。ただ、佳乃は羽根に触れて、その結果彼女が姿を現すようになった。翼を持つものの伝承と、佳乃の触れた光り輝く羽根。それらが無関係だとは、私にはどうしても思えない」
彼女……佳乃とは別の誰か。
和樹は間接的に『彼女』と接したわけだが、たしかに二重人格とはとても思えなかった。いや、人格という言葉すら程遠い、壊れて雨ざらしにされた機械が、何かの拍子に突然動き出した……そんな感じだった。
あるいは『彼女』は、自分がそこにいることさえ、わかっていないのかもしれない。
「一つだけ、教えてほしいことがあります」
「ああ、私が教えられることならな」
「羽根を見たときのこと、覚えていますか?」
常に冷静なはずの聖が、めずらしく目を丸くした。無理もないだろう。自分自身、なぜそんな質問をしたのかよくわからなかった。自然に口から零れ落ちたような……。
顎に手を当てて考えたあと、ゆっくりと聖は言った。
「正直に言うと、あの晩のことはよく覚えていない。だがあの時の印象は、まだはっきりと覚えている」
その瞬間を思い出すように、かすかに瞳を閉じる。
「嫌な予感はした。しかしそれ以上に、悲しいと感じた」
「悲しい?」
「ああ。忘れられたように、ただそこに置かれているだけの羽根を見て、悲しい、と」
彼女はずっとそこにいた。誰に会うでもなく、何年も何年も、空に帰ることもできず、ただそこに在り続けた。圧巻するほど広い空間に、一人で、孤独に、いつまでも、いつまでも……。
「最近、『彼女』が現れる頻度が多くなっている。『彼女』の現れ方も、今までにないぐらいはっきりしている。常識ではありえない力を、佳乃に与えてしまうほどに」
最後の言葉の意味が分からなくて無言のままでいると、聖は突然に自分の肩をめくり、肌をさらす。佳乃の手形のような形に、真っ黒な痣ができていた。
めくっていた服を着なおすと、聖は言葉を続ける。
「佳乃がつけた傷だ。ただ手で掴んだだけでは、こんな風に跡は残らない。詳しく検査したわけではないが、おそらくこれは炎症に近いものだと思う。外傷ではなく、内的な症状が誘発されている、ということだ」
あのとき、佳乃は往人の首を強く握り締めていた。とすれば、往人にも聖と同じく、黒い痣が首についているのだろうか? 手で握ったとすれば、ちょうど螺旋のような形で……。
「私は不安なんだ。このままでは、佳乃はどうなってしまうのか……」
着古した白衣の襟に、残光が染み入っていく。何秒かの沈黙の後、聖は顔を上げた。いつものように背筋を伸ばし、真っ直ぐに和樹に向きなおる。
「和樹君。会ってまだ数日の君にこんなことを言うのは本当に申し訳ないことだと思うが、頼まれてほしいことがある」
「なんです? かしこまって」
「佳乃を連れて、京都に行ってほしいんだ。佳乃は京都、八坂神社に奉られた羽根に触れて、ああなってしまった。だから、もう一度羽根に触れることができれば、何かが分かるかもしれない。本来なら私が行くべきなのだが、医者という職業柄、そう何日も家を空けることはできない。頼まれて、くれないか?」
「そりゃかまわないですが、佳乃にはなんて説明するつもりです? 自分の心の中に、自分の知らない別の誰かがいて、その正体を確かめるために京都に行く。そんなことを信じてもらえると? あいつは、何も知らないのでしょ」
「それは……」
返答に困って聖が言葉を濁そうとすると、それと入れ替わりこんこん、とノックの音がして、診療室のドアが開き、黒いブレザーの制服が姿を現す。佳乃が学校から帰ってきたところだった。話しこんでいるうちに、ずいぶんと時間がたっていたらしい。
「和樹君、あたしからもお願いしていいかな? 一緒に、京都に行ってほしい」
「お前、聞いてたのかっ!」
「うん。最後のほうだけだけど…」
言って、佳乃は和樹と聖とを見つめ、
「お姉ちゃん、ごめん」
巻かれたバンダナを、勢いよく振りほどく。
がたんっ、と聖は背筋に氷をあてられたように、椅子から反射的に立ち上がる。聖の目の前に立つ少女の手首からバンダナは消え、その下から細い一本の線が姿を現す。刃物がなぞった、古い傷跡。
「あたしは今までずっと、何で意識を失うことがあるかとか、ずっと分からないまま生きてきた。このバンダナも、お姉ちゃんが、泣いてたあたしを励ますために付けてくれたものだと思ってた。でも、昨日あたしが意識を取り戻したとき、あたしの目の前には往人君がいた。その首を、あたしが締め付けていた。怖くなって、必死で手を離そうとした。そしてあたしの意識は、再び消えた」
両手を胸の前で交差すると、佳乃は震えるように身を小さく縮める。
「自分自身、怖いの。いつか、取り返しのつかないことを起こしてしまいそうで……だから、あたしは向き合うことにする。この傷とも、羽根とも、逃げることなく、正面から」
「一度羽根に触れただけで、あんなふうになったんだ。次に触れたとき、どうなるか分からないんだぞ。最悪、お前の心も身体も、彼女に支配されるかもしれない。それでも……いいのか?」
聖の問いかけに、佳乃は静かに頷いた。想いは意思となって、確実に心に根付いているようだった。
「俺がお前を連れてくのを断れば一人でも行きそうな勢いだな。わかった。なら俺はもう、何も言わない」
そう和樹が口を挟む。
「ごめんね。無理いって」
「別に……構わないさ」
黄昏の空の下、褐色に染まる診療所。
三者三様に様々な想いを抱えたまま、静かに夜の帳がおりていく。