待っている。汚れ、荒みきったこの身体が朽ちる日を。
もう誰も失いたくないから…
私が消えてしまえば、もう誰も苦しまなくてすむから…
だから、私は滅びの刻を待つ。
いつまでも、いつまでも、いつまでも。
Blow 第一幕 夢見る少女
静かな夜。漸次は一人夢を見ていた。
それは、幼いころから繰り返し見てきた夢。
「…殿、…也殿、殿!」
まだあどけなさの残る女の声が、擦れるようにして耳に届く。その声に聞き覚えがあるような気はするが、それが誰の声なのか思い出すことはできない。
俺の肩を押さえながら、懸命に何かを叫びつづけている。
冷たいのに、なぜか温もりも感じる。そんな不思議な雫がほおに落ちて、それが少女の涙だと気づく。
なぜお前は泣いている?
問いただそうとしたけれど、口がいう事を聞かない。手を動かそうとしても、神経が死んでしまったように、指一つ動かすことができない。
夢の中で、俺は自分の力では何一つ行うことができないでいた。それが何故なのかはわからない。ただ、一つだけわかっていることがあった。夢のなか、俺は柳也という名で呼ばれている。
この夢と同じく、もう一つ疑問に思うことがある。
翼人伝のなかで翼人は空に囚われていると記されているが、現実に空に人を捕らえることなど可能なのだろうか?
答えはおそらくNОだ。
それよりも、空を何か別のものの比喩として考えたほうがいいかもしれない。
例えば……空を夢と解釈してみたとして、翼人は夢に囚われていて、そこから抜けだすことができないでいる。
いや、現実味がないという意味では、空も夢も同じか。そういえば、蓮鹿は俺が昔の知り合いに似ていると言っていた。あの時は単なる戯言だとばかり思っていたが、それが本当のことだとすれば、夢のなかの俺の名、柳也が昔の知り合いの名前なのだろうか?
だが俺がこの夢を見始めたのはずっと昔、それこそ半世紀近くも前のこと。普通に考えれば奴もその頃はまだガキなのだから、そんなことはあり得ないだろう。
しかし、蓮鹿が俺と同じことをしているとすれば、その可能性を否定することはできない。すなわち、魂の奴隷化。
蓮鹿に家を焼かれたあの日、俺は死ぬはずだった。だが復讐心は消えず、俺は法の禁忌をおこなった。蓮鹿への復讐を果たすため、人として生きる道を捨てた。だから老いることもなく、あの日の姿のまま、現世にとどまり続けている。蓮鹿に何か目的があり、俺よりもずっと昔に禁忌を犯していたとすれば、柳也という人間が奴の知人にいた可能性も……なくはない。
そして柳也が実在していた人物だというのなら、一つの可能性が出てくる。俺の見ているこの夢が、柳也の記憶という可能性だ。
だが、もしもそれが真実だとして、ならばなぜ俺は、それを見ているのだろう……?
視界の先に女性がいた。腰まで伸びた長い髪を一つにまとめて、縛ろうとしているところ。その姿には見覚えがあった。
神尾晴子、俺をホテルに泊めた女だ。
「なんや、趣味悪いな。起きてたんなら、教えてくれてもええやん」
漸次が目を開けていることに気づくと、晴子は真っ赤なボディスーツのジッパーをあげながら言った。
「いま目が覚めたところだ。それよりも、その格好……どこに行く気だ?」
「橘の家や。あいつんとこ行って、観鈴を正式にうちの娘として認めさしたる。認めるまで、何日でも居座ったるつもりや。って、あんたにこんなこと話してもしゃあないな」
「お前がいない間、その観鈴という娘はどうする? ずっと一人きりか」
「ああ、その点は大丈夫や。国崎往人って居候が、観鈴を見てくれとる」
「…国崎?」
「ん、なんや知っとるんか」
「いや、珍しい苗字だと思ってな。国崎なんて、そう聞く名前でもないだろ」
「まあたしかにな。ほな、うちはそろそろ行くわ」
ドアを開き晴子はホテルを出る。
まもなく、和やかな朝の沈黙を突きやぶるように、バイクのエンジン音が響きはじめる。が、その音もすぐに聞こえなくなり、部屋にはいつもと変わらぬ朝の静けさが舞い戻ってくる。
「国崎……か」
それは、自分が昔名乗っていた名前。
あれは法術を操る一族特有の名であったはずだから、赤の他人という可能性はない。小百合の子というのもないだろう。蓮鹿が俺たちを襲ったのは、俺たちが法術を使うもの、すなわち国崎の一族だからだ。あの事件に関わっている以上、狙われる危険を少しでも下げるために名前は隠すはずだ。
だから俺も国崎ではなく、獅堂と名乗ってきた。蓮鹿との出来事を知らず、国崎という苗字を持つもの。つまり往人とは、
「湖葉の子どもか」
「どうだ? 何か思い出したか」
「うーん……やっぱり駄目みたい」
役目を終え、もう使われなくなった駅。そこのベンチに腰かけて、和樹はペットボトルを取りだす。水を飲み干すと、篭るように体に満ちていた熱気が、すーっと後も残さず消えていく。
町中を回ろうと誘ったのは、佳乃のほうからだった。
小さいころから、一時的に記憶障害になることが何回もあった。原因はいまだにわからない。ただ、最近はその頻度が増している。そんなようなことを、佳乃は話していた。
記憶が飛んだところに行ってみれば、何か思いだすかと思いいろいろな所を回ってみたが、結局手がかり一つ掴めないまま今に至る。
「他にどこか心当たりないのか? 記憶が飛んだ場所」
「えっと、あとは町外れの神社かな。でもここからだとかなり遠いよ」
「乗りかかった船だ。こうなったら最後まで付き合ってやるよ」
炎天下の強い陽射しの下を、二人は歩いていく。ときおり佳乃の呼吸がひどく荒くなって、そのたび和樹は休憩するか聞いてみたが、帰ってくる返事は「平気」という言葉だけだった。旅をずっと続けてきた和樹に比べれば、佳乃が体力的に劣るのは仕方ないことなのだが、佳乃は弱音一つはくこともなく、ただただ一心に、足を前へと歩ませつづける。たぶんこの性格は、育ってきた環境によるものなのだろう。
両親が他界し、聖は医療の勉強をするその傍らで、佳乃の面倒をずっと見続けてきた。その大変さは幼い佳乃にも理解できたのだろう。だから、せめて姉に迷惑をかけないよう、出来る限りのことを自分でやり、困らせるようなことも言わないようにする。そんなものが、佳乃という少女を形成する根本にあったのかもしれない。
こうして考えてみると、観鈴と佳乃の考えかたには共通する箇所が多くある。
医療の勉強に集中できるよう、姉に負担をかけまいと必死な少女と、自分が貰われ子ということを自覚して、引き取られた先に負担をかけまいとする少女。
子供のころ二人がすぐに打ち解けあうことのできた背景には、そんな部分が関係していたのかもしれない。
「強いんだな、お前は」
「ふぇ? なんのこと」
「いや、両親が二人とも他界してるのに、お前、弱音一つ吐いたことないだろ。美凪のときにも、あいつを勇気付けるようなこと言っていたし」
ああ、そのことか。とでも言わんばかりに佳乃は顔をあげ、橋のたもとに座った。上目遣いに和樹を覗きこむその瞳には、どこか思い詰めた感情が見え隠れ。
「あたし、お母さんのことってほとんど覚えてないの。前にも言ったと思うけど、もともと、あんまり身体が丈夫じゃなかったんだって。あたしを産んで、すぐに寝たり起きたりになって……あたしが三つのときに、いなくなっちゃった」
「………」
「お父さん、よく言ってた。『お母さんはお前によく似てた』って。想像しようとするんだけど、なんか、うまくいかなくて……」
青空を眺めたまま、淡々と言葉をつないでいく。いつもの口調ではない。和樹の視線に気づいて、佳乃は慌てて笑ってみせる。
「でもでも、あんまり寂しくなかったんだよぉ。お姉ちゃんが、お母さん代わりだったから。でもそれって……お姉ちゃんにはずっと、お母さんがいなかったってことだよねぇ。お姉ちゃんはずっと、お姉ちゃんじゃいられなかったってことだよね。そんなの不公平だよねって、最近思ったり……」
そうして言葉は、また淀んでしまう。
「お父さんも、診療所が忙しくて、それで体壊しちゃって、体調が悪かったときに、交通事故で……」
聖から父親が事故死していたことは聞いていたが、あらためて佳乃の口から言われると、なんとも言えない辛さが体中からにじみ出てくる。
「あたし、全然手伝えなかったから。あたし、見てるだけだったから。だからね、お父さんがいなくなってから、あたしずっと、お姉ちゃんの力になろうと頑張ってきたの。医療のこととか難しいことは全然わかんないけど、せめてお姉ちゃんの迷惑にならないように、お姉ちゃんが診療所の運営に集中できるように、自分でできることは、全部自分でやろうって、そう誓ったの。でも、やっぱりお姉ちゃんに助けられることがいっぱいあって……」
一瞬表情を曇らせた後、佳乃は笑顔で続けた。
「えへへ、ごめんね。この話、たしか前にも話したよね。同じこと何度も話しても、聞くほうは退屈なだけだろうし、もう行こうか」
「大丈夫なのかよ……」
「えっ?」
「その、色んなこと全部自分ひとりで背負い込んで、大丈夫かって聞いてるんだよ。悩みがあるなら、全部俺に話してみろよ。全部受けとけてやるから。同じこと何回繰り返し聞かされようが、そんなの全然構いやしない。お前の心の負担が少しでも軽くなるのなら、それでいいから」
「励ましてくれてるのかな? ふふ、ありがと。でも大丈夫だから。今はまだ、自分の抱える悩みに押しつぶされそうになることなんてない。でも、もし押し潰されそうになったときは、そのときは……和樹君のこと、頼ってもいいかな?」
「ああ。そんなの全然気にすんな。辛かったら、何でもいいから打ち明けてみろ。なにがあろうと、しっかり支えてやるから」
「ん……ありがとうね」
お礼を述べると、佳乃は立ち上がり、石造りの橋を渡りさらに前へと進んでいく。
道が上り坂になって、やがて辺りを木々が覆い山道に変わる。
なぜだか急に涼しくなったように感じて、頭上を見上げてみると、幾つもの緑が重なりあって、その隙間から夏の陽射しが透ける。ふと横を見てみると、視界に広がるのは青い海。打ち揚げる波に陽が反射して、とても眩しい。
「ふー、さすがにここは遠いね。やっとついた」
鳥居をくぐった佳乃が言う。
高く澄みわたった空の下で、ここの空気だけがんでいる。四方を囲む木立、ここだけが隔離されたような場所。聞きなれたはずのセミの鳴き声も、ここではどこか遠い。
和樹にとって、そこは見覚えのある場所だった。いつだったか、佳乃が行方不明になったときに、聖から連絡を受けてここに迎えにきたはずだ。まあ、あのときは薄暗くてよくわからなかったが……。
石畳の先には神社。ひとしきり見て回ったものの、どこにも神主らしき人が見つからなかったので、佳乃にどこにいるのか聞いてみると、ここの寺は昔から無人だったそうだ。
一時期、ここは八尾比丘尼をはじめとする人魚を幽閉していたらしい。役目を終え人魚が別の地に移住すると、その地は汚れた場所として隔離された。昔の日本によくあった風習だ。
事実、日本の各地にそういった目的で作られた建造物は数多く存在する。この神社もその一つだったのだろう。とは言っても、近年は土地不足が関係してか、そのような神社もほとんどが取り壊されたり、普通の神社、寺同様に使用されていたりする。それはここも例外ではなく、祭事や初詣のときには町の自治会長が持つ鍵を使い、ここを会場として使っているそうだ。
「なるほどなぁ」
そう言われてみれば、確かに柱や床などは茶色く変色して年代を感じさせるが、よくよく見てみれば、新しい木で所々を補強してあり、屋根は雨風に耐えるためか、しっかりと瓦が敷き詰めてある。
「あ、そうだ」
何か思いついたのだろう。佳乃は言うなり賽銭箱に向けて走り出す。木の階段をぱたぱたと駆け上っていくと、目の前に垂れ下がった鈴の緒を握る。
がらがらがらがら〜。
鈴の緒を四方にゆすり、けたたましく鈴を鳴らし、最後に拍手を打ちならす。
「記憶喪失にときどきなっちゃう原因、早くわかりますように」
「困ったときの神頼み、ってか」
「神様? ううん、違うよ。お母さんにお願いしたの」
「お母さん? 母親にか?」
「うん。…えっとね」
はにかむような仕草を見せて、佳乃は右手に巻かれたバンダナを見つめる。風に吹かれたそれはひらひらと揺れ、真夏の太陽を透かす。
「このバンダナをつけてくれたとき、お姉ちゃんが言ったの。『これは魔法のバンダナだ。これがあれば、母さんはどんなに遠いところにいても、佳乃のことを見失わない。それにこれを大人になるまでつけていれば、魔法が使えるようになる。だから、絶対に外しちゃだめだ』って。子供っぽいって思うかもしれないけど、その言葉が、お母さんが死んで、ずっと泣いてたあたしを励ますために言ってくれた事って、分かってたから……」
「魔法、信じてるのか? 大人になるまでずっと身につけてれば、お母さんに会えるって」
「まさか。そんなことないよ」
小さく首を横に振る。
「でも、大人になるまでずっと付けてるって決めたの。お姉ちゃんの為にも、あたしはいつまでも夢見る少女を続けたいから」
「…そっか」
結局、神社まで行っても手がかりすら満足に掴むことはできなかった。ただ、昨日までよりもほんのわずか佳乃に近づけた気がして、和樹にはそれが少し嬉しかった。
「そういえば、往人君どこに行ったのかな……」
家への帰り道、佳乃は独り言のように呟いた。
「往人って、前に言ってた大道芸人のことか?」
「うん。往人君すごいんだ。『法術』って名前の魔法みたいな力で、人形に触れなくても自由に動かすことができるんだよ」
「法術!?」
「うっ、うん。そうだけど……どうしたの? ひょっとして知り合いとか」
「…まあ、そんなところだ。ところで、そいつの苗字、なんて言うんだ?」
「苗字? たしか国崎だったかな」
蓮鹿のことがあって、親父と俺は国崎から獅堂に苗字を変え、身を潜めた。
だから国崎なんて名乗る人間がいま存在するのは不自然なこと。
そんなことを考えていると、突然ポケットから軽快な音楽が鳴り始める。携帯電話の着信音だった。
(和樹、聞きたいことがある)
それは、久しぶりに聞く声。
「親父! ちょうどよかった。俺も聞いておきたいことがある」
(その町に、国崎往人って男はいないか?)
(親父の知り合いに、国崎往人って奴いないか!?)
…!?
電話ごし聞こえてきた言葉に、和樹自身がはなった言葉が重なる。
(会ったのか! 往人って男に!?)
「いや、俺も話に聞いただけだ。それに、いま往人ってのは行方知れずらしい」
(そうか。ところで、その話っていうのは誰に?)
「診療所の娘だ、霧島佳乃。隣にいるから代わったほうがいいか?」
漸次から「そうしてくれ」という返事を受けると、和樹は携帯を佳乃に手渡す。突然の展開に多少戸惑っていたようだったが、やがて静かにそれを耳にあてる。
「あの…えっと、和樹君のお父さん…ですよね」
先ほどからの会話でわかっているはずだが、佳乃は確認の意味もこめてそう口にする。
(始めまして、獅堂漸次だ。いきなりですまないが、一つ聞きたいことがある。君の知り合いという国崎往人という男、ひょっとして小さな人形を持っていなかったか?)
「人形……はい。たしかに持っていました。法術っていう力でそれを動かして、大道芸をしてるって」
「やはり、湖葉は子にあれを託していたわけか」
電話ごし聞こえてきた声。その言葉が何を指しているのか、佳乃には皆目見当がつかなかった。が、なんとなく、何か大きなことが起ころうとしているような……そんな、前兆にも似た予感を感じはじめていた。