Past 終幕 生業

 

 海。そこにある海。目の前に広がるのは、夕焼けの色を反射させる波。

『海に行きたい』

 そう結希は言った。でも、連れて行ってあげられなかった。やりたいことがたくさんあった。でも何一つ、してあげられなかった。夏はまだ、始まったばかりだったのに……知っていたのに、私はなにもできなかった。誰よりも結希の側にいたのに、救えなかった。

 あれから三年。私の麦わらの帽子には、銀色の羽根飾りが飾られている。

 そして、私はいま、にいる。

 日は沈みかけて、世界がオレンジ色に染まる。白というよりむしろ透明に近い水の波が、砂浜に打ち寄せる貝殻をもてあそんでいた。潮風が頬をなでるたび、粒のような小さな砂があたって、それが少しくすぐったく感じる。

 砂地に残された無数の小さな靴後が、昼間の賑わいの名残のように残っていた。水を掛けあったり砂浜を走りまわるような、どこにでもありふれた、子供たちの遊び。誰もが飽きるほどに行ってきた、子供同士のふれあい。

 結希が望んでいたものは特別なことではない。ただ子供のように、海で遊びたかっただけ。いつでも行けたはずなのに……手を伸ばせば、すぐそばにあったはずなのに……。私は手を伸ばすことを忘れて、気がつけばは、もう果てしなく遠くにあって…・・・。

 麦わら帽子を脱ぐと、羽根飾りをそれから取り外す。今もなお輝き続ける、銀色の羽根。見ているだけで悲しくなってしまうほどの銀。

 手のひらに羽根を乗せ空へ向ける。風が吹いた。とても強い風。

 導かれるようにして、羽根はふわふわと海岸沿いを漂っていく。それはまるで景色を楽しむようにも、走りまわっているようにも見えた。

 結希の意思を宿したように、海を流れていく羽根。果たせなかった約束を、いま、果たすために。

 羽根は舞う。結希の願いをその身に宿し、待ち焦がれていた海へ向けて。

「ずいぶん遅くなっちゃったけど、あなたを海へ連れて行くことはできなかったけれど、あなたに託された想い、私が叶えるから」

 人形を取りだすと、力をこめる。するとやがて、命が宿ったようにそれは歩きだす。その姿は、無邪気な子供を連想させるようで……とても切ない。

 なぜ法術が空に囚われた少女、翼人を助け出すために必要なのか。なぜ、国崎の一族が法術という力を持つのか……それはいまだ分からない。けれど、この力が翼人を助ける鍵となるのならば、力を絶やしてはいけない。

 だから私は……、

「さようなら」

 振り向いて、もときた道を歩み始める。別れは告げたから、結希にはもう、さよならを言ったから。だから私は、前へと踏み出していく。

 もう過去へは振り返らない。先へ進むと、そう決めたから……。

 そして湖葉は町を後にする。彼女の道連れは二つ。

 手を触れずとも歩き出す、古ぼけた人形。

『力』あるものに課せられた、はるか遠い約束。

 かつて、結希は言った。

『その力は、みんなを元気にする』

 法術は人を幸せにするための力なのだと、そう結希は言ってくれた。そして彼女はまだ、空に囚われたまま。

 翼人が解放されなければ、その欠片であった結希も、空から解放されることはない。私は、結希を助けたかった。彼女にもう一度、笑って欲しかった。

だから、これから会う人たちみんなに笑って欲しいと思った。世界中のみんながそうやって笑ってくれれば、きっとそれは空にも届くと思ったから、そうすればきっと、結希も笑ってくれるから。

 この力で世界を笑顔にしよう。そしていつの日か、往人を迎えにいこう。そのときこそあの子に言うのだ。私がお母さんと、あなたの母親なのだと。だからその日まで、人形を舞わせ続けよう。

 世界を笑顔にする。それが私の生業だから。そう決めたから。だから、

「さあ、人形劇の始まりよ」

 

 

 光がはじけて、視界に入るのは薄暗い室内の風景。もう何日も触れられることすらなく、ほこりをかぶり始めている恐竜のぬいぐるみや雑誌の山。見覚えのあるそこは、紛れもなく、観鈴の部屋そのもの。

 時計がないので正確な時間は分からないが、外から光が差しこんでこないということは、まだ夜はあけていないようだった。

「…母さん」

 軽く部屋を見回し人形を見つけだす。

「ここから先のことは、あなたも知っていることよ」

 往人を引き取り、空の少女のことを伝え……祭りの夜、湖葉は言った。

『その子のことをどうしても助けてあげたいと思ったら……、人形に心を篭めなさい。わたしはあなたと共にあるから。その時まで……』

 その言葉を最後に、彼女は消えた。

「だいたいは、分かったよ。法術のこととか、人形のこととか。どうして観鈴が母さんの言葉の通りに、空の夢を見続けていたのかも」

(…なら、分かるでしょ。これ以上観鈴ちゃんの側にいてはいけないってことも。あなたには力があるから。わたしが失った力、法の力がまだあるから。観鈴ちゃんを、いえ、空に囚われた全ての人々の悲しみを、解放してあげて)

 それは、湖葉一人だけの望みではない。彼女を含む何十、何百という人々の望み。翼人を求め、出会い、助けられなかった全ての人々の望み。

 国崎という家系の、数えきれないくらいの人々の……。

(本当はね、無理だと思ってたの。私はあなたにひどい仕打ちばかりしてきたから、あなたが私の言葉を信じてくれるなんて、思ってなかった。だから、嬉しかったの。あなたが立派に成長して、人を助けようと、観鈴ちゃんの力になってあげようとしたこと。人形を舞わせ想いをこめ、本当の意味での人形繰りを始められたことも、私はいつも見ていたから……)

「母さん…?」

耳に届く声が、次第に小さくなっていくのが感じとれた。あの日と同じだ。幼いころの、あの祭りの日と……。

 大切な、とても大切な言葉を残して消えていった母。あの時の俺はただ別れが辛くて、母と離れるのが怖くて、泣いてばかりだった。けれど、今は違う。

身体も心も、十分に大人になった。だから辛くはない。別れは、辛くない。ただ寂しいだけ。

悲しくても、寂しくても、それを乗りこえなければ、人は成長することなんて、できはしないのだから……。

「もういちど会えて、嬉しかったよ」

 幻覚だったのかもしれない。単なる、幻でしかなかったのかもしれない。でも確かに俺の目にはその時、母さんの姿が見えていた。

 光となってしまう前の、とても綺麗だった母さんの姿が……。

 湖葉の気配が消えると、忘れかけていた静けさが部屋に戻ってくる。観鈴の隣、そこに往人はかつてのように座りこんでいた。

 だが以前までとは、心を満たす感情が違う。これ以上観鈴のそばにいても、彼女が衰弱し、命を落とすのを待つことしかできない。法術が観鈴を救うための力と知った。でもその手立てがわからなくて、往人はけっきょく、観鈴のそばにいることしかできなかった。観鈴の命を脅かすことになる。それがわかっているのに、此処にいることしかできない自分が、たまらなく辛かった。

 ただ、一つだけ気がかりなことがある。

 法術は母さんの一族、国崎のみが持つ特別な力のはずだ。それなのに、なぜ俺がそれを使えるのだろう。母さんの話では、俺は白穂という女が連れていた捨て子でしかないはずだ。俺が法術を使えるはずがない。それなのに……。

「…なぜ俺が、法術を使える」

(教えてあげましょうか?)

 声が聞こえた。脳に直接語りかけてくるような、そんな声。

(ねぇ、聞こえてるんでしょ。返事くらいしてよ。って手順が面倒だし、けっこう疲れるんだから)

「念話? なんだよそれ。それに、お前誰だ?」

(念話は法術の応用なんだけど、まあ携帯電話みたいなものよ。ところでいま玄関先にいるんだけど、中に入れてくれない? もし入れてくれるなら名前も教えるし、君の抱えている疑問にも答えてあげるわよ)

「…疑問?」

「どうして法術を使えるか、そして、君が何者なのかもね」

「………」

 往人は瞳を閉じると、家を包んでいた法のベールをゆっくりと取り外す。

 まもなくがらっと玄関が開く音がして、幼い少女と巨体の男が、観鈴の寝室にゆらりと姿をあらわす。

「さ、まずは自己紹介からね。私は紗衣。で、こっちの大きい人は私の部下の蓮鹿。無愛想だけど根はいい奴なのよ」

「部下になった覚えはない」

「ちょっと! 人が話してるときは静かにするようにって、学校で習わなかったの」

「…世間話ならよそでやってくれ」

 往人の声は妙に冷めて聞こえた。錆び付いて、どこか機械的な……。

「ああ、はいはい。気が短いわね。ま、結論から言うとあなたは人間じゃないってこと」

「人間じゃ……ない?」

「そう、厳密には人間であって人間ではない存在。いうなればハーフなのよ。

湖葉の記憶を見たならわかってるとは思うけど、あなたのその黒い痣は疫神の印。そして、疫神とは八尾比丘尼の子孫のことを指す。ようは人魚の血を受け継いでいるってこと」

「は、馬鹿馬鹿しい。そもそも人魚なんて――」

「いるわけない。本当にいるわけがないと、そう言いきれる?」

 往人の言葉をさえぎると、紗衣はゆっくりと言葉を続けていく。

「日本の民謡では確か、人魚は神が地上に降り立ったときの姿、ということになっているわよね。もし彼らが人のなりに姿を変え、陸で人と共に暮らしていたとしたら、人間たちは人魚の存在に気がつかなかったとしても、おかしくないとは思わない?」

「…面白い考えかたとは思うが、神がいるという前提で話されてもな」

「そう? でも翼人だって、考えかたによっては天使のようなものじゃない。神も神の遣いも、古代には地上に存在していた。ま、信じる信じないは個人の自由だけど」

「………」

「反論はないみたいね。じゃ君が人魚の子孫ということが確定したところで、なんで法術を君が使えるのかの疑問にお答えしましょう。まず大前提、法術は翼人がとある人に授けた力。そして、その血筋のものしか使うことはできない」

「俺は捨て子……しかし国崎の家系のものだと、そう言いたいのか?」

「ご名答。けっこう飲みこみはやいね」

 親指と薬指で、紗衣は小さく丸いわっかを作る。

「君の本当のお母さんは、たぶん君に翼人のことを託したんだろうね。自分にできなかったけど、この子ならきっとやりとげてくれるって。そういう意味では湖葉も本当のお母さんも、想いは同じだったってことかな」

「俺の母親は国崎湖葉ただ一人だ。捨てた親のことなんか、いまさらどうでもいい。そんなことよりも、おまえらはどうして翼人や俺の家系のことをそんなに詳しく知っている?」

「まあまあ、そんなことはどうでもいいことでしょ。わたしたちは翼人を空から解放して、助けてあげたいって思ってるだけ。翼人を助けることは神尾観鈴さんを助けることにもつながるから、君にとっても悪い話じゃないはずだよ」

 紗衣というこの少女、どこまで本当のことを言っているのだろう……。全てが本当のようにも、全てが嘘のようにも思えて、心に奇異な不信感が芽生える。

ただ、観鈴を救う手立てがわからないのは事実。

「協力してくれるな? 国崎往人」

 正直、信用はできない。だが、

「…本当にそうすれば観鈴は助かるんだな」

「正確には助かるかも、だな。神尾観鈴を助けることができるかどうかは、けっきょくのところ国崎、お前次第だ」

「俺次第……」

「俺と紗衣は、長いあいだずっとおまえを求めていた。長い夢を終わらせる可能性を秘めたおまえを、ずっと」

 表札に神尾と書かれた家。蓮鹿と紗衣と、そして国崎往人。未だ夢を彷徨い、漂いつづける少女のその傍らに、彼らはいた。

 往人は旅をしてきた。記憶の旅。空の少女、母の託した想い、そして自分自身を知るための旅。

そしてそれを終え……。

「観鈴を助けることができるなら、何だってやるさ」

 前へと踏み出してゆく……。

 指し示された道は黒の道。それでも、彼は行く。その先にがあると信じて、その先に、観鈴の笑顔があると信じて……。

 

 

 

 

一つの『過去』が終わり、いくつかの謎は解き明かされた。

だが、まだ全てが浮き彫りにされたわけではない。

『風』が止まることのないように、時間もまた、停止することはないのだから。

Next season Blow

 

 

 

 

あとがき

Pastで現代編の複線はあらかた回収しつくしたかな? 次章Blowは今まで出てきたキャラが総登場。各々の立場や対立などが明確になっていきます。今まであまり出番のなかった佳乃の話も掘り下げていきますよー。

ちなみに『blow』の日本語訳、正しくは強風ですが細かいことはキニシナイ。




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