Past 第十幕 約束

 

バスのゆったりとした揺れに身を任せながら、私は一人、木の匂いのする座席に腰かけていた。

 窓の向こうには真っ暗な夜が覆いかぶさっていて、その中で遠い空だけがうっすらと、黒から紫へと変わり始めていた。

 もうすぐ夜が明ける。このバスはどこまで行くのだろう。どこでも構わなかった。私には、もう行き先なんてないのだから。バスの揺れに身を任せながら、私は行く。どこまでも、どこまでも……。

 

 

昭和61年(1985)・夏

 眩しさで瞼が痛い。目が覚めると、窓の向こうはひどく明るくなっている。バスは相変わらず、民家の一つも見えない山道を走り続けていた。いや、山の中を走っていたのは昨日のことだ。

今、広がる木々の向こう側に少しだけ海が見えた。

 けれど、寝起きだからだろうか。まったく色が見えない。湖葉の目の前にはモノクロの世界しか映ってこなかった。深緑色の古い座席も、少し錆のついた窓枠も、ガタついた窓も、全て灰色の強弱でしか映っていない。

 蝉の声と波の音が、車道を走る音に混じる。まだ海は見えないけれど、かなり近いのは確かだった。どこか目的地があった訳じゃない。ただどこかへ行きたかっただけ。どこまで行っても良かった。けれど、バスの速度が遅くなり、景色の流れ方が緩やかになってくると、なんとなく、ここで降りようという気持ちになって、湖葉はわずかの荷物を手に、その席を立った。

扉についた小さな窓の中の景色が止まり、空気の抜ける音がして、鐘の音が車内に響いた。

開いたドアから足をコンクリートの地面に下ろそうとすると、真夏の空気が車内に流れこんで、湖葉の肌を柔らかく包みこんでいく。

 バスから降りると、じりじりとした夏の暑さが、靴を通して感じられる。眩しい光が瞼にのしかかり、痛む目であたりを見回すと、自分以外バス停には誰一人見当たらないことに気づいた。

どうやら、この場所で降りたのは私一人だけのようだった。熱気を帯びた陽光に頭上から降り注がられ、ハンドバックの横に備えつけておいた麦わら帽子を被る。

 ぷしゅーっと排気混じりの音が漏れ、ゆっくりとバスは重たい身体で走り始めた。小さな風で湖葉の長い髪をふわっと一度だけなびかせると、バスはさらに速度を上げて走り去っていく。

 あたりから音がなくなると、その沈黙を埋めるように蝉の音が立ち代わり聞こえ始める。傍には時刻表らしき標識が灰色の地面から伸びていたが、近づいてみると、文字はほとんどかすれ消えかけていた。

 地面そのものが熱を持っているらしく、まるで熱せられたフライパンの上にいるかのよう。蒸し返すような暑さに耐え切れず、日陰になっている場所はないかと辺りを見回す。けれど古ぼけてペンキがほとんどはげ、樹木そのものの色が所々から顔をのぞかせるベンチが一つあるだけで、あとは際限なく木々の緑があるだけ。暑さをしのぐなんて、到底無理そうな話だった。

 これ以上ここにいても仕方ないと感じ、湖葉は一人、車道を歩いていく。蝉の泣き声以外には、自分の歩く音しか聞こえない。一台の車すら傍を横切ることもない。世界中の人たちが、自分ひとりを残してみんないなくなってしまったのかと、そんな錯覚を覚えるほどの奇妙な静けさだった。

 ようやく民家が見えはじめたのは、もう日が沈みかけたころ。夕暮れの空の色を反射させたように、赤色の瓦が規則的に屋根にはめこまれ、縁側で野良らしき茶色のブチ模様の老猫が、眠たそうにあくびを繰りかえしている。屋根の向こうには、ちらちらと沈みかけた太陽が見え隠れ。

 けれど、不思議とそこに真夏の眩しさはなかった。

 灰色のフィルターを通したように、木の緑も、空の色も、見慣れた自分の肌ですら、色合いがなく現実味がなかった。まるで、白黒テレビを通して見ているかのように。どうしてこんな見え方しかしないんだろうか……。

 わずかに考えて、湖葉は思考するのをやめた。どうしてなんて、最初から分かりきっていることだった。今のこの光景を、…いや、あの日からの全ての光景を、私は現実として受け入れようとしないでいる。結希のいないこの世界を、現実だと信じようとしないでいる。

 いくつかの木造の家を横切っていくと、歩くにつれて湖葉の身体は少しずつ汗ばんでいく。一筋の汗が首筋を伝い、シャツの内側へと入っていく。道は緩やかな下り坂で、相変わらず、自分以外には誰一人見当たらない。

 ただ一人、茜色の空の下を歩き続ける。自然と顔はうつむき加減になり、歩く速度も少しずつ落ちてくる。一体どこまで続くんだろう。そんなことを思った時、突然、耳鳴りしそうなほどに鳴り響いていた蝉達の声が途絶えた。

顔を上げて見回すと、もうそこに家はほとんど見当たらない。こもる暑さも消え、湖葉の目の前には公園のような広場と、小さめの造りの駅があるだけ。いつの間にか、ずいぶんと歩いていたようだった。

 待合室らしき部屋には老婆が一人、こっくりこっくりと頭を揺らしながら座っていた。どこにでもありふれた、田舎町の情景。

 駅員にどこか眠れるような場所はないかと聞くと、「宿舎を使うといい」と快く答えてくれた。湖葉は一言お礼を返すと、そのまま宿舎へと足を運ぶ。

 床に荷物を置き、軽くため息を漏らして座りこむ。腰に備えつけたポーチから人形を取り出すと、湖葉はそれに強く念をこめる。すると、床の上で仰向けに倒れていた人形が、突如意思を持ったように起き上がる。さらに強く念をこめると、人形は小さく光を放つ。

 不思議な現象を巻き起こす力、一族に伝わる秘術、それがこの法術という力。

この力を使い、空に囚われた少女を救う。それが国崎という一族の生業。

けれど彼女、国崎湖葉はそんな生き方に不満を感じ、そこを飛び出した。その後結希という少女に出会い、ともに暮らし、そして……。

 輝きを失った人形をポーチに戻すと、急に疲れを感じ、軽く息をはいて瞳を閉じる。力が衰えているのを感じる。結希が死んだあの日から、少しずつ力が弱くなっている。たぶん役目を終えたから、力が失われているのだろう。

私は結局、空の少女を助けることはできなかった。

だから次へと託すために、別の誰かが翼人を助けるために、願いを解き放つために、衰えてしまう前に人形に『力』を封じこめていこうと思う。

背中を石造りの壁に押しつけるようにすると、その部分だけひんやりと冷たい。日は沈んでいるはずなのに、それでも部屋のなかは熱せられた空気であふれかえっていた。熱帯夜なのだろう。明日もまた暑くなりそうだった。

 湖葉のなかを流れてゆく時間は止まった。結希のことを忘れることもできず、前に踏み出していくこともできない。三年前のあの日から何も変われないでいる自分。変わることを恐れている自分。それは今も続き、湖葉はいまだ、停止した時間のなかを彷徨い続けていた。

 

 

『姉さん、本当に行っちゃうの?』

『うん、もう決めたからね。何なら、小百合も一緒に来る?』

『行きたいけど、私は無理だよ』

『どうして?』

『私までいなくなったら、誰も空の子を助けられなくなっちゃうよ。だから、私はここに残るね』

『そっか。それじゃあ、元気でね』

『…あの、お姉ちゃん。また……会えるよね』

 小百合は不安そうにそう問いかけた。ひょっとしたら、これが今生の別れになってしまうかもしれないから……。

『うーん。それじゃあ、約束しようか』

『約束?』

『そう。私が大人になったら必ず小百合に会いにいくって、そうゆう約束。約束はね、破っちゃいけないの。だから何かを約束したら、それは絶対に守らなきゃ駄目なの』

 そう言って、湖葉は震えかけていた小百合の手に自分の手を重ねる。

それは、幼い日の思い出。家を飛び出したあの日、湖葉と小百合は確かに約束を交わしたのだ。もう一度、また会いにいくと……。

けれど、そんな約束を果たすこともなく、あれからすでに十年近い歳月が流れてしまったわけだ。約束したのに、絶対に守らなければいけないと、自分でいったはずなのに……。

陽光のまばゆさで自然と目が開く。高くにつけられた窓から日光が差し込んでいるということは、もう太陽はずいぶん高くまで上がっているらしかった。気がつけば、蝉のざわめきも遠のいている。

それにしても、ずいぶんと懐かしい夢を見たものだ。小百合とは結局、あれから会うことは一度もなかった。家と何の連絡もとらなかったのだから当然といえば当然の話だけど、やはり少し寂しい。

人形に触れようとして膝に手を伸ばしてみたが、不思議と人形に触れることはなかった。おかしいな、法術の練習をしながら眠ってしまったのだから、すぐ近くにあるはずなのに……。

「ねぇねぇ。おにんぎょうさんはどこからきたの?」

 遠くのほうで声が聞こえて、軽くあたりを見回してみると、宿舎の外の広場に小さな少女が一人、人形を木の幹に立てかけてしゃがみこんでいた。

「あのね、それお姉さんのなんだけど、返してくれないかな?」

 せっかくの子どもの遊び道具を取り上げてしまうという罪悪感はあったが、あの人形をとられるわけにもいかなかったので声をかけてみた。

「あ、ごめんなさい。あんまりかわいいおにんぎょうさんだったから、あたしいっしょに遊びたくて、おばちゃんにはわるいと思ったんですけど、かってに借りちゃって……」

「おばっ……」

 堪えろ、堪えるのよ私。子どもは二十歳以上をみんなおばちゃんって呼ぶだけだから。大丈夫。私はまだ十分に若い。

 心を落ち着かせ女の子と向きなおろうとして、思わず息をのんだ。いや、正確には女の子の顔を見たからだろうか……。

「…小百合」

 目の前にいる少女が、記憶のなかの、幼いころの小百合の姿に重なる。

「えっ、ちがうよ。さゆりはお母さんの名前、わたしはみなぎだよ」

みなぎ…それはそうよね。小百合だって成長しているはずなんだから。そっか、小百合はお母さんの名前か。

そこまで考えて、

「お母さん?」

 少女の言葉の意味に気づく。

「美凪。そのお人形、その人のなんでしょ、返してさしあげなさい」

「えーっ、もうすこし遊びたいー」

「わがまま言わないの」

 聞き覚えのある声が聞こえた。自分が知っているものに比べればずいぶんと大人っぽい感じはするが、それは確かに聞き覚えのあるものだった。

「あら? その人形」

 美凪が手にしていたのは、幼いころ姉が持ちだしたはずの人形。それが、なぜいまここにあるのだろう。

「八…いえ、九年ぶりかしら。小百合」

 湖葉は立ち上がると、麦わら帽子を頭から取ってみせる。

 ふわっと、黒曜石のような真っ黒な髪が風になびく。とても長く、とても美しい色の髪。二人の女性。いや、美凪を含む三人ともが持つ、純粋なる黒。

「まさか、姉さん…なの?」

 美凪が一人、対峙する二人を不思議そうに眺め続けていた。

 

 

 駅舎に寝泊りしていたと話すと、小百合は少し呆れたような様子で家に来るように言った。湖葉も小百合とは色々話したいと思っていたのだから、その誘いを断る理由は特に見当たらなかった。

 小百合と美凪に案内されてついた軒先。表札には遠野と書かれていた。遠野小百合……自分と苗字が違うのに実の妹というのも、正直妙な気分。

 中庭の見える縁側に腰かけると、木立からせわしなく鳴きつづける蝉の声に耳を傾けながら、ぼんやり紅白のチューリップの咲く花壇を見つめ続けていた。

「おまちどおさま、麦茶ですよ」

 まるいお盆を両手に抱えて小百合が家から顔を出し、その後ろを美凪がとことことついてきていた。その姿に、昔自分が母親をそんなふうに追いかけていたことを思い出す。

 人や景色がいくら変わっても、変わらないものもあるのかもしれない。

「それにしても小百合はどうしてこの町に? あ、結婚したからってのはわかるわよ。でも父さんのあとをついで、翼持つものを探すっていってたじゃない」

「…ああ、あれはもういいのよ」

「もういいって、どうして」

「姉さんが家を出た二年くらいあとに、大きな火事が起きたの。本当に大きな火事だった。人一人くらい、簡単に焼き殺せるほどに……。そしてその火事でお母さんが死んで、お父さんと和樹は行方不明」

「そう、お母さんが。けっきょく、さよならも言えずじまいか……」

 口ではそう言っていても、それほど寂しいと思っていない自分がそこにいた。たぶん、何も変わらないからだろう。人が死んでも、なにかが壊れても、それが自分と関係ないことならば、それは何の意味も持ち得はしないのだ。

 家を出た湖葉には結局、母などいてもいなくても関係ない存在だったのかもしれない。

「ところで、お父さんと和樹が行方不明って言ったけど、和樹って?」

「ああ、そうか。姉さんは知らないっけ。和樹は私の息子で、美凪の双子の兄。

当時一歳にも満たない赤子だったから、あの炎のなかにいたとしたら、おそらくは……」

「…そっか。辛いわね、あんなに小さいのに、人の死を経験しなければいけないなんて」

 小百合の隣に座りこんでいる幼い少女を見つめる。私でさえ結希の死をいまだ完全には受け入れることができないのに、この幼い心は、あんな大きな衝撃に耐えることができるのだろうか?

 湖葉の思いを知ってか知らずか、小百合は言葉をつむいでいく。

「美凪には、何も教えていないわ。兄がいると教えても、ただ悲しい思いを募らせるだけだもの。だったら最初からいなかったことにしてしまえば、そうすれば悲しむことも……」

「ふざけないで!」

 思わず湖葉は吼えていた。

「そんなのは逃げでしかないわ。悲しむことがない? ちがう、それは悲しみから逃げているだけ。その子は、生きていたのよ。現実にこの世にいた。それを最初からいなかったことにするなんて、傲慢でしか、単なる自己満足でしかない。忘れちゃいけないのよ。その子の、生きた証を……」

「…姉さん?」

 姉の尋常ではない取り乱しかたに、小百合はただただ驚くばかりだった。十年近い月日の流れが、姉に大きな変化をもたらしたのは確実だろう。それがなにかを聞きたかったけれど、それを聞くより先に、湖葉は平静を取り戻していた。

「…ごめん、ちょっと一人にさせて」

 言って、一人玄関先に消えてしまう。

なびいていく風が、夏の陽射しを駆けぬけていく。

 

 

 三年。言葉にすれば一瞬だが、実際にはなんて永いものなのだろう。結希を忘れようとして、でも忘れられなくて。忘れては、いけない気がして…。

「あの……おねえさん」

 軒先に一人たたずんでいた湖葉に、美凪が声をかける。

「お母さんと、けんかしないでほしいな……」

「喧嘩?」

「…うん」

 幼い美凪の目には、湖葉が小百合を怒鳴りつけた光景が、喧嘩をしているように見えたのだろう。いや、喧嘩をしていたというのも、あながち間違いではないのかもしれない。

「お母さん、とってもよろこんでたの。姉さんはちゃんとやくそくを守ってくれたって。きちんと、会いにきてくれたって。なのに、いきなりけんかしはじめて……」

 ああ、そうか。この子は優しい子なんだ。人と言い争うのが嫌いで、それを見るのも嫌。言ってしまえば、純粋なのだ。汚れを知らない、無垢な心。

「…そうね。喧嘩なんかしちゃだめよね。ごめんね、美凪ちゃんにみっともない所見せちゃったみたい」

「じゃあ、もうけんかしない?」

「うん、しないよ。約束」

 湖葉はしゃがみこんで小指を差し出すと、それを美凪の小指に絡ませ指きりする。

「美凪ちゃんはえらいね。そんなに小さいのに、ちゃんと人のことまで考えれて。私も見習わなきゃ」

「あたりまえだよ。だって、お母さんとやくそくしたもん。お姉ちゃんになるんだから、わたしは妹のみほんになるって、りっぱなお姉ちゃんになるって、そうやくそくしたんだもん。妹はね、お母さんのおなかのなかにいても、外のことをいつも聞いてるの。わたしがきのうのばんごはんは、はんばーぐだったんだよって言うと、わたしも食べたいって、お母さんのなかからおなかをけったりするの。でもね、ほんきでけったりはしないんだよ。やさしい子だから、お母さんがいたくないようにしてあげてるの。それに、わたしがその日あったことを話してあげると、とってもうれしそうに聞いてくれるんだよ」

「ふふ、立派なお姉さんになれるといいわね」

「うん。お母さんとやくそくしたもん。やくそくはまもらなきゃいけないんだよ。やくそくをまもるってことは、いちばんだいじなことなんだって」

「約束を……守る……」

 不意に頭に浮かぶのは、あの日の結希の声。

 海に行きたいと、あの子は言った。そして往人を頼むとも。

それは約束だった。大切な、とても大事なことだった。それなのに、私は……。

「おねえさんどうしたの、おなかいたいの?」

 美凪に服のすそをひっぱられて、湖葉は現実に引き戻される。

 果たせなかった約束ばかりがあふれる世界。けれど、まだ間に合うのなら……。あのときの約束を、いまでも果たすことができるのなら……。

「ううん。大丈夫なんでもないわ。それよりも」

「?」

「早く生まれてくるといいわね」

 微笑んで、湖葉は美凪の頭を優しく撫でる。

「それじゃ、私はちょっと出かけてくるね」

「今から? もうすぐよるになっちゃうよ」

「昔の約束を、ずっと忘れちゃっててね。今更許してくれるかわからないけど、その約束を果たしにいくの。約束は守らなきゃいけない。でしょ?」

 太陽が沈みはじめたころ、湖葉はゆっくりと歩みはじめる。

 三年前に止まってしまった時間。それがいま、ようやく動き始めた気がした。

 




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