Past 第九幕 結希

 

 往人と湖葉。二人の導き出した答え、それは同じものだった。たとえ何の力にもなれないと分かっていても、それでも一緒にいると決めた。ただ、それだけ。それ以上何を望むのでもない。

観鈴の、結希の心を支える柱になれればそれでよかった。大事な人のそばにいてあげたいという、どこにでもありふれた、でもとても暖かな想い。幸せの一つの形。けれど湖葉は言った。

『…往人。あなたのやっていることは私と同じ』

『それが神尾観鈴ちゃんを殺す結果になるとしたら』

彼女が往人に語った、翼を持つ少女の物語。それは、単なる夢物語などでは

ない。全ては……かつての現実。

今朝は不思議と寝起きがよかった。頭が妙にさっぱりとしていて、まぶたの重みもほとんど感じない。心の中にあったもやもやが綺麗に取りのぞかれて、だからこんな晴れやかな気分になっているのだろうか。

起きあがると即座に湖葉はベッドのほうへと向きなおる。白いシーツの上で眠っていた結希は湖葉よりも先に目覚めていたらしく、身体を起こし、朝露でうすく湿った窓の先に広がる、真っ青な大草原を漂う雲の行方を目で追っていた。

「ふう、おはよう」

 湖葉が挨拶すると、彼女は振り向き、

「だれ?」

 一点の曇りもない眼で、そう言った。

「誰って、何へんなこと言ってるのよ。結希」

「ゆき……それ、あたしのこと?」

 自分のことを指さし、不思議そうに首をかしげる。その動作に、思わず湖葉は彼女に駆け寄り、肩を二、三度叩いてみせる。

「ちょっと、冗談にしては笑えないわよ。私は湖葉、あなたは結希でしょ」

「こ……のは、ゆき?」

 それでも返ってくる答えは同じだった。まるでうわごとのように言葉を繰り返す。冗談のようにはとても思えなかった。

言葉の意味を何一つ理解していないかのように、ただただ言葉を繰り返すだけ。

「まさか…何も覚えてないの?」

 戦慄が大きな渦を巻いて、全身を駆け抜けてゆく。妙に寒気がした。氷水が血液の代わりに血管を流れ、手足の細部までをめぐり、冷気を隅々までとどけていくような……。

『記憶喪失』

 そんな言葉が脳裏をかする。

思い過ごしだ、そうに決まっている。そう思いたかった。けれど、結希の放っていく一つ一つの言葉が、真実を物語っていく。

「あれ、変だな。足が動かないや。ねえ、このはさん。ここはどこ?」

 見慣れたいつもの部屋。そこを見回し、まるで気がついたらここに放りこまれていたような口調で、結希はそう言った。

「………」

 湖葉はすでに声を失っていた。何かを言おうとしても、唇が、舌がうまく回ってくれない。頭の中が空っぽになって、ただ、目の前の……昨日までは限りなく近くにいて、そして今は、限りなく遠くにいる少女を見つめていることしかできなかった。

「ねぇ、このはさん。聞いてるの?」

 奇妙なほどの結希の他人行儀な言葉が、朝の、本来ならばとても穏やかなはずの空気の中に溶けていく。

「不思議な夢をみた」

結希がそんなことを言ったのは、太陽が最も高くまで昇りきったころだった。朝から何も口にしていないのに少しも空腹を感じないのは、時間という感覚をどこかに置いてきてしまったからだろうか?

「楽しくて、悲しい夢。夜なのに空がすごく明るいの。音楽と笑い声が聞こえてきて、たくさんの人たちが輪になって踊ってた」

「それ、たぶんお祭りね」

「おまつり?」

「みんなで踊って、みんなで笑って、みんなが幸せになれる。そんな楽しい場所のことよ」

「うん。みんなすごく楽しそうだった。でも、あたしはそれを遠くで見てるだけ。あそこは、あたしの居場所じゃないって知っていたから……」

「そんなこと言ってないで、輪の中に混じればよかったじゃない。お祭りっていうのは、人が集まれば集まった分だけ楽しさが増していくんだから」

「でも……」

 再び記憶を失った結希に、以前のような強気な心は残っていなかった。真っ暗な穴の中に閉じ込められたような孤独。手足が動かないという現実が、彼女の心を病んでいっているようだった。

 結希のその瞳は、初めて湖葉と会った頃と同じ色をしていた。

痛いくらいの強雨が降りしきる夜。冷たいベンチに座りこんでいた少女。髪の毛の先から指の先端まで、ずぶ濡れになりながらも、ぼんやりとした表情でただじっと空を眺めていた少女。何をするでもなく雨に打たれつづけていた少女。

 虚ろなその眼は、目の前を降り注いでいく大粒の雨水の色を、鏡のように反射させるだけ。水滴の一粒一粒が、まるで銃弾のように肌に襲いかかっていた。

突如頭上に現れた赤いビニールが雨をさえぎり、雨粒は地面の土に飲みこまれていく。

「あなたも、一人なの?」

いつかの夕時、湖葉と結希はそうして出会った。

居場所。自分が自分でいられる、そんな当たり前の場所を、湖葉は彼女に与えてあげたかった。いや、湖葉自身も欲していたのだ。自分が自分でいられる、そんな場所を……。

「結希の居場所は私のとなり。だから私がお祭りにいけば、結希もその中に混じることができるじゃない」

 言うと、結希は笑みをこぼす。それにあわせて、湖葉も笑顔になる。

 だが……。

「…!?」

 直後、燃えるような痛みが背中に生まれる。昨晩感じた痛みとまったく同じ、焼けつくような、斬られるような、強く激しい痛み。

「このはさん、どうしたの!」

「大丈夫……ちょっと、めまいがしただけ」

 身を起こし駆け寄ろうとする結希を止めると、湖葉は座りこみ、背をおり曲げ身体を丸くする。胸が苦しい。まるで数十キロも走りこんだように、口から漏れる息が荒い。

「このはさん、か……ふふ、皮肉なものね」

 苦笑いして唇を強くかみしめる。長い年月をかけ築いてきた関係は簡単に壊れてしまったのに、全てを忘れてしまったのに、痛みだけは、痛みの記憶だけは、身体の奥底にしっかりと根をはり、未だひそみ続けている。

 楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、苦しかったこと。

幸せだったとしても、辛かったとしても、それらはみんな、一つ一つが大切な思い出。一つ一つが、二人で過ごした記憶。けれど、すでに結希の心にそれはない。でも、それでも……何もかも忘れてしまったとしても……。

ふと目をやると、彼女は大きなぬいぐるみをじっと見つめていた。少し前に福引であてて、ずっと往人が遊び道具にしていたナマケモノのぬいぐるみ。

「どうしてだろ。これを見てると、妙に懐かしくて切ない気持ちになって、胸のあたりがぽうって暖かくなる」

 忘却と消滅は違う。

 忘れてしまったとしても、思い出はなくなる訳じゃない。いつまでも、心の中に残り続ける。私は、そう信じている。

 

 

 少女は夢を見る。夢を見て起きて、そしてまた夢を見るために深い眠りの中に落ちていく。それを繰り返していく。いつまでも、いつまでも……いつ終わるやも知れぬ悪夢のように、それは続いていく。

「私はどこか大きな屋敷にいた。ひとりぼっちでそこに閉じこめられてた。寂しかった。誰かが連れ出してくれるのを、ずっと待ってた……」

「心配ないわ。あなたを連れ出して、旅に連れて行ってくれる人。そんな大切な人が、近いうちに来てくれる。私には、それが分かるから」

 時間を遡っていく、結希はそう言っていた。遡る……つまり、過去へと戻っていくということ。それはいつか始まりが、夢が終わる日がくることを告げていた。

 永久なんてものは、存在しない。人も物も景色も、いずれは変わっていく。変わらなければ、生きていくことはできないから……。

 力をこめる。人形は手のその下で、楽しそうに踊り続ける。

「このはさん、すごいね」

「うん? どうしたの」

「だってそれって、種も仕掛けもないんでしょ」

「まあ、そうね。でも、私がこんなことをできるようになったのも、みんなあなたのおかげなのよ」

「あたしの?」

 きょとんとした表情で、結希は自分を指さして首をかしげる。

「そう。あなたに笑ってほしかったから。それだけを願っていたから、だから私はいまここにいられるの」

「あたしのため……?」

「そう。結希、あなたのため」

「そんなのだめだよ!」

 突然、結希が叫んだ。

「その力は、みんなを元気にする。見ているだけで、楽しくて、陽気な気分にしてくれる。幸せをみんなに分け与えることができる。それは、とてもすごいことなんだよ。だからあたしのためなんて、そんなちっぽけなこと言っちゃだめ。それに……あたしはもう……」

「…結希?」

 様子がおかしいことに気づいて、湖葉は繊細なガラス細工にでも触れるように、結希の震えるその手にそっと触れた。雪のような白い肌。冷たいその身体に、温もりがゆっくりと伝わっていく。

「今朝の夢。あたしは空に戻ってきていた。真っ青な世界で一人、ずっと空を飛びつづけていた。これがきっと、最初の夢。明日になれば、きっと私は夢の中のあの子と同じように、空へと帰っていく。終わってしまったから、夢はもう、終わってしまったから……」

 そこで一度、言葉を区切る。

「あたしはね、笑ってほしかったんだ。世界中のみんなに。だから、出会った人たちみんなを笑顔にしたかった。そうすれば空にいるあの子も、きっと笑ってくれるって信じてた。でも、もう駄目みたい。手も足も動かないし、身体もめちゃくちゃ痛いしさ」

「結希、ひょっとしてあなた記憶が」

「だからさ、あたしの代わりに湖葉がやってくれないかな。人形劇で、出会った人たちみんなを幸せにする。それはきっと、湖葉にしかできないことだから。それとね、往人のこと、頼んだよ。あの子には、幸せになってほしいから。あたしみたいな悲しい記憶を、背負わせたくないから」

 湖葉の声は聞こえているはずなのに、結希は聞く耳持たずという様子で、一つ一つ言葉をつむいでいく。時間がないと知っていたから。動かなくなってしまう前に、全ての想いを打ち明けていく。

「…もうすぐ日が暮れるね」

 灼熱色の太陽が山に消えようとしていた。夜がくれば、結希は眠ってしまうだろう。そうして、最後の夢を迎えるのだろう。そして、それが意味するものは……。

 湖葉は一言も言葉を放つこともなく、ただぎゅっと、彼女の白く冷たいその手を握りしめていた。夢を止めることなんて、誰にもできないから……せめて、一人きりにならないように、流されぬよう、離されぬよう、ぎゅっと握りしめていた。強く、強く、強く。

彼女を失いたくは……なかったから。

「さようなら」

 それが、最後の言葉。満たす空気が、言葉を包みこんでいく……。

 翌日湖葉が目を覚ますと、ベッドの上には結希の抜け殻が転がっていた。硬く冷たい、雪のように真っ白な肌の、魂のぬけた抜け殻。

 空を見上げると純粋な蒼。雲一つない、果てしなく広い大きな空。

見つめているだけで、涙が不意に零れ落ちそうになる。それほどに美しくて、悲しみを帯びた蒼。あの子は、無事に帰ることができたのだろうか。

この、広く壮大な景色の中へ…。

 

 

 それからの数日は、湖葉自身もあまり覚えていない。

 朝がきて夜がきて、そしてまた朝がきて、湖葉は何をすることもなく、ただじっと、その流れていく世界を見守り続けていく。いまさら何をする気にもなれなかった。結希は死んだ。その事実が、国崎湖葉という女性の世界を消滅させていた。

だからここにいる彼女もまた、抜け殻なのかもしれない…。

 ベッドのすぐ下で小さな銀色が、窓から差しこむ黄昏の光を反射させているのに気づいたのは、結希が消えた後の四日目の、太陽が沈みかけたころだった。

 限りなく光り輝く、一枚の銀色の羽根。見覚えのある輝きだった。いつだったか、往人を連れてきた日、女性が変化してしまったといって結希が差し出した羽根。それと同じものが、そこにはあった。

なぜ羽根が部屋の中にあるのだろうと疑問に感じ、湖葉はそれに手を伸ばす。穢れなき羽根の、真っ白な毛に触れた瞬間、柔らかな光が湖葉を包んだ。

閃光のような眩しさの中に全身が包みこまれていき、言葉が、知識が、頭の中に生まれていく。溢れていく。

結希が、白穂が、みちるが、そして観鈴が見続けてきた空の夢。翼を持つものの、翼人と呼ばれた者の記憶。

はるか遠い昔、この世には翼を持つ人々がいた。限りなく純粋で、そして限りなく強大な力を持つ存在。そんな力を持つ彼らを人間が争いに利用しようとするのには、そう長い時間はかからなかった。翼人は人に命ぜられるまま、争い、傷つき、しだいにその数を減らしていった。そして……いつの日か翼人はほんの一人か二人を残し、全てが死滅した。なんとか死を逃れた幼い翼。その子もまた人に囚われ、そして……。

法術という力を受け継ぐ存在、すなわち国崎とは、最後の翼人とともに旅をしてきた人たちの、その末裔。

銀色の羽根は、空という牢獄に囚われた翼人から抜けおちた、ふとしたきっかけで大地に舞い降りた、彼女の一欠けら。

結希は翼人の欠片だった。京都で一人ぼっちで暮らしていた湖葉が、ある日見つけた銀色の羽根。それが生み出した一つの命。結希に記憶がなかったのも、ある意味当然の話だった。あの日あの場所で、湖葉が羽根に触れて願い、そして生まれたのが、結希という少女なのだから。

結希だけではない。幼いころ、駅舎で遊んでいた美凪は銀色の羽根を見つけ、それを胸に妹が欲しいと願った。そうして生まれた存在が、みちる。

 大地に舞い降りた翼人の羽根は様々な人と出会い、経験し、そして自分の得た全ての記憶を空に囚われた少女へと返す。

 母はいつか言った。

「私たちは翼を持つ人たちをずっと探してきて、そしてみんなその子に出会った。とても悲しい思いをした」

 翼を持つ人の欠片。母さんもまた母さんにとっての結希を見つけ、そして悲しい結末を迎えたのだろう。

 だとしたら、私はどうすればいいのか……。

 悲しい記憶……いつまでも結希は、空の少女の欠片たちは……それを繰り返していく。私はそれを知った。ならば、何ができるだろう?

 何かできるだろうか?

 結希のために、そして私自身のために……。

 考えて、湖葉はすぐにそれを止めた。

気づくのが遅すぎた……結局、もう手遅れなのだ。

今更なにをしたって、結希が生き返るわけではないのだから……。

 




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