Past 第八幕 比翼の鳥

 

因果】:原因と結果 不幸 不運 宿命的 

【応報】:過去および前世の行為の善悪に応じて現在の幸・不幸の果報があり、現在の行為に応じて未来の果報が生ずること。

もし因果応報というものが存在するのならば、これは翼人の生業から逃げ出した、そのことに対する代償なのだろうか?

 

 

 夢の中であたしは森の中にいる。大きな大きな、暗くて深い森。

 金属同士がぶつかりあう乾いた音が森中に響くたび、胸のあたりにざわめきが生まれていく。怖かった。それは、命を奪いあう音と知っていたから。硬いものに鈍い音を立てながら何かが食いこみ、どさっと重たいものが倒れる音。

 あたしは、後ろから聞こえるその狂気の気配に身を震わせながら、生い茂る木々の合間を、狐から逃げる野兎のように、ただただ走り続けていた。

 窓から差しこむ陽光の眩しさで目が覚めると、結希は仰向けになっていた身体を起こし、視界を天井から下げる。自分以外の誰もいない静かな部屋。動かなくなった手足を眺め、ため息をもらす。

 最初は空の夢。満月の夜。山の中。そして、深い森。

 夢を遡っていって……その先になにがあるのだろう?

梅雨が終わりを告げ、やがて全ての命が奮い立ち歓喜するような季節が訪れる。そう、夏はもうすぐそこまできていた。

 

 

静かな朝。結希の雑誌をめくる音だけがじわりじわりと広がりを続け、沈黙をうめていく。息遣いさえ聞こえてきそうなほどの静寂の中、湖葉はぼんやりと空を見上げていた。

往人が消えても結希の身体は一向に治る気配すら見せない。むしろ、さらに蝕みを広げている。その事実が、湖葉の胸にぽっかりと大きな空洞を作りあげていた。窓から聞こえてくる虫のざわめきさえも、今は悲しみを帯びて聞こえる。

だらりと垂れた左右の手が、腰に巻かれたポーチに触れる。ジッパーをはずすと、暗闇の中から小さな人形が顔を覗かせていた。

しばらくその姿を見つめ、やがてそれを取り出し右手をかざす。

両親の言葉を思い浮かべ、手に力を込めてみたもののやはり動かない。父さんや母さんは、手をかざせばどんな物でも動かすことができたのに、私はこんなちっぽけなもの一つ、動かすことが出来ないのか……。法術……私にその力があれば、結希を助けることだってできるかもしれないのに。

衝動的に沸き起こる感情に身を任せ、人形をぎゅっと掴むと、勢いよくそれを壁に叩きつける。ばふっと柔らかい音が鳴って、それが床に転がる。

私の……せいなのだろうか……私が親の言いつけを破り、翼持つものを探すという一族の生業から背いたことが、今のこの状況を作り出しているのだろうか?

けれど、生業から逃げ出したことが罪になるのならば、なぜ私ではなくあの子、結希だけが苦しみを味わわなければならないのだろう?

そもそも結希は私の家系とはなんの関係もないのに……。

「だ……めだ……よ」

 か細い声が耳に届く。ベッド上の結希が、床に打ち捨てられた人形に手を伸ばそうとしているのに気づくと、湖葉は無言で人形を拾い上げてそれを手渡す。

 結希はそれを受け取ると、何度か人形と湖葉の間を目で行き来する。

「大切なものなんだよね、この人形。小さい頃からのかけがえのない思い出が、幾つも幾つも詰まっているんだよね」

 汚れのない二つの瞳が、真っ直ぐに湖葉の身体を射抜く。

 思い出。それがなければ人は生きていけない。だとすれば記憶を失い、思い出を無くしてしまった結希は、生きているといえるのだろうか?

彼女の心には、幾つもの思い出をその身に刻んできたこの小さな絹の人形は、どのように映っているのだろう。

まぶたが熱い。妙に瞳が湿って、目の前がかすんで見える。

感情の捌け口が見つからず、無意識のうちに私は空に吼えていた。

どうして私はこんなに無力なのだろう。結希は今も苦しみ続けているのに……知っているのに、誰よりもそばにいるのに……それなのに、何もできない。

ただ、見ていることしかできない。

頭をふりしぼる。いま、私には何ができるのか……それだけを考え続けた。

そして……。

「結希、一つだけ確かめたいことがあるの」

「確かめたいこと?」

「そう。とても大事なこと」

 夢の、その先……。

「空の夢は今も続いているのね」

 時間を遡り、結希は失ったはずの思い出を取り戻していく。たとえそれが偽りの記憶であるとしても、彼女はその記憶に縛られ、ひとり悲しみの空を彷徨い続ける。そんな夢が、何度でも繰り返されてゆく。

「あはは、そんなことな――」

「本当のことを話して!」

 ベッドの端を力いっぱい叩くと全体が軋み大きく揺れる。結希の笑い声が一瞬で消え、空気がその色を豹変させる。

もう誤魔化していいような問題ではなかった。睨みつけるように、留まることを知らないくらいに、次々と湧き上がってくる感情の塊を目の前の少女にぶつける。

「あたしの見る……この夢は――」

 そして、ゆっくりと結希は言葉を紡ぎだしていった。いつ頃からか始まって、そして今も見続けている永い長い夢の旅。その全てを伝え始めた。

 結希が話をしているあいだ中、湖葉は一切言葉を発することなく、その一言一言に耳を澄ませ続けていた。結希の話は所々とても洗練されていて、そのときの情景をありありと頭に想像できるほどに詳しく、それが夢などと、にわかには信じられないくらいだった。

 日が完全に昇りきった頃、その話は今朝の夢まで追いつく。

「結希、あなたはその夢が自分の失った記憶と何か関係があると思う?」

 問いかけると、彼女は一度だけ小さく首を左右に振った。

「…たぶん、関係ないと思う。なんとなくだけど、これは私の思い出とかそうゆうのとは少し違う。もっと別の、遠い昔の光景を見ているような、そんな気がする」

 それは湖葉の推測とほとんど同じだった。夢というものを媒体に、何かを伝えようとしているような……。

けれど誰が? 何のために?

 夢が一つ過去へと遡るたびに、少しずつ結希の身体が蝕まれていく。夢を遡ること、それが四肢を動かなくさせた理由だとすれば……。

 あの子、往人は疫神などでは……災いをもたらす存在などでは、ない。

 熱い……焼け付くような感覚を背に覚え、痛みで目が開く。身体が重い。いつの間にか眠っていたようだった。白いタオルケットをはぎとり立ち上がろうとしてみたものの、稲妻に打たれたような激痛が突如身体中を駆けめぐって、たまらず床に膝をつく。

「湖葉……?」

 ベッドの上で横になっていた結希が、異変に気づく。

「大丈夫。ちょっとつまずいただけ」

 体の奥底から湧き上がってくるような痛みを必死に堪えながら立ち上がると、湖葉は部屋から抜け出していった。廊下の空気がやけに冷たく感じる。まるで、異世界にでも迷いこんでしまったような……。

妙に背中が熱かった。じくじくとした痛みが現れては消えていく。そんな奇妙な感覚が繰り返されていく。痛みのその正体を確かめるために、彼女は浴槽へと向かった。上着を脱いで素肌をさらけだし、洗面台に取りつけられた大きな鏡台に、背中の様子を反射させる。

 細く長い痣があった。左肩から右腰にかけ刃物で切られたように、一本の線となって……。

こんな傷に心当たりなんてなかった。それなのに、ずっと昔についた古傷のように、それは確かに存在していた。

 白い肌に亀裂のように走る斜めの傷。自分の身に起きた異変に悪寒すら覚える。一体なにが起きたというのだろう、私の身体は……。

旋律を感じていく中で、脳裏にはそれとは別の、もう一つの疑問が生まれていた。気のせいだろうか? 寝室から離れていくたび、痛みが少しずつ治まっていったように感じたのは。

「痛みは引いた?」

 寝室に戻った直後に耳に届いた声に、湖葉は驚いて身をこわばらせる。突然氷の塊でも背に入れられたみたいだった。

「…知っていたの?」

 声が裏返らないように注意しながら、湖葉は一言一言をゆっくりと言葉に変えていく。

「湖葉がつまずいたとき、あたしも背中がものすごく痛かったから。だから、なんとなくね」

 眠っていた痛みが目覚め、焼けつくような感覚が背中に戻ってくる。

 結希は気づいていた。湖葉が部屋に戻ってきたことが、痛みを蘇らせたその原因となっていることを。

 夢の中で自分が感じていた痛み。いま、白いシーツの敷かれたベッドの上で感じている痛み。その二つの痛みは、おそらく同じものなのだろう。

 そんなことを考えたその瞬間、いつかの夢の光景が結希の脳裏にフラッシュバックする。

 あたしは泣きついていた。熱く輝いていた命の光が、だんだんと小さくなって消えていくのを肌で感じながら……、その人の裾が、涙でぐちゃぐちゃになるくらいに泣き崩れていた。

抱きしめていたその肩から腰にかけ、ばっくりと肉が見えるくらいに皮膚が切り裂かれていて、生暖かいものが心臓の鼓動に合わせて、ぴゅっぴゅっと、その合間から噴き出していく。たちまちに広がる黒い染みで、白く乾いたが赤く染まっていく。あたしと共に旅をした人たち、その人がみんな……冷たいものへと変わっていく。

『人』ではなく『物』へと変わっていく……。あたしだけを残して、消えていく……。

 仮に夢の中で負った傷や痛みが、現実に変わっていくと考えてみよう。

 今朝の夢。一緒に旅をしてきた大切な人が、背中を刀で大きく切られていた。

幸い、そのときは怪我の治療が早くて致命傷には至らなかったけれど、真っ白だったさらしを真っ赤に染める血の色が、傷の深さを物語っていた。

 その人の痛みが、湖葉の身体に呪いのように表れるとしたら……。

 二人の心が近づけば、二人とも病んでしまう。二人の距離が縮まれば、身体の内側から生まれる痛みが、その力を強めていく。

 今朝の夢。その中で、背中を切られ倒れこんだ男性。あたしは、その人の顛末を知っている。

冷たい畦道の途中、あたし一人を残して『物』へと変わる。そしてあたしは一人ぼっちになり、冷たくなったに叫びつづける。

「余を残してゆくなっ!」っと。

それが夢の顛末。それが……旅の終わり。

 体中の水分を出しつくしてしまうくらい泣いて、声が枯れるほど叫んで、それでも土を染めていく赤が止まらなくて、あたしは……何も出来なくて、泣いて、叫んで、一番大切な人が、誰よりも愛しいと感じたその人が抜け殻になっていくのを、ただ見ていることしかできなくて……。

このまま一緒にいれば、湖葉もその人のようになってしまうように思えて、だから……。

「湖葉、あたしから離れて」

 自然に言葉が零れ落ちていた。

「あたしと一緒にいると、きっとお互い傷ついていくことになる。もう見たくないから……あたしのために、あたしのせいで誰かが気づいていくところなんて、もう見たくはないから……だから、お別れ」

 四肢が動かなくなって、身体を起こすことさえ一人では困難で、二人が一緒にいれば、お互いが苦しんでしまうことを知って……。

 大切な人を傷つけたくない。その想いが導き出した答え。

けれど一人ぼっちのその先に待つのは孤独で、そして無慈悲な日々でしかない。楽しみを共有することもできず、悲しみを共に背負ってくれる者もいない。ただ、生きていくだけ。

湖葉はずっと瞳を閉じていた。ずっと、何かを考えているようだった。やがてその瞳が開き、声が生まれる。

「ねぇ、の鳥って知ってる? 中国の伝承に出てくる鳥で、それぞれ片目片翼しかない雄と雌の二匹が、互いに身を寄せあい一体となって飛ぶの。一匹一匹だと満足にご飯も食べれないのに、お互いがそろうと力強く羽ばたいて、どこまでもどこまでも、空の高みまで飛んでいける。それって私たちにそっくりだと思わない? 口下手で人付き合いが下手な女と、能天気で頭の弱いムードメーカー。結希、片翼では羽ばたくことはできないから、私とあなたは二人が揃ってはじめて、一羽の大きな鳥になれる」

 湖葉は肩を優しく支えた。傷ついた翼をなでるように、崩れかけた心を支えるように、優しく。

「私の家系には昔から代々伝わってきた力がある。手を触れなくても物を動かすことができる、そんな力」

「…法術」

 結希が力の、その名を口にする。

「私は今までがむしゃらに、ただ人形を動かすことばかり考えてきた。だけど、それじゃ動かない。人形はその先にある願いに触れて、初めて動き出すのだから」

「その先にある願い?」

 ポーチから人形を取りだすと、湖葉はそれを床に置く。呼吸を整えて手をかざす。そして、願う。

 思えば通じる、思いは通じるから。そう信じて。

 やがて人形がゆっくりと立ちあがり、歩き、舞い、踊る。まるでおとぎ話に出てくる舞踏会から抜け出してきたように、華麗な踊りを披露していく。

 幻想的で、夢のような空間。

「あはは。すごい」

 笑ってくれた。

「結希。私はあなたと一緒にいたい。身体の痛みよりも、心の痛みのほうが、もっとずっと辛いから……わがままと言われてもいい、勝手と言われてもいい。私には何も出来ないかもしれない……けれど、ううん。だからこそ、せめて……あなたの側にいさせて」

宿命とか運命とか、そんなものは関係ない。私は結希と一緒にいたい、ただそれだけ。結希のそばにいることが、私にとっての幸せだから。あなたが苦しいときも私がいつもその隣にいて、笑わせ続ける。いつだって笑顔を与えてあげる。私は、人形にそう願ったから。

この子は母さんから教えられた翼を持つ人では、翼人ではないけれど……結希の背中には、きっと片翼の羽根がある。そして、私の背にも。

比翼の鳥。離れてはけして生きられない鳥。

だから、ずっとここにいる。私があなたがどうなってしまおうとも、ふたりはここにいる。居続ける。二人で幸せになる。

 それが、湖葉の辿りついた幸福の形だった。

 




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