Past 第七幕 葬送曲

 

…この空の向こうには、翼を持った少女がいる。

…それは、ずっと昔から。

…そして、今、この時も。

…同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている。

それは、母から聞いた言葉。夏祭りの夜に残された俺にとって、その言葉が全てだった。俺は旅を続け、空の夢に囚われた少女、観鈴に出会った。

俺は彼女を助けたかった。けれど助けることはできなくて、彼女は眠りについてしまって……俺は観鈴のそばにずっといたいと、そう願った。そして今、俺は母さんの記憶をたどっている。

庄治の爺ちゃんから、俺が元々捨て子だったということは聞いていたから、そのことについて驚くようなことはなかった。ただ……俺の右手首にほどこされた、黒い痣。痣のある俺を、爺ちゃんは記憶の中で疫神と呼んだ。今にして思えば、動物がこの痣を怖がるのは、本能的にその危険性に感づいていたからなのかもしれない。災いをもたらすもの、疫神の危険性を……。

母さんが自分の記憶をなぜ俺に見させているのか、それはまだわからない。けれど、一つだけ確かなことがある。この記憶は俺の見てきた世界、俺の信じてきた世界全てを、確実に変革させていっている。

そして再び、記憶の渦へ……。

 

 

日常という名の建造物は、たぶんとても脆い造りなのだろう。根元にほんの些細なひび割れが入っただけで、建物全体のバランスが崩れ一気に崩壊してしまう。

始まりは、とても些細なこと。ある朝、足が痺れたみたいになっていると結希は言った。でも数分もすれば足は元通り自由に動かせるようになり、痺れはすぐに消えてしまう。そんなことが数日続き、結希は足の痺れの時間がだんだんと延びていることに気づいた。気づいたころには、もう手遅れだった。

季節は流れ、梅雨。結希の足は完全に動かなくなっていた。

 磨かれたガラスのように周囲の景色を反射させ、透明な水の雫が湿った地面に飲みこまれていく。大地が水分を吸収するその限界を向かえると、雫は茶色の泥となり土の上を覆いはじめる。

草木の葉に落ちた水滴がはじかれ、空気中に小さな水雫となって消えていく。

そんな景色を、ベッドの上で両足を伸ばしたまま、結希は退屈そうに窓越しに眺め続けていた。

「梅雨ってこれだから嫌いなんだよね。じめじめして雨ばっかり降るし」

「愚痴ばかり言ってないで少しは寝たら? 足だってまだ治ってないんでしょ」

 結希の両足が動かなくなったのは、別に突然というわけではない。予兆のようなものは、前からずっと起きていたのだ。少しずつ、少しずつ足を動かすのが困難になっていき、そして動かなくなった。まるで雨水がじわりじわりと蓄積されていき、貯水量の限界を超え決壊するダムのように、結希の身体は、ある日ついに限界を迎えた。

「ちょっと嫌な夢みてさ……眠ろうとしたんだけど、目を閉じるとそのときのことを思いだして」

「ひょっとして、また空の夢っていうのをみたの?」

「あはは、違う違う。空なんて影も形も出てこないって」

「そう……それならいいけど」

「どうしたの? 人の心配するなんて湖葉らしくないなぁ」

 瞬間、ゴンッと小気味よい音が結希の頭に鳴りひびく。

「なぐるわよ」

「もう殴ってるじゃん……」

食事でも作ってくると湖葉が台所に姿を消すと、結希は動かなくなった膝をゆっくりとさすって時間を潰していた。正直、奇妙な気分だった。自分の身体のはずなのに、ほとんど感覚がない。まるで別の誰かに膝から下を乗っ取られているような、そんなふうにさえ思える。

 結希は一つ嘘をついていた。確かに今朝見た夢は空の夢ではない。だが空の夢と無関係というわけでもないのだ。

それはとても悲しい夢。あたしの腕の中で、大切な人のぬくもりが消えていく。右手に触れる生暖かいぬめっとした何か。背中をなでる左手は右とは対照的に、氷のように冷たくなっていくその人の素肌をずっと感じていた。

とても暖かくて、そしてとても冷たくもあるもの。

 旅を続けてきた。峠を越え山を下り、ずっとずっと長い旅を続けてきた。ずっとずっと、捜し求めてきた。そしてその果てに……やっと辿り着いた。なのに、それがいま消えようとしている。

『風前の灯』そんな言葉が当てはまってしまう現実を、認めたくなかった。けれど、それはやはり真実で……。

 だから、やりとげなければいけなかった。消えてしまう前に、もう時間がないから……それなのにどうしてもうまくいかない。

「こんな夢、湖葉になんて話せるはずないよね」

 呟きが、乾いた空気に消えていく……。

 

 

「ふぅ。まったく、足が動かなくなったっていうのに、口を開けばお腹が減った、お腹が減ったって、他に考えることないのかしら」

 ため息混じりにそんなことをこぼし、炊き上げたご飯を茶碗に移していた湖葉の手の動きが、不意に止まる。

「そういえば、さっきも結希は笑ってたっけ……」

 結希は嘘をつく時いつも笑う。湖葉はそのことに気づいていた。

空の夢、おそらくそれは今も続いてるのだろう。ずっとずっと、とても永い時間をかけ夢を遡っていき、どんどん昔へと遡っていく。

その夢から抜け出すことはできない。

それはまるで鎖のように、結希の身体を拘束して離さない。しかし、なぜ私ではなく結希が空の夢を見ているのだろう。私の家系は、ずっと空に囚われた誰かを探してきた。だからそんな夢があるのならば、本来それを見るのは結希ではなく、私のほうではないだろうか?

いや、考えてもしょうがないか。どうゆう理由があるにせよ、結希が夢を見ているのは事実なのだから。それにそんなことよりもっと先に、考えなければならないことがある。そう、どうして結希の足が動かなくなったのか、だ。

 外傷は何もない。怪我らしい怪我があるわけでもないのだから、普通に考えて、足が動かなくなるはずがない。だとしたら内面的な、体の内側に何か問題が?

 内面……内側、精神、心。

『神は災いをもたらす者に印を与える』

 疫神が災いをもたらす。

そういえば、往人が来たのと結希が足の痺れを訴えはじめたのは、ほぼ同時期だった。とすれば結希の足が動かなくなった原因は、往人なのだろうか?

考えた瞬間、ぶるっと頭を左右に揺らし、自らの考えをかき消そうとする。

 無関係だと頭では分かっているはずなのに、往人と疫神とをで結びつけようしている自分がいて……。

「湖葉、どうしたの? なんか顔色悪いけど」

「…大丈夫。なんでもないわ」

 食事を持って部屋に戻ったあとも、湖葉は箸でご飯を二、三度つつくと何をすることもなく、座りこんだまま息を殺し続けていた。

彼女の視線の先にあるのはただ一人、往人という名の赤ん坊。

 もし、あの赤ちゃんが庄治さんの言うその疫神だとしたら……、あの子のせいで結希の足が? 慌てて首を左右に振り、浮かび上がった考えをかき消す。

 何を考えているのだろう。あんな空想話を間に受けるなんてどうかしている。

「――のは。ねえっ、湖葉ってば」

「えっ? ごめん。ちょっと考え事してて……、なんだったかしら」

「のどが渇いたからそこの飲み物取ってって、さっきから言ってるじゃん。もう、しっかりしてよ」

「あ、飲み物ね。ごめんごめん」

 そう言って、湖葉はペットボトルのジュースを結希に手渡そうとする。

ぽんっ

プラスチックで出来たその容器は結希の手をすり抜けると、まるで吸いこまれるかのようにベッドの上に落ちていった。

「なにやってるのよ、ちゃんと掴みなさい」

「うーん、おかしいなぁ。あたしはちゃんと持ったつもりなんだけど……」

 呟いて、結希は不思議そうに自分の右手を見つめる。手を動かそうと力をこめているようだったが、小指すら満足に動いてくれてはいなかった。

その姿に湖葉は不吉な予感を覚え、

「…まさか腕まで?」

 思わず結希のその腕をぎゅっと握りしめ、肌を見つめる。なんともなかった。連日の雨で外に出られないせいか少し白っぽくなってはいるが、外傷らしきものはどこにも見当たらない。

 足が動かなくなったときと全く同じだった。結希の両足には今でも傷らしきものは影も形もない。ただ、全く動かせないだけ。

 「痛いっ」という結希の悲鳴で慌てて手をはなすと、同時にベッドの隣で寝ていた往人が泣きだす。時間から見てお腹が減っているのだろう。暖めておいたミルクを取りだして、湖葉はそれを飲ませ始める。ずいぶんとお腹が減っていたらしく、貪るように飲み続けていた。

 疫神、その呪いが結希の身体を動けなくさせていくとしたら、この子がもしそうだとしたら……この子がいる限り……結希は……。

 それからは、誰も言葉を交わさなかった。時折、小さくこくんと喉をならす音がするだけ。その音もしばらくすると消え、代わりに聞こえ始めた細い吐息が沈黙を埋めていく。

「波を追いかけて、水を掛け合って、疲れて動けなくなるくらい泳いで……。元気になったら海に行きたいな。そんなふうに遊びたいから」

 静寂の先に生まれた言葉。些細な、どこにでもありふれるような、小さな小さな願望。だけど、今はそれが果てのない道の先にあるようで……。

「元気になったらじゃなくて元気になるんでしょ。なに諦めたようなこと言ってるの」

 湖葉の励ます声が、嫌に痛々しく響いた。

 

 

 最初は足、その次は手。だんだんと、身体の自由が効かなくなっていく。それはまるで、見えない鎖に縛られているようだった。

ベッドに目を向けると結希は赤ちゃんを抱きかかえたまま、深い眠りに陥っていた。夢は見ているのだろうか? あどけなく幸せそうな寝顔。少なくとも、悪夢にうなされているわけではなさそうだ。

近づいた人たちを絶望に、不幸にする。それが疫神。

 ベッドで眠る往人の腕をそっとまくる。その下にあるのは螺旋状の黒い痣。小さな身体の、さらに小さな腕に描かれた黒。これが……こんなちっぽけなものが私の、結希の平穏を……奪っていく。

 憎悪にも似たどす黒い感情の塊が、心の奥から煮えたぎるようにして沸きあがってくるのを感じた。平穏を、日常を奪ったもの、消し去ったもの。それがいま、目の前にある。

 憎い……。

 気がつくと腕が伸びていた。柔らかく暖かい、その肌に。

 喉に触れる。かすかな血液の流れを感じる。力をこめれば……粘土みたいに簡単に壊せそうだった。親指を押しこむと、けほけほと小さなセキが聞こえはじめる。

動脈を潰しそうになって、慌てて手を離した。冷たい何かが背筋を駆け抜けていく。身体が震え、ぞくっとした感覚の波がこみ上げてくる。

 私はなにをやろうとしていた?

いまなにをやろうとしていた?

 両手を見つめると、ぷにぷにとやわらかい肌の感触がかすかに残っている。

 私は……いま……なにをやろうとしていた?

 疫神。そんなものが本当にいるとしたら、それはきっといまの私。絶望を、不幸を生み出しているのは、他でもない国崎湖葉自身だった。

 なにを憎んでいる?

 なにを恨んでいる?

 結希の心を奪った赤ん坊か?

自分よりも赤ん坊のことばかりを見ようとする結希か?

それとも、自分自身?

 答えの見つからない迷路。答えを見つけ出すのを恐れている自分。それでも、一つだけ確かなことがあった。

 これ以上、赤ちゃんをここに置いていてはいけない。このままいれば、私はいつかこの子を殺す。いつか……必ず……。

窓から差し込む夕焼け。それが、血のような真紅の光となって湖葉を包んでいく。紅く、紅く、紅く、そして、紅く……。

日が落ちて、世界はゆっくりと紅色へと染まっていく。血の色を彷彿させる紅色へ……。

 

 

 がさっという物音が茂みから聞こえ、枝が左右に大きくぶれて葉を散らす。顔に当たる葉を掻きわけながら林を抜けると、少女はたどり着いた神社を目に、懐かしい場所だと声をこぼす。

「紗衣!?」

 縁側で夕闇に身を預けていた庄治は、目の前に姿を現せた少女を見るなりそう叫んでいた。

「よ、お久しぶり。近くまで寄ったんで元気にしてるかなーっと思って」

 紗衣と呼ばれたその少女は額のあたりに右手を構え、敬礼のようなポーズで挨拶をかえす。

「蓮鹿はどうしたんじゃ?」

「今は別行動。大方社巡りでもしてるんでない? って、それはどうでもいいの。そんな事より、八雲は見つかった?」

「いや、わしとしても色々探してはおるが、手がかりすら全く見つからんわ」

「そっか。じゃ、引き続きお願いね庄治おじいちゃん。楽しみにまってるから」

「主ほど年寄りでもないわ」

 茂みの中に入っていく紗衣の後姿が緑にまぎれ、その姿が完全に見えなくなったのを確認すると、庄治は腰を持ちあげる。

廊下を歩きしばらくして着いた広間の重たい引き戸を開くと、周囲を木の壁に挟まれただけの、がらんとした何もない空間が扉の向こう側に広がっていた。

外と隔離された世界、時間の停止した世界。幾重の月日が流れようと、変わることのない世界。その最奥にそれは置かれている。否、眠っているというべきか……。

月光をその身に帯びて、銀色の光沢を放つ羽根。脈打つように、先端が小刻みに揺れている。それは、あたかも命を宿しているようで……。

 その羽根は、結希が見つけたあの羽根だった。往人を連れて現れた一人の女性、結希の目の前で消滅してしまった一人の女性。その足元に残されていた、一枚の銀色の羽根。結希はそのことを庄治に伝え、庄治は羽根を受けとると、この奥殿でそれを祭った。

「安心せい、あの子はわしが育てる。紗衣たちにはけして渡さぬ。たとえどんな結果がその先に待ち受けていたとしても……そう約束したからの。な、殿」

 

 

「えっ、明日じいちゃんに往人を預けに行く!?」

「そう。それが一番いいと思うの」

 それが湖葉の導きだした答えだった。このまま自分の近くに赤ちゃんを置いておけば、私はあの子に何をするか分からない。

それが怖くて、自分自身を制御しきる自信を持てなくて、だから……。

 いつか福引で当てたナマケモノのぬいぐるみとじゃれあう、往人の小さな背中を結希が見つめる。

「この子と離れたくない」彼女の瞳はそう告げていた。

「足が動かなくなって、今度は手。赤ちゃんの世話をしながらあなたの看病をなんて無理だから、ね」

 子供をあやすように、優しく言い聞かす。

「そっか……そうだよね……、仕方……ないよね」

 悲しそうにうつむいて、四肢を眺める。神経を切断されたように、ぴくりとも動かせない手足。湖葉はこんな身体になったあたしの世話をしながら、赤ちゃんの面倒まで見てきたんだ。そのことを考えると、反対することはできなかった。

「往人」

「えっ?」

「この子の名前、どうして往人って言うのか、あたしなりに考えてみたの。人の往く末、大切な人のことを自分の代わりに見届けてほしいって、そんな想いが、この名前にはこめられてるんじゃないかな」

「代わりって……はぁ、なにもう駄目みたいなことを。いい、結希。あなたの代わりはどこにもいない。世界中どこを探しまわっても、結希って名前のおつむの弱い女の子はあなた一人しかいないの。だから、早く身体を治しなさい」

「何気に酷いこと言ってない?」

「空耳でしょ」

 疫神が災いをもたらす。だとしたら、この子から離れれば、結希の手も足もきっとすぐに良くなる。きっとまた、元気な姿に戻ってくれる。

 

 

「そうか、結希の風邪はそれほど深刻なのか」

「はい、もう本当にごほごほ咳きこんでいて、このままだと往人にも風邪がうつっちゃいそうで」

 庄治さんには結希の病状をそんなふうに伝えた。手や足が動かなくなっていくなんて話しても、いたずらに不安を掻き立てるだけでしかない。

「ふむ、分かった。予定より幾日か早いが神社で引きとることにしよう」

「お願いします」

 なぜ足や手が動かなくなったかは未だに分からない。だけど、とにかくこれで結希は治るはずだ。

私はそのとき、確かに治ると信じていた。自分の知らないところで、ゆっくりと葬送曲がなりはじめたことになど、全く気づきもしないまま…。

 




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