Past 第六幕 疫神
「で、そのとき渡された赤ちゃんがこの子、往人だって言うの?」
「うん。そうだよ」
「はぁ、嘘つくならもう少しまともな嘘つきなさいよ」
「そんなこと言われても……本当のことなんだからしょうがないじゃん」
アパートに往人を連れ帰った結希は、昨日起きたことを一通り説明してみたものの、一向に湖葉はそれを信じようとはしなかった。とはいえ、湖葉が結希の話を嘘だと思うのも無理はないだろう。とつぜん女の人が目の前に現れて、赤ちゃんを結希に渡すと白い羽根になってしまったなどと、冗談にしても出来が悪すぎる。
だがどれだけ冗談のような話だとしてもそれが真実なのだから、結希には他に言いようがなかった。
「ま、本当はどういう過程であんたがこの子を引き取ってきたのかは知らないけど、とりあえず今後どうするかを決めましょ」
「どうするかって、うちで育ててあげればいいじゃん」
「うちでって、簡単に言ってくれちゃて……いい、結希。仮にこの子が捨て子だったとしても、うちで簡単に引き取るってわけにはいかないの。役所の手続きだってあるし……それにもし育てるとなったら紙おむつにベビー服にミルクって、言い出したらきりがないわけ。あいにく、我が家にはただ飯ぐらいと赤ちゃんの両方を養えるほど蓄えはありません」
「じゃあ、どうするのさ?」
「うーん……とりあえず庄治さんにでも相談してみようかな。あの人顔広いみたいだし、何かこの子について知っているかもしれないでしょ」
「ならあたしもついてくよ」
桜と一口に言っても、それぞれの開花の時期にはずいぶんと差がある。当然その葉が散る時期も、種類や植わっている環境によって様々に変化する。そのため、いま湖葉や結希の頭上でピンクが綺麗に咲き誇っていたとしても、なんら不思議なことはなかった。
ほんのりと色づいたつぼみがひそやかにふくらむその下を、二人は歩いてゆく。透きとおったうぐいす達の歌声が、公園の空気を満たしはじめる。
「そういえば結希、ずっと前に言ってた夢を遡るって話、そのあとどうなったの? 今でもその変わった夢をみることある?」
「あ、そういえばあたしそんなこと言ってたっけ。大丈夫、大丈夫。全然心配いらないよ。自分で話してたことも忘れてたくらいだし」
そう言って結希は笑う。思わず釣られてしまいそうなほどの、いつもの笑顔だった。彼女にあわせて湖葉も微笑む。
心配する必要なんてなかったかな……、空の夢なんて、父さんと同じようなことを言ってたから気になったけど、単なる私の思い過ごしだったみたい。
「海に行きたいな」
そう結希が言ったのは、緑のペンキの禿げかけた鉄筋の歩道橋を、半分くらい渡ったあたりだったろうか。吹き抜ける風が首筋を通りすぎ、それが少し肌寒さを覚えさせた。
「海?」
「そう。緑が茂ったらハイキングに行って、暑くなったら海で泳ぐ。それからおいしいものをお腹いっぱい食べて――」
「ああ、分かった分かった。夏になったらね」
うるさそうに手を左右に振ってはいるものの、本心から迷惑という感じには見えなかった。どちらかというとじゃれあっているような、そんなふうにも見える。
そんなやり取りを繰り返しているうちに、すぐに神社は見えてきた。歩きなれた石段を登っていくと、視界が赤でいっぱいになる。梅の花だ。緑と梅の赤とが重なりあうようにして、一枚の風景画が目の前に生まれる。
二人がその赤の下を歩いていくと、すぐに庄治は見つかった。湖葉たちの姿に気がつくと、盆栽に生えた雑草を取りのぞいていたその手を休め、額にたまった汗を指でぬぐう。
「じいちゃん!」
結希が駆け寄ると、庄治は「よく来たな」そう頭を撫でてやる。その姿は、まるで本当の祖父と孫のよう。
こうやって誰とでも親しくなれる、よく言えば無邪気な結希のその性格が、湖葉には少しうらやましかった。理論と理屈の鎧で身を固めた自分とは対照的なその姿が、少しだけ……。
「まぁ、結局のところは未だに子供ってことなんだけど」
「ん、湖葉なにか言った?」
「何にも言ってないわよ。空耳でしょ」
そっかと一言こぼして、すぐに結希は庄治との会話に花を咲かせはじめる。こうして話し合うのも実に三ヶ月ぶりだった。冬のあいだは色々な事情が重なりなかなか会う機会がなく、気がついたら雪どけを迎えていた。
梅独特のすっぱい香りが鼻をくすぐり、冷たくてほんのり甘い春風の香りが、小さな結希の身体を通り過ぎていく。
子供のように小さな身体。一般的な同じ年齢の女性と比べると、結希はかなり小柄なほうだった。もう六十をすぎようというのに、ほとんど腰の曲がっていない庄治の肩までの身長しかない。体格も性格もまるで子供そのもの。大人になれない魔法のかかったような、そんな風に思えてしまうほど、結希は幼さをその身に宿していた。
「そうか、赤ん坊を……」
庄治は結希から事情を説明されると、そんなふうに言って赤ちゃんを抱きかかえ、そして何かを確かめるようにじっと眺める。
やがて……、
「因果なものよの」
何か気になることでもあったのだろうか? そんなことを呟く。
「うん、どうかしたの?」
「いや……なんでもない。結希、たしか台所に茶菓子があったはずじゃから、ちょっと持ってきなさい」
「はいはい台所ねー」
そうして、庭先には湖葉と庄治の二人だけが残された。そして同時に、妙な静けさが生まれた。まるで空気そのものが別の物体に変化したような……。
「湖葉。話しておきたいことがある」
いつの間にか、先ほどまでの穏やかな気配が庄治から消えていた。
「…それは、結希に聞かれたら困る話なんですか?」
「さて、どうじゃろうな。ぬしが話してもいいと思えば、あの娘にわしから聞いたことをそっくりそのまま話してやればよい。最も、わしは伝えるべきではないと思ったからこそ、あの娘を遠ざけたのじゃがな」
往人の小枝のような腕を掴むと、庄治は着物を巻くしあげ手首を確認する。確認……そう、それは確かに確認であった。往人という子の右手首に画かれた、螺旋状の真っ黒な線。怪我の跡、という様子ではない。むしろ産まれたときからそこに存在していたような、真っ黒な痣。
「これって……まさかの!」
黒い痣。それは神社に関係する人たちなら一度は耳にする言葉である。
『神は災いをもたらす者に印を与える』
古くから伝えられる伝承。それが黒痣であり、疫神であった。
「でもあれはおとぎ話の、伝承の中だけの存在でしょ?」
「確かに疫神とは伝承、人魚伝説に出てくる言葉じゃ。じゃが伝承が生まれるということは、過去に何かきっかけとなる出来事があったということでもある」
伝承、人魚伝説。日本人ならば知らぬものはいないほどに有名な物語である。
その昔、神々は人とともに地上で暮らしていた。海から生まれでた彼等は普段は人のなりとなんら変わることはないが、水につかればを生やし、足を尾へと変化させ、自由に水中を泳ぎまわることができたとされる。
また彼らの力は強大で、自らの力で津波を引き起こすことすら可能であった。たった一人で千の兵力と成りうる存在……人がそれらを戦に駆り立てるようになるまでに、そう長い時間は必要としなかった。
そしていつしか、彼らの力を欲する者が現れるようになる。
その際たる例がであろう。彼女が人魚の力を真に欲したかどうかは分からないが、少なくとも人魚の肉を食し、強大な人魚の力を手に入れたことだけは、まぎれもない事実なのである。
もっとも後に命を落としていることからも分かるとおり、人魚の肉が不老不死をもたらすというのは全くのデタラメだったようだが……。
この伝承の中に登場する疫神とは、八尾比丘尼の子孫のことを指す。人でありながら神の力を会得した女。人智を超える力を持ちえた者は、幸せを掴みとることなどできはしない。多かれ少なかれ、その者は必ず災厄に襲われる。
それもまた、伝承として伝わる言葉の一つ。
事実、八尾比丘尼もまた戦の道具として駆りたてられ、そのなかで命を落としたそうだ。八尾比丘尼に子どもがいたかどうか伝承では真実を語ってはいないが、仮に比丘尼に子がいたとすれば、その子どもは人知を超える力を引き継いだ、災いをもたらす血筋と考えられる。
「まさか、この子が八尾比丘尼の……人魚の子孫だと?」
「確証はない。じゃが、この子に黒痣があることだけは事実じゃ」
そう。ただそれだけなのだ。伝承など、所詮は事実を面白おかしく改ざんしただけの、絵空事のようなものでしかない。疫神という存在も、その類の一つにすぎない。そんなことは湖葉とて十二分に理解している。
なのに、心に生まれた不安を拭いきることが出来ないでいる。何か……とてつもなく大きな何かが胸に根をはり、恐れを膨張させていく。平穏な時間。ゆったりと流れていく時間。それが少しずつ、しかし確実に崩れ始めているような……。湖葉には、そんな予感がしてならなかった。
黄昏に染まる空を眺めていた。雲の合間から差しこむ橙の陽が、肌を赤く火照らせてゆく。もうすぐ日が沈む。夜が来れば、蛍の優しい輝きがふわりと世界を包みはじめるだろう。そんな変わりゆく世界の中に、湖葉はいた。
結希がベビー用品を買いに行くと言いだしたのは、神社をあとにしてすぐだった。帰り道にドラッグストアがあったのは幸いなことだろう。これなら暗くなる前にアパートに帰れそうだ。遠回りすることにでもなっていれば、一面真っ暗闇になっていたかもしれない。
それにしても、あの子がこんなに一生懸命に世話をしようとするなんて、正直意外だった。内心、往人に結希が取られたみたいで少し悔しさを覚える。
「まったく、無理しちゃってさ」
公園のベンチに腰掛け、ポーチから人形を取りだし手をかざすと、一人きりの退屈な時間を埋めていく。
あのころは母がいて父がいて、そして妹の小百合がいた。けれど今は……。
『この人形は、想いをこめることができる特別な人形』
かつての母の言葉が脳裏を横切る。
「想いをこめる、か」
青色のペンキで塗られた滑り台。楽しそうに遊んでいる幼い姉妹。私にもあんな頃があったと思うと、その懐かしい記憶が少し愛しくなる。小百合は私の後ろをいつだって追いかけてきていた。私は、いつも小百合のことを迷惑がっていたっけ。もう少し優しく接してあげればよかったなんて、今さら思ってもしょうがないことかな。
くすっと微笑むと、人形をポーチに仕舞いなおし、腕につけた黒皮の腕時計に目線を寄せる。
「それにしても、遅いわね。結希……」
とうに戻ってきてもおかしくない時間だった。ひょっとして店内で何かあったのかもしれない。考えた瞬間、庄治との昼間の会話の入った古い小箱の蓋が音も立てず開き、ゆっくりと記憶をよみがえらせてゆく。
『伝承……疫神……往人』
それらはまるでパズルのピースのようにはまっていき、不安という一つの大きな感情を作りだす。
いつの間にか湖葉は駆け出していた。胸の奥をちらついた一筋の予感。水が染みこむように、不安がゆっくりと全身を侵食していく。庄治の言うとおり、確証なんてものはどこにもない。けれど、一度生まれた不安は消え去るどころか風船のように膨らんでいって、その感覚が胸を圧迫していく。
ただ結希の姿が見えないだけなのに、それがここまで自分の心を乱れさせるなんて思ってもみなかった。私にとって、結希とは何なのだろう?
ガラスの扉がゆっくりと音を立てて開き、赤ん坊と買い物袋で両手をいっぱいにした女性が姿を現す。結希だった。
「あはは、ちょっと多かったかな」
「馬鹿、買いすぎよ」
そう言って湖葉は苦笑する。
「そういえばさ、この子じいちゃんのことあんまり怖がってなかったね。これなら案外すんなりじいちゃんの所に預けられるかも」
庄治は往人を預かることにした。疫神、たとえそれが伝承の中だけの存在だとしても、往人に黒痣がある以上野放しにしておくのは危険だからと、そんな風に話していた。
「それはいいけど、いい加減本当のことを話したら? どうしてあなたが往人を連れ帰ってくることになったの?」
「あーもー、だから前からずっと言ってるじゃん。どう言ったら信じてくれるかなぁ……」
物思いにふけるように、顔を斜めに傾ける。その姿がオレンジ色の巨大な太陽に重なって、綺麗な夕焼け色にそのまま溶けてしまいそうで……。
もう、会えなくなってしまいそうで……。
私や結希を巻きこんで、とても大きな歯車が回っている。なぜだか、湖葉にはそんな風に思えてならなかった。それでも……。
「結希、私はあなたと一緒にいてあげるから」
きょとんっと、不思議そうに目を向ける。
「湖葉……いきなりなに? それじゃまるで、あたしに何か悪いことでも起きるみたいじゃん」
「ふふ、そうね。ごめん何でもないの。とにかく結希はいつもどおり笑ってればいいから、だから笑ってて」
「こう?」
笑顔になる。それは、今まで湖葉が見てきた中でも最高の笑顔だった。悲しみの気配なんて、消し去ってしまいそうなほどとびきりの笑顔。
それでも平穏は続く。結希が笑ってくれている限りは、私たちの日常は変わることなく、いつまでも続いていく。そう信じていたかった
だけど変わらないものなんてないから、変わらなければいけないから、変わらなければ生きていけないから。
だから、私たちの日常は変わっていった。
…結希の足が動かなくなったのは、それからまもなくのことだった。
あとがき
past編は現代編の謎を解き明かしていくつもりだったのに…更に謎を増やしているだけのような気がしてなりません。
さて、今回人魚伝説というものが出てきました。現実の話と内容がかなり食い違ってしまったのが残念。できれば現実の人魚伝説とほぼ同じ内容を使いたかったのですが、話の都合上色々と無理が生まれるため妥協してこのような形に……。人魚と翼人、この二つをうまく絡ませて行きたいところです。