Dream 第二幕 空の少女
納屋の中は暑かった。熱帯夜なのだろう、まるで蒸し器にでもかけられているかのように、じんわりとした熱気が部屋の中全体を包みこんでいた。
寝苦しい。激しく寝返りを打つ。
額から、腰から、後からあとから閉め忘れた蛇口のように汗がしたたり落ちていく。正直、とても耐えられるような暑さではない。
たまらず体を起こす。ふと横になっていたところを見てみると、模様のように身長分だけべっとりと汗のあとがついていた。
「おーい、起きとるかー」
入り口が開き、観鈴の母親が顔を現す。
「うわっ、蒸し暑。こんな場所でよく寝られるな」
「…寝れてねぇ」
額の汗を手でぬぐいながら言う。
「ほうかほうか、ならちょうどいいわ。家のほう入らんか? やっと酔いが冷めたんでな、じっくり話し合おうやないか」
正直こんな女と一緒にいたくはなかったが、これ以上こんな場所にいたら、翌日には生暖かい死体が一つできあがりそうだったので、おとなしく従うことにした。
「さて、うちはいうねん。年甲斐もない呼び方されたら嫌やから、名前で呼びや」
家の中に連れ込まれ、台所で二人椅子に腰掛ける。
「ところでおばさん、腹が減ったんだが、何かくれないか」
「何聞いてたんやっ、あんたは!」
鬼のような形相でおばさんが吼える。
「そう呼ばせんためにわざわざ遠まわしに忠告してやったんやろが!」
「そこの娘、と呼ぶにも無理があるだろ……」
「そんなことわかっとるわいっ。晴子さんと呼べ、いうてるやないか」
「晴子さん」
「そうや」
「晴子おばさん」
「スマキにしたろか」
「………」
目がマジだった。しかも飯はくれなかった。
「で、あんた旅をしとるっていっとったな。なんや、なんか夢でも追いかけとるんかいな」
「…そんなもんだ」
「若いんやな」
「あんたよりかはな」
「………」
なぜだか空気が重くなったような気がする。
「で、なんのために旅しとるんや?」
「………」
黙っておいた。わざわざ人に話すような内容でもないし、自分の素性をべらべら他人に喋るのは俺の嫌いなことの一つだった。
「黙ってたらわからへんで、おとなしく話してみ」
「旅が好きなんだ。道があれば歩きたくなる」
口からでまかせを並べる。
「徒歩で旅しとるんか」
「いや、ここまではバスだった。地方の景色を見てまわるのも好きだからな」
「ふうん。で、なんでこの町で降りたんや? 観光地なんてこの辺仰山あるで」
「それは……」
「ま、大方金がなくなってバスから放り出されたってとこか」
的確な一言だ。
「で、どうするんや。駅見てくれば分かるけど、電車は使えんで。まあ、バス代がないのに電車賃があるとは思えんけどな」
「田舎とはいえ、それなりに人はいるみたいだからな。しばらくこの町で金稼ぎでもしてみるさ」
「なあ。となると、しばらく宿が必要になるんやろ」
「そうだな、そうなる」
別に野宿でも構わなかったが、宿があるのならそちらのほうが好都合だった。
「…ちゃんと家のルール守るんやったら、構わへんけど」
「いいのか」
「男手がないしな、この家は。観鈴もあんたのこと信用しとるみたいやし。あんたを今日泊まらしてやったのも、それが理由や。それに、今日一日観鈴に付き合ってやったらしいやん。せやからその礼ちゅう意味もあるけどな」
「信用ねぇ。あいつ、今日会ったばかりの俺のことをいきなり友達とか言い出して……俺がいうのもなんだが、母親ならもっとしっかり常識とかを教え込んだほうがいいと思うぞ」
晴子がふっ、と微笑を浮かべる。なぜそんな表情をするのか訳がわからない。
「友達か。あの子そんなこというたのか」
窓から差し込む白銀の光が、薄っすらと晴子の紅色の唇に反射する。
月を見上げるそのしぐさは、さっきまでの子供のような姿とは打って変わって、妙に大人びて見えて、そのギャップが少しおかしく感じる。
「あんたぶっきらぼうやけど、悪いやつには見えへんからな。うち、こう見えても人を見る目はあるつもりや」
目をつぶると、長い沈黙の末に一言つぶやく。
「決めた」
「えっ?」
言葉の意図がわからず、思わずそんな声が漏れてしまう。
「あんた、うちのとこ宿につかい。ただな、見ての通り仕事が夜型で、あの子の面倒あんまり見れへんのや。もうすぐ夏休みやろ。特に心配な時期や。あの子そそっかしいし、鉄砲玉のようなとこあるからな。一人にしておくのは危ないんや。でな、あんた頼まれてくれるか」
「何を」
「あの子のそばにいてくれるだけでええ」
「つまり、おりか」
どうして俺がガキのお守りなんてしなきゃ……そう思ったが、今は適当に返事を返して宿を手に入れるのが優先だった。
俺の返事を聞くと、晴子は立ち上がり戸棚に手を伸ばす。その先にあるのは、酒とグラス。まだ飲む気か……。
「あんた、いけるくちか?」
どれがたくさん入りそうか、グラスを見比べながら晴子が言う。
幼いときから爺さんの晩酌につき合わされていたからそれなりにいける口だ。そう説明すると、突然上機嫌になる。
「よし、ほな飲もか」
どんっ、と一升瓶を二つテーブルに置く。茶色いビンの先端の穴から、アルコール独特の匂いがやんわりと漂い始めて、それがじわりと鼻をさす。グラスはどこかと聞くと、まずはそれを一本飲み干してからや、とグラスを冷蔵庫にしまわれる。
「こうしておくとキュッと引き締まってうまなるんや」
だ、そうである。俺の前にはあけたばかりの一升瓶が一つ。
…飲むのか……これを。
晴子を見る。『飲め』『飲め』と目で言い寄ってきていた。しかたなく、覚悟を決めて一升瓶に手をやる。
………。
……。
…。
「よっしゃ、よう飲んだ。あんた男や」
いつの間にか晴子の一升瓶も空になっていた。恐るべき女だ。
「ほんじゃ、張り切っていこうかー。記念すべき第一回は、嬉しはずかし告白コーナー!」
「なんだそれは」
「印象的な告白の思い出を今ここでうちあけるんや、どや、おもろい企画やろ」
彼女は絶好調だった。
「まず先行はあんたや。あんたも男なら気の聞いた話の一つくらいあるやろ」
「…ねぇよ、んなもん」
「うそつきは嫌われるでー。さっ、なんか言ってみい」
「ガキのころからずっと色んなところを転々としてたんだよ。んな話あるか」
「なんや、つまらん人生おくっとるなー、まあええわ、ほなうちの嬉しはずかし告白コーナーや」
聞いてもいないのに一人で語り始める。
………。
……。
…。
「…んでな分かるやろ。そいつな、浮気しとったんや、そや浮気や。うちちゅう女がおるくせに、よその女に手だしとったんや。しばいたろ思ったんやけどな、そいつうちに浮気がばれたとたんごめんなさいやとさ、怒るも気にもならん。せやからとっとと振ってやったわ」
いつの間にか恋愛話は単なる愚痴に変わっていた。
ちびちびと酒を口に運ぶ。いつまで続くのだろうな、この話は…。
そのうちおもりでも吊るされたように、両方のまぶたが重くなってくる。
さすがにそろそろ限界かもしれない。晴子はまだまだ興奮して熱弁をふるっているようだが、もう何と言っているのかすら聞き取れない。
やがて、その声もだんだん小さくなっていき…。
「こら、寝るな!!」
晴子の声がどこか遠くで聞こえた気がしたが、それに応答するだけの元気は、すでに残っていなかった。
翌日。玉子焼きの香ばしい香りにつられて目を覚ますと、すでに晴子の姿はどこにもなかった。よく見ると台所の隅に酒瓶がボーリングのピンのように陳列されている。たぶん俺が寝たあとに悪ふざけでもしてそうやって並べたのだろう。立ち上がろうとすると強烈な吐き気に襲われた。
…二日酔い。あれだけ飲めば当然の結果だった。
壁にぶつからないように慎重に足を運ぼうとしてみるが、さっきから両肩にがんがんと硬い木がぶつかって痛い。それにしても……いつからこの家は迷路になったんだ。道が分かりにくいったらありゃしない。
「おはよう、往人さん」
「ああっ、おやよ」
ろれつがうまく回らない。
「朝ごはんまで時間あるから、適当に時間つぶしてて」
どうやら玄関に牛乳を取りに行っていたらしい。両手に白い液体の入ったビンを二つ持っていた。時間をつぶしていてと言われてもやることもなく、ズボンから人形を取り出し、念をこめてみる。
人形の足取りは重く、千鳥足に一歩一歩踏み出している。
泥酔人形。芸のネタにでも使おうかと思ったが、くだらなさすぎることに気づいてすぐに止める。
腹からたぷたぷと音が聞こえてくるくらい水を飲み続けて、やっとのことで二日酔いから立ち直る。
観鈴の準備できたという言葉で、二人して朝食を食べ始める。
目玉焼きをハシで口に運ぶ俺を、『わっ、本当に食ってる』という感じで見ているのが気になったが、目玉焼き自体におかしなところはなかったので黙って食べ続ける。
「ねぇ、セミっぽくない?」
ぶっ。
「どうゆう意味だ!!」
「にはは、なんでもないなんでもない。ちょっと言ってみただけ」
セミ……。
それ以降、目玉焼きを口に運ぶことはできなかった。
「往人さんついてきてくれるの?」
「ああ、おまえの面倒を見るって条件でここに泊まらしてもらうことになったからな」
「ほんとう? にはは、嬉しい」
二人して通学路を歩いていく。陽光がまぶしい。
途中、武田商店という雑貨屋を見つける。
店の前の自動販売機には、どろり濃厚と書かれた紙パックがシリーズでずらりと並んでいた。思わず目をそむける。
「わわっ」
ぱっと、観鈴の上で何かが羽ばたいた。
黒い塊から羽根が飛び散る。いったい何なのか、目を凝らして注意深く観察してみると、それはカラスだった。正体を見るとなんてことはない生き物。
「わわわっ」
突然の来訪者に慌てる観鈴とは対照的に、カラスのほうはまるで仲の良い知り合いにあったかのように、楽しそうに顔の周りをばさばさと羽を撒き散らしながら飛び回っている。仲間とでも思っているのだろうか。
「わわわっ、ゆ、往人さん」
観鈴の声が涙声に変わり始めたのに気づいて、しょうがなく右手をカラスにそっと近づける。
バサッ
その瞬間、驚いたようにカラスは空に飛んでいく。
「はー、びっくりした。いきなりやってくるんだもん」
「鳥にはもてるんだな」
皮肉っぽくいってやる。
「ときどきああゆうことがあるの。でも、往人さんすごい。あっという間に追い払っちゃった。さっきのどうやったの? また『ほうじゅつ』っていうのを使ったの」
「いや、今のはただ手を近づけだけだ。もともと鳥に嫌われるたちらしくてな、特に右手が一番嫌われてる」
「何か悪いことでもしたんじゃない」
「さあな」
それから少しして、やっと学校に到着する。
校門前まで近づきいざ入ろう、というところでタイミング悪くチャイムが鳴り始める。まわりを見回すとほかに登校している生徒もいないようだ。まあ、いまの時間を考えれば当然のことだろう。
「にはは……始業式の途中から入るのは恥ずかしいから、HRから出ようっと」
「不良学生だな」
「そんなことないない。ま、友達は少ないけどね」
ぱたぱたと手を振ると、まるで子どものように堤防にかけていく。
「出会ったときもそうしていたな」
「時間があるときはこうしているの。空が好きだから」
そう言って、両手を大きく広げ風を受けようとしていた。その光景が、始めてあったときの観鈴の姿に重なる。
「空はね、小さいころから、ずっと思いを馳せていた」
静かに語り始めた。
「どうして」
「わかんない、ただ……もうひとりのわたしが、そこにいる。そんな気がして」
風が吹く。潮のしょっぱい香りを体中に含んだそれは、風上に立つ観鈴の匂いを含んで、俺を通り抜けた。
「それってロマンチックだよね。本当の自分がそこにいるなんて、すごく気持ちがよさそう。ずっと風に吹かれて、どこまでも遠くを見渡せて…地上にいることなんて、ぜんぶちっぽけに見えて…きっとすごく優しい気持ちになれるんだよね」
目を細めて、逆行の中にいる観鈴の姿を見た。黄金に染まる彼女の髪、まぶしいくらいに輝いて見えて……その姿が、俺の中に取りついたイメージと重なる。
「なら、俺が探してるのは、もうひとりのおまえだ」
思わず口に出していた。驚いたように観鈴が振り向く。
「え…? 往人さん、ひとを探してるの」
静かに、うなずく。曇りのない真っ直ぐな瞳で観鈴がこちらを見ていた。
不思議と、嘘をつく気にはならない。
「その人って……空の上にいるの」
そうだ、と返すと観鈴はもう一度顔を上げる。この堤防の上からは、少しあごを持ち上げれば、その先は空だった。手を伸ばせば手が届きそうなほど近くにある空。雪のように真っ白な雲の群れを指差しながら、あの辺りに隠れているのかな、と観鈴が笑う。
…この空の向こうには、翼を持った少女がいる。
…それは、ずっと昔から。
…そして、今、この時も。
…同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている。
それは俺が幼い頃、母に聞かされた言葉だった。意味はよく分からない。詳しいことを教えるより先に、母は死んでしまった。それ以来、俺は一人で旅を続けてきた。空にいる少女の話。古ぼけた人形。このふたつだけが、俺の道連れだった。この二つだけが、俺に残されたもの。
気がつくと、観鈴が俺を真っ直ぐに見ていた。真剣に聞き入っているその表情に、思わず苦笑いがこぼれる。空にあこがれる少女。どこにでもいる、ありふれた存在。
「馬鹿、冗談だ。もしも空が飛べるなら、おまえはここにいないだろ?」
「その子は、飛べるかな」
「ああ、飛べる」
「翼を持っているんだ」
「すごい。私もほしいな」
そう言って、堤防から飛び降りる。「馬鹿、危ないぞ」俺が言い終わるより先に観鈴は砂浜にしりもちをついていた。慌ててかけよると、予想通り涙目になっている。
「やっぱり、羽がないと飛べなかった」
当然だろ、と手を差し出す。
「そんなに飛びたいんなら、飛行機にでも乗れよな」
「それはやっぱり違うよ」
観鈴が制服についた砂を振り払う。ひざをパンパンと叩き、視線を空に向ける。
「自分の体で風を切る。それは、本当に自分で飛ばないとできないことだもの。それに自分の好きなところにもいけないでしょ」
「どこか行きたいところでもあるのか」
「海っ!」
大きな声で一言そう言った。
「海ならおまえの目の前にいくらでもあるだろ」
「にはは、それはそうなんだけどね。ところで、昨日の海で遊ぶって約束覚えてる?」
「忘れた」
「わっ、ひどい」
チャイムが鳴った。そういえば、こいつは学校に行くと言っていたような気がする。となると、ここで話し込んで遅刻させるわけにもいかないだろう。
「じゃあ、約束。こんどわたしと一緒に海に行ってくれます?」
「チャイム鳴ってるぞ、とっとと行ってこい」
「約束してくれなきゃいかない、にはは」
「っち、こいつは。…わかったわかった。時間があるときにいくらでも海になんか連れてってやるから、さっさと行け」
「にはは、嬉しい」
嬉しそうに校舎にかけていく姿が妙に印象深かった。
海か。そういえばずっと昔におなじような言葉を聞いたような気がする。あれは、誰が言っていただろう。
………。
桃のような甘い香り。そこは、もっとも安楽できる場所。すぐ真上に、俺を包み込むような温もりがあった。
『海に行きたいってその子は言ったの』
暖かい誰か、大切な言葉。
はっ、と我にかえる。あたりを見回してみると、そこは砂浜。当たり前の風景が広がっていた。
今の声は、なんだったのだろう……。
「なんだよ……海に行きたいって……」
空耳だ。そう思って、頭をぶるぶると左右に振る。きっと風の音か何かを聞き間違えたのだろう。なのに、言葉をかき消そうとしても、幻聴はいつまでたっても頭を離れることはなかった。