Past 第五幕 記憶

 

 夢、夢を見る……空の夢。あたしの見るその夢は、だんだん昔へと遡っていく。そしてある日、夢はその姿を変えた。

綺麗な満月の夜、あたしは空を飛んでいた。月の陽をその背に浴び、銀色に輝く両翼を羽ばたかせて。

するどく風を切り裂く音が頭に響きわたり、鈍く黒光りする何かがあたしの肩をかすった。真っ白な身体から、赤い飛沫が空に四散する。

とても痛かった。それでも、翼を休めるわけにはいかなかった。

深緑に染まった山、そこを見下ろす。木製の弓が空に向けて構えられていた。そのすぐ近辺、大木の元で一人の男が空に向けて何かを叫んでいる。あたしの方をずっと見ているということは、その人はあたしに向けて叫んでいるのかもしれない。けれど、地上よりむしろ空に浮かぶ満月に近いには、どんな言葉も、どんな想いも届きはしないだろう。

その男の裾を色の衣をまとった女性が抑え、今にも飛びだして行きそうな背中を必死で引き止めている。安心した。二人とも無事だ。そういえば、あの人はどこにいるのだろう?

飛来する黒の雨を交わしながら地上を見回していく。見つけた。石塚の近くで弓を構え、樹木の海の中から聞こえる足音に耳を澄ましている。矢を放つと瞬間、誰か知らない人の悲鳴。言わなくちゃ、あの人にも早くこの場から逃げるように……あたしに、もう関わらないように……。

焔のように熱い衝撃が背に生まれたのは、ちょうどその時だった。

 黒の雨の一雫が翼を貫通し、背から伸びた銀色の羽根が数枚、ひらひらと森の中へとこぼれ落ちる。

「討ち取ったり!」

 バランスを崩し垂直に、土に向かって身体が落下していく。頭上から力いっぱい押し付けられているような、それほどの重みが全身を襲う。

「くっ」

 腕に風の塊を収縮させ、それを一気に解き放つ。

 真空波が巻きおこり、大地を切り裂きながら風が駆けぬけてゆく。緑の枝が、誰かの腕が、鋭い刃物に切られたように等しく切断され、赤く染まった葉が風に乗り宙へと舞いあがる。断末魔のような悲鳴が山全体から沸きあがっていき、あたしを狙う雨が一瞬止む。

その隙にもう一度翼を大きく広げ上空へと舞い上がる。羽ばたかせ、空気を裂くように上昇していく。このままもっと高い場所へ。そのうちに、たくさんの人の声が聞こえてきた。頭の中に直接呼びかけてくるような声。脳内を反響するように響いていく声。頭が割れそうだ……これは……何?

 再び地上から黒の雨が昇りはじめ、翼を何かが貫く。痛い……でも……。

 瞳を大きく見開き全身に力をこめる。上へ、もっと上へ……雨が届かなくなるくらい上へ。頭痛のように締め付けてくるこの声が聞こえなくなるくらいに、もっと上へ……。

声が全身を包んだ。

痺れる。縄や鎖のような、そんな身体を拘束する何かに縛りつけられているような、そんな感覚。

…嫌じゃ……余を信じて、余のためについてきてくれた者たちがいたのじゃ。いくら礼を述べてもとても足りないくらい、余はずっと助けられてきた。

今度は余の番なのじゃ、だから、だから、だから……。

 そして、光がはじけた。

 気がつくと天井が高い。起き上がり周囲を見回すと、真っ白な枕カバーと汗で濡れたシーツが側に置かれていた。何も変わらない、いつもどおりの朝。

結希は自分の頬に手を触れてみる。びっしょりと冷たい汗の感触。

「夢……だったんだよね」

 心臓のとくん、とくんと鼓動する音が聞こえる。寒気にも似た感覚が全身を包みこんで、ぶるっと全身が大きく震える。一体……何だったのだろう。

 背中に手を回す。当たり前のことだけど、翼なんてない。それなのに、心の中に生まれた不安をいまだ拭いきれないでいる。夢というにはあまりにも現実感がありすぎて、そのリアルな……異様なまでの臨場感が怖い。

 ベッドから降りると、結希は窓から空を見上げる。見渡す限りの平原を更なる広大さで包みこみ、見ていると悲しくなるほどの綺麗な青空。

 夢の中だけで出会うことができる、もう一人の自分。助けを求めるように、蒼の檻の中にたたずむもう一人の自分。

 視線をベッドに戻すと、シーツに触れていた手がぐっしょりと濡れているのに気づいた。それを軽くタオルでぬぐい、寝室の扉を開く。

やわらかく優しい、いつもと変わりのない日常と、朝の光が飛び込んできた。陽光に溶けてしまいそうなほどの光。

呼吸を整えると、光射すその世界へと足を踏みだす。

 

 

 雪が溶けて春が訪れても、桜が舞い始めても、二人の日常はいつもどおりだった。ただ何日かおきに奇妙な夢を見たと結希が言って、湖葉はそれを半信半疑に思いながら適当に相槌を打って、それを繰り返す。

 そして今日も、いつもと同じ朝食の風景。幸いにも今回調理を担当したのは湖葉だったため、生焼けベーコンエッグが食卓に顔を覗かせる心配はない。食事に関することを全て湖葉だけで行ってしまえば、食卓にチャレンジ料理が現れるようなことはないのだろうが、それでも湖葉が無理やりにでも結希に料理を作らせようとする理由の一つには、料理のできない結希をなんとかしたいという世話焼きな面が、元来湖葉に備わっていたからだろう。

 まあ居候であろうとなんであろうと、ろくに生活費も稼がないで飯だけ食っているのが気に食わない所もあったかもしれないが。

「というか、世話焼きって言うのは建前でそっちが本音なんだけどね」

「誰に言ってるの?」

「さあね。少なくとも、ただ飯ぐらいの居候にではないわ」

 ガラステーブルの上の朝食をハシでつつきながら、湖葉はその中央に置かれた小箱の上の人形を眺める。その瞳の焦点が少しずれているように見えたのは、彼女が思い出にひたっているからだろうか。

「ねぇ、あなたがここに来てそろそろ一年くらいになるけど、昔のこと何か思い出した?」

 ベーコンを口に運びかけていた手が止まり、結希はあははと笑って否定する。

「だめだめ全然ダメ。未だにこのおんぼろアパートに来る前のこと、何にも思い出せないよ」

「おんぼろアパートで悪かったわね。ただ飯食らいさん」

 さわやかに冷たい微笑を浮かべる。眼が笑っているだけに、その丁寧で優しい口調は、結希の表情をこわばらせるのに十分すぎるくらいの効果があった。

「ま、記憶喪失っていうのはある日突然ぽんっと忘れていたことを全部思い出すこともあるそうだから、そう悲観することもないでしょ」

「誰も悲観はしてないって」

 それに自分の名前以外何も知らなかった最初に比べれば、最近の結希はずいぶんいろいろなことを覚えたとおもう。

 締め切ったカーテンを開くと、寝ぼけた身体を射抜く黄金の矢のような朝の光が飛びこんできた。吹き抜けていくのは春風の、桜を連想させるほんのりと甘い香り。

「ふぅ。いい風ね」

「あのー、湖葉さん……観賞に浸ってるとこ悪いんだけど」

 机に置いてあったデジタルの銀の時計を手に持つと、結希はそれに示された時刻を指差してみせる。

「って、なによこれ! いつの間にこんな時間に!?」

「そんなこと私に言われてもねぇ」

「あーもう、私神社に行くから後片づけ頼むわね」

「えー、めんどくさ――」

「後片付け、頼むわね。あんたの大切にしているナマケモノのぬいぐるみをゴミに出してほしいなら、話しは別だけど」

「はいはい。分かりましたよ、悪代官様」

 ひらひらと手を振って悪代官を見送る。食事を済まし洗いものを簡単にやり終えると、彼女もまた外出するために身支度を整える。

「それじゃ、行ってきますー」

 誰に言うでもなく、そう挨拶をして家を飛びだす。

 

 

 早朝ということもあって公園には子供一人見当たらず、ペンキのはげ掛けた遊具がただ風に晒されているだけだった。そんな中結希はベンチにゆっくりと腰を落ち着けると、先ほど買ってきた紙パックのジュースを飲みはじめる。パッケージには『どろり濃厚』と大きく書かれ、リンゴの写真が写っている。最近自動販売機に新しく並び始めたものだ。

湖葉はこんな変なもん飲めるかーっ! と紙パックごとぶん投げていたが、そこまで不味いことはないと思う。あたしの味覚が正しければ。

「ふう、それにしても何だったんだろうな…今朝の夢」

 今までも変わった夢を見ることは何度かあったが、今回の夢は特に飛びぬけていた。なぜあんな夢を見たのだろう。今まではずっと空を飛んでいる夢ばかりだったのに…どうして今日に限ってあんな奇妙な…。

 考えて、そこで気づいた。

 ずっと空の夢を見ていたとき、あたしは夢を遡っていることを知った。夢を、つまり時間を遡っているということを。

 空の夢の中のあたしは、ずっと悲しい思いをしていた。自由に空を駆け、どこにでも飛んでいける。それはとても幸せなことのはずなのに、なぜあんなに悲しそうだったのか……その答えが今朝の夢なのだ。

 そう、空を飛ぶあたしに自由はない。ただ空を漂い続けるだけ。一緒に旅を続けた大切な人たちを助けることもできず、大気という果てのない巨大な結界に封じこめられている。そして、それは今も続く。

 だとしたらあれは夢ではないのかもしれない。あれは……。

 瞬間、空気が震えた。

ついさっきまでうたた寝しかけていた雀たちが大きくさえずりを始め、互いに注意を呼びかけあっている。なぜだか目に痺れを感じて、瞳を閉ざす。気がつくと女の人が立っていた。目を閉じていた時間なんてほんのわずか、それこそまばたき程度の時間だったはずなのに、まるで最初からそこにいたように、白い包みを大事そうに抱え女の人はそこに佇んでいた。

「ここは……」

 きょろきょろと周囲を見回す。なにをそんなに珍しがっているのだろう。

「なんとか……この子だけは逃がすことができたみたいね」

 女性が白い包みに目をやるのを見て、結希はようやくそれが包みではなく、赤んぼうがシーツにくるまれているのだと気づいた。

「よかった。無事だったようね。でも……」

 そこまで言いかけて、女性の足ががくんと崩れ地面に両膝をつく。

「大丈夫ですか!?」

 慌ててベンチから立ち上がると結希は女性に手を伸ばす。

「えっ、ええ。なんとかね……」

 差し出された手にしがみつこうとして、女性も右手を伸ばす。

柿色の、赤に近い黄色の着物を着込んだ女性。着物には泥が跳ねていて、裾は刃物か何かで切られたようにやぶけ、ところどころから血が流れ出ている。

「………」

「そう、あなた結希って言うの」

 名前を言い当てられても、どうして知っているのか、という感情は生まれてこなかった。どこか懐かしさを覚えるような、不思議に温かい感覚。

「……?」

 漠然と頭に浮かびあがった名前をつぶやくと、女性は静かに頷いてみせる。白穂、それが女の人の名前らしい。

「お願いできるかしら、この子……」

そこで一度言葉を止め、ゆっくりと呼吸を整える。

「往人のことを……」

 まもなく真っ白な光が女性を包みこむ。それはまるで命そのものが輝きを放っているような、果てのない強い輝き。眩しさに目がくらんで、思わず結希は目を閉じる。

 再び目を開くと、もうそこには誰もいなかった。そこにあるのは、陽光に照らされ銀にその身を輝かす一枚の鳥の羽根。

出来の悪いSF映画でも見ているような気分だった。現実とは思えないことばかりが目まぐるしいスピードで流れていって、そして気がつくといつも通りの光景。

 今朝の夢の続きでも見ていると思いたかったけれど、あたしの腕の中にはたしかに真っ白なシーツがあって、赤ちゃんが眠っている。それが真実。

 胸のなか、赤ん坊は無垢な寝顔のまますやすやと寝息を立てていた。

 




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