Past 第四幕 湖葉

 

 手をかざし人形が動き回る光景を頭の中で想像する。イメージがしっかりと固まったら、次に念が血液のように人形の身体全体に流れているイメージを作り出す。すると人形を、自分の意思で自由自在に動かせるようになる。

「って話なんだけどねぇ」

 湖葉の目の前には古ぼけた人形がひとつ。いつか聞いた両親の言葉を頭に思い浮かべ、言葉の通りに手をかざしてみるものの、人形は先ほどから一向に動き出す気配を見せないでいる。

「まーたそんなことやってるの? 無理無理、そんなことで物を動かせるはずないって」

「そんなことないわよ。私の両親は、実際にこうやって物を動かしていたんだから」

「はいはい、またそのホラ話ね。もう聞き飽きました」

 結希と呼ばれた少女は手のひらをひっくり返すと、それを左右に広げお手上げの仕草をしてみせる。

「空にいる人を探すとかそんなのだっけ?」

「うん、そう。何十年ものあいだずっと、私の父さんたちはその人を探しつづけてきた。そして、多分今も」

「はぁ何十年も。それはそれは立派なことで。けどそれだけ探しても見つからないってことは、最初からそんな人いないってことじゃないの?」

「かもね…。でもそれはもうどちらでもいいことなの。たとえそれが本当でも嘘でも、その生業から逃げた私には、もう関係ない話だから」

 苦笑して、ため息をひとつ。

「ま、たった一度の人生なんだし、生きたいように生きたほうが得だよね」

 結希はそう言って寝室の壁際に近づくと、蛍光灯の灯りを消す。とたん、二人が話しこんでいた光景が深い暗闇に変わる。

「それじゃ、おやすみー。湖葉」

「うん、おやすみ。結希」

それぞれのそんな言葉を最後に、世界は深い眠りの中へと陥っていった。

 

         昭和58年(1982)・冬

 この空には翼を持った人がいる。法術という力を受け継ぐとある一族。国崎という名を持つ彼らは、それを『翼持つもの』と呼んだ。そして国崎の一族は、それを探し続けてきた。何十年、何百年も昔から……そして、今もまだ……。

 湖葉はそんな家系に生まれ、その数奇な生き方を受け入れることができなくて、そこから逃げ出した。

 実を言うと湖葉のように生業から逃げだす人というのは、それほど珍しいわけでもない。自分の人生なのだから、自分の望むように生きたい。そう思って家を飛びだしていった者は、少なくなかった。だから湖葉の両親も、彼女を特別引き止めるようなことはしなかった。しかし家を飛びだす際、湖葉は思わぬ行動を見せた。絹を編みこんで作られた、法力を封じこめられた人形。一族の宝とも呼べるそれを湖葉は持ちだしたのだ。持ち出された直後は色々と騒動が起きたが、その後に蓮鹿が人形と翼人伝を手にいれようと屋敷に火を放ったことを考えれば、ある意味では湖葉が人形を持ち出したことが、善い方向に転んだとも考えられるだろう。

それから数年。家を出た後、湖葉は放浪の末たどり着いた京都で一人暮らしを始めていた。そして、そこに転がりこんできたのが結希だった。

ある日の夕時、湖葉はいつも通りスーパーで買い物を済まし帰路につく途中、十七、八歳くらいの少女が一人、公園の真っ青なベンチに座ったままじっと空を見上げていることに気づいた。普段なら変わった子がいるなぁと思って素通りしてしまいそうなものだが、その日だけは違った。

「どうしてこんなところにいるの?」

なぜかは分からないけれど、なんとなく、その子を放っておくことができなかったのだ。

「…知らない。気づいたらこの公園にいたから」

「何にも覚えてないの?」

 湖葉が尋ねると、少女は小さく頷いてみせる。

「そう。行くところないんだ。…私と同じだね。私もさ、色々あって家出したんだけど、いくあてないんだ」

「………」

 少女は何も答えなかった。何も言わず、ただ全身を駆け抜けていく風に身を任せていた。

「あなた、名前は?」

「…な……まえ?」

「そう。名前」

「…結希」

「そう。ねぇ結希、行くところないんだったら、私の家にこない?」

 湖葉のその誘いに結希という少女は頷いて、そして二人は家族になった。

実際の話、生活にそれほど余裕がないにも関わらず、それでも湖葉が結希を受けいれた理由のひとつには、湖葉の心のどこかに、一人の孤独さを紛らわせたいという思いがあったからかもしれない。

 ジリリリッッ

 強烈な目覚ましの機械音にたたき起こされ、湖葉は眠たそうにまぶたをこすりながら、そっとベッドから起きあがる。目覚ましなんてセットした覚えはないのに、なんで鳴っているのだろう?

ぼんやりと考え窓から外の景色を覗いてみると、銀色の小さな結晶が音も立てず、真っ白な絨毯を土の上に敷き詰めていくところだった。耳を澄ましても自分の足音しか聞こえない。雨と違って雪は静かだからわりと好きだ。

 階段を下りると、玉子焼きの甘い香りが漂ってくる。そういえば今日の食事当番は結希だった。大丈夫かな、以前料理を作らせたときは、危うくボヤ騒ぎになるところだったけど……。居間に入ると、意外にも朝食の準備はすでに万端だった。

「やっと起きた。さっ、あたしはもうすぐ出かけるんだから、早く食事終わらせちゃって」

「はぁ、たくっ。あんたは年中休みだからいいけど私は今日も仕事入ってるの、まったく朝くらいゆっくり寝かせなさいよね。こんなうるさい目覚ましなんてわざわざセットして」

「ああー、わかったわかった分かりました。それじゃそろそろあたし行くから湖葉、後片づけよろしく」

「こらっ、私の話はまだ終わってな――」

 湖葉が文句を言い終わるより先に、結希は上着を着こんで部屋から飛び出してしまう。あとに残ったのは散らばった食卓と、中途半端に水につけられた食器だけ。

「誰が片付けると思ってんのよ、これ……」

 がっくりと肩をおろして玉子焼きを口に運ぶ。半熟というより生に近い、ヒヤッと生暖かい黄身の触感が口の中いっぱいに広がった。

「あの子も、一向に料理がうまくならないわね……」

 食事を取り終え簡単に洗い物を済ませると、厚手のコートに袖を通し、紺色のマフラーを首に巻きつけ外出の準備を整える。古ぼけた外装のアパートから一歩外に出てみると、銀色の粉がさらさらと空から降り注いでいた。真っ白な新雪。そこに片足を出してみると、靴がぐっと雪を踏みしめる独特の感触が返ってくる。

 ぐっぐっと羽毛のように柔らかな道を踏みしめながら歩いていくと、やがて狭い路地外を抜けて大通りにたどり着く。視界のほとんどを車が埋めつくし、騒音と排気の匂いが着いたばかりの湖葉を襲いはじめる。

 悪臭から逃れるように手で顔を隠すと、臭いの薄い場所を選びながら足を前に進めていく。それから十五分くらい歩いたろうか、首を上に傾けて見あげないと頂上が見えないような、それほどの長さの石段に着きそれを登っていく。凍結してしまいそうなほどの寒さのせいか、風が吹いてぱしぱしと枝に衝突するたび、雪の結晶がぽろぽろ地面に降り注いでいた。

 石段を上がりきると小さな神社が目の前に広がる。赤く塗られた鳥居の表面はところどころペンキがはげ、茶色い木の幹がむき出しになっていて、そこに触れるとぽうっと少し暖かい。植物の生そのものが、柔らかい光を放っているようだった。

「なんじゃ、きておったなら挨拶くらいせんか」

 湖葉が鳥居をぼんやり眺めていると、縁側から振袖姿の老人が一人顔を覗かせていた。

「あ、おはようございますさん。今日もいい天気ですよ」

 老人に気づき挨拶をかえす。

「ふん、こんな冷えこむ日はコタツの中でじっくりと腰を温めながら、ミカンでも食うのが通ってもんじゃろ」

「通って…単に寒いから外に出たくないだけなんじゃないですか?」

「かぁ〜、これだから近頃の小娘は本当の楽しみってもんを分かっておらん。いいか、暖かい部屋で美味いものを食いながらぼんやりと綺麗な景色を眺める。これが最高の贅沢っていうものじゃ」

「はぁ、じゃあそうゆうことにしておきますね。綺麗な景色を眺めるってことには私も賛成ですし」

 空を見上げる。吸い込まれそうなほどに深い蒼。瑠璃色の宝石を見渡す限りに敷きつめたような、そんな青空がどこまでもどこまでも広がって、深く透きとおった蒼が身体を満たしていく。

 記憶のいれものというのはたぶん、古ぼけたオルゴール付きの小箱みたいな姿をしているのだろう。見た目は何の変哲もなくて、だから普段はそんなものが自分の中にあることさえ忘れてしまっている。けれど、何かの拍子に見聞きしたものが鍵となり、それがたまたま鍵穴にぴったりと合うと、おもむろに箱のふたが開きネジが巻かれて、思い出にたちまち色や音がついてあふれだしてくる。まさに今の湖葉がそうだった。

空の青さをみているうち、眠っていた記憶の小箱の鍵が開かれていく。

『翼持つもの』

 いつか覗きみた、父が持ち歩いていた本の言葉を、頭に思い浮かべてみる。羽を休めていた鳥たちが、飛び立つのも忘れてしまうくらいの真っ青な美しい青空。それなのに、この光景のせいで苦しんでいる人がいるなんて、今でも全く信じられなかった。

「そういえば、今日はあのやかましいほうは来ておらんのか」

 庄治は辺りを軽く見回しどこにも人影が見当たらないのに気づくと、つまらなさそうにぼやいてみせる。

「結希のことですか? 朝早くからどこかに出かけるって言っていましたが、あの子のことだから子どもに混じって遊んでいるんじゃないですかね」

「なんじゃ。しょうがない、今日は特別に子供を神社に入れてやるから、さっさとあの娘を連れてこい」

「やめてくださいよ、そんな笑えない冗談。第一、そんなことしたら大事な盆栽がまた壊されますよ」

「ああ、それは困るな」

神社の庭掃除と、時々来る参拝者への簡単な応対。湖葉がこの神社で行う仕事といえば、おおよそそれくらいのものだ。アルバイトとして巫女を雇うことを庄治が嫌ったため、(本人いわく小遣い稼ぎなんて邪な願望の持ち主を、神社の顔である巫女になど出来るか! だそうだ)神社に勤めているのは庄治を除くと湖葉一人だけだった。

 いずれにしろアルバイトの身である湖葉にとっては、仕事の量が減っても賃金が変わらないのはありがたいことだった。気楽に掃除をしているだけで、生活費が保証される。

「それじゃ、私は裏庭の方を掃きに行ってくるので」

 言って、湖葉の姿が木漏れ日の中に消えていく。

 夜。ガラステーブルのそばに置かれた白い革張りのソファーの上に腰を降ろし、湖葉はのんびりと小説に目を通していた。ソファーの正面には赤褐色の額縁に入れられた、真っ青な空の絵が掛けられていて、陽光を反射するような銀色の小さな羽根が一枚、ふわふわと絵の中心を漂っている。

「湖葉、見てみてこれ」

 玄関がひらき、聞きなれた声が湖葉の耳に飛びこんでくる。顎を高く上げ視線を声のほうに向けると、結希は嬉しそうに茶色い毛むくじゃらのぬいぐるみを見せびらかしてきた。子供と同じくらい大きなぬいぐるみだった。

「…なにそれ?」

「ナマケモノ。どう、すごいでしょ」

 ぬいぐるみの腹を強く押し込むと、きゅーっとナマケモノが小さく鳴いた。正直、少し不気味。

「…それで、このぬいぐるみはどうしたの?」 

「あ、そうそう。実は商店街で福引やっててさ、なんと一等は豪華ハワイ旅行プレゼント! どう、すごいでしょ。もうこれは行くしかない! ちなみにこのぬいぐるみは五等ね」

「ハワイ? そんな場所に行ってどうしようっていうの」

「分かんないかなぁ海だよ、海。すっごく綺麗な海。青い海、白い砂浜、照りつける灼熱の太陽。どう、湖葉も行きたくなってきたでしょ!」

「うーん、正直私はあんまり興味ないかな。どちらかというとテレビみたいな家電製品のほうが……」

「ささ、とりあえず行こっか」

 いまだ納得しきれてない様子の湖葉を引きずると、結希は玄関を開き雪の中へと飛びだしていく。

ぼんやりとした湖葉のひとり言が、たゆたう風に流れていた。

「あーあ。だからあたしにやらせればよかったのに」

「福引っていうのは運なの、運。だから誰がやっても変わらないの」

「運ねぇ。たぶん湖葉より運が悪い人なんていないと思うけどなぁ」

「何か言ったかしら?」

にこやかな笑顔でティッシュペーパーを握りしめると、パンッとビニールの中の空気が圧縮されて外に飛びだす。

「あ、いやいや。外れて残念だったねって」

「わかればよろしい」

「あーあ、それにしても海行きたかったなぁ」

「いまさらそんなこと言ってもしょうがないでしょ」

「そうなんだけどさぁ」

 ふうっとため息をついて湖葉は笑みを浮かべる。海、そういえば私もここ数年海なんて行った覚えがない気がする。この京都の街は、海には遠すぎる。

いや、たぶん距離だけの問題ではないだろう。家出してからはごたごたの繰り返しでどこかに行きたいなんて、そんな風に心にゆとりを持つことなんてとてもできなかった。でもこの暮らしにもだいぶなれてきたから、今年の夏には思いきって海に行くのもいいかもしれない。

空を見上げると、夕時の陽光が眩しいほどの輝きで照らしつけていた。湖葉の腰まで伸びた長い黒髪が、結希の少年のようなショートヘアーが、等しく深いオレンジに染まっていく。

「すっごい綺麗」

 その光景に見とれたように結希が言う。オレンジ色に染まった世界。

「なんだか、夢見たいな景色よね」

車道のほうから聞こえてきていた、耳を抑えたくなるようなエンジン音はいつの間にか消え、音を失っていた。けれど二人の女性の話し声が空気を震わせ、静寂というほど静かなわけでもない。

「そういえば……あたし最近不思議な夢を見るようになったの」

「夢? 夢なら私もよく見るわよ」

「湖葉の夢とは少し違うかも、普通の夢じゃないんだ。なんていうんだろ、空の夢って言ったらいいのかな? その夢のなかでは、雲は足元を漂っている。雲にそっと触れてみると、まるで波紋みたいに一度ふわって風に翻弄されたように広がって、すぐに元通りわたあめみたいに真っ白な雲に戻る。海を漂うようにずっとその夢のなかで身体が流されていて、あたしその夢を遡ってるって気づいた」

「夢を遡るって、どうゆうこと?」

「えっと、ピンク色の桜が下のほうで咲いてるのに見とれてて、それから少し経つと、今度はこな雪があたしの周りをちらちらと舞い始めて、それで季節が逆に巡っているって思ったら、何故だか分からないけど、夢を遡ってるって不思議と理解できて……ああもう! 上手く口で説明できないけど、つまりそうゆうこと」

 空の夢。空に囚われた翼を持つ者。翼人。

記憶の小箱の鍵がまた開いてしまっていて、あとから後から言葉が頭の中によみがえってくる。

 なぜだろう……湖葉にはどうしても目の前の結希と、幼い頃に聞いた夢物語の中の人物とが折り重なっているように見えて、その二人が、まるで同一人物のように思えて……。

 もうそんな空想なんにも関係ないはずなのに。日常を生きようと願って、家系とは無縁の生き方を選んだはずなのに……それなのに……どうしてこんな思いが頭をちらつくのだろう。

「湖葉、どうしたの?」

「あ、うん。なんでもないなんでもない。さ、かえろっか」

 二人の姿は夕闇の影の中へと消えていく。

彼女たちの冬は、そうして過ぎ去っていった。

 

 




作者さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル投稿小説感想板
に下さると嬉しいです。